7 暴力論

高畠素之

暴力の流行

此頃は暴力團と云ふものがアチコチにでき、切つたろ突いたりの血塗れ沙汰が大ぶん流行し出したやうで、識者と稱する人々は、いづれも眉をひそめてゐるとの事であるが、中には『何と云つても、結局は暴力が定めるのさ』などと高をくゝつてゐる者もある。さうかと思ふと又フェビアン協會の諸君の如く、知識を以つて暴力に對抗させやうとする一派も出て來た。兎にかく、暴力の流行が近來の一現象であることは事實である。そこで暴力論を試みる。

暴力の二要素

暴力とは何であるか。其第一の要素は、自己の意志又は慾望を他人に強制すると云ふ事である。此命題の中には、他人の意志又は慾望を抑壓すると云ふ消極的の意味も含まれてゐる。いづれにしても強制と云ふ事が暴力の本質的一要素を成してゐることは爭はれない。

然し之れだけでは、まだ暴力を構成するには至らない。強制が如何なる手段に依つて行はれるかと云ふ事が問題である。代議政治は多數決主義である。多數決とは、『數』の力に依つて、他方の意志を抑へ、一方の意志を行ふ事である。これも強制には違ひない。然しそれを暴力の發動と云ふ者はない。又勞働者がストライキを行つて、賃銀の値上げを迫ると云ふ場合にも、單にそれだけではまだ暴力を構成するものではない。それが暴力となるには、嚴密の意味における物理力の行使が必要である。『數』や『群集』も一種の物理力と見られない事はないが、それは第一義的のものではない。茲には腕力や武力の如き第一義的の物理力を指すのである。此等の物理力を手段として、自己の意志を強行するときに、茲に始めて強制が暴力となつて現はれるのである。

暴力の本質的要素と云へば、先づ此んなものである。ほかにも本質的に非ざる要素は幾個かあらう。例へば、上記の如き物理力が組織された力であるか何うかと云ふ事や、又は此物理力の行使が合法的であるか何うかと云ふ樣な事も、暴力構成の限界決定に影響して來る。例へば國家には武力がある。警察力がある。國家は此等の物理力に依つて法律を強行する。隨つて暴力が強制と物理力とを本質的要素とする限りに於いては、國家も亦暴力の體化と見るの外はない。然し此等の物理力には組織があると云ふ事や、其行使が合法的であると云ふ樣な事を加へて、それだから國家は暴力體ではないと主張する人があるかも知れない。然しそんな事を言ひ出すと限りがないから、茲では先づ上記の二要素だけに限つて置く。

強制と鬪爭

さて此二要素を本質とする所の暴力を、我々は如何に評價するか。世には、強制その事が罪惡だなどと説く者がある。トルストイアン、無政府主義者、イエスの友、無我の愛等、等、等のキャテゴリーがそれである。此種の人々は、どだい世の中を鬪爭の巷と見て居らないのだから論にならない。人間は生物である。一切の生物的現象は鬪爭の結果である。鬪爭には色々の形がある。牙と爪の鬪爭もある。機關銃と毒瓦斯の鬪爭もある。團體と團體との鬪爭もある。然し形は如何に異つても、鬪爭たる點に於いてはいづれも一致してゐる。而して鬪爭と云ふからには勝ち負が問題であつて、勝つたものは必然に自己の欲望なり意志なりを強行することになる。強制は鬪爭の必然的結果である。強制が善いの惡いのと云つた所で、鬪爭が進化の原因である以上は仕方があるまい。

暴力と知識

然らば、物理力を強制の手段とすることは何うか。それは要するに、效力の問題である。強制の目的を達する上にヨリ有效でありさへすれば何でもいいのだ。ヨリ有效ではあるが、法律に引ッ掛ると云ふのでは矢ッ張り有效とは云へなくなり得るから、其處は考へなければならない。其處まで考慮に入れての話なら、何でも有效なのがいい。物理力の行使がヨリ有效だと云ふなら、それも結構である。隨つて暴力が善いか惡いかと云ふことは、一概には定められない。善い場合もあれば惡い場合もある。

然し茲に一つ考へなければならないことは、知識の力である。鬪爭の手段、強制の手段として見るとき、物理力の行使は多くの場合知識の力に及ばない。知識は物理力の行使を逆用する力を有つてゐる。ヨリ優秀な物理力を發明し應用する力を有つてゐる。柔道六段も鐵砲には叶ふまい。栃木山も機關銃には三舎を避けるであらう。潛航艇、弩級艦、飛行船、飛行機と、知識の産物は限りなく續いてゆく。

此意味に於いて、暴力よりも知識であると斷定せざるを得ない。然しそれは暴力が惡魔で、知識が神樣だと云ふのではない。知識は暴力をも抱擁し得る。暴力を抱擁し得ない知識は空の空なるものである。栃木山よりも知識がエライと云ふのは、栃木山をして三舎を避けしめる機關銃や毒瓦斯が知識に依つて生み出され得るからである。此意味に於いて、知識は優秀なる暴力であるとも云ひ得る。ヴヰルヘルム・リープクネヒトの言つたやうに、『知識は暴力である』(ウヰッセン、イスト、ゲヴァルト)と同時に又暴力たり得ざるやうな知識は觀念上の手淫に過ぎないものだ。

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