1 地代論と農民問題

高畠素之

マルクスの地代論

地代論といつても、茲ではマルクスの地代論を謂ふのである。マルクスは資本及び利潤の分析に於けると同じやうに、地代の研究に於いても、近世資本主義制度の典型國たるイギリスを標準に採つた。

イギリスの農業は、地主と、小作企業者と、農業勞働者との相互對立した出揃ひを示す。地主は土地の所有者である。農企業者はこの地主から土地を小作賃借して、自己の雇傭する賃銀勞働者に農業勞働を營ませる。これに依つて得るところの収益中から、彼れはその目的のために投じた資本を囘収する上に尚ほ地主に對しては地代を支拂ひ、みづからは産業上の平均利潤を収得し、勞働者に對しては通例の賃銀を支拂ふ。地主に地代を支拂はなければ、土地を利用することが出來ぬ。勞働者に通例の賃銀を支拂はなければ、勞働力は農業以外の方面に流れ出してしまふ。資本も亦、平均利潤が得られなければ、他の産業部面に逃れ去る。

農業以外の産業部面に於ける生産物の價格は、生産價格を中心として上下してゐる。生産價格とは、不變資本たる機械、建物、原料等に投じた謂はゆる費用價格に平均利潤を加へた總額である。非農業生産物の價格はこの生産價格と一致し得るものである。然るに、農業生産物の價格は常にこの生産價格を超過せねばならぬ。なぜならば、それはこの生産價格以外に尚ほ地代といふ餘分の一要素を含むからである。小作企業者は、地代を支拂はなければ地主から土地を借りることが出來ぬ。その地代は何處から支拂はれるかといへば、農産物の價格の中から支拂はれるのである。つまり、農産物の價格はそれだけ工業生産物の價格よりも高くされてゐる譯である。

勿論、現實に於いては、工業生産物の價格にも地代が算入されてゐる。けれども、それは農業地代の轉化されたものであつて、農業地代の分析後に初めて理解さるべきものなのである。それ故、農業地代の分析に於いては、先づ農業以外の方面の地代は存在しないものと假定せねばならぬ。

農業地代の一部はこの樣にして生ずる。この地代を、マルクスは絶對地代と呼んだ。ほかに尚ほ對差地代なるものを成立せしめる原因もあるが、それはこの場合の論究に關係がないから省く。

日本の小作人

イギリスの農業はこの樣に地主と、小作企業者と、農業勞働者との相互對立した出揃ひを示すものであるから、地代成立の筋道を辿るには至つて便利である。けれども、他國ではこの關係がさう明瞭に分化されて居らぬ。殊に、我が日本の如きは、農家(大正十三年現在五、五三二、四二九戸)の大部分は小作農(同上一、五三一、一七七戸)及び自作兼小作農(同上二、二七五、四二四戸)に依つて占められ、此等はみな農業働者を兼ねてゐる。殘餘の自作農(同上一、七二五、八二八戸)に在つても、その大部分が農業勞働者を兼ねてゐることは言ふ迄もない。イギリスに於ける如く、小作人が一方には地主から土地を借り、他方には賃銀勞働者を雇傭して、利潤収得のために農企業を營むといふ關係は見られない。

イギリスのテナント・ファーマースはブルヂォアたる農業資本家である。これを邦譯すれば『小作人』であるが、日本の小作人は事實に於いて水呑百姓であり、貧乏人であり、プロレタリアである。私は『資本論』の翻譯に當りこの語の適譯に困つた末『小作農業者』といふ妙な譯語を使ふことにした。農業勞働者に對する搾取を原則としてゐる農企業者のことを小作人としては、日本人の頭にシックリ來ない。そこで小作農業者とすれば、幾分資本家又は企業者の意味を聯想せしめ得るであらうと考へてこんな譯語を使つた譯だが、果してその效果があつたかどうかは疑はしい。

日本の小作人は、地主に對して小作米を納める。即ち、日本の農村には、物納小作料が行はれてゐる譯だが、この小作料は果して嚴密な意味での地代といひ得るかどうか。地代とは、自己の所有地を他人に利用せしめることに對して得るところの賃料である。この意味に於いて、小作料は地代であるといひ得る。けれども、經濟學上に謂ふ嚴密な意味での地代は、上述の如く、小作企業者の得べき平均利潤、農業勞働者の得べき平均賃銀を支拂つた上に、尚ほ農産物の價格中に存するところの過剩分でなくてはならぬ。若しこれに反して、利潤又は賃銀の一部乃至全部を以つて小作料に充てるとするならば、それは法律上又は名目上地代とはいひ得るかも知れないが、經濟學上では地代といふことを許されぬ。マルクス自身の言葉を借りていへば『小作農業者が若し、彼れの勞働者に支拂ふべき通例の賃銀なり又は彼れ自身の手に歸すべき通例の平均利潤なりからの、一の控除分たる小作料を支拂つたとしても、それは何等の地代……を支拂つたことにはならぬ。……これら一切の場合を通じて、小作料は支拂はれるとはいへ、現實的地代は何等支拂はれぬ』。のである(改造社版資本論第三卷下二九六―二九七頁)。この見地からすれば、日本の小作人は地主に對して小作料を納めてはゐるけれども、地代を支拂つてゐるとはいへぬ。なぜならば、彼等は農企業者として平均利潤を得るどころか、勞働者としての『通例の』賃銀をさへ得ることの出來ぬ状態に在るからである。彼等は小作人として企業者たる位置に立つものとされながら、『通例の』勞働者たるに相應しい生活をすら惠まれて居らぬのである。

それは、彼等は地主のために収益を奪はれてゐるからだと、勞農黨の辯士たちは言ふかも知れぬ。けれども若し、地主に奪はれるところのものが地代に相當した小作料を代表してゐるとすれば、たとひそれを奪はれたとしても、小作人は尚ほ企業者として『通例の』利潤を、勞働者として『通例の』賃銀を収納し得べき筈である。

勿論、小作人としては小作料が少いだけが良いし、地主としては小作料の多いことを望む。その限りに於いて、農村の内部に階級鬪爭の起るべき理由は十分に在る。けれども、日本の農民全般が現在の如き悲慘な境遇に呻吟せしめられてゐるのは、單に彼等が地主から搾取を受けることにのみ起因するものではない。彼等は小作人として収得すべき利潤と、農業勞働者として収得すべき賃銀との總計中から、小作料を支拂つてゐるのであつて、それ以上に生ずべき筈の地代に相當した収益部分は、事實上農民以外の國民部分(都市の資本家、勞働者等、等)に依つて奪はれてゐるのである。

二重の搾取

曩にも述べた如く、地代を生ぜしめるためには農産物の價格が原則として生産價格以上に出づることを要する。然らんずんば、地代は、成立しない。地代は成立しないでも、小作人は無料で土地を耕す譯には行かぬ。地代の有無に拘らず、小作人は小作料を納めねばならぬ。日本の小作人は、これを自己の収納すべき利潤及び賃銀の中から納めてゐるのである。謂はば、彼等は自腹を切つてゐるのだ。なぜ自腹を切らせられるかといへば、地代を以つて小作料たらしめるに相當した程度まで農産物たる米穀の價格が上つてゐないからである。換言すれば、マルクスの認める如き經濟上の標準原則が許すところよりも以下の價格で米穀が販賣されてゐるからである。

かう言ふと、都會人は飛んでもない暴論だといつて憤懣するかも知れぬが、生産力の發達が微弱で勞働を要することが多ければ多いほど、それだけますます生産物の價値が高かるべきことは、マルクスの教ふるところである。そして日本の農業に於ける生産力が極めて低いことは論を俟たぬ。隨つて、日本の農産物の價値は極めて高い。若し精密に計算したならば、日本の米の價値は現在の小賣値段の恐らく十倍にも上るであらう。即ち、日本の米は一升五圓といふやうな價値あるものを、五十錢といふ小賣價格で販賣されてゐるのである。これが若しイギリスに於ける如く、農産物たる特殊位置の上から一升五圓といふ如き價値を最高限界として、その範圍内で米が生産價格以上に販賣されるとすれば、日本の小作人は利潤及び賃銀を収得する以上に尚ほ地代をも支拂ひ得ることになるであらう。

ところが、事實に於いては、この利潤及び賃銀の中から小作料が支拂はれてゐて、小作人の生活實質は都市勞働者の生活水準よりも遙か以下に置かれてゐる。それは、米の價格が餘りに安くされてゐるからである。それだけ、米の消費者たる非農業國民は得をしてゐる譯である。即ち彼等は、米價を通じて彼等自身の負擔すべき地代をば、小作料として小作人の利潤及び勞銀の中から支拂はしめてゐるのである。

要するに、小作人ほど引合はぬ商賣はない。彼等は一面に於いて地主に搾られ、他面に於いては都市民に搾られてゐる。二重の搾取を受けてゐるのである。挽臼にかけられてゐるやうなものだ。アダム・スミスは、農産物が國民の生活必需品であるといふ事實から、地代の成立を推論したのであるが、日本では反對に、米が生活必需品であるため、輿論(農業國日本の輿論は、いつも都市民に依つて製造される!)は却つて米價を米の生産價格又はそれ以下の水準に低壓して、地代の成立を不可能ならしめてゐる。

日本の農民社會問題は、一面に於いて地主對小作人の階級的利害問題であると同時に、他面に於いてはまた、農民對都市民の經濟的利害問題である。日本の都市民は、資本家たると勞働者たるとを問はず、高い米を安く食ふことに依つて農民を搾り苦しめてゐる。日本の小作人にとつては、嚴密な意味での經濟的地代を支拂ひ得る境涯に達することだけでも極樂淨土だ。その場合には、彼等は『通例の』利潤と賃銀とを収納し得る位置に引き上げられるからである。勿論、その場合にも、彼等の社會問題は殘るといふよりも寧ろ、そのとき初めて、眞の農民社會問題が擡頭するといふべきである。なぜならば、そのとき、初めて彼等は眞の地代を搾取される位置に立つからである。

農村問題解決の二方法

都市民との關係から觀た農民問題が、米價問題に集中してゐることは、上述の通りである。農民としては、米の價格を生産價格又はそれ以上の水準に一致せしめて貰はないでは立つ瀬がない。それには、二つの方法がある。第一は、米の價値を引下げる工風、價値が低下すれば、必らずしも價格を引き上げるに及ばぬ。それには、農業上の生産力を向上せしめるよりほかに道はない。生産力を向上せしめるには先づ資本を要する。けれども、農民は精一杯の貧乏であるから、資本どころの騷ぎでない。そこで、この方面から農民問題を解決するには、勢ひ國家の補助にたよるほかはない。國家は、この方面に獻身的努力をする義務がある。現に、産業振興のためと稱して、他方面の民間營利事業に對しては年々莫大の國庫補助を與へてゐるではないか。ヨリ重大な趣意で、國民の命の根と國軍の精英とを供給するところの農民を補助しないといふ理窟はなからう。これには徹頭徹尾、農業生産力の向上増進といふことが眼目とならねばならぬ。即ち改良農具の安價提供、肥料の國營又は府縣配給、低利資金の融通、等。

若し、この方法に依つて、米の價値を引き下げる工面がどうしてもつかぬとすれば、第二の方法として、勢ひ米價を生産價格又はそれ以上の水準まで引き上げるよりほかはない。つまり一升五十錢の米價を一升五圓といふ如き價値水準に向けて問題の解決に必要なる限り吊り上げて行くのである。現在の農業生産率を以つてして、既に年々五六萬石の不足を告げてゐる位だといふから、需給律の自然的作用に『輿論』や政府が干渉することさへなければ、都市民は米價がそんなに吊り上げられても泣き寢入るほかはなからう。

勿論、米價が上れば、勞銀も上り、それだけ工業品の價格が昂騰することになるから、工業品の消費者たる農民は結局覿面の報いを受けるといふ理窟も立たぬ譯でないが、そんなことは平時にいふべき事柄であつて、茲まで解決の荒治療を進めた場合には、農民は一切の工業品をボーイコットする位の覺悟で自給自足の臍を固めたものと假定すべきである。

勿論、以上いづれかの方法に依つて、假りに米の價格が生産價格の水準に一致せしめられたとしても、現在の如き物納制の下ではそれに伴ふ利益を地主に壟斷される虞れがある。またこれを金納に改めたとしても、小作料の歩合について、地主と小作人との利害は絶えず衝突する。それ故、農民問題を對都市民の關係方面だけから解決するにしても、その條件として不斷に對地主問題が絡らんで來ることは避けられぬ。要するに、日本の農民問題は、これを縱にして考へれば、地主對小作人の階級的利害問題であり、これを横にして考へれば、都市民對農民の經濟的利害問題であつて、いづれか一方を解決した後に他方の解決に著手するといふ譯には行かぬ。互ひに相須ち互ひに交錯してゐるのである。その解決は同時的たることを要する。

然るに、近頃流行の勞農黨辯士式論者の口吻に依ると、日本現在の農民問題は專ら地主對小作人の階級的利害問題であるかの如く見える。彼等はこれをマルクス學説から推究して來る如くであるが、さう單純安値に推究されては地下のマルクスも浮ばれまい。マルクスを讀んだなら、マルクスの精神に徹する工風が肝要だ。素朴に形骸だけを盲信したのでは、マルクス理論が死んで應用される。同じマルクスの前提から出發しても、これを日本の状態に活用すれば、反對の觀察も出て來ることを知らねばならぬ。

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