蒔いた種

高畠素之


去年あたりから政府がしきりに宣傳してゐた『過激社會運動取締法案』が、到頭議會に提出されることになつた。何しろ資本主義全盛の議會のことであるから、一も二もなく全院一致か何かで通過するものと思つた處、所謂『新人』とか云ふ半可通は、吉野作造、森本厚吉の徒に限られてゐる譯でないと見え、衆議院はもとより、貴族院にさヘ反對者があると云ふのは、資本家政府と共に、吾人の聊か意外とする處である。

院内の新人すら斯の如き有樣であるから、院外における一層新らしく、急進的である『新人』連が默つてゐる筈はない。やれ學者の反對演説會だとか思想家の反對懇親會だとか毎日の新聞に表はれる報導を見ると誠に賑やかなものである。新聞の三面記事だけを讀んでゐると、これでは折角の名案もお流れになるかと思はせられるが、世の中の事は却々さう單純に片着くものではない。如何に騷ぎが大きくならうとも、精々部分的辭句の修正位で法案が通過するであらうことは、間違ひのない形勢だと云ふ。

『盜人を見て繩を綯ふ』と云ふ諺があるが、この反對運動を見てゐると、今更ら繩を綯つた處で追付くものかと云ふ氣がして仕方がない。殊に滑稽なのは社會主義運動者などの反對である。蒔いた種なら刈らねばならない。身から出た錆なら諦める外はない。斯う云ふ法案に當面する覺悟は、とうから出來てゐなければならないのだ。それは取締られる社會主義者自身が、この法案を作らせたのだからである。

原因のない處に結果は生れない。過激社會運動取締法案を提出する政府の方には色々の理由がある。それに對しては、社會主義者の端くれである吾々でさヘ、鎧を脱いで恐縮する外はない。法律の不備と新聞のお目出度さを奇貨として、絶え間の無い賣名騷ぎとそれをまたダシにしたブローカー、これで取締法案が出來なかつた日には、天下社會主義よりいゝ利廻りの商賣は無い事になるが、まさか今日の社會が社會主義營利業者の道具として造られたものでない以上、さうは問屋が卸さないのも亦止むを得ない話である。

大は遠く上海邊へ出稼ぎし、一攫した金の千分の二位をビラでも撒いて新聞紙上の宣傳廣告に宛てる處から、そのまた恩惠を覗ふ中處、小は五圓十圓の所謂『運動資金』を徴收して歩るく連中まで、大小とりどりの活動が、引切りなしに行はれたのでは如何に人の好い政府でも少しは取締る方法を考へずにはゐられまい。新取締法案の中に、國内は勿論海外でも宣傳の爲めに金を出した者を一緒に處分するとある邊り、成程々々と頷かれる。肝心の營利の道さヘ塞いで置けば、この勇敢な運動者共が一齊に退却して行く事は、何人にも想像され得る事であらう。

社會主義者が新法案に反對することの滑稽なのは言ふ迄もない。新人諸君がムキになつて反對してゐる事も、此邊の事情を考へて見れば結局盗人に繩であり、野暮の骨頂である。諸君はこの法案と鬪ふ前に、先づ社會主義者の墮落と鬪ふ必要がなかつたか。結果を避ける前に、先づ原因を防ぐ必要がなかつたか。諸君が新法案に依つて失ふ多少の不自由に對して憤慨するのは誠に尤もであるが、然しその責任が果して政府のみにあるのか何うか。

新取締法案の價値を評價せんとするには、先づこれに依つて生ずる犧牲とこれに依つて防止される弊害とを秤つて見なければならない。勿論斯かる法案が確定する結果、幾多の犠牲を生むことになる。然し乍ら、これに依つて防止される弊害が、それ以上に大なるものである限り、吾々は甘んじて是に服する外はない。盛んなる新法案反對運動に冷笑を與ヘるの外なしと云ふのは、即ち此理由からである。


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