4 超國家的マルクス主義の矛盾

高畠素之

マルクスの論據

資本集中は『資本制生産その者の内在的法則』である。資本制度のもとに於いては、『一人の資本家は、常に多くの資本家を打ち殺す』。而して資本が斯く集中し、少數資本家に依る多數資本家の収奪が斯く増進するに從つて、生産の社會化と生産規模の擴大とは益々其歩を進める。けれども斯く社會化された生産の利益は社會全體の手に領有されないで、絶えず其數を減じつゝある『大資本家』の『横奪獨占』に歸してしまふ。それと共に又、無産勞働者の窮乏は益々著しくなり、資本制生産行程それ自身の機構に依つて訓練統合された勞働者の反抗が増進して來る。かくして『生産機關の集中と勞働の社會化』とは、其資本制的外殻と一致し難き點に到達し、資本制的外殻は破裂する。』

此破裂の結果は、即ち生産の社會化に一致した領有社會化の實現である。社會化された生産が少數大資本家の手に左右されてゐる間は、此生産の齎らす利益は少數個人の手に獨占されてゐるが、社會化された生産が更に一歩を進めて、社會それ自身、現實的に言へば國家それ自身の手に左右されるやうになつた時、茲に始めて私有は撤廢され、生産の社會化はそれに照應した領有の社會化を伴ふことになる。

以上は社會主義制度の實現に對するマルクスの論據を概述したものであるが、之れだけの範圍内では、マルクス社會主義の主張は我々の全部容認し得る所である。之れだけの範圍内では、社會主義制度の實體は要するに資本の國有及び産業の社會化を意味するものであつて、我々の國家社會主義と毫も異なる所はないからである。

資本集中と國家の存在

けれども以上の過程に依つて社會主義制度が實現される爲には、一面に於いて、マルクスの主張する如く、産業社會化の現實的傾向と資本主義に對する無産大衆の反抗とを要することは言ふ迄もないが、他の一面に於いて又、國家の存在、國家權力の確立を前提しなければならぬ。少數大資本家に代つて生産機關の所有竝に産業の管理を擔任すべき『社會』は、現實的には國家を措いて他に求められないからである。

この場合、プロレタリア國家とかブルヂォア國家とか言ふ區別はどうでもいい。プロレタリア國家と云つたところで、無から有が生ずる譯ではない。プロレタリアの覇權は疾風迅雷的に行はれ得るかも知れないが、プロレタリア國家と稱する『國家』の確立は、ブルヂォアの覇權以來、封建貴族の覇權以來、更に極言すれば地域的に限定された社會的支配關係その者の成立以來、連續的に蓄積された社會的の造詣である(別項『我々の國家觀』參照)

マルクス主義は超國家的

いづれにしても國家の存在を前提せずして、産業の社會化即ち社會主義の實現を考へることは出來ない。然るに一面に於いて斯く國家の存在を前提すべき社會主義制度の樹立を主張するマルクス主義は、他の一面に於いて國家の否定を意味すべきインターナショナリズムの夢に固執してゐる。インターナショナリズムの語義が、必ずしも國家の否定又は超越を意味するものでないことは我々も認める。けれども世界革命の急先鋒を以つて任ずる『純正』マルキシストの胸には、語義の如何に頓著なきインターナショナルの熱火が燃えてゐる。それは『萬國の勞働者團結せよ!』との、マルクスの神託に對する感涙的呼應である。マルクスの此神託には、團結したる勞働者の『世界』を以つて、ブルヂォアの『國家』に超越せしめんとする狂熱が表現されてゐる。マルクスのインターナショナルなるものは、要するにスーパーナショナル(超國家)の代用語に過ぎない。

マルクス主義の歴史的煩悶

資本制生産の科學的分析に依つて、産業國家主義の結論に到達したマルクスが、一面に於いて國家否定のインターナショナルに熱中したと云ふことは、我々から見れば水と油の矛盾的結合である。マルクス派社會主義の歴史的煩悶は茲に其端を發してゐる。由來マルクス思想には、現實的科學的の一面と、空想的狂熱的の一面とがあつて、此混和すべからざる二種のマルクスが絶えずマルクスの裡に紛爭してゐるとは、ゾルバルト其他の批評家によつて屡々繰返された所であるが(別項『社會革命と政治革命』參照)、マルクスの斯かる矛盾は、この場合、資本主義經濟制度の科學的分析に主發した産業國家主義の結論に對する、狂熱的感情の亢奮に出發した超國家的インターナショナリズムの抗爭となつて現はれる。

マルクスの心理には、此兩傾向が絶えず紛爭してゐた。と同時に又、それはマルクス社會主義における歴史的煩悶の誘因となつたものである。

ドイツ社會民主黨の成立は、結果に於いてラッサレに對するマルクスの降服、萬國主義マルクスに對する國家主義マルクスの勝利を意味するものであつた。勿論、社會民主黨の主張は、國家社會主義としては極めて軟弱不徹底のものであつた。それは産業社會化の終極的目標を直視することを忘れて、ひたすら改良主義の微温的享樂に飽滿し過ぎた。然し社會民主黨の擡頭を以つて、萬國主義に對する國家主義の勝利を示す一證左と見ることに無理はないと思ふ。

勿論、社會民主黨の時代となつても、インターナショナルは形式迄も放棄された譯ではない。然し保存されたのはインターナショナルの形骸のみであつて、魂は既に抜け去つてゐる。マルクスのインターナショナルは超國家的萬國主義であつたが、社會民主黨の所謂第二インターナショナルなるものは字義通りのインターナショナル、即ち國家の存在を前提し、國對國の友誼的接觸を代表するものに過ぎなかつた。それはナショナルの否定ではなく、ナショナルの餘り物に過ぎないのである。隨つて一朝國家國民の存亡が問題となるやうな場合に立つと、それは文字通りに雲散霧消してしまふ。世界戰爭の前に、インターナショナルへの感涙が何程の權威あつたか?世界戰爭の勃發は實に、マルクスのインターナショナリズムを名實ともに葬り去つたのである。

勞農共産主義の『第一インターナショナルに歸れ』は、此傾向に對する反動に外ならない。勞農共産主義の擡頭に依つて、マルクスの萬國主義は再び陰府の外へ引き上げられやうとしてゐる。然しながら勞農共産主義に引きづられてゐる限り、マルクスのインターナショナリズムは到底國家主義に對する終極的勝利を樂しむことは出來ない。なぜならば勞農共産主義はマルクス派社會主義の正系を以つて任ずるものであり、マルクス派社會主義の實現は經濟制度における國家主義の徹底に外ならないからである。

要するに、マルクス主義は社會主義の爲にインターナショナリズムを抛つて國家社會主義に徹底するか、然らずんばインターナショナリズムの快感に叩頭して、自由合意と分散的産業との牧歌的無政府主義に降服するかのほか、安心立命の境地に救ひ上げられる望みはないのである。

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