8 無政府主義の空幻

高畠素之

無政府主義の成立條件

無政府主義の社會制度を維持するには、少なくとも、左の二條件中のいづれか一方が必要である。即ち(一)社會の生産力が殆んど無限に發達するか、然らずんば(二)人間の道徳心(愛他心)が非常に發達するかである。今日の儘の人間を假定しても、社會の生産力が無限に發達して富が無盡藏となれば、無政府主義者の主張する如く強制なき自由社會の下に、各人が必要に應じて隨意の分配を受けると云ふ無政府主義社會の實現は、決して不可能でもなく、また危險なことでもない。

然し社會の富力に制限ある場合には、之れは許されない。勿論、此場合でも人間の愛他心が極めて發達し、何人も先づ他人の利益を幸福とを考へると云ふ風であるならば、面倒はない。反對に若し、富の増殖は思つた程に捗らず、而も人間は不相變の我利々々亡者だと云ふことであれば、社會は忽ちにして弱肉強食の修羅場と化し、其慘状は到底今日の比ではあるまい。

クロポトキンの狙ひ所

クロポトキンは此點をよく呑み込んでゐた。そこで彼れは二つの方面に向つて其學説上の努力を傾倒した。一は相互扶助なる主張に學問的根據を與へること、他は産業集約論(生産力増進論)の提唱である。これらの兩方面に於ける彼れの代表的著述は即ち『相互扶助論』と『田園工場及び作業場』とである。而して彼れの名著『パンの略取』は此兩根據の總合に依つて、徒勞にも無政府主義の革命的戰鬪哲學を捏ね上げやうとしたものと見られる。

急進は無政府を否定す

生産力の限りなき増進といふ事も、愛他心の完全なる發達といふ事も、若し其道中の期間を極めて長く計算するならば、必ずしも考へ得られぬことではない。然しながら現制度の瓦解を、至つて近き將來に期待せねば滿足できぬやうな性急者からいふと、斯樣な事は殆んど問題にならない。たとひ人間は今日の儘の我利々々亡者であつても、又社會の富力は一時的になりとも今日以下に低減する恐れがあつても、尚且つ維持し得るやうな社會制度でなければ實現的の理想にはならない。而して斯樣な制度は、鞏固なる權力の確立と、産業集中の現實的傾向との合成たる集産主義(國家社會主義)を措いては、求められないのである。

國家社會主義を鵺的だなどゝ抜かす連中は、現實に於ける如上の皮肉を理解せざる無類の低能漢である。悠長なる漸進的改良論者は無政府主義に走れ。我々は性急なるが故に國家社會主義者なのである。急進は無政府主義を否定する。

inserted by FC2 system