地主の『社會奉仕』

高畠素之


近頃『社會奉仕』の爲めとか、小作人問題の解決を計る爲めとか言つて、耕地の分讓を行ふ地主が表はれて來た。新聞記者の讚辭に依れば、彼等は何れも『時代の先覺者』なのださうだが、果して社會奉仕の爲めか何うかと云ふ事は、福島縣中村町の相馬子爵が所謂『土地解放』を敢行した時の、小作人の困り方を見ればよく判る。即ち東京日々の記事に依れば、借地人たる『中村町民は突如として此報に接し金策に窮したので、尚「當分今日までの方法で借地せらるゝ方法なきか」との心情から「借地人會」を急設し、借地人連署の嘆願書を提出する事とした』といふ有樣であつたのである。

かくの如く土地分讓が、借地者にとつて有難迷惑なことであるとすれば、地主等の社會奉仕は一體何を目的として行はれるものであらうか。社會奉仕といふ言葉は、近來頻りに用ゐられるやうであるが、そして種々曖昧な意味に用ゐられてゐるものであるが、此土地分讓に至つては、全然『自己』奉仕であつて『社會』奉仕ではないのである。即ち農業の利潤率が他の生産部門のそれに比べて著しく低下して來たので、農業生産に投じてゐた資本を引き上げて、他の企業に放下しようとする試みが、此の社會奉仕といふ美名の下に行はれる事となつて來たのである。

此現象を見て、小作人階級が擡頭し、農村に於ける勞働爭議が盛になつた結果、地主が覺醒して來たものであると考へるのは大なる誤りである。地主が覺醒したのは、決して農業生産の利益を壟斷する事の非ではなく、實に農業利潤率の低下して來た事である。收穫低減の法則に支配されて、農業資本の生む利潤が減退して來た事と、他の企業に於ける利潤率が比較的騰貴してゐると言ふ事とを自覺して來たのが、彼等をして所謂『社會奉仕』の土地分讓を敢てせしむるに至つた唯一の理由なのである。

地主の持て餘してゐる耕地を貧困無力な小作人に持ち續けて行ける筈がない。假りに年賦償還で讓り受けたとしても、結局抵當に入れるか、賣り放つて了ふかするの外はないのである。されば、土地分讓が行はれる事によつて、小作人が消滅する筈もなければ、農村に於ける勞働問題が解決される筈もない。たゞ此驚嘆す可き、地主の覺醒によつて『奉仕』されるものは、地價の高い間に耕地を賣り放し(恐らく今が地價高騰の絶頂であらう)、他に高率の利潤を求める處の地主それ自身である。


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