主觀過重の弊

高畠素之


近頃、戀愛事件が頻々として起るやうになつて來た。此傾向に對して、本間久雄君は日々新聞の文藝欄に一文を發表して、これを『戀愛過重の思想が釀した弊害』であると見るのは大變の間違ひであり、日本の社會では『今日まだまだ戀愛過重どころか、戀愛輕視の状態にある』事を説いてゐる。

證據のない抽象的の理屈は何うにも付くが、頻々たる戀愛事件、殊に白蓮事件以來滅切り中年婦人の離婚數が殖えて來たと云ふ統計上の事實は、本間君の所謂『戀愛過重の思想』を除いて何處にその社會的原因を求む可きであらうか。近頃淺薄皮想な文藝思潮が普及した爲めに、信實を最も重んず可き事とし、主觀の上で眞劍でさへあればすべてが許されると云ふ風になつて來た。主觀的に見れば、戀愛が眞劍なものである事は言ふまでもない話である。其處で戀愛は尊ぶ可く、戀愛の爲めなら大學教授の椅子を棒に振るもよし、妻子を殘して若い女と情死するもいゝと言ふ事になつた。亭主を足蹴にして出奔する事も、眞劍な戀の爲めなら寧ろ同情せねばならぬといふ事になつて來たのである。

今日の有樣は、齒の浮く樣な戀愛神聖論が流行した星菫派時代と何の選ぶ處もない。皮相的な『戀愛過重の思想』が跳梁してゐる以上、戀愛事件が常に世間を騷がしてゐる事に不思議はないが、かゝる戀愛事件の頻發を以つて、戀愛過重の思想が生むのでないと言ふのは一體如何なる理由であらうか。それ計りでない。本間君の言ふ處に從ヘば、戀愛は今日の社會に於いてまだまだ輕視されてゐるのであるが、本來『戀愛は極めて重要視さる可きもの』であると言ふ事である。然し戀愛が如何に當事者の主觀に於いて重要なものであるとしても、それが直ちに人生に於ける重大問題、即ち人間生活を客觀的に見た場合の重大問題となる筈はない。戀愛なるものは、人間の性欲生活に附隨する觀念的存在である。

重視、輕視は兎も角として、人生に於ける問題とされ得るものは、即ち客觀的考察の對象とされるものは、かゝる觀念的存在ではなく、寧ろ性欲生活そのものである。性欲の發動と充足との距離が次第に隔てられて行く處の、社會的傾向そのものである。從つてかゝる傾向から生ずる處の――それは丁度ニキビ中學生が女性を神祕化し、戀愛を神聖視する如く――星菫派の戀愛過重論が跋扈し本間君の如きその代辯者が表はれると言ふ現象そのものなのである。更にまたかゝる戀愛過重の思想が、主觀上の眞劍を過重する思想と結んで、家出事件、情死事件の辯護に努め、かゝる事件の發生を促してゐる事實そのものが、人生に於ける問題となり得るのである。

主觀は常に客觀的事實に伴つて發生する。客觀的條件が變つて來れば、主觀も亦當然變化して來なければならぬものである。一定の状態に置かれた場合、一定の主觀が發生すると云ふ事は判り切つた話である。此主觀の端くれを捉へて、眞劍であるとか、熱烈であるとか感激し、その爲めには他のすベてを許さうとするのは飛んでもない愚劣な話である。斯くの如くんば千三つ屋の信ずる一攫千金の夢も、眞劍な尊敬す可きものであり、人生に於いて重要視しなければならぬものだと言ふことになるであらう。本間君と云ふ人は一體何歳ぐらゐの男かは知らないが、斯う言ふ氣の若い話を聞くと、濱の眞砂と共に盡きないのは、世に盗人の種ばかりでない事を嘆ぢたくなる。


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