1 大衆の心理

高畠素之

非國家的社會主義者の口吻

大衆とは國民の大多數を包含する階級の總稱である。國氏の大多數は貧乏人である。無産者である。隨つて大衆とは貧乏人階級、無産者階級を意味することになる。同一の對象を經濟上の本質から見れば無産階級となり、國民の大多數といふ數量上の立場から見れば大衆と名づけられる。而して此國民の大多數者たる無産階級即ち大衆の心理には、共通の特徴が流れてゐる。茲に其一端を示して我々の主張の論據を強めたいと思ふ。

非國家的社會主義者(無政府主義者、共産主義者)に依れば大衆は愛國心を持たない。忠君とか愛國とかいふことは、總て少數權力階級者の寢言であつて、そんなものは大多數者たる無産階級にとつては穿き捨ての草鞋ほどの値打もない。國家が腐らうと、愛國心がフヤケやうと、そんなことは大衆にとつては何うでもいい問題だ。何うでもいいどころか、早くさうなつて欲しいのである。無産者に國家なし。國家はたゞ、少數權力者が大衆を搾取し壓迫する爲に利用する所の道具に過ぎない。隨つて大衆から見れば、權力者が敵である如く國家も亦憎むべき敵である。國家といふ概念は、たゞ憎惡の對象としてのみ、大衆の心裡に殘留してゐる。國家が愛著の對象となるは、少數權力者についてのみ言ひ得ることである。愛國心はブルヂォアの專有である。非國家的社會主義者は常に斯う主張してゐる。此主張は果して事實に則つたものと云ひ得るであらうか。

上流者に愛國心なし

先づ少數權力者たる貴族や富豪や政治家について見る。彼等の胸底に存するものは、所謂貪慾と權勢慾とのみである。勿論彼等は絶えず國家を口にしてゐる。けれども彼等が心に思ふ所のものは、常に其正反對である。彼等はたゞ利慾と權勢の爲にのみ動いてゐるのであつて、彼等が口にする所の國家とか愛國とか云ふことは、其單なる道具に過ぎない。之れは彼等の所行を見れば、直ちに解ることである。戰爭が始まる、國家存亡の危機が迫つてゐると云ふのに、其機に乘じて如何にして金儲けをしようかと腐心するのは誰であるか。震災が襲來した。警察力が足りないと云ふので、頼むやうにして大衆の力を借りて置きながら、たまたま何處からか出た流言蜚語に惑はされた國民があると、後になつて遠慮會釋もなく之れを監獄にブチ込んでケロリとしてゐるのは誰であるか。無知なる暴漢を雇つて議會に亂入させながら、議會政治の『神聖』を口實にして政府を乘取らうとたくらんであるのは誰であるか。要するに、貴族や富豪や政治家の胸底を流れてゐる起動心理は私利私慾であつて、忠君愛國の念慮は、彼等の精神の中に微塵も保存されてゐないのである。

無産大衆の至情

これに反して、大衆の胸底には愛國の至情が燃えてゐる。それは平時事なき際には、きわ立つて表面に現はれないけれども、一旦非常の場合に立つと突嗟の間に彼等の全心理を支配する。彼等にとつて、忠君愛國の至情は一種の本能になつてゐるといふも過言ではない。震災當時における大衆心理の展開を見よ。すべては自發的であつた。誰に強要されたものでもない。大衆は一齊に自ら武器を採つて立つたのである。不逞漢が襲來すると聽いたとき、貴族や富豪は蒼惶として其宮殿の如き邸宅の片隅に隱れ竦んだが、無産の大衆は一齊に武器を採つて巷に出たのである。之れが若し敵軍の襲來であつたならば、彼等は恐らく最後の一人になる迄も、祖國のために奮戰したであらう。

非國家的社會主義者は愛國の殘滓を權力階級のみの專有に歸して、國家の破壞を含む革命の推進力はひとり大衆の心理にのみ求められると主張してゐる。けれども事實はそれと全く反對である。權力階級なるものは、國民として既に墮落のドン底に沈んだ。純眞なる愛國心は、たゞ大衆の胸底にのみ固く把持されてゐるのである。此意味に於いて、我々は國家主義の立場から大衆を唯一の味方とする。非國家的社會主義者も亦、大衆に根城を求めてゐる。然しながら彼等は、大衆に依つて國家を破壞しようとするのである。それは徒勞に終ることは必定である。彼等は大衆の心理を理解して居らないからである。彼等の主張する如き國家破壞の傾向は、寧ろ權力者たる貴族、富豪、政治家等の心理に求められる。大衆は純眞なる愛國心の所有者である。

無産大衆の叛逆心

けれども大衆の心理には、いま一つ異つた社會的傾向が働いてゐる。彼等は事苟くも皇室國家に關する方面に於いては、極端の固定心理を把持してゐるが、それ以外、殊に經濟上の問題になると、激烈なる破壞者たるべき心理的傾向を多分に包有してゐる。敵軍の襲來や、不逞漢の横行に對して向けられた彼等の武器が、同時に又貪婪なる富豪の邸宅や、苛斂誅求を事とする政治家の身邊に轉向されると云ふ可能は確かにある。震災當時に於いても、斯種の傾向は或程度まで現はれてゐた。少なくとも富豪資本家を面白く思はない感情は絶えず大衆の胸底に流れてゐるのである。之れは彼等の愛國心から派生するものではなく、寧ろそれと相竝んで存在してゐるものと考へられる。彼等は貧乏人である。日々營々として過度の勞働に追はれてゐる。而もそれに依つて得る所のものは、貧弱なる非人間的生活の維持に過ぎない。斯くの如き境遇に置かれてゐる彼等が、爲すこともなく贅澤三昧に暮してゐる貴族富豪を見るとき、これに對して強烈なる嫉視反感を抱くやうになるのは當然の歸趨と云はねばならぬ。彼等の破壞心理は、寧ろ斯くの如き嫉視反感に起因するものと言ふことが出來る。

大衆の心理と國家社會主義

要するに、我が大衆は愛國心に於いては固定的であり、無産者たる經濟上の階級としては強烈なる破壞心理を展開し得べき傾向を有してゐる。勿論、此二つの心理は一定の主義主張となる程に理知化されてはゐない。それは一種の本能として作用してゐるに過ぎないのである。然しながら、此本能的心理が一度び理知の力に依つて組織立てられたとき、其處に一定の主義が成立して來る。其主義主張は如何なるものであらうか。我々はそれが、一面に於いては國家主義となり、他面に於いては社會主義となるべき運命に置かれてゐることを信じて疑はないものである。即ち大衆の心理は、當然國家社會主義に到達しなければ止まない。かくて我々の主張は、必然の心理的紐帶に依つて、大衆の運動と結合されてゐることになるのである。

これに反して、非國家的社會主義者の大衆運動論なるものは、大衆の實力に對する單なる秋波の表現に過ぎない。彼等笛吹けども大衆は踊らず。彼等は永久に大衆から見放されてゐるのである。

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