5 消費者本位の大衆運動

高畠素之

勞働組合運動の缺點

勞働階級は唯一の生産者であるから、階級鬪爭としての勞働運動は生産者本位の運動、換言すれば勞働組合運動でなければならないといふ主張は、多くの社會主義者や勞働運動者に共通する所である。これに對して、たまたま國民本位、消費者本位の主張を提唱する者があつても、それは大抵、勞働運動にケチをつけんとする資本家的貪婪か、さもなければ勞働階級以外の政治家や反動主義者の中間的公平に基くものであつて、斯かる主張に勞働者が耳を傾けやうとしないのは至極尤もな事である。

それにも拘らず我々は此所に純勞働階級の見地に立つて消費者本位の運動を提唱して見たいのである。消費者本位といふ言葉が同一であるからと云つて、我々の主張までも資本家的貪婪や中間的公平に一括されては至極迷惑である。

勞働階級の本質的特徴が、消費者たる點でなく生産者たる點に存することは言ふ迄もない。然しながら、此事からして直ちに、勞働階級の階級運動は生産者本位たらざるべからずとの結論を、抽象的にでなく實現的に引き出すことは困難である。生産者としての勞働階級をば事實に於いて生産者それ自體として結合し得る見込が立つならば、斯かる主張は固より結構である。然るに勞働組合なるものは事實上生産者としての生産者の組合ではなく、同じ職業或は精々同じ産業に携はる生産者としての勞働者の組合である。

生産者にして既に斯くの如く、生産者それ自體として、生産階級その者として結合されず、職業なり産業なりを通じて結合される以上、消費者としての勞働階級と生産者としての勞働階級との利害は容易に一致するものではない。

矛盾の一例

早い話が、電車の從業員組合が賃銀増額を要求して罷業した場合、當局が其要求を容れると同時に、一方に於いて夫れを償ふべく電車賃を値上げしたとすれば、一般市民殊に市民中の大多數者たるプロレタリアは、電車從業員の利益のために斯かる負擔の犠牲とならねばならぬ。それのみではなく、罷工中にも一般プロレタリアはいろいろな不利益を受ける。私は過般の電車罷業の際、早曉割引で仕事に通ふ人足連が停留場に集つて車掌運轉手等の『不埒』を口汚く罵つてゐる光景を目撃して、なるほど之れでは『市民の敵』も無理からぬ次第だと感じた。朝早く割引で千住から品川へ通はねばならぬ勞働者にとつて、罷業が如何ばかり憎々しく感ぜられるかは我々の充分想像し得る所である。斯種の矛盾は最近行はれた大阪市電從業者罷工に於いても著しく認められた所であらうと信ずる。

要するに生産者としての勞働運動は、生産者それ自體としての運動でない限り生産者とは云ふものゝ實は職業運動或は精々産業運動であつて、純眞の意味に於ける階級鬪爭とは云へぬ。黨中黨を立て、階級中階級を立つるものである。階級總合ではなく階級分割である。我々が勞働組合主義に滿足しない所以は主として此所にある。

無産者としての勞働者

然らば、勞働者を階級それ自體として結合せしむるには如何にすれば宜しいか。我々は消費者本位の運動以外に血路はないと信ずる。勿論消費する者は、勞働階級のみではない。資本家も消費する。地主も、坊主も、總理大臣も、女郎も、藝者も、猫も、杓子もみな消費する。隨つて消費者たることは、勞働階級に特殊の性質ではない。

所が茲に問題となることは消費するには金が要る。誰れも消費するが、然し誰れもが錢を持つてゐるとは限らぬ。而して勞働階級の最も著しい特徴は無産者、無資力者、無錢者たる點に存する。換言すれば、勞働階級は一の消費階級ではあるが、實は消費不能階級だと云ふことになる。勞働階級を斯く消費不能的消費者として見る時、茲に始めて其階級的利害は直接總合的に一致するを得るのである。我々が電車從業員の罷業騷ぎよりも、電車賃値上に反對して立つ市民の大衆運動にヨリ有效なる階級鬪爭の發露を眺むるは之れが爲である。

勞働組合は組合員の勞働條件改善を購ふ營業的運動としては頗る有效なものゝ如く見えるが(之れとて、事實に於いては左程有效なるものではない。なぜならば、資本家は勞働條件の改善を物價の釣上げに依つて埋合せ得るので、一組合の獲得せる條件改善は其組合以外の一般プロレタリアにとつては夫れだけ負擔となり、他の組合が同じ事をすれば、前の組合も亦同樣の負擔を課される。かくて勞働條件の改善といふ事は、結局プロレタリアの自己搾取に終る恐れがあるから)プロレタリアのヨリ遠大なる歴史的使命を全うすべき階級運動としては、大して有效なるものとは考へられない。

inserted by FC2 system