2 國家社會主義の立場

高畠素之

社會主義と國家主義は一心同體

我々の間に、何か新らしい仕事なり運動なりを起さうといふ氣運が漲つてゐることは事實である。然しそれをどんな形でどんな規模を以つて始めるかといふ事は、まだ充分話が纏まつた譯ではない。況んやまだ火蓋を切る所までは進んで居らぬ。隨つて此方面のことについては、何も語る譯にはゆかぬ。然し如何なる形で、如何なる人と、如何なる規模のもとに仕事を始めるにしても、私一個としては從來の國家主義的立場から右にも左にも動かうとするものでない事だけは斷言できる。又斷言して置く必要がある。

私は國家主義者である。私は國家主義者なるが故に社會主義者である。私は又社會主義者である。私は社會主義者なるが故に國家主義者である。赤化防止團といふ國家主義の一派は、國家主義者と社會主義者とを咬み合せて兩主義の黒白を決しようとしたさうである。が、私から見れば、社會主義と國家主義とを斯く對立させることが既に驚くべき時代錯誤である。赤化防止團一派にして若し眞に國家を憂ふるものであるならば、彼等は必ずや社會主義の實質を承認せねばならぬ。然らざる限り、彼等は口に國家を言ひ、心に國家を憂ふるとも、事實に於いては國家破壞の逆徒たる結果を免れることは出來ないのである。何故であるか。

資本主義の非國民性

資本主義といふ制度は、國家共同の一體たるべき國民を二分して、一方には生産機關を獨占する少數資本家の階級と、他方には一切の生産機關を剥奪された多數無資産者の階級とを明確に對立せしめる。此對立は資本主義の結果であり、且つ前提である。資本主義にとつては、多數の國民は『人格』であつてはならぬ。生産機關の所有者たる少數の『人格』者が依つて餘剩價値を搾取すべき商品の代表でなければならぬ。これは議論ではない。事實である。何人も否認することの出來ぬ事實である。疑ふ者は多數無産者が如何にして生活して居るかを見よ。彼等は其有する唯一の商品たる勞働力を販賣することに依つてのみ、微かに生きることを許されてゐるではないか。多數國民が若し其勞働力を販賣する以外の方法に依つて生活し得るに至るとすれば、資本主義の前提は忽ちにして倒れるのである。

資本主義のもとに於いては、資本家は強者である。隨つて資本主義のもとに於ける、又は資本主義と相竝んで存在する一切の制度、一切の機關は、資本家に依つて利用せられ得るのである。國家も亦資本家のために利用せられ得る。資本主義は國家の名に依つて、多數國民の人格否定を支持し助長しようとする。かくして現實に目覺めた多數の國民は、資本主義を敵視すると同時に國家をも敵視するやうになる。資本主義の倒れる時は、國家の倒れる時だと信ぜられるやうになる。

資本主義は國家の存立條件たる一切の國土、一切の富力、一切の文化を國家の手から資本家といふ一部少數者の手に移轉せしめる。國家は資本主義のために一切の實質を吸収されやうとしてゐる。資本主義が即ち國家であるかの如く見えて來た。多數國民は勞働力以外には何物も有して居らぬ。國家も亦資本主義の手に奪はれた。多數無産者は愛すべき國家の殆んど一片をも有して居らないではないか。

社會主義の使命

社會主義は斯かる非國家的状勢を一轉して、國家を國民全體の手に返還せしめんとするものである。國家を一部少數者の國家ではなく、國民全體の國家たらしめんとするものである。社會主義は資本の私有を撤廢して、土地その他一切の生産機關をば國家の手に返還せしめ、國家の手に依つて産業の管理を行はしめんとするものである。社會主義のもとに始めて國民は共同の一體となり、國家の國民全體を包含する共同の權力體となり得るのであつて、かくの如き社會主義に反對して資本主義の擁護に努めんとする者は、如何に國家を口にし、國家を心にするとも、事實に於いては國家破滅の助長者たる誹りを免れないであらう。

所謂主義者の罪

尤も國家主義者が社會主義を敵視し憎惡することは、必ずしも國家主義者のみが惡いといふ譯ではない。社會主義者にも責任の一半はある。社會主義者は資本主義に向けるべき鋒鋩を國家の上にも向けてゐる。甚だしきになると國家を先づ否定して、資本主義の否定をもそれに含ませようとする者(無政府主義者)がある。かゝる状態のもとに、國家主義が一切の社會主義思想及運動を敵視し撲滅せんとするに至ることは、寔に已むを得ざる歸結と云はねばならぬ。

問題は社會主義者が國家を否定することの可否である。純理論は暫く措く。社會主義者の看破せる産業集中の傾向は、結局何處に趨歸することになるのであるか。社會主義者は、少數資本家の手に集中した産業が進んで國家の手に集中することを豫想するものではないか。資本主義制度のもとに釀成された生産の社會化は、一切の産業が國家の手に集中することを豫想する時に、始めて領有の社會化を兩立し得るのであつて、かくの如き歸結に到達すべき趨向を現制度の中に看取したことが、實に近世社會主義の『科學的』たる所以ではないか。

然るに産業の國家化といふことは、既に國家の存立を豫想してゐる。豫め存在せざる國家の手に産業を集中せしめるといふ理窟は成り立たない。かくて一方に國家を否定しつゝ、他方に産業の國家化を主張するといふ謂ゆる主義者の態度は矛盾を意味することになる。産業國家化の後に與へらるべき國家の運命如何といふ問題は純理の範圍に屬する。少なくとも現實の範圍内に於いて國家を否定して掛かる社會主義は、空想的と見るの外はないのである。社會主義としては國家の立場を強調すればする程、その議論はますます現實的となり、科學的となり、おまけに實力の優つた愛國者たちの物理力に戰慄する必要もないのである。社會主義者は何を好んで非國家的の口吻を弄するのであるか。

要するに我々は國家主義者としては、國家主義者なるが故に社會主義者であり、社會主義者としては、社會主義者なるが故に國家主義者であつて、將來どんな形で新らしい運動を起すにしても此立場だけは變へたくない。たゞ此主張を實現する上に如何なる運動方策を採るかと云ふ事は、周圍の事情にも依ることで一概には定められない。官憲の出かたにも依ることである。官憲が若し我々の運動をも危險視して、かの主義者たちの運動と糞味噌に扱ふならば、我々の運動は勢ひ陰性を帶びて來ることになるであらう。また若し官憲に幾分でも物を見る明があつて、我々の運動が公然の道を辿ることが許されるとすれば、議會で獨裁を行ふぐらゐの所まで行かなくては嘘である。更に一端の舊國家主義者と、他端の謂ゆる主義者とが、我々の運動に對して如何なる態度に出るかといふ事も將來の運動方策に影響する所があるであらう。我々は彼等に對しては、彼等の採る儘の方策を以つて應酬するの外はないと考へてゐる。文章もよし、言論もよし、物理力も亦辭する所ではない。

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