1 國家社會主義の必然性

高畠素之

看板の辯

國家社會主義と云ふものは看板として餘りぱつとしない。一體看板と云ふものは、さつぱりした單純な、響のいゝものでなければ效能が少ない。ところが國家社會主義と云ふと、何となくこつてりして居つて聞いただけでも暑苦しいやうな感じがする。私が今から十年前に此看板を掲げ初めた時に、鰻の天麩羅だと云つて、惡口を言つた人があつた。鰻と云ふ奴は隨分脂濃い、それを更らに天麩羅にしたような感じがすると云ふのである。

もう一つ、看板としてどうも適當でない理由がある。元來看板と云ふものは、總て眞實を言つてはいけない。嘘を言ふ。名物に甘いものなしと言ひ、看板にも本當があつてはいけないのである。例へば社會奉仕と云ふ看板がある。さういふ看板を掲げて新しい帽子を拵へて賣出す。が、その實社會奉仕でなくて自己奉仕である。看板に自己奉仕と書いてはいけない。矢張り社會奉仕と云ふ體裁のいゝ曖昧な言葉を掲げないと效力がないのである。或は廉價多賣主義又薄利多賣と云ふ言葉もあるが、内容を考へて見ると薄利多賣と云つても、利を得ないのではない、澤山賣つて澤山利を得る、謂はば厚利多買であるが、さう云ふ看板を掲げて置いたのでは皆警戒して買はないから薄利多賣と書くのである。

社會主義にも色々あるが、社會主義の主要をなして居るマルクス主義は元來國家主義である。生産を集中させて、さうして此集合した大きな生産組織の下に一般經濟を行ふと云ふことは、どうしても國家主義、大きく集中した權力と云ふものを假定せずには考へられない。ところがそれを眞實に持出してしまつては看板にならぬ。社會主義を看板にする時には、なんとなく曖昧な甘ツたるい自由とか、人類愛とか、平和とか、さう云ふ言葉を付けて見ようとする。多くの社會主義者は大體さう云ふやうな言葉を以て社會主義の毒消にしてゐるのである。薄利多賣主義、社會奉仕と云ふやうな言葉と同じである。所が國家社會主義と言ふときは、社會主義の現實を暴露することになる。自己奉仕と同じ譯で看板としては頗る不向きである。例へばデモクラシーといふのを能く考へて見ると、民衆をだしにして、さうして少數者が支配を行ふと云ふことがその本質のやうに私共に見える。デモクラシーと獨裁專制とはどう違ふか、私は結局同じことであらうと思ふ。兩方とも少數の人々が、多數の人々を支配すると云ふ本質に於いては違はない。唯だデモクラシーの方は、多數民衆の力、民衆の爲に、民衆に依ると云ふやうな言葉を持つて居る。形の相違である。獨裁主義に於ては、少數の支配に伴ふ危險を負擔する。所がデモクラシーは支配に伴ふ危險を成るべく民衆の肩に轉嫁して、支配の正味だけを獨占しようとするずるい考が見えて居るのである。

一體事物を間接にやるといふことはよく考へるとズルイやり方だ。強盗よりも詐欺や横領が無難だといふやうなもので、かういふのがデモクラシーの特徴である。現實を暴露すればきたないものだ。しかし表面は美しく、人ぎきがいい。だから看板の效力が多い。

そこで私の看板に戻るが、是は甚だ看板としては不適當である。こつてりした點も宜くないし、現實暴露、眞實を語り過ぎる點も宜しくない。だから國家社會主義などと謂ふ看板では何處の國でも成功しない。そんな看板を掲げて成功したためしがない。昔、山路愛山といふ人が國家社會主義を掲げたが、全然失敗に終つた。それだのに私が又こんな看板を掲げて店を張つても繁昌する道理がない。私のやうな施毛曲りだからこそ看板としたのである。かういふ看板に呼吸を吹き込んで物にしてやらうと云ふ考へで、施毛曲りの目から、ものを見たからだ。が、今一つの考へは、功利主義の見地からで、人が使はないから供給が少ない、需要供給の法則で、生かしやうに依つては存外面白いと思つたのである。しかし、私の頭の傾向、私の趣味嗜好が國家社會主義と云ふ看板の内容に傾いてゐる點も勿論あつたのである。

政治權力の否定

今から十年許り前だが、當時の日本の社會主義者の大部分の傾向は、一言にしていへば無政府主義であつた。國家や權力、進んでは政治一般と云ふものを、悉くブルヂォアの道徳若くは機關であるとの意味で見て居つた。勞働者又は社會主義者が政治運動をするのはいかぬと云ふ傾向が、大體に於いて見えて居つた。けれども私はその頃からして、この傾向に同化する事がどうしても出來なかつた。當時自分の知識は幼稚であつたが、何となく無意識に斯う云ふ考があつたのである。つまり多くの社會主義者は一面に於いてかゝる傾向を持つて居りながら、將來の社會に對する經濟制度の點では大體皆マルキシズムを持つて居る。即ち社會制度が發達するにつれて産業が次第に集中してゆく。社會主義生産は此大規模の産業經營を基礎とする。其經營の下に社會一般の經濟を行ふと云ふ、この見方は大抵の社會主義者が當時許してゐた。かやうに一方に經濟産業の集中を行ひ、而も一面に於て、政治上の權力の否定又は分散を行ふと云ふことは、どうしても成立しない。此矛盾に對する反抗が頗る粗笨的ではあつたが當時暗々裡に私の肚の中に動いて居た。つまり當時多數の社會主義者は經濟論の觀念ではマルキシズムであつて、政治上の觀念ではアナアキストであつた。是が私の一般社會主義者とどうしても相容れないやうに感じて居つた點である。尤も、其後露國に革命が行はれて、一切の權力を社會主義者が無視するのは惡いと云ふ觀念が一般に行はれるやうになつた。ロシヤ主義者からいへば、權力は結局滅びなければならぬのである。が、中間に勞働者が權力を得て權力を握らなければならぬと云ふ意味で矢張權力是認である。これに大部分の人々が傾向するやうになつたのである。私から見れば寧ろ痛快である。それ見たことかといふ氣がした。

勞働者と國家

それから、今一つは普通選擧の實施だ。之が實施になると共に從來政治運動を否認してゐた勞働運動者はみな政治運動に流れて來た。例へば勞働總同盟などでも、經濟運動、組合運動でなければいけない、勞働者が政治に干與するのはよくないと云ふ主張であつたが、普通選擧が行はれて勞働者が代議士になり、議會で意見を述べることが出來るといふことになると共に、みな政治屋に商賣換へしてしまつたのである。これも私から見れば痛快である。私は初めから其目で見て居つたのだ。だから、ざまをみろといひたかつた、と同時に些か情ないとも思つた。普通選擧が行はれるやうになつたから勞働運動の上に政治運動を加味すべきだと云ふ了見がどうも情けない。普選の行はれない以前から一個の定見を以って立つべきではないか。社會運動者としてそれ位の目先は見えなければならない。それ位の忠實さは、自分の主義主張に對して持たなくてはいけないだらうと感じられた。こんなざまでは將來普通選擧が新興勢力にとつて思つた程の效能が擧らぬと云ふことにでもなつて、無産政黨の成績がはかばかしくないと云ふことにでもなると、また政治否認に傾くかもしれぬ。これはどうも警戒しなければならぬ傾向であらうと思ふ。私の思想は、當時大體そんな風であつて、私は當時の多數の社會主義者の考へて居る事は、どうしても自分の趣味に合はない傾向があると感じて居つたので、遂に全然手を切つて、茲に看板として居る樣な國家社會主義を掲げたのである。尤も、當時の私の知識は幼稚であつたから、國家社會主義と云つても、理論上の根據は、國家としてはどうしても、社會主義を拒むのはいけない、社會主義に味方すると云ふことは、國家を強大にする所以である、同時に、一面に於いて社會主義を大きくする所以である。國家の觀念からも、社會主義を採用することは宜しいことである、と、大體この位に考へて居つたのであらう。マルクスは勞働者に國家なし、無産者に國境なしと言つて居るが、これは遺憾ながら嘘でない。今の制度では實際勞働者に國家はないと云つても過言ではない程の現状である。けれども是は國家の爲に頗る寒心すべき現象である。一體、國家を強大にするには國民の愛國心が旺盛でなければならぬと思ふ。所が今日の状態は、國民に愛國心を持たせない樣になつてゐる。貧乏人が飯が食へなくなつて居ても國家は一つも顧みて呉れる譯ではない。また國家の要素として國土と云ふものがある。外國軍隊の脅威を感ずる場合には全部立つて國土を保護しなければならぬといふ。併し勞働者には自己を護るべき一片の土地もない。汚い密集した隅に、一疊か二疊に多數の貧乏人が住つて居る。衞生に惡いと云ふことは言ふ迄もない。其處から一寸歩けば立派な富豪の別莊がある。其の別莊には青々と樹木が繁茂して居る。日當りも宜しい、平素門番の外には誰も居ない。然るに區別されて隔離されて居る所の貧乏人が自分の健康を良くしようとだまつて這入つて來たならば、家宅侵入として國家から罰せられる。さう云ふ状態であるから、無産者、貧乏人は、實に憐れなものである。これでは國民の精神、國を愛する觀念は出て來ない。それと云ふのも今日の社會制度が個人の利益を主とした基礎に立つてゐるからいけないのである。眞に愛國心あらしめるには社會主義にしなければいけない、と、斯う私は感じたのである。同時に社會主義も單なる空想でなく現實のものとするには國家に立たねばならぬ。かう云ふ見方が當時私の精一ぱいの議論であつたのである。むろん是だけでは未だ十分ではない。國家が重要であると云ふが國家其ものはどう云ふものであるか。どう云ふ必然性を以つて成立し、どう云ふ必然性を以つて持續さるべきものであるかと云ふことを、理論的に明にしなければ、未だ國家社會主義は淺薄であると考へたのである。

マルクスの國家觀

私の當時の國家社會主義はこの樣に幼稚であつたが、しかし嘘はなかつた。單なる方便主義ではなかつた。極めて純粹な一個の理論主張から動いて居つたことは今でも斷言し得る。私が國家社會主義の看板を出した時には、方便主義だといつて攻撃した者もあるが、方便主義といふなら例のラムネのやうな革命病的社會主義の方が看板としてよろしい。社會運動勞働運動でもしようと云ふには舊勢力に妥協をしないと云ふことを看板とした方が有利だ。それに拘らず、さう云ふ看板を掲げたのは、正直な點を示さなければならぬと思つたからである。國家社會主義と云ふのが、社會主義の中では一番正直に考へたことを看板に示したものであらうと私は信じて居る。そこで段々やつて居る内に、どうしても前に述べた如く國家の理論を樹立しなければいけない、國家の必然性を確立しなければ堅固にならないと感じ、私は此點で色々考へてゐるが、生活が忙しい爲に本などを讀んで居られない。尾籠の話だが便所に這入つたり、電車の中でぼつぼつ考へて纏めようとして居るに過ぎない。その一端の梗概だけでも申して自分の考へがどの邊に行つて居るかと云ふことを認めて貰ひたい。

國家と云ふものに關しては、マルクスも一定の理論に立つて居る。マルクスの理論によると、有史以來人類の歴史は、或る一階級が他階級の勞働を搾取することから成つてゐる。今の社會もさうである。所が此關係を自然の儘に放任して置けば、雙方の階級的の軋轢が、社會全體を滅すやうな状態に陷らぬとも限らない。そこで何とかして強い方の階級が弱い方の階級の勞働を搾取し得るやうに、其範圍内で社會に秩序を作つて置かなければならぬ。其目的を以つて起つたのが國家である。極めて大雜把であるが、つまり國家と云ふものは、社會の秩序維持の爲に出來たものであるが、その社會的使命は搾取する階級が搾取される階級を壓迫する範圍内での秩序維持である。結果から言へば國家と云ふものは、搾取階級の搾取を維持する方便であると、斯う云ふことになるのである。であるから、マルクスのいふ勞働搾取なる經濟關係がなくなれば當然國家も消滅しなければならない。

所が、勞働者の團結が進み實力が鞏固になるに從つて、勞働者が權力を得て、さうして生産機關を掌握する。そして現在のブルジォア國家を壞してしまふ。そこでもう國家はなくなつたかと云ふと、さうではない。勞働者の支配する國家を作る。勞働者が支配階級となつて茲にプロレタリアの國家を作る。さうしてゐる内に支配されるブルジォアが無くなつてしまふ。そこで國家は自然に死滅してしまふ、と云ふのがマルクスの國家の見方である。

私は此説に就て從來拙劣ながら色々書いたのであるが、どうも此説に贊成出來ない。勞働者が政權を得て、勞働搾取の關係を廢した後にも、尚ほ支配階級を存してゐるといふことが腑に落ちない。經濟上の原因がなくて、尚ほその政治的の上部構造が殘る、殘さうといふのはマルキシズムに立脚する以上何うしても矛盾である。と、私は斯う感ずるのである。

社會的結合の發生原因

人間は社會的動物の一種である。如何なる人間も社會的結合のもとに生活してゐる。社會的結合のもとに生活する生物個體は、その結合を強大にすることに依つてのみ十分に自己を保存し發展せしめることが出來る。

元來、生物の或る種のものに社會的結合が生ずるに至つた最も重要な原因は、生存競爭上の必要にある。社會的結合の重要なる部分は生存競爭上の一種の武器に過ぎないのだ。生物に依つては、猛獸や毒蛇の如く個體として特殊の武器及び戰鬪力を具へたものがある。かういふ生物は生存競爭上特に社會的結合をつくる必要がない。勿論これらの生物にあつても、雌雄結合及び哺乳の上から或る程度の社會的結合を誘致するに至つてゐることは事實であるが、生存競爭上からこれを必要とすることがないから、彼等の社會的結合は概して微弱である。

しかるに個體として有利な武器を與へられて居らない生物になると、自己保存の必要上どうしても特殊な生理的武器の缺乏を補ふに足るところの有利な鬪爭武器をもたねばならなくなつて來る。その必要上發達したものが即ち社會的結合である。つまり強い牙や猛烈な體力に對抗するに社會的團結の力を以つてしようといふわけだ。この關係は恰度、今日の勞働者が資本家の金力やその他の物理的權力に對抗するに團結の力を以つてするのと同じである。たゞ勞働者の團結は意識的、計畫的であるが、生物の社會的結合の發生は無意識的、原生的であつて、全く自然淘汰の必要上發達して來たに過ぎないといふ一點が違ふだけである。

生物の社會的結合は斯樣に、主として生存競爭の必要上發達して來たものであるが、この結合の發達につれて又社會的本能が發達し、社會的本能が強くなればなるほど、それにつれて社會的結合も亦ますます強くなつて來る。しかるに生物の本能の中では自己保存慾といふものが最も原始的な普遍的な要素となつてゐて、社會的本能の如きも本來は主としてこの自己保存慾から派生したものに過ぎないのである。

そこで生物の本能のうちには、絶えずこの兩要素間の鬪爭が行はれる。ほかに、種屬保存上の性慾本能も絡らんで來るが、この事は措いて問はない。この異種本能間の鬪爭は、人類に至つて更に複雜になり深刻化されて來る。けだし、自己保存本能が社會的本能といふ對抗力を生ぜしめた如く、社會的本能は又猜疑心や優勝慾その他の如き一見反社會的本能と思はれるやうな對抗力を助長して、これが本來の自己保存本能と結合し一種の複雜なエゴイズムを構成することになるからである。そこでエゴイズムなるものは、人類にも他の凡ゆる生物にも共通した最も原始的の強力な本能であるが、人類のエゴイズムは他の生物に比して遙かに複雜であり總合的であるといふことになる。隨つて、その力の強さ、その影響の及ぶところも亦、他生物のエゴイズムに比して遙かに強大であり深刻である。

支配機能の發動と分化

斯樣なエゴイズムの發動を若し勢の赴く儘に放任して置くならば人類の社會的結合は遂に破壞されることを免れない。さればといつて原生的本能のみを以つてこれを統制し調節するといふことは不可能である。そこで第二次の社會的結合素因として、茲に支配といふ機能が發動して來る。つまり、各人が勝手なことをしてゐては社會がもち切れない。さればといつて、各人の胸に潛む社會的本能の力だけではこれをどうすることも出來ないといふところから、何等かの程度の強制を加味した支配の機能が發動して來るわけだ。これはホッブスやルソーの謂ふ如き、契約の形を以つて現はれるものでなく、最初は社會保存上の必要から自然的無意識的に發達して來るのである。

この支配統制の機能は、極く單純な形では如何なる社會にも發動してゐる。それは、幾人かの個々人が團合するとき、必らず其處に何等かの形で規則又は規約といふやうなものが成立するところを見ても解かる。秩序の方面から見た社會は、すべてこの支配機能の現れだといふことが出來る。

優勝慾とは、自己の力を社會的に誇示し認識せしめようとする慾望である。この力の表現形態が何であるかといふことは、問ふところでない。これは物質的富の形を採ることもあれば、學問や、體力や、又は武術の形を採ることもある。けれども、その最も直接的にして且つ普遍的のものは政治上の支配的位置である。この支配的位置の獲得といふことが、優勝的慾望の最も熾烈なる追求的對象となる。而して一度び萌し始めた支配機能分化の傾向は、この慾望の發動に依つてますますその勢を強め、その勢が強くなればなるほど、この慾望の發動も更にますます強くなつて來る。

斯くして支配機能分化の勢ひは、ますます促進せしめられることになるのである。

この支配機能分化の傾向は、謂はゆる有史前期的種族社會に於いても、或る段階からは既に可なり著しく進んでゐた。當時すでに武將や裁判官の如きものがあつて、部分的にこの機能を擔任するといふ有樣であつた。けれども、この機能が總括的に分化獨立して、それが特殊の社會群に依り擔任されるといふ状態に達するには、或る特殊の社會的出來事を必要とした。

それは種族對種族の衝突である。種族衝突の原因は一樣ではない。食物缺乏のために、比較的食物の潤澤な他種族を侵すといふ場合もあるし、又は單なる優勝的戰鬪慾に驅られて衝突を惹き起すといふ場合もある。いづれの動機からにもせよ、一度び種族對種族の衝突が生じて一方の種族が他方の種族に征服せられたとき、征服せられた方の種族は軍卒又は奴隷として優勝種族のために驅使せられる。茲に初めて、征服的社會群と被征服的社會群との對立を來たす。と同時に從來種族内部に發動し發達してゐた支配統制の機能が、征服的社會群の手に歸し茲に征服者は支配階級となり、被征服者は被支配階級となつて、階級對立といふ特殊の社會的現象を生ぜしめる。種族社會が一定の地域に占據して、その支配機能が斯くの如く階級といふ特殊の社會群の擔任に歸したとき、その社會を國家と名づける。隨つて、國家の本質的要素は地域と、社會と、階級支配といふ三分子から成る。國家は土地、人民、主權から成るといふ、舊來の言ひ現はしも畢竟するところ、同じ實質を異つた形に、法制的、形式的の形に、表現したものに過ぎない。

搾取の廢絶は支配關係の消滅に結果せず

以上三つの分子中、もつとも注意を要するところのものは階級支配である。階級支配とは支配機能が階級たるべき特殊の社會群に依つて負擔されたものを謂ふ。或は、支配機能を負擔した社會群は即ち階級であるといつても好い。隨つて、概念的にも、歴史的にも、支配統制の機能が階級の成立に先行し且つ前提となることを要する。社會學者の中には、種族征服といふ原因に依つて階級が成立し、隨つて又國家が成立するといふ風に説く人々もあるが(ラツェンホーファー、オッペンハイマー等)、如何に種族征服が行はれても、征服以前の種族社會内部に豫め支配統制の機能が働いて居らなければ、征服種族が支配階級となり得る筈がない。征服と共に支配が生ずると見る如きは、支配そのものゝ本質に對する認識不足から來るところの淺見である。

斯樣に、征服以前の社會内部にもすでに支配統制の機能が發達してゐたからこそ、征服の事實が階級支配成立(隨つて又國家成立)の條件となり得たのである。それ故、征服の事實は階級又は國家成立の原因ではなく、單なる必要條件又は機縁と見るべきであつて、原因は、寧ろ支配機能の分化特殊化といふ先行事實にあつたとせねばならない。が、いづれにしても、階級支配といふことが、國家成立上の本質的要素となるのである。

今日の國家は大部分、全部と云つても宜しい、支配階級の下に搾取を行つて居る。支配階級であると同時に、搾取階級たるを兼ねて居るのである。搾取と云ふ現象を離れて國家と云ふものは立派に存立するのであるが、今日はさうなつてゐない。不純要素が混つてゐる。國家社會主義は此國家關係、支配關係の中から搾取といふ不純物を追出さう、搾取關係を驅逐してしまはふと云ふのである。

一方の階級の人が他方の人の勞働を搾取すると云ふ經濟關係を排し、純粹の階級的支配を維持しようと主張するのである。今日の經濟の發達が段々生産の經營集中に向ふことになつて、個人的の資本主義が廢止され、國家資本主義、國家の爲に國家が經濟主體となるとき、個人對個人の搾取關係といふものは廢止されるのである。一方、支配關係はなくならない。一面に於いて此社會が進めば進むほど、支配と云ふことが益々強くなる。今日の經濟的搾取關係がなくなつても、學問とか、藝術とか、さう云ふ方面に、優勝を得ようとする。優秀を獲得すると云ふ慾望が非常に強くなる。國家の支配權はさういふ優越階級に移るかも知れない。これは支配機能分化の傾向と相携へて、立派に階級支配を維持する。それはいやでも仕方がない。必然である。必然であるならば、進んで是認し、それを基礎として確たる社會觀を立てねばならぬ。必然を毛嫌ひして虚僞の理論に陶醉するのは卑怯だと思ふ。國家社會主義は最も正直な隨つて男らしい社會理論である。

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