泣く子と地頭

高畠素之


劇作家協會が例の改作事件の紛叫の爲め、到頭帝劇と絶縁することゝなつて了つた。今後は持久的に帝劇と對抗しつゝ、劇界革新の爲めに盡すのだと云ふ。

事の起りは、山本有三氏作の『女親』が帝劇に上演されてゐる時、帝劇の大株主であり且つ社長である大倉喜八郎が、同郷人たる新潟縣人會員を帝劇に招待したことに始る。其際『女親』には風教上宜しくない處があるとあつて喜八郎が勝手に筋を直し、作者に一應の斷りもなく上演させたのが、作家側の憤怒を買つた原因である。作家の團體たる劇作家協會は、大倉と帝劇とで連名の謝罪廣告を新聞に出せ、出さなければ今後一切脚本を提供しないと申送つたのであるが、帝劇ではテンデ相手にしない。其處で愈々絶縁、對抗と云ふ現状に到達した譯である。

成程、喜八郎づれに改作されたのでは、作家側もおとなしく引込んでは居られまい。帝劇が惡いか、作家側が惡いかなどと云ふ事は云ふ丈け野暮の話である。彼等が抗議を申込んだのには全く當然の理由がある。

然し乍ら、世の中には『長い物には捲かれろ』『泣く子と地頭には勝てない』と言ふ言葉もある。如何に我儘專横でも相手が泣く子や地頭であつて見れば、楯をつく丈け非道い目に逢はねばならぬのである。さう云ふ場合には只長いものに捲かれてゐる外はない。

劇作家協會の今度の行動には惜しい事だが、此邊に對する省察が缺けてゐた。如何に藝術が神聖であらうとも、資本家に對しては只捲かれてゐる外はないのである。喜八郎のした事が我儘であらうとも、帝劇の態度が專横であらうとも、要するに泣く子や地頭のする事ではないか。それに楯を突いて一體何うなると云ふ譯だらう。

脚本を提供しない等と言つた處で、劇界の資本家がビクともするものでない。それは、勞働者が勞働力を提供しないなどと啖呵を切つた處で、誰も驚かないのと同じである。彼等は必要な物は何處からでも買つて來る。現に帝劇と劇作家協會とが絶縁する際には、帝劇に關係の深い數人の作家が、協會を脱退して帝劇に走つてゐる。今後だつて金のあるに任せて、今は威勢のいゝ文句を竝べてゐる協會員の中から、一人抜き二人抜き、必要さへあれば全部でも引抜いて了ふことであらう。

泣く子と地頭の我儘は今始た事ではない。資本家の横暴とやらは劇界に丈け限つた事ではない。それに楯を突かうと云ふ事は、生半端な了見で出來る筈のないものである。それを、どうせ高い原稿料さへ拂へば何處へでも轉ぶ人達が、脚本を提供しない等と云ふ啖呵で、天晴れ反逆者振るのは飛んだ間違ひである。躍氣になつてゐる人々には、甚だお氣の毒の次第ではあるが、藪蛇に終りさうな反逆の失敗も亦當然の結果であると云ふの外はない。


次へ

inserted by FC2 system