自由の犠牲

高畠素之


一旦は亭主を足蹴にして天晴れ女振りを舉げた白蓮女史も、世の中のことは御自分の頭の中ほど自由に行かず、情人龍介君とやらとの同棲も束の間で柳原家に幽閉の身となつた。そして本當に前非を悔悟したのか何うか知らないが、今迄の不埓を詫びた書状を出した上、緑の黒髪を切り落し、近く尼となつて京都へ行く事になつたさうである。折角天下の女の爲めに自由への道を示したと思つたら、忽ちこの悲慘な末路に陷つたのだから御當人の爲めには甚だ御氣の毒な次第である。然しこれと云ふのも、頭の中だけで考へてゐればいゝ事を、實際の世の中でやつて見ようとした事が、既に大なる誤りであつたからである。今頃はさぞ人生の無常を嘆じてゐるだらうが、無常なればこそ人生なのだ。

不自由な人生で、一切の事情を無視して、自由な戀に陶醉しようと云ふのは、柳原伯の言草ではないが『天才か狂人』かで無ければ出來ぬことである。然しこの天才だか狂人だかの自由な行爲の爲めに、飛んだ不自由な目に逢つた人達のことを思へば、尼になつた丈けで罪の償ひが出來るものか何うか。

觀念の世界では何人も同樣に自由を持つ。然しこの不自由な世の中では、何等かの犠牲なしに自由を得ることは出來ないのである。即ち何人かゞ自由を得ると云ふ事は、必ず他の何人かゞ自由を失ふ事になるのである。然るにこの觀念世界の自由を、直ちに無常な現世へ移さうとする人がある。それは天才か狂人かの白蓮女史計りではない。蓮葉な女學生の中にもあれば、髭の生へた堂々たる思想家の中にもある。この人達の理解力では、觀念の世界と現實の世界との間に横はる境界を知る事が出來ぬのであらうが、その自由の試みは多くの場合白蓮流の破綻を生ずる事になる。然もその爲めに周圍の者は思ひ掛けぬ犧牲に供せられるのである。

愼しむ可きは自由の道である。白蓮女史の自由の結果を見て、今更らながらこの感を深うせずにゐられない。何等の犧牲なしに自由が得られる樂園が來ない以上、利己的な自由主義者は常に吾人の持つ自由の敵である。


次へ

inserted by FC2 system