平和博の意義

高畠素之


花の上野には今博覽會が開かれ、萬國街だとか南洋館だとか云ふ餘興で田舎者を集めてゐる。當局者の話すところによると、豫期してゐた程の入場者は得られないと云ふ事であるが、それでも警察が手古摺つてゐる程犯罪の多い事から見ても、相當の人出はあるらしい。

博覽會の内外では、男蕩し女蕩しの不良男女を初めとして、掏摸とかチーハー師とか云ふ犯罪者が、腕を鳴らして跳梁してゐる。新聞に報じられるところを見てゐると、女看守に化け込んで一と仕事しようと云ふ女や、酩酒屋あたりと連絡をとつて少女誘拐を目論む不良少年があつて、『刑事等も人手が少いので著しいもののみを檢舉してゐるが』、而も一日十數名近い檢舉がある有樣ださうである。

博覽會などを開いたところで、産業開發の爲には何の役にも立つものでない。博覽會などの力に依らなくとも、産業は行き詰るところまで發達し切つてゐるのである。そして社會は、此の發達した産業の爲めに、爛熟した資本主義の爲めに全く支配されてゐる。物産陳列所や勸工場で産業開發を計る必要があつたのは一と昔前のことであつた。

この時勢遲れの博覽會にも、田舎者を吸收して散財させる外に、今一つ奇妙な意義がある。それは産業の極端な發達により頽廢的世紀末的の氣分に包まれてゐる今日の社會に於て、當然避け能はざる色情的犯罪者をして新なる活躍の舞臺を得せしめたと云ふ事である。

今日の社會に於いては、すべてのものが生活の武器に供される。社會が益々頽廢的になつて行く以上、美貌と巧言令色を武器とするものが増加し來たるは避け難い現象であらう。彼等が武器を弄する舞臺は至るところに設けられてゐたが、然しエロテイツクな南洋踊で客足を呼んで呉れる博覽會ほど卑俗で便利なところはない筈である。

故に他の何人よりも斯かる犯罪の常習者にとつて、博覽會が有意義であると云ふは決して差支ない筈である。況して斯かる傾向が産業開發の蒔いた種である限り、博覽會が今、産業の開發と云ふ目的から、蒔いた種の刈り入れに移つたと見ることも差支あるまい。今年は不良男女の當り年である。


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