7 今日の無産黨は皆いけない

高畠素之

無産政黨の超國家主義

今日の無産政黨は皆いけない。それは、その思想的基調がいづれも非國家主義、非國民主義だからだ。勿論、同じ非國家主義、非國民主義といふ中にも、或るものは急進的、或るものは漸進的といふが如き相違はある。然し、いづれも非國家非國民的のインターナショナリズムを信ずる點に於いては共通である。インターナショナルの中には第二インタの如き微温漸進的なものもあれば、第三インタの如き過激急進的なものもあるが、いづれにもせよ、『萬國の勞働者團結せよ』といふことが、その基調となつてゐる。これは明かに超國家主義の危險思想である。この一點に於いて、漸進派も急進派も變りはない。

現に年々五月一日に催されるメーデーの如きは、この共通スローガンの下に一齊にデモンストレーションを行つてゐる。萬國の勞働者または無産者團結せよといふのは、今日の如き國家的對立の現状に照して考へれば、明日に非國家非國民思想なることいふまでもない。このスローガンに從へば、若し我が日本と他國との間に戰爭のあった場合、今日の無産諸黨は、日本の勞働者無産者と敵國の勞働者無産者とを共同戰線に立たしめて、それぞれの國の資本家、有産者、權力者に敵抗せしめんと目論むことになる。若し日本とロシアと戰ひを交へた場合、日本の勞働者とロシアの勞働者とを提携せしめて、日本の政府及び資本家に敵抗せしめるといふことになれば、これは明かに逆賊的行爲である。

國内鬪爭と國際鬪爭

私は、今日の資本主義制度の下に於いて、勞資兩階級の間に階級的利害鬪爭が行はれるのは必然であると考へる。隨つて、勞働者が互に利害の共通によつて團結し、資本家に當るといふことにも、必然性を認むるに呑かなるものではない。然しそれは、絶對的な問題ではない。國家的對立の條件から抽象した限りでの肯定に過ぎない。國内の勞働者無産者が團結して政黨を作り、集團を形成するのは結構なことであらう。爲政者としても、それが時代の必然的所産がある限りは、徒らに固陋盲目的な態度でこの種の運動を彈壓するのは宜しくない。が、それもこれも、日本は日本としてだけの話である。事一度び他國との對立關係に踏み込めば、一切の國内的鬪爭は戈を収むべきであると信ずる。若し他國と戰端が開かれたならば、日本の勞働者も資本家も、無産者も有産者も、小作人も地主も、一齊にその利害鬪爭の戈を収めて、擧國一致、單一的日本國民として起つべきである。それでなければ國家はもてぬ。國民は滅びなければならないのである。

また、勞働者無産者に、それだけ眞面目な眞劍な愛國的至情があればこそ、平時國内で利害對立の鬪爭を行つても、彼等の行動に對して國民は衷心から尊敬を拂ふことになるので、平素から國家の破壞を目的とし基調とするが如き無産者運動は、その色彩の漸進的たると急進的たるとを問はず、悉く賣國的行動として排撃すべきであると信ずる。然るに、今日存在してゐる各無産政黨は一の例外なしに、この非國家的非國民的インタナショナリズムに立脚してゐる。

看板に僞りあり

無産政黨が、一の例外なしにインターナショナリズムを基調としてゐることは上述の通りであるが、インターナショナリズムといつても、かの第二インタの如きは、今日では殆んど氣抜けの形骸に過ぎぬ觀があり、ナショナリズムの現實的必然によつて、刻々克服同化されつつある状態にある。現に、世界大戰に際しても、各國の第二インターナショナル主義者は殆んどみな平素の廣言を實行することが出來ず、事實に於いてナショナリズムに降服したのである。今度來朝したアルベート・トーマの如きもその一人だ。現實が斯くの通りであるとすれば、インターナショナリズムの看板を何故撤廢しないのか。現實的必然がナショナリズムに進んでゐるとわかつたならば、それと反對のインターナショナリズムの狗肉に促はれてゐる必要はない筈ではないか。それにも拘らず、飽く迄この僞瞞的看板を引下さぬ態度は氣に喰はない。

日本の無産政黨も毛唐的常套の御多分に漏れず、看板と口吻だけは例によつて例の如き非國家主義だが、然し彼等の眞情を叩いて見れば――少くとも彼等の中で現實的運動に深入してゐる連中の眞情を叩いて見れば、どうしてもナショナリズムでなければ立ち行かぬことを、誰れも彼れも痛感してゐるらしいのである。現に無産政黨運動鬪將の一人と目されてゐる麻生久君の如きは、去る九月(昭和三年)以來しばしば筆者のところに出入して、無産政黨運動はどうしても國家國體主義の基調から出發しなければ駄目だ、ついては、自分はその方面に無産政黨運動の局面を展開させたいから、是非助力を乞ふといふ樣なことを申出た。

そこで筆者は、假りに麻生君の心機轉換が單なる方便から來てゐるにもせよ、考へ方が彼れ自身の告白する如く筆者年來のそれと合致して來たのであり、可成り健全な方向轉換であると思つたから、出來るかぎり援助を惜まない覺悟でゐた。然るに、其後新聞紙上へ現はれたところによると、日勞黨が中心となつていよいよ中間的無産諸黨の合同が成立するらしいとあるが、この合同なるものは、果して如何なる新面目を開かんとしてゐるか。一般の空氣から察すると舊套依然たる非國民的インターナショナリズムを墨守するらしいが、それならば、日勞黨の事實上の黨首たる麻生君の自白した心機轉換も何のことやら一向要領を得ないではないか。

筆者と麻生君とのいきさつについては、いづれ他の機會に詳しく書くつもりであるが、それはそれとして麻生君が筆者に洩らしたその國民的心機一轉は、必ずしも一場のデタラメではないと思ふ。彼の心の奧底では數年の體驗によつて、しみじみと轉換の必要を覺えてゐるに違ひないと信ずる。これは獨り彼のみでなく現實運動に携はつてゐる無産政黨屋の共通心理であらうと思ふ。

實際のところ、國法の定めた議會を舞臺として行動せんとする者が、無産政黨たると既成政黨たるとを問はず、國家否定の基調に從つて行動するなどいふことは土臺無理な話である。よくよくの馬鹿でないかぎり、實際の舞臺に立つて見たならば、その間の矛盾を痛感しない者はない筈だ。それを痛感したなら何故男らしく、せめて形式だけでも看板の塗替へをしないのであるか。如何なる無産政黨でも、日本國内で驥足を伸ばすには國家國體的大義名分を高揚しなければ駄目である。國氏は彼等の國賊的野望に對しては、常に峻嚴な監視の目を外さないであらう。

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