閑人の遊戲

高畠素之


有島武郎氏が全財産五十萬圓を放棄して、一プロレタリアになるさうである。新聞の報導する處に依ると、農民を搾取した金によつて生活する事は、氏にとつて十年來の惱みだつたのださうで今度愈々長い間の懸案を實行するのだと云ふ。北海道の農地は小作人達にやつて了ひ、株券その他の財産は母親の生活費に宛てたり、兄弟に分けたりし、自分は借家住居をして、これからは自ら稼ぐ原稿料だけで生活する豫定だとか云ふ話だが、これですつかりプロレタリアになつた氣になれるのなら、羨しい程單純な氣持である。

斯う云ふ事を言ひ出して、土地を放棄した人には、嘗てトルストイと云ふ仙人があつた。これで氣が濟むとか濟まないとか云ふ事は、御當人の主觀だけの問題だから何うでもいゝだらうが、然しこれで一つぱしプロレタリアの氣持が判るやうな顏でもされては、嘸プロレタリアの方が迷惑な事だらうと思はれる。母親の爲めにも、兄弟の爲めにも夫々莫大な資産を殘して置いて、自分だけが原稿で(而も日本に於いて有數の高價な)生活することが、どうして其日の生活に追はれ、職業の不安に絶えず脅かされてゐるプロレタリアと同じだと言へやう。

有島氏の得てゐる文壇的地位は、一生動かされることのない程安全確實なものであらう。從つてその原稿料は、この贅澤な生活を一生涯保證して尚餘りあるものである。これで何處に餘分な農地などの必要があらう。流行の言葉で言へばブルヂオアとしての生活を續けて行く爲めにも、北海道の農地とやらは氏の爲めに全く不要なものだ。氏はこの決心が精神的な條件の整ふ事によつてのみ爲された樣な口吻を洩らしてゐられるやうであるが、原稿料の安全と云ふ物質的條件は、果して其の考慮に入つてゐなかつたのであらうか。

近頃我國には妙な思想が入つて來た。それはプロレタリア乃至ブルヂオアと云ふ概念に宛て箝めることに依つて、人間の價値標準を定めやうと言ふ思想である。かう云ふ人々にとつてはプロレタリアであることが人間の最高資格なのである。然し乍ら嚴格なる意味のプロレタリアは、資本家によつて搾取されてゐる勞働者とその豫備軍とに限られる。お氣の毒な事乍ら、現在におけるプロレタリア崇拜者の大部分は、何れも文筆業者であつて、勞働者ではない。

何人もが勞働者となり得る條件を持つ者でない以上、プロレタリアとなる事の出來ぬのは決して恥辱でも何でもない。それを強ひて、プロレタリアであると考へやうとする傾向ほど馬鹿らしいものはないのである。

有島氏の今度の決心には斯かる風潮が影響してゐたのではなからうか。若しさうだとすれば、人間の價値標準はプロレタリアであると無いとに依るのではなく、さう云ふお目出度さを持合せてゐるかゐないかにある事を主張したい。然し單に氣分の上の悅びを得る事が目的だとすれば、トルストイまがひの人道主義で、眞劍な人生を遊戲の舞臺とする事の出來る閑人の境地を羨むの外はない。


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