3 マルクス價値説の『矛盾』

高畠素之

マルクス經濟論爭

マルクス經濟論に對しては種々なる方面から大小幾多の批評が向けられてゐるが、その中もつとも致命的と思はれるのは、何と云つても資本論の自家撞著といふ非難である。即ち資本論第三卷に説く生産價格及平均利潤の論旨は、第一卷の前提たり骨子たる勞働價値及餘剩價値の論旨と全く相容れざるものであるとの批評である。此問題については既に山川均對小泉信三兩氏の間にも有益な論戰があり、今後も尚兩氏は勿論、其他の諸家に依つても眞面目な研究が提供されることゝ信ずるので、これが一刺戟にもと思つて茲に拙文を草する次第である。

マルクス價値説の要領

立論の順序として、先づ第一卷の價値及餘剩價値説と第三卷の生産價格及平均利潤説とが矛盾するといふ、論者の言分を一瞥して置く必要がある。

マルクスに依れば、甲なる商品の一定量と乙なる商品の一定量とが相互に交換されるのは、此兩者の間に共通の或者が含まれてゐる結果である。其共通の或者とは、即ち一定量の人間勞働である。即ち人間勞働なるものは商品の價値を形成する要素であり、價値實體たるものであつて、一商品の價値は其生産上社會的に必要なる勞働時間に依つて決定される。然るに今日の社會に於いては、人間の勞働力も亦一種の商品であつて、他の商品と同樣に賣買されてゐる。故に此勞働力なる商品の價値も亦、其生産上社會的に必要なる勞働量に依つて決定されねばならぬ。勞働力の生産に要する勞働量とは、畢竟勞働者自身(及び其一家)の生計に必要なる衣食住の生産に要する勞働量であつて、此勞働量が即ち勞働力の價値を決定するのである。

資本家は此價値を以つて勞働力を買ひ取り、之れを自己の生産工程内に消費するのであるが、かくの如き勞働力消費の結果、勞働力の價値、即ち勞働者の生計に要する衣食住の價値を再生産する以上に、尚追加的の價値が算出されることになる。これ即ち餘剩價値であつて、支出總資本に對して利潤と呼ばれる所のものである。然るに此餘剩價値即ち利潤は生きた勞働のみから生ずるものであつて、生産機關に對象化してゐる過去の死勞働はたゞ其生産上に消費し盡された分を生産物に移轉するに過ぎぬ。そこでマルクスは此活勞働たるべき生産要素即ち勞働力の購買に支出される資本分を可變資本と呼び、生産機關に支出される資本分を不變資本と呼んでゐる。此可變資本と不變資本との比例は、技術上の關係に依り産業の種類に應じて種々異なるものである。而して可變資本と不變資本との比例が技術上の關係に依つて決定されたものは、即ち資本の有機的組成であつて、此組成は産業の種類に依つて種々異なるものである。

矛盾とされる點

以上は大體に於いて資本論第一卷に屬する論旨であるが、此論究より推するときは、假りに可變資本に對する餘剩價値の比例(餘剩價値率)は不變であるとしても、支出總資本に對する餘剩價値の比例即ち利潤率は、産業の種類に依つて種々異なるべき筈である。然るにマルクスは第三卷に於いて、各産業の利潤率が自由競爭の結果平均に歸することを認めてゐる。即ち有機的組成の如何に拘らず、等額の資本は總べて等額の利潤を生ずるに至るといふのである。隨つて、各商品は其價値(支出資本と餘剩價値との和)を標準として販賣されず、價値とは異れる生産價格(費用價格と平均利潤との和)を標準として販賣されることになる。價値と生産價格とは、量的に全く異なるものであるから、第三卷に説く如く商品が通則的に生産價格を以つて販賣される以上、第一卷に樹立された商品の價値法則は結局行はれないことになる。かくて抽象の世界に生成した第一卷の論旨は、現實の世界に生成した第三卷の論旨に依つて見事打破されることになると云ふのである。

辯護論據の一

此資本論『矛盾』の非難に對して、マルクス學徒は如何なる辯解をしてゐるかといふに、先づ第一はマルクスの著述年代に依る論證である。

マルクスが最初に確立した價値及餘剩價値の論旨をば、後年發見した生産價格及平均利潤の論旨に依つて事實上否定したといふ非難の不當なることは、マルクスの著述年代が明かに之れを證明する所である。元來、マルクスは一八四七年すでに其經濟學説の基本觀念を造り上げてゐたので、個々の特殊問題に對する細目に就いても、其多くは既に一八六〇年頃までに論旨が纏つてゐた。其後に於いては、たゞ部分的の補充が與へられたのみで、原理の上には何等の變化も加へられなかつたのである。資本論第一卷が刊行されたのは一八六七年であるが、其以前一八六一年より六三年にかけて起草された『餘剩價値學説史』の原稿中には平均利潤や生産價格の議論は固より、資本論第三卷の卷末を飾る地代論までが既に逐一取扱はれてゐる。又一八六五年マルクスがインターナショナル總會の席上に述べた『價値・價格及利潤』についての講演の中にも、資本論第一卷より第三卷に至る全論旨が簡單ながら叙述されてゐるのである。かくマルクスの思想系行を辿るならば、第三卷の論旨が決して第一卷に比し時間的に著しく後れて造り出されたものでないことが推定される。

此辯解はマルクス變説論の根據を打破する上には確かに有力である。然しマルクス説の自家撞著といふ非難に對抗するには、爾かく有力な武器とは思はれない。マルクスが第三卷に於いて第一卷の論旨を變説改竄したといふ非難は、第一卷の論旨と第三卷の論旨との間に觀念内容上矛盾があるといふ非難と必しも同一なるものではないからである。前者は時間的の問題であり、後者は内容上論理上の關係をも含む。第三卷の論旨が第一卷の内容と同時に成立したものであつても、兩者の間に論理上の矛盾があるといふ批評は存立し得るのである。そこで此批評に對して、マルクス學徒は如何なる辯解を提出してゐるか?

辯護論據の二

根本的の原則を先づ究明して、然る後に順次派生的法則の闡明に移るといふことは、如何なる科學の攻究に於いても行はれる所である。而して根本的の原則を考察してゐる間は、立論の錯綜を避くるため出來得る限り附帶的の事象より抽象することが便宜でもあり、避けられぬ所でもある。例へば物體落下の法則を究むるには、先づ眞空界を假定する。眞空界に於いては、鉛玉も紙キレも同じ速力を以つて地上に落下する。然るに空中に於いては、空氣の抵抗あるため兩者の落下速度に著しき差異が生じて來るのみではなく、風が吹けば紙キレは地上に落下せずして反對に天空へ舞ひ上ることもある。然し左樣な現象はあつても、眞空界のもとに確立された落體の法則は依然原則としての價値を保有するものであつて、此原則を明かにして置くことは、眞空と云ふ假定を離れた現實上の種々なる物理考察を促す上にも、有益な結果を齎らすのである。

マルクスの價値説、餘剩價値説は、今日の經濟制度における現實の市場關係より抽象せる眞空界のもとに樹立された原則であつて、此原則を自由競爭の行はるゝ實市場に應用すると、生産價格や平均利潤の法則が生じて來る。生産價格は量的に價値と一致せず、平均利潤は餘剩價値と一致しるものではないにしても、價値及餘剩價値の原則は依然生産價格及平均利潤の上に作用してゐるのである。それは丁度、空中にあつて鉛玉は直接地上に落下するに拘らず、紙キレは反對に天上へ舞ひ上ることがあつても、眞空中に確立された物體落下の法則が依然兩者の上に作用するのと同じである。

然らば價値及餘剩價値の原則は、如何にして價格及利潤の上に作用するか?それは價格及利潤が一定の量的限界を有してゐるといふことである。個々の價格は個々の價値と一致せず、個々の利潤は個々の餘剩價値と異なるとは云へ、價格及利潤が常に一定の量的限界を有してゐると云ふことは、價値及餘剩價値の量が豫め限定されてゐて、一社會に存する價格の總額が價値の總額に等しく、利潤の總額が餘剩價値の總額に等しきものと假定せずしては考へられぬ事である。マルクス自身の言葉を借りて言へば、『けれども生産價格が斯く價値に一致しないといふことは、價格が價値に依つて決定さるる事實を排除するものではなく、又法則的に定めらるゝ利潤限界を廢除するものでもない。商品の價値は其生産に消費された資本……と、一般的利潤率に基いて配分さるべき餘剩價値、例へば生産に前貸された資本(消費されたものと、單に充用されたのみのものとの雙方を含む)に對する二〇パーセントとの和に等しいのである。然し此二〇パーセントなる追加その者は、社會的總資本に依つて造り出された餘剩價値と、資本の價値に對する此餘剩價値の比例とに依つて決定されるものである。さればこそ、それは二〇パーセントであつて、一〇パーセント又は一〇〇パーセントではないのである。故に價値の生産價格化は利潤の限界を廢除するものではなく、たゞ相合して社會資本を構成すべき種々なる特殊資本間への利潤配分を變更するのみである。即ち此等の特殊資本は、其各が右の總資本の上に占むる價値分に比例して、均等に利潤の配分を受けることになるのである』(高畠譯資本論(大鐙閣版)第三卷第四册第四〇三頁(改造社版第三卷下三九六頁))けれども、生産價格が斯く價値から隔つて行くといふことは、價格が價値に依つて決定されることを止揚するものでもなければ、また利潤の合則的限界を止揚するものでもない。一商品の価値は、その商品に消費された資本……と、一般的利潤律に從つて配分される餘剩價値、例へば生産上に前貸された資本――消費されたものと、單に充用されただけのものとの雙方を含む――に對する二〇パーセントといふ如き數量との總和に等しい。が、この二〇パーセントといふ追加數量は、社會的總資本に依つて造りだされた餘剩價値と、資本の價値に對するこの餘剩價値の割合とに依つて決定される。さればこそ、それは二〇パーセントであつて、一〇パーセント又は一〇〇パーセントではないのである。それ故、價値の生産價格化は、利潤の限界を止揚するものではなく、ただ相合して社會資本を構成する色々な特殊諸資本間への、利潤配分を變ぜしめるに過ぎぬ。即ち、此等の特殊諸資本は、そのおのおのが總資本の上に占める價値部分の大小に比例、均等に利潤の配當を受けるのである。)

マルクスの價値論は價格の事實と矛盾すると説く反對論者も、然らば價格及利潤の有する一定の量的限界は如何にして與へられるかと反問されるとき、恐らく素性のいい答辯は出來まいと思はれる。少なくとも斯かる反問を豫想する論者であるならば、マルクスの矛盾を喋々する前に先づ自己の價値説、利潤説を確立してかゝらなければならぬ。それでないと、マルクスを否定する迄は勇敢であるとしても、それぢや一體何うすればいいのだと捨て身に詰め寄られたとき、返答に窮するやうな醜態を演ずることになるであらう。

第二の反對論

論者は又言ふ。――マルクスは一面に於いて價格は價値に依つて決定されると説きながら、他面に又、生産價格が價格の中心たるべきことを力説してゐる。これは明かに矛盾である。なぜならば價値と生産價格とは量的に一致しないものであるから、價格が價値に依つて決定されるといふことは、それが生産價格に依つては決定されるものではないといふことを含まなくてはならぬからであると。

なる程、マルクスが或時は價値が價格を決定すると言ひ、或時は又生産價格が價格を決定すると説いてゐることは事實である。上掲文中にも『價格が價値に依つて決定さるゝ事實を廢除するものではなく』と言ひ、又小泉氏も擧げて居られた如く、第三卷第二篇に於いては『種々なる生産部面の商品が價値通りに販賣されるとの假定は、言ふ迄もなく、その價値は價格が囘轉し價格の絶え間なき騰落が平均に歸しゆく重心であると云ふ事を意味するに過ぎぬ』(高畠譯資本論(大鐙閣版)第三卷第一册三一一頁(改造社版第三卷上一四七頁))相異つた生産諸部面の商品がその價値通りに販賣されるといふ假定は、言ふまでもなく、價値なるものは價格が依つて以つて囘転し價格の間斷なき上下運動が均衡化して行くところの重心だといふことだけを意味するに過ぎぬ)と言つてゐる。さうかと思ふと又、『生産價格は又それ自身、日々の市場價格が囘轉し且つ一定期間内に平均化して行く所の中心である』(同上三一三頁(改造社版一四八頁))生産價格は、それ自身また、日々の誌上價格が依つて以つて囘轉し且つ一定の期間に平均化して行くところの中心となつてゐる)とも説いてゐる。

然し此『矛盾』も亦――生産價格は終極に於いて價値の支配を受けると云ふ論據を離れて考へても――相當の辯解理由を有してゐる。元來、かくの如き辭句を原文の關係から引離して別々に引用することに無理がある。それからマルクスの謂ふ價値及び生産價格なるものは、必ずしも觀念内容上の順序を意味するのみではなく、同時に又時間的の發展順序をも含むと云ふ事を念頭に置かなくてはならない。

今、上に掲げた最後の二句について見るに、マルクスは先づ『價格竝びに價格運動が價値法則に依つて支配されるといふことは暫く別とするも、商品の價値をば單に理論上のみでなく歴史的にも生産價格に先だつものと解する事は全く當を得た見方である』と言ひ、『之れは生産機關が勞働者の有に屬する場合の状態に當嵌る事であつて、斯かる状態は古代竝びに近代世界に於ける地持自作農夫及び手工業者に於いて見られる所である。而して此事實は又、生産物の商品への展化は、異れる共同社會間の交換に基くものであつて、同一共同社會の成員間の交換に基くものではないといふ、曩に發表した我々の見解と一致するものである。右の事實は、單に斯くの如き原始的状態について言ひ得るのみではなく、尚また――各生産部面内に定置された生産機關は容易に之れを一つの部面から他の部面へ移轉するを得ず、かくて種々なる生産部面は或程度まで、異れる國同志又は異れる共産社會同志の如き相互關係を維持する限り――奴隷制度及び農奴制度に立脚するヨリ後來の状態、竝びに手工業のツンフト的制度についても言ひ得るものである』(同上三〇九―一〇頁(改造社版一四六頁))これは、生産機關が勞働者の所有に屬する場合に諸状態について言ひ得る。而して斯かる状態は、古代世界に於けると近代世界に於けるとを問はず、土地を予習する自作農民及び手工業者の間に見られるところである。で、これはまた、生産物の商品への發展は、相異つた共同體と共同體との間の交換に起因するものであつて、同じ共同體の諸員間に行はれる交換に起因するものではないといふ、曩に示した我々の見解と一致するものである。それは、斯かる原始的の状態について言ひ得る如く、また、各生産部門に固く据えられた生産機關は容易にこれを一の部面から他の部面に移轉せしめ得るものでなく、そのため相異つた生産諸部面が或る程度まで、相異つた國と國、又は相異つた共産體と共産體との間に於ける如き相互關係に立つてゐる限りは、奴隷制度及び農奴制度に基くヨリ後來的の諸状態や手工業のツンフト的體制についても言ひ得ることである)と叙べてゐる。即ち自由競爭が普及せず、生産機關が不動的であつた初期の状態に於いては、價値の法則が直接交換を支配してゐたといふのである。

そこで、商品が價値通りに販賣されるとの假定から、價値が價格騰落の平均に歸しゆく重心であるといふ、上掲の命題が生じて來る。マルクスは商品價値が直接に交換を支配した状態から、更らに市場價値が支配する段階に論を進めて、次の如く言つてゐる。『市場價値なるものは、一方に於いて、一部面内に差出さるゝ商品の平均價値と見るべきである。他方に又、一部面内に於ける平均的條件の下に産出せられ、而して此部面に於ける生産物の大半を成す商品の個別的價値と見るべきであらう。市場價値は市場價格――同種類の商品を通じて同一なる――の動搖の中心を成すものである……』(同上三一一頁(改造社版一四七頁))市場價値とは、一方には、一の生産部面に於いて造られる商品の平均價値と見做すべきであり、他方には、一の生産部面の平均的諸條件の下に生産されてその部面の生産物の大半を成す商品の個別的價値と見做すべきである。市場價値はまた、同じ種類の諸商品を通じて同一なる市場價格の變動の中心を成すものである……)然るに市場價値は軈て生産價格に依つて位置を代へられる。かく『生産價格が市場價値に代るや否や、以上市場價値に就いて言つた事は、又生産價格に就いても通用することゝなる。生産價格は、各部面を通じて調整されて居り、此調整は矢張り特殊の事情に依つて左右されるものである。而して此生産價格は又それ自身、日々の市場價格が囘轉し且つ一定期間内に平均化して行く所の中心たるものである』(同上三一三頁(改造社版)一四八頁)。生産價格が市場價値に代つて位置を占むるや否や、以上市場價値について述べたことは生産價格についても當て嵌まるやうになる。生産價格なるものは、各生産部面に於いて調節されてゐる。而してこの調節は、特殊の諸事情に從つて行はれる。が、生産價格は、それ自身また、日々の市場價格が依つて以つて囘轉し且つ一定の期間に平均化して行くところの中心となつてゐる)

つまり商品交換が或は直接價値に依つて支配され、或は市場價値、或は又生産價格を通じて支配されるといふ事は、論理上の發展順序を示すと同時に又歴史的の發展系行をも示すものであつて、マルクスは決して漫然と氣まぐれ的に、或時は價値を持出し、或時は生産價格を持ち出してゐる譯ではない。自由競爭の普及せざる初期の状態に於いては、直接に價値が交換を支配したが、次いで間接に市場價値を通じ、最後に生産價格を通じて支配するやうになる。生産價格の支配下に於いては、價値はもはや直接に交換を支配するものではないが、然し生産價格の量的限界は價値に依つて決定されるものであるから、此意味に於いては、矢張り間接に價値が支配してゐると云ふことが出來る。かく解するとき、價値が交換を支配(又は決定)するといふ命題と、生産價格が支配(又は決定)するといふ命題とは、決して矛盾するものではないのである。

小泉氏の反對論

マルクスは其立論の根底たる價値法則を論證するために、今日の經濟制度における一切の現實的市場關係から抽象した筈である。然るに價値法則の論證における彼れの推究は『1クォターの小麥=aハンドレッドウェートの鐵』と云ふ『目前現實の事實』から出發してゐる。彼れは最初に此方程式を掲げ、かく定量の異れる二商品が互ひに等しいといふ以上、兩者の間には共通の或物が含まれて居らねばならぬ。それは即ち同一量の人間勞働であると説いて、勞働價値説を樹立したのであるが、『此推究方法は論理的ではない』と小泉氏は斷定せられてゐる。なぜならば『マルクスの推究法に從へば、常に相交換さるゝ二商品の爲には必ず等量の勞働が含まれて居なければならぬと云ふ事になる。』然るに現實の社會に於いては、『諸商品は、マルクスに從へば、其價値通りには賣買されないで、或は其價値以上、或は其價値以下の生産價格で交換されるのであるから、我々の目前に現はれる現實の交換比率は、價値によらずして、生産價格によるのを常となすべきである。』そこで現實に交換さるゝ二商品を採り、其處から推究を進めると云ふことになれば、此二商品の生産に要する勞働量は同一であつてはならない筈であるに拘らず、マルクスはそれが等量の勞働を含むと云ふ不當な結論に到達してゐるのである。

此小泉氏の言分には確かに一理ある。價値法則を推究するためには、今日の經濟制度における一切の現實的關係から抽象すべきであり、且つマルクス學徒の論證する如く、價値法則の闡明を含む資本論第一卷の刊行當時すでにマルクスの頭の中には、生産價格の觀念が充分築き上げられてゐたものとすれば、右の如き方程式を利用するにしても、斯かる攻撃の餘地なからしむべき何等かの豫防線を張つて置かなければならなかつた筈である。此意味に於いて、少なくとも不用意の謗りは免れない。

然し之れがマルクス價値説の存立を左右する程に致命的な問題であるとは考へられない。一クォターの小麥がaハンドレッドウェートの鐵に等しいと云ふ上記の方程式は、必ずしも之れを『目前現實の事實』と解さねばならぬことはない。自由競爭が普及せず、生産機關が不動的であつた上述の如き比較的初期の状態における事實と解することも出來る。かゝる状態のもとに於いては、商品の交換は行はれても、生産價格は未だ成立せざるものと考へられるのであるから、右の方程式から出發して價値法則を推究すると云ふことに矛盾があるとは言へないのである。然しマルクスが實際さう解してゐたか何うかは分らない。たださう解する方がマルクス説のために好都合であり、又さう解することを不當とすべき何等の原因も存在して居らないから、さう解すると言ふ迄のことである。小泉氏の如く『目前現實の事實』と解することも、マルクス自身がさう明言してゐるのでない以上、結局マルクス説の矛盾を論證する上に好都合であるから勝手にさう解するといふ迄のことであらうと思はれる。要するに、何づれの意味に解するも自由であるから、勝ち負けはつかない。

マルクス説の最大弱點

マルクスの推究法を衝かうとするならば、小泉氏の右の提論よりも尚有力な反對論が持ち出せる。それは即ち、マルクス價値説の重要因子たる『社會的に必要なる勞働時間』といふ觀念についてゞある。

マルクスは第一卷冒頭の推究に依つて、一つの使用價値は『抽象的人間勞働が其中に體化され又は實體化されてゐるが故にのみ價値を有する』(高畠譯資本論(大鐙閣版)第一卷第一册九頁(改造社版第一卷九頁))抽象的意義に於ける人間勞働がその中に體象化され實體化されてゐるが故にのみ價値を有するのである)といふ結論に到達した。然るに是れに對して『一商品の價値が其生産中に支出された勞働の分量に依つて定まるとすれば人が怠惰であればある程、或は不熟練であればある程、それを造り上げる爲に、それだけ多くの時間を要するから、彼れの作る商品はそれだけ價値多いやうに見えるかも知れない』(同上)商品の價値がその生産の進行中に支出された勞働の量に依って決定されるとすれば、人が怠惰であり又は不熟練であればある程、商品を造り上げる爲にそれだけ多くの時間を要する譯であるから、彼れの造る商品はそれだけ價値多いやうに見えるかも知れぬ)との反對論が生ずべきを豫期して、マルクスは次の如き豫防線を張つた。『然しながら價値の實體を形成する勞働とは、同樣なる人間勞働、即ち同一なる人間勞働力の支出の謂である。……個人的勞働の各個は、それが社會的平均勞働力たる性質を有し、又斯くの如き社會的勞働力として作用し、隨つて一商品の生産に於いて單に平均的に必要なる、若しくは社會的に必要なる勞働時間のみを必要とする限り、いづれも皆同一なる人間勞働力である。そして其社會的に必要なる勞働時間とは、現在の社會的、標準的生産諸條件と、勞働の熟練及能率の社會的平均程度とを以つて、何等かの使用價値を生産するに要する勞働時間を指すのである』(同上一〇頁(改造社版九頁))然しながら、價値の實體を形成する勞働とは、等一なる人間勞働、換言すれば同一なる人間勞働力の支出を謂ふのである。……個別的勞働力の各個は、それが社會的の平均勞働力たる性質を有し、また斯くの如き社會的平均勞働力として作用し、隨つて一商品の生産上に、平均的或は社會的に必要なる勞働時間のみを要する限り、いづれも皆同一なる人間勞働力である。而してその社會的に必要なる勞働時間とは、現在に於ける社會的に標準を成す生産條件と、勞働の熟練及び能率の社會的平均程度とを以つて、何等かの使用價値を生産するに必要な勞働時間を指すのである)。

即ち商品の價値を決定する勞働量は、その生産上個別的に必要なる勞働量ではなく、社會的に必要なる勞働量でなくてはならぬ。マルクスは之れが例解として『英吉利に於いて蒸氣織機の採用された結果、一定量の絲を織物にするのに恐らく從來の勞働の半ばを以つて事足るやうになつたであらう。英吉利の手織工は、此同一の仕事に對して事實上從前通りの勞働時間を要したのであるが、彼れ自身の勞働一時間の生産物は、今や半時間の社會的勞働を表はすに過ぎなくなり、從つて從前の價値の半ばに低落したのである』(同上)イギリスに於いて蒸氣織機の採用された結果、一定量の絲を織物にするのに恐らく從來の勞働の半ばを以つて事足るやうになつたであらう。イギリスの手織工は、この同一の仕事に對して事實上從前通りの勞働時間を要したのであるが、彼れ自身の勞働一時間の生産物は、今や半時間の社會的勞働を表現するに過ぎなくなり、隨つて從前の價値の半ばに低落したのである)と言つてゐる。然しながら手織工の勞働一時間の生産物が斯く從前の價値の半ばに低落するといふことは、彼れが好んでさうする結果ではなく、彼れ自身は從前通りの價値を要求しても、新たに普及し來つた力織機に依る織物の方は半分の價値で賣り出されるのであるから、其競爭に堪へ得ず手織物の方も勢ひそれと同價値で販賣されねばならぬことになる結果である。即ち社會的に必要なる勞働量が價値を決定するといふことは、自由競爭を前提せずしては考へられないのである。

然るにマルクスの價値法則は、今日の社會における自由競爭の現實的關係から抽象した所に出發しなくてはならぬ。自由競爭の普及せる所に於いては、商品の交換は價値に依つて支配されず、價値とは一致せざる生産價格に依つて支配されることになる。隨つて生産價格ではなく寧ろ價値を直接推究せんとする場合には、何うしても自由競爭の普及せざる状態から出發せねばならぬ。所が其價値の成立に缺くべからざる『社會的に必要なる勞働時間』と云ふ觀念は、自由競爭を前提せずしては考へられないのであるから、マルクス説は茲に抜きさしならぬヂレンマに陷ることになる。マルクス學徒は之れを如何にして解決するか?小泉氏の提出せられた上記の交換比率に伴ふ反對論の方は、右の如くにして何うやら解決がつくとしても、此疑問は一體如何に處分したら宜しいであらうか?私よりも、もつと徹底したマルクス論者の教を仰ぎたいものである。

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