3 我々の國家觀

高畠素之

某社會主義者の抗議

『唯物史觀の公式で一切の論爭を結ばんとする模造マルキスト』の『淺見無知』を笑ふと號する某社會主義者から、君等は國家國家といふが國家とは一體何か、其概念を決定しないで徒らに國家を擔ぐのは、『おミコシを擔いで京の町を荒した比エイ山の坊主と暴を等しう』するものだといふ抗議が來た。さういふ議論に興味を感ずるものは、あながち此某社會主義者ばかりでもあるまいと思はれるから、茲に一應僕等の立場を明かにして置く。

某社會主義者は言ふ。――『そもそも國家の概念が山川草木乃至人種的或は地域的結合の意味であるとすれば、誰だつて愛國心を抱かぬ者はない。此意味の國家に對して反逆を宣言した社會主義者は未だ嘗てない筈だ。是れに反して若し國家なるものを、一定の地域社會に於ける歴史的支配關係及び其支配機關の意味に解するならば、かゝる國家に對して非愛國者となるもの、たゞに共産主義者だけではなく、時代に叛き強權に抗する者は皆それだ』。

――『今は昔、徳川將軍の世に天下といふ調寶な語があつた。天下の政道、天下のお爲め、將軍や大名や其飼犬共に依つて、天下の語は豐年の芋の如く安賣りせられた。而も一體天下とは何ぞや。所謂天下の概念は何人も決定しようとしなかつた。それも其筈、天下とは實は幕府自身を指したものであつた。』今日謂ふ所の『國家』の正體も恐らくそれであらう。

要するに、封建制度といふ經濟組織の上に封建的支配の天下があつた如く、資本主義といふ經濟組織の上に資本主義的支配の『國家』があるので、資本主義に反對する我々社會主義者は、かゝる意味の『國家』をも同樣に破壞しなければならないと云ふのが、此社會主義者の立場であるらしい。

國家の本質

勿論、國家の概念を斯く夫々の歴史的經濟制度に伴ふ支配關係の特殊的形態の意味に解するとすれば、蜷川博士の主張する如く資本主義に反對する者は、同時に又國家の反逆者たるべしといふ結論に達し得られない事はない。然し斯かる意味の國家は、實は國家その者でなくて、國家の個別的な特殊形態に過ぎないものだらう。封建國家とか資本主義國家とか言ふが、封建制度のもとにおける國家と、資本主義制度のもとにおける國家とは、本質的に異つたものではなく、寧ろ同一の本體が異つた經濟制度のもとに採る異つた形態に過ぎないのである。

若し斯く解せずして、夫々の經濟制度に伴ふ支配關係が即ち國家その者だと云ふならば、此社會主義者は何の爲に唯物史觀の『淺見無知』を笑つたのか分らなくなる。それこそ正に、此社會主義者自身の侮蔑する唯物史觀公式の模造ではないか。

此社會主義者は、一つの地域社會における自然的條件と、一つの地域社會における歴史的支配關係との二定義にのみ跼蹐してゐるやうだが、我々の謂ふ國家とは其いづれにも屬しない。國家が單なる『自然的』の條件でないことは言ふ迄もないが、さりとて又單なる『歴史的』の關係でもない。それは寧ろ、一つの地域社會における支配關係それ自體なのだ。それ自體としての支配關係は、單なる歴史的のものではなく、寧ろ社會的又は社會學的の關係である。

國家發生の過程

けだし社會が存立する以上は必ず其處に秩序又は統制上の機能が存在する。此機能は他の社會的諸機能と協働することに依つて、社會的生命の進行を助長するものである。けれども此目的の爲には、件の統制機能が便宜上他の諸機能から分化し獨立することを必要とするやうになる。かやうに分化自立した統制機能は、一定の個人又は個々人に依つて擔任される。此機能擔任者に依つて統制された社會が、即ち國家の萌芽である。

けれども之れだけでは、まだ國家とはならない。之れだけの事ならば、如何なる種類、如何なる規模の社會にも行はれ得る所である。分業的の機能擔任者に依つて統制された社會が國家となるには、地域上の限定のほかに尚其統制が權力に依つて支持されることを要する。これは習慣と便宜との結果である。習慣の方面から云ふと、最初統制上の機能を擔任した者は、統制上に特殊の能力を有するものであつたが、其位置が久しく反覆されてゐる中に、能力は消えても機能は分離し自立するやうになる。この場合、統制者が尚能力あるものと信じられてゐる中は無難であるが、それが一般に疑はれ出すと、茲に始めて權力の支持を要するやうになる。又便宜の方面からいふと、社會成員の異質分化が進み、社會の規模が擴大されるにつれて、統制の效力を徹底させる爲に勢ひ權力に依る推進が必要になつて來る。此二つの作用に依つて、單なる分業的に統制された社會が權力的に統制された社會となつて來るので、茲に始めて國家が成立するのである。

國家の本質は搾取に先行す

以上の過程は、經濟上の階級分立を前提しない。國家の成立は、統制機能の分化に第一の根底を置く。而して此機能分化は、元來社會全體の利益の爲に行はれたものである。然るに階級的搾取の事實が生ずるとともに、搾取者たる階級は此社會全體の利益の爲に生じた既成の分業的機能をば、自階級の爲に利用するやうになる。かくして搾取といふ新要素が、國家の中に割り込んで來る。そこで搾取の行はれる社會の範圍内では、搾取は國家の本質的要素と見え、更らに封建的搾取とか資本主義的搾取とかいふ一定の搾取形態のもとに於いては、かゝる特定の搾取形態が即ち國家の本質的要素と見えて來るけれども、國家の成立は一定形態の搾取は固より、搾取その者の出現にさへ先行するものであつて、搾取階級はたゞ此與へられたる國家の本質を利用したに過ぎないのである。

かく解する時、非國家的社會主義者が『資本主義國家』の攻撃にかくれて國家その者をも否定し去らんとするは許し難い事である。國家の資本主義的形態が惡いと云ふなら資本主義を攻撃すればいい。又資本家が國家機關を利用するのが癪だと云ふなら、利用する資本家を攻めればいいのである。

又、階級的搾取の根絶された社會に於いても、人類が神と化して統制を要せざるに至るか、それとも社會が同質結合の太初的状態に逆轉せざる限り、國家それ自體、國家の本質それ自體は、決して消滅するものではない。搾取の根絶されたとき、『人に對する統制は、物に對する統制に化する』といふマルクス主義の命題は、苦しい詭辯である。人の統制に依らざる(又はそれを伴はざる)物の統制などと云ふことは、多少でも現實に即する人には到底考へられる所ではあるまい。

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