近代人の苦悶

高畠素之


議會に於ける昇格案を中心として、學生が運動に狂奔した有樣ほど滑稽なものはない。『昇格か、然らずんば廢校か』と云ふ『悲痛なる叫び』は幾度か繰り返されてゐたのである。若い學生だけかと思つてゐたところが、何づれ妻子もある可き教師連までが一緒になつて悲壯な叫びを舉げてゐたのであつた。

而も遂に昇格案は握り潰された。幾度びかの叫びの手前、高等師範や高等工業が廢校になつて了ふことだと思つたところが、既に廢校の覺悟をしてゐた筈の人々が『善後策を校長に一任する』とか云ひ出した。其後遂に一ケ月近くなるが、吾々は廢校の報を耳にしない。そして意外にも卒業式も無事に擧げ、最も運動に狂熱してゐた筈の高師生が、それぞれ郷里に歸つたり、任地に赴いたりしたと云ふ事を聞いたのである。

大の男が一再ならず決心したと云ふからには、そして一旦口外し世間に誓つたからには、否が應でも廢校して貰ひ度い。龍頭蛇尾もあまりに甚だしいと言はねばならぬ。彼等の流した涙は一體何の爲めであらうか。幸にして昇格案が通らなかつたからいゝ樣なものゝ若し貴族院が彼等の涙を買つて通過させたら、彼等はまるでペテン師だと言はれても仕方があるまい。これで何の面下げて文相の二枚舌や政府の不得要領が責められるのだ!

而も龍頭蛇尾に終る時の文句は何うかと云ふに『卒業生の任地も極まつてゐる事だし』とか『來年もある事だから』とか云ふのであつた。そんな事は初めからきまつてゐた。今更ら餘計なことである。來年もあり、卒業生の任地も極つてゐるけれども、兎に角今年通過しなければ廢校すると云ふ意氣込ではなかつたのであらうか。世には、睾丸の所在が疑しい人が多いものである。

吾々は『昇格か廢校か』の叫びより龍頭蛇尾に終るまでの、彼等の心中に二個の相背離した心理が働らいてゐたことを感ぜずにはゐられない。一は即ち男は氣で持つ底の感情であり、他は即ち實利的、功利的素町人根性である。男は氣で持つ情熱は、我々が古くから有してゐるものであり、素町人根性は近世に於ける資本主義と共に發達して來たものである。花より團子である。資本主義社會に於いては、總てが益々功利的實利的になつて行く。かゝる社會に生存して行く爲めには、何人も大なり小なり、氣で持つ情熱を犧牲にしなければならないのである。

今日の社會に於いて、意地よりも張りよりも實際上の利益に走るものゝ多いのは、全くその爲である。高師の教師學生にして見ても、意地と張りで廢校したのでは、生きる爲めに甚だしい困難を感ずることになる。然し彼等の心中には常にこの二樣の精神が相鬪つてゐるのである。時によつては意地の方が強く働くこともあり、從つて昇格か廢校かと云ふ氣にもなれるが、いざとなると素町人根性の方が強くなつて龍頭蛇尾に終るのである。

斯くの如く考へて來ると、龍頭蛇尾に終つたことよりも、何故最初から素町人の方で、一貫しなかつたのだと責めたくなる。どうせ今の世の中では素町人根性でなければならないのだ。そんならば、生なか意地や張りがあるやうな顏をしないで通した方が利口である。然し一度び意地と張りで立つたからには飽く迄意地で通さねばならない。途中で實利主義に鞍更へするなどとは、以つての外だと云はねばならぬ。かくては、彼等の情熱が實利主義の一手段だつたと罵られても仕方がないのである。睾丸の所在を疑ひたくなるのは實に此處である。


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