勞働者と貯金

高畠素之


芝新網の貧民窟に橋本熊藏と言ふ六十になる獨り者の爺さんがゐた。汐留驛の人夫で喰ふや喰はずの生活をして居る男だが、この二三ケ月來身體が惡くて引籠つてゐる中に、身動きも出來ない重態に陷つてしまつた。そこで長屋の者や家主などが種々奔走した結果市の養育院ヘ引き取つて貰つたが、後で爺さんの家を始末して見た所、垢染みた枕の中から八百五十圓、煤だらけな天井から七十圓と言ふ現金が現はれた。かう言ふ貯金が出て來たので病人は養育院からは斷はられ、慈惠病院へ行つても斷はられ、結局東京病院の三等室へ入れて貰つたが、貯金九百二十圓は取り敢えず町内自衞組合が保管して、目下相續者の有無を原籍地ヘ照會中だと言ふ。

人夫と言へば勞働者の中でも最下層部類である。從つて其收入なども、辛うじて其日を過すに足りる程のものだらうから、千圓餘の貯金をすると言ふ事は却々容易な話でない。金に苛まれながら生ひ立つて來る貧乏人の中には、時々斯うした驚く可き儉約家が現はれて來る。然しそれ等の人も、大抵はやつと商賣の資本にでもなりさうな位貯めた所で、病氣になつたり老衰したりして死んで了ふやうである。折角貯めた金を病氣で費ひ果し、矢張り元の杢阿彌で死んで了つたと言ふやうな話も、時折り世間の茶呑み話に上るやうだ。

今の生産制度のもとで、勞働者の得る普通の賃銀と言ふものは、彼等が自己の生命を續け子を生み育てゝ行ける最低限度の生活費であることが原則となつてゐる。即ち、資本主義生産の唯一の目的である資本の増殖を續けて行くに要する所の、勞働階級の不斷の存續、即ち勞働者が不斷に其勞働力を提供し得る生活費だけが、勞銀となるのである。勞働市場に於ける需要供給の關係に支配されるとは言へ、勞銀は常に此の原則を中心として上下してゐる。

斯の如く現在の勞働者にとつては、その僅かに生活を支ヘ得る金の中から食物を削り衣服を割き、即ち自己の肉體を虐待するより外には、貯蓄をする餘裕のあらう筈がない。この爺さんも六十歳と言ヘば、早世したとは言ヘないであらうけれども、無理な貯蓄などで其身體を苦しめる事がなかつたならば、まだ十年、廿年の壽命を保つ事が出來たかも知れない。恐らく彼れの天命は此不自然な儉約の爲めに、縮められた事であらう。

勞働者が終生貧窮の底に沈淪してゐるのは、老後の計を立てる心もなく貯蓄をすると言ふ克己もないからだと言ふので、彼等に勤儉貯蓄を説く事に努めてゐる人もある。然し今日の勞働者に與へられた運命は、其日暮しの生活を續けるの外に何等の逃げ道も存せしめないのである。生命を削るより外には貯蓄さへも出來ない生活なのである。

勞働者と貯金とは絶對に相容れないものである。この兩者を結び付けんとした事によつて生じた老人夫の死を思ふと、斯くの如き運命に置かれた勞働階級の爲に涙なきを得ない。


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