7 社會主義分類上の一考察

高畠素之

無政府主義とマルキシズムとの異同

社會主義は種々なる方面から分類する事が出來るが、いま其實現途上に於ける、最も重要なる學説的要素たる、國家觀の上から分析すると一切の社會主義は次の三派に區別し得るであらう。

(1)無政府主義
(2)マルクス主義
(3)國家社會主義

右の中、無政府主義は國家否定に終始してゐる。國家は階級的抑壓の機關たる以外に、何等の意義も目的もない。そこで無政府主義は端的に此抑壓機關たる國家を破壞して、自由結合の社會を建設しようとする。

國家が階級的抑壓の機關たる事を認める點に於いて、無政府主義とマルクス主義との間には何等の差異もない。ただ無政府主義に於いては、階級的抑壓それ自身が最も決定的な問題であつて、搾取的抑壓の如きは其一つの現はれに過ぎない。隨つて搾取的抑壓の廢絶は、當然階級的支配それ自身の廢絶の中に包含さるべきである。無政府主義に於いては、國家(隨つて又權力及び政府)の廢絶が先決的問題となるのである。

然るにマルクス主義に於いては、階級とは搾取關係の表現に過ぎず、一切の支配は階級的支配である。而して國家とは搾取階級が被搾取階級を其壓伏條件のもとに強抑せんがための一機關に過ぎない。そこでプロレタリアが生産機關を把握して、階級對立の事實が消滅するとき、國家も亦それにつれて自滅すると説くのである。

けれ共、國家を階級的抑壓の實體又は機關と見て、其絶滅を期する點は、無政府主義とマルクス主義との雙方に共通する所である。

無政府主義とマルクス主義との最も本質的な差異は、前者が端的に國家の破壞を要求するに反し、後者は國家消滅の目的を實現するために、プロレタリアが國家權力を掌握すべき段階の必然を強調する一點にある。マルキシズムは國家なき共産主義社會に到る必然の道程として、『プロレタリア國家』なる一段階を認める。

尚、このマルクス主義の中には、謂ゆる暴力行爲に依つて、國家權力を把握せんとする一派(共産主義)と、議會を通して同一の目的を達成せんとする一派(社會民主々義)とがあることを忘れてはならない。そこでヨリ嚴密に分類すると、社會主義は次の四派に歸する譯である。

(1)無政府主義
(2)共 産 主 義《マルクス主義》
(3)社會民主々義《マルクス主義》
(4)國家社會主義

國家社會主義の國家觀

我々の主張する國家社會主義も亦、國家の本質が自由の制限であると見る點に於いて、無政府主義と(隨つてマルクス主義とも)相共通する所がある。ただ無政府主義は『かるが故に國家を廢絶すべし』と説くのであるが、我々は『かるが故に國家の存立は必然である』と見る所に相違の起點がある。

元來、國家に限らず、人間が社會を形成し、共同生活を營むといふことが、既にそれだけ自由の制限を意味する。社會とは單なる個人集合體ではなく、外部的に規制された集合體である(シュタムラー)。而して此規制された集合體の中で、規模大にして且つ最も完全なる組織を有するものは國家である。

我々の現實的視野に横はる將來にわたつても、此意味に於いて國家以上に完全なる大社會の可能は考へられないのである。

國家は自由の制限であるといふことは、國家の本質は統制(支配)にあるといふ、我々の主張を消極的に言ひ現したものである。此本質は、マルクス主義の主張する如く、搾取に求めらるべきものではなく、寧ろ社會それ自身、換言すれば單なる個人集合體を社會たらしむる規制それ自身の中に求めらるべきである。

勿論、單にそれだけでは、まだ國家とはならない。それだけならば、社會即ち國家であるといふことになる。なぜならば、規制なき社會は考へ得られないからである。

然らば單なる社會が國家となる限界は、何處に求めらるべきか。國家は先づ一定の地域に結合された社會でなければならぬ。次に規制の機能が分化獨立して、それが一定の個人又は集團に依つて負擔されることを要する。この場合、社會的規制の發動は、かゝる個人又は集團の意志となつて現はれる。規制の機能が同一の個人又は集團を中心とする同係的集團に依つて反覆的に負擔されるとき(それは不可避的の發展系行である)こゝに始めて階級が成立する。(隨つて階級の成立も亦、規制機能の不可避的結論である)。

かくの如く、階級は搾取に依つて生ずるものではなく、寧ろ支配それ自身に原始的の根柢を置いてゐる。それは社會的機能分化の法則に依る必然の結果である。而して一つの地域結合社會の規制(支配)機能が特殊の階級に依つて負擔されるとき、こゝに始めて嚴密なる國家の成立を見るのである。

この本質的國家の成立後に、又は此支配關係を基礎として、搾取事實が出現する。搾取者は既成支配の機能及機關を利用して、搾取の維持と被搾取者の壓伏とに役立たせる。かくして統制は搾取と結合し、こゝに又特殊の國家形態が生じて來るのである。

これは我々の主張する國家社會主義の國家觀であるが、歴史的に國家社會主義と言はれてゐるものは(社會政策の一種を斯く言ふ場合は暫く措き)主として、ロドベルトス及ラッサレの思想に依つて代表される。彼等は國家を以つて階級對立の結果とは見ないで、寧ろ人類の自由と幸福との發展は國家に依つてのみ實現されると説く。從來の國家が支配階級に依つて利用されて來たことは、彼等も認める所である。併しそれは國家の濫用曲用であつて、生産機關の私有が撤廢されたとき、國家は初めて其倫理的本質を完全に發揮すると見るのである。

斯種の國家社會主義に比べると、我々の國家社會主義は、國家と支配(嚴密に言へば階級的支配)との不可分性を認める出發點に於いて、寧ろ無政府主義やマルキシズムに近い。然し又他方に、プロレタリアの政權把握が國家消滅の直接的前提とならずして、寧ろ國家本質の發揮に到らしめるといふ形式的見解に於いては、我々はラッサレ等の國家社會主義と一括されて、無政府主義及びマルクス主義と對立することになる。

ところで、このラッサレ流の國家社會主義をも加へて分類すると、社會主義は結局次の五派に區別される。

(1)無政府主義
(2)共 産 主 義《マルクス主義》
(3)社會民主々義《マルクス主義》
(4)倫理的國家社會主義(ラッサレ等)《國家社會主義》
(5)機能的國家社會主義(我   々)《國家社會主義》

『過渡』段階の經過が問題

以上は、國家觀的方法論の上から試みた社會主義の分類であるが、更らに又、實現すべき經濟制度(殊に生産制度)を標準として觀察すれば、社會主義は集中的公産主義(普通コレクチヴィズム又はソシァリズムと言はれてゐるもの)と、分散的公産主義(普通、コンミュニズムと言はれてゐるもの)とに大別される。集中的公産主義は生産機關の國家的集中を期するものであるから、國家及び國家權力の存在を前提せずしては、此經濟制度の成立を考へることは出來ない。これに對して、分散的公産主義は單位的自治體(コムミュニテイ)の手に生産機關を分散せしめんとするものであるから、權力集中體たる國家の存立を必要としない。

いま此經濟制度に依る分類を、さきに掲げた國家觀に依る分類と對照させて見るに、無政府主義を除く一切の社會主義が集中的公産主義に屬することは明かである。ただ此場合にも、マルクス主義は特殊の中間的地位を占めてゐる。マルクス主義に於いては、集中的公産主義は『プロレタリア國家』と表裏すべき經濟制度であつて、次に來たるべき無國家自由社會と表裏すべき純正共産主義(分散的公産主義)への第一段階たるに過ぎない。此意味に於て、マルクス主義は經濟制度の理想から見ても、無政府主義に屬すべきものと言ひ得るのである。

けれども又一方に、マルキシズムは『プロレタリア國家』と表裏すべき集中的公産主義段階の必然を認めるのであるから、此方面に於いては寧ろ國家社會主義に屬すべきものと見られる。

マルクス主義は斯く國家論に於いても、經濟制度觀に於いても、國家社會主義と無政府主義との中間を彷徨してゐるのであるが、此行き方は『道は中庸に在り』といふ折衷享樂感を滿足させるには頗る都合のいゝものであるが、第一に學説としてはマルクス主義の眞髓たる搾取國家觀と衝突し(國家を搾取維持の機關なるとするマルクス主義は、搾取消滅後におけるプロレタリア國家の本質を何處に求めんとするか?)第二に實際問題としては『過渡的』段階の切り上げに於いて蹉跌する。『プロレタリア國家』や集中的公産制度をば、純正共産主義への過渡的段階と見るのはいゝとしても、然らば此段階は如何なる潮時に切り上げられることゝなるのであるか。ボリシェヰーキの覇權以來すでに七年を經過したが、その間一向に切り上げの方向へ近づいた樣子も見えないのみか、施設に於いても、他の事態に於いても、寧ろ益々其標的に遠ざかつて行くやうに見える。七年が七十年、七十年が七百年と延びて行くうちに、地球が冷却してしまふであらう。

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