2 社會革命と政治革命

高畠素之

二人のマルクス

マルクスの思想には現實主義的、進化主義的な一面と、狂熱的、革命主義的な一面とがある。唯物史觀論者としてのマルクスは『一つの社會形態は、其包括し得べき一切の生産力が發達を遂げた後でなければ決して顛覆し去るものではなく、又新たなるヨリ高位の生産事情は、其物質的存在條件が古き社會の胎内に孕まれた後でなければ、決して發現し來たるものではない』と信じてゐた。此見地に依れば、社會組織の改造は、總ての生産力が從來の組織内に於いて餘地ある限り其發達を成し遂げた後でなければ、決して實現されるものではない。社會の進化には、一つの自然律が働いてゐて、社會は其自然的の發達段階を跳び越えることも出來なければ、また立法によつて排除することも出來ない。隨つて、社會の生産力が未だ充分に發達せざるとき、單なる襲撃に依つて社會的改造を遂行せんとする如きは、無謀の沙汰であつて、當然失敗に終るべきものであることは明かである。

マルクスは實に斯く信じてゐた。而して此方面におけるマルクスは『人類の宿命に極めて從順なる』思想家であつて、冷靜なる實現主義者、合理的なる進化主義者と見るべきである。

然るに此冷靜な現實主義者たるマルクスは、他の一面に於いては又極めて激烈狂熱なる革命主義者であつた。彼れはつねに、社會を震撼すべき政治的革命の爆發が目前に迫り居ることを信じてゐた。無産者は『現存社會の内部に於いて、多かれ少なかれ隱蔽されたる内亂を經て、遂には一つの公然たる革命に爆發する點に達し、かくして有産者をば強力的に轉倒せしめ自己の支配を樹立する。』而して無産者の斯かる事業を助くることは、正に共産主義者の目的でなければならぬと、彼れは信じてゐたのである。

斯樣な熱狂的、革命的なマルクスと、曩に述ぶる如き冷靜な進化主義的なマルクスとの間には、果して如何なる關係が存するであらうか。ゾンバルトやトェニーズの如き學者は、此二つの傾向を以つて『本質的に矛盾し』、『全然反對のもの』となし、『漸次的な合法的變化及進化』に依る社會主義の實現を期する點にのみ、マルクスの眞價を認めてゐる。然るに我が河上肇博士(『社會問題研究』第三十七册)は、ゾンバルト等の此見解をば、『極めて明白なる誤解だと信ずる』と斷じ、進化主義者たるマルクスが、同時に革命思想を抱懷してゐたと云ふ事は、決して自家撞著に陷つたものではないことを論證されてゐる。博士の説明はいつもながら入念懇切を極め、加ふるに博士一流の優秀なる獨創的見解を基礎とせられたことは、我等の竊かに敬服する所であるが、然し博士の提示さるゝ如き解釋を以つてしても、此點に關するマルクスの矛盾は依然として矛盾たるを失はないやうに考へられる。博士の説明は此矛盾を解決したものではなく、寧ろ更らに大規模にそれを擴張したものゝ如く感ぜられるのである。

マルクスの社會革命觀

博士は先づ、社會的革命と政治的革命とを區別してゐる。マルクスの謂ふ社會的革命とは、諸々の生産事情の總和より成る社會の經濟的基礎が變動し、而して『法律上竝びに政治上の上部構造が依つて立つところの、又一定の社會的意識形態が應當するところの現實的基礎である』べき、此經濟的基礎の『變動に伴つて、巨大なる上部構造の全部が、或は徐々に、或は急激に變革される』ことであつて、かゝる社會的革命は、一つの社會の『包括し得べき一切の生産力が發達を遂げた後でなければ』決して實現されるものではない。社會の生産力が充分に發達せざる限り、人間の意識や感情が如何にもがいても、社會的革命の實現は到底期し得られないのである。此見解はマルクスの唯物史觀説の特徴であつて、社會の變革に對する彼れの見方が如何に現實主義的であり、進化主義的であるかを證明するものである。

マルクスの政治革命觀

然るにマルクスは他方に政治的革命の必要を力説した。マルクスの謂ふ政治的革命とは、要するに從來の被治者階級が治者階級に代つて政權を掌握することであつて、河上博士の見る所に依れば、此革命は唯物史觀的の法則に支配さるゝものではなく、人の意識を以つて『製造され』得るものであり、エンゲルスの言ふ如く『無意識なる大衆の尖頭に立てる僅かなる少數者』に依つても果され得るものである。それは『社會進化の途上に横はる一挿話』であり、政治の局面に起る『一個の歴史的事件』たるに過ぎない。隨つて『社會的革命は實現されても、その前後に何等の政治的革命が起らぬこともあれば、たとひ政治的革命は成功しても、何等の社會的革命が實現されざることもある。』

マルクスと河上博士の矛盾

河上博士の以上の解釋に依れば、社會的革命と政治的革命との間には、何等の必然的關係もないものでなくてはならぬ。そこで此必然的關係のない二種の思想をマルクスが抱懷してゐたとする時、トェニーズの主張する如く、社會進化の學理的考察に於いて純然たる一個の現實主義者であつたマルクスが、生涯幾多の辛酸を嘗め盡した亡命客の病的心理の發現として一面に政治的革命の勃發を無想するに至つたと見ることは、マルクスにとつては寧ろ有利な批評と云はねばならぬ。なぜならば斯く解することに依つて、マルクスの矛盾は論證されることになるけれども、それはマルクスの學理的考察と人間としてのマルクスとの間に存する矛盾であつて、マルクスの學理的考察その者の中に潛む矛盾ではないからである。

所が河上博士は、相互の間に必然的關係のなかるべき右の兩思想をば、一元的に結びつけようとしてゐる。博士は言ふ。『彼等(マルクス及エンゲルス)は資本主義から社會主義への推移を齎らすべき社會的革命は、無産者による政權の攫取を目的とする政治的革命の成功によつて、始めて實現さるゝものだと、信じてゐた。』而して斯く『レヴォリューショニストたると同時にエヴォリューショニストたることは、即ち彼等の最大特徴でなければならぬ』と。政治的革命と社會的革命との間には、何等の必然的關係も存せざるものであることは、博士の論斷せられた通りである。而して社會的革命なるものは、社會の生産力が充分に發達した後でなければ、決して實現され得るものではない。即ち社會的革命は、唯物史觀的の法則に依つてのみ實現され得るのである。然るに博士の解釋せらるゝマルクスは、此社會的革命が社會の生産力、換言すれば唯物史觀的の法則とは何等の必然的關係なき政治的革命の成功に依つて、始めて實現され得るものと信じたことになる。博士は此點に何等の自家撞著をも認められざるのみか、却つてマルクスの偉大を認められてゐるやうであるが、我々の見る所に依れば、それは明かにマルクス説の自己否定、マルクスの學理的考察その者の自家撞著を證據立てることになる。

なぜならば博士の如く解釋するときは、唯物史觀的の法則に依つてのみ實現さるべき筈の社會的革命が、唯物史觀的ならざる原因(政治的革命の成功)に依らずしては實現されるものでないと云ふ事實を意味することになるからである。マルクスの政治的革命思想をば單なる亡命客的心理の發露と見て其現實主義的な學理考察と對立させてゐる間は、マルクスの性格と學説との矛盾のみが認められるに止まるが、博士の爲さるゝ如くマルクスの學説その者の中に政治的革命思想を混入させることは、却つて此學説自體を否定することになる。そこで此ヨリ大なる矛盾からマルクスを救ひ出さうとするにはトェニーズの主張する如く、政治的革命思想の方は之れを『マルクスと云ふ人間及思想家の心理』に屬せしめて、社會的革命に關する合理的な理解とは『何の係りも』なきものと見るか、或は政治的革命の思想をも同時に唯物史觀的考察の領域に包括するか、然らずんば政治的革命の方を生かすために唯物史觀説その者を放棄又は改造するかの外に道はないのである。

政治革命の必要

兎にかく、マルクスが一面に於いて社會的革命を認めながら、他の一面に於いて政治的革命(河上博士の解せらるゝ如き)を主張したと云ふことは、何等かの意味の矛盾たるを失はない。それはトェニーズの力説する如く、マルクスの全人格の内に潛む矛盾とも見られるし、又河上博士が其目的を裏切つて論證せらるゝ如く、マルクスの學説その者に含まれる矛盾とも見られる。

此後ちの矛盾について我々の興味を引く事は社會的革命を信じることに於いて斯く迄熱心であつたマルクスが、何故それと全く範疇を異にする政治的革命の必要を認むるに至つたかと云ふ問題である。此問題の攻究は他の機會に讓ると、博士は言はれてゐるが、博士の説かるゝ前後の論脈に依つても略々其意味が推知される。博士は言ふ。『政治的革命は本來社會的革命と其の性質を異にするものであるけれども、只彼等の主張する政治的革命が、社會的革命の實現を目的とする政治的革命であるといふ約束のために、それは、革命(政治的)後に於いて大凡そ其の目的とする社會的革命を實現し得る可能ある場合に限り、始めて是認され得るものとなる』と。そこで今、社會主義の實現を目的とする無産者の政治的革命を例に採つて見るならば、此革命は『資本主義が餘り遠からざる中に行き詰ると豫想され得る場合……に限り、始めて是認さるべきものである』といふことになる。資本主義が餘り遠からざる中に行き詰る状態に在ると觀測され、而して唯物史觀の主張する如く、資本主義の行き詰まつた時には必然的に社會主義が實現されると信ぜられるならば、何も好んで政治的革命など勃發させないでもよささうなものであるが、社會的革命の時代は既に近づいてゐると觀測されても、『有産者階級の頑強なる態度には、社會進化の必然的過程たる此の社會的革命の實現を可能ならしむべき餘地がない。』そこでマルクスは政治的革命の遂行に依り『支配階級をして共産主義革命の前に戰慄せしめん』としたのである。即ちマルクスが政治的革命の勃發を必要とした所以は、社會的革命の進行を妨害する有産者階級の斯くの如き『頑強なる態度』を抑壓せんとしたことにある。

河上博士は此道筋をば『決して理解し難きことでは無い』と言はれてゐるが、我々から見れば、之れほど理解し難き理窟はないのである。なぜならば、眼前に迫りつゝある社會的革命が『社會進化の必然的過程』であるとする以上、有産者階級が如何に頑強なる態度を採ればとて、此進化の趨勢を如何ともすることは出來ぬ筈である。若しそれが有産者階級の頑強なる態度の爲に『實現を可能ならしむべき餘地がない』ものであるとすれば、それは最早社會進化の『必然的過程』ではなくなる。社會的革命の實現が社會進化の必然的過程であるとする以上、有産者階級の態度の如何に拘らず、それは必然的に實現されねばならぬものであつて、其爲にわざわざ政治的革命などを勃發させる必要は毫もない筈である。

政治革命の救濟

そこで、此點に於いてマルクスの政治的革命思想に眞の意義あらしめようとすれば、河上博士の解釋せらるゝ如く社會進化の『必然的過程』として(隨つて政治的革命の有無に拘らず)、舊來の經濟制度(當面の例を採れば資本主義)が餘り遠からざる中に行き詰ると豫想され得る場合に限り、始めて政治的革命が是認されるといふ風に見ないで、必然的過程の如何に拘らず、政治的革命の勃發に依つて社會的革命の必要條件が造り出されるといふ風に解するの外はない。斯く解するときは、勿論唯物史觀説その者の根底を放棄することになるが、政治的革命の觀念はそれに依つて充分の意義を發揮せしめられることになる。

唯物史觀説の信奉者と雖も、實際は矢張り此信念に依つて動いてゐるのではあるまいか。例へば露西亞の共産主義者たちにした所が、彼等は露西亞の資本主義が近き將來に行き詰る状態に在ると觀測して政治的革命を遂行した譯ではあるまい。如何に盲目的な唯物史觀信者と雖も、露西亞の資本主義が斯かる爛熟状態に在つたと信ずる筈はないのである。それにも拘らず、彼等は政治的革命を遂行した。そして此政治的革命に依つて、彼等は單に有産者階級の頑強なる態度を抑壓したのみではなく、いまだ備はらざる社會的革命の必要條件をば著々と造り出さうとしてゐるのである。

而して社會的革命の必要條件中最も本質的なるものは、社會的生産力の充實といふことである。即ち彼等は河上博士の解釋せらるる如く、社會的生産力が既に充分發達して資本主義が近き將來に行き詰ると豫想して政治的革命を遂行したのではなく、寧ろ反對に、資本主義の發達幼稚なる露西亞に於いてさへ政治的革命の遂行に依つて社會的生産力を充實せしめ、資本主義を行き詰まらせようとしてゐるのである。彼等は斯くして事實上唯物史觀説の絶對性を放棄したことになるが、社會的生産力の充實が社會的革命の最本質的な必要條件であるとする點に於いて、相對的には尚唯物史觀を把持し居るものと見ることが出來る。

かく解する時に始めて、マルクスの政治的革命――それは必ずしも暴力的な流血の革命に限らるゝものではなく、合法的な平和的革命をも含むと觀た點は河上博士の卓見である――なる思想は其眞價を發揮すると同時に、唯物史觀説も亦全く絶命するに至らずして濟むのである。

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