3 帝國主義の發展

高畠素之

帝國主義の變遷

兩三年前といふより四五年前の事件だが、ドイツの例のヒットラー一派がバイエルンで暴動を起したことがある。ルーデンドルフを盟主としたものだから、大抵の常識を所有して居る程の者なら、一目瞭然、それが反革命運動なことは推察される筈だが、都下の某新聞には、麗々しく社會主義革命を目的とした暴動であるかに解説が附けられてあつた。當時これを見た我々は、何が故の誤りであつたか諒解に苦しんだが、やがて漸くにして必らずしも無理からぬ事情を知り得たのである。――といふのは、この國粹團が『國民社會黨』を名乘つてゐたところから、文字の表面だけの意味から想像し、早計にも主義者の一派と合點したに外ならないのである。何んぞ知らん、國民社會黨とは謂はゆる反動派も反動派、極右翼の國粹黨がその正體であつた。

所かはれば品かはる、浪花の葦も伊勢の濱荻、名前が社會黨だからといつて、その硬軟性は萬國同率とは限らない。言葉は斯くの如く、空間的にその意味内容を甚だ異ならしめると同時に、時間的にも甚だ異ならしめる場合が多い。例へば、いま引き合ひに出した社會黨である。これだとて、その最初は謂ふところの急進革命派を代表した名稱だつたが、次第に普遍化して常識線下に埋沒するや、ヨリ革命的な意味内容を指示する必要から共産黨なる名稱が考案された。マルクスの謂はゆる『共産黨宣言』の共産黨なるものは、斯かる理由で選擇されたものに過ぎなかつた。然るに浮世の變遷は、いつの間にか共産黨なる言葉を無政府黨の代名詞に轉用せられ、同時に現實的威力を甚だしく減殺したかの印象を伴ふところから、元に還つて社會黨なる名稱を採用することにより、ヨリ革命的な意味内容を表現せしめる結果となつたのである。それも暫時にして微温化した。そこでレーニンは、社會黨の代りに共産黨を又もや復活させ、前者の第二インタに對して後者の第三インタを明別し、ヨリ革命的なることの看板に塗りかへたに過ぎない。それ故に、若し、斯かる歴史的變遷を無視して、現代的な意味にのみ各個の言葉を解釋するなら、前記の新聞記者が陷つたと同じ誤謬を繰り返へすであらう。

同じ意味で帝國主義といふ言葉がある。南方支那の革命軍が、好んで『打倒帝國主義』を看板としたところから、我が主義者連も何かといへば『帝國主義の排撃』を擔ぎ出す。而も一般の善男善女は、浮世の變遷で褪化した舊套依然たる帝國主義の意味に解し、その間にどうやら、國語的統一を缺く憾みが發見される。

帝國主義と軍國主義

善男善女の考へる帝國主義とは、謂はゆる軍國主義の同義異語である。即ち、武力に依る政治的支配の擴張乃至維持の行爲のみを帝國主義(1)となすのである。これに反し、主義者連の指示する帝國主義の内容は、前者の政治的なるに對して經濟的なる意味に解釋し、金力に依る經濟的支配の擴張乃至維持の行爲のみを稱呼して居る。

強兵的にしろ、富國的にしろ、自國民の利益のために他國民の損害を強制する點は、新舊ともに通有する帝國主義の特色とす(2)べきであらう。しかし、少くとも行爲の表現に於いては、前者と後者とは嚴密に區別されなければならないが、それは後段に讓るとして、斯かる帝國主義が如何にして生れたか、それを先づ瞥見することとしよう。

嚴密の意味の帝國主義の發生は、近代國家の發生と紀元を一にする。中世の法權が失墜して王權が確立され、フランス、イギリス、スペイン等の諸國が次第に近代的な意味での政治國家を建設するや、領土擴張を目的とした隣國侵略を開始し、それが帝國主義の濫觴となつたのである。勿論、領土の攻略を中心とした戰爭は、必ずしもこの時代になつて始めて行はれた譯ではない。それ以前にも常に繰り返へされ、氏族間や部族間に於ける鬪爭すら、小規模ながら、實は領土上の野心が原因したと見られる場合が多かつた。唯だしかし、この時代には部族なり氏族なりの利害が中心であつて、國民を單位とした利害に基づく戰爭は、近代國家の成立と共に國民の觀念が普及されて後の現象に屬する。即ち、政治的支配の範圍擴張といふことが、素朴的なる帝國主義の最初の出發點だつたのである。

斯かる野心を追求するためには、言ふまでもなく兵力が強大なことを唯一の條件とする。兵力が強大であれば、單に外敵の侮りを受けないのみか、弱小兵力の國家を支配し得る所以なるを以て、各國は競つて強兵主義を採用し、帝國主義の遂行は軍國主義の確立を俟つてはじめて(3)可能とされた譯である。帝國主義が軍國主義の同義異語と考へられたのも、その意味では決して無理といふことは出來ない。

政治的支配より經濟的支配へ

帝國主義は斯くの如く、政治的支配圈の擴大を直接の動機としてゐたが、そればかりが必ずしも全部だつたのではない。地圖的色彩の増加を喜ぶ素朴的な優勝慾は、やがてこれに伴ふ實質的な利益を獲得するため、ヨリ多くの目的が集中されるやうになつた。尤も氏族間乃至部族間の鬪爭にあつてさへ、勝者が敗者の財産を掠奪したのみならず、これを奴隷として利用する風習は一般に行はれ、寧ろかうした經濟目的を中心として戰爭が誘發されたと見るべき理由が多い限り、如何に素朴的な帝國主義であつても、一切の經濟目的をヌキにしてゐたとは考へられないであらう。さればこそ古來から富國と強兵とは不可分的關係に於いて併稱されたところであり、國家の隆盛は兩者の併行によつてのみ期待され得たのである。すでに帝國主義が、自國の優越の爲に(4)他國の屈從を強制する限り、經濟的實質を伴はぬ政治的名目だけで優勝慾を滿足させ得たとは考へられぬ。そこで勢ひ、動機に於ては政治的優勝慾(5)に刺戟されたにしても、次第に經濟的優勝慾の滿足に向つて轉化し、名目よりも實質を尊重するに至つた徑路は察するに難くない。

殊に十八世紀末葉から十九世紀中葉にかけて産業革命が完成され、歐洲諸國は何づれも驚異すべき程度に生産力を増大せしめた。その結果、製品の販賣と原料の購買に於いて自國内だけでは狹隘を告げ、國境を越えて製品の販路を擴張すると同時に、原料の補給を求めなければならなかつた。この時代に於ける帝國主義は、露骨に經濟的利益の獲得を動機とするやうになり、ヨリ廉價に原料を仕入れてヨリ高價に製品を賣捌かんがため、未開化的未資本的な諸國の征服を企てたのである。

經濟的利益の追求も、最初は單に、未開國に於ける自然的富の採収を目的とするに過ぎなかつた。即ち貴金屬や寶石や、或ひは香料やの採収を目的として發揮されたのである。イギリス人は素より、スペイン人、ポルトガル人等の最初の掠奪はこれに外ならない。しかし、斯くの如き直接的掠奪は、むしろ軍事帝國主義に付隨して行はれたことが多く、經濟帝國主義の特質は、間接的掠奪が行はれて始めて附與されたと見るが妥當であらう。

國際間の弱肉強食

間接的掠奪と雖も、決して直接的掠奪と別個に作用するのではない。今でも併行しておこなはれる場合が多い。が、原則としては、直接的掠奪が不可能となつた地方、もしくは最初からそれが不可能な地方に行はれる。間接的掠奪とは直接的なそれが自然物のままなる掠奪をなすに反し、何等かの人爲的手段に依つて物資生産をなし、その結果を掠奪するところの方法を意味する。例へば、不當なる廉價で原料品を買ひ入れ、これを生産して不當なる高値に賣り附け、その利益を収得するといつた方法である。植民地や保護地に對して強國が慣用する手段はこれを出でない。尤も斯うした方法も、初めは自國民の消費を目的とし、自國民の手で生産することを常套としたが、後にはこれらの植民地乃至保護地の國民の消費を目的とし、彼等を生産に使役して利益を得ることに結果せしめたのである。この事業には主として半官半民の特殊會社が當つた。最も代表的な例は英國の東印度會社であるが、植民經營には各國とも例外なく右の手段を慣用したのである。個人の自由競爭を母胎として出生した資本主義であつたが、例の『民の富は國の富』といふ金科玉條に保障された資本家は、國家の經濟的乃至軍事的なる擁護の下に帝國主義の發展に貢獻した。國家が資本家の傀儡であるかに誤認され易いのは、かうした因縁關係があるからに外ならない。

間接的掠奪を目的とする斯くの如き帝國主義は、その直接の動機を經濟的利益の獲得に置かれてゐる。だが、さればといつて、純粹に經濟的手段のみに依頼する譯ではない。依然として武力が併行し、いづれが先進しいづれが後進するかを問はず、形影相伴つて勢力範圍の擴張を助勢する。前述の英國東印度會社は、強力な祖國軍隊の支持を俟つて始めて經營が可能であつた如く、南阿、北阿、近東、中亞、印度、支那に進出せる徑路は悉く武力を背景としてゐる。單にイギリスばかりでなく、フランス、ドイツ、オランダ、アメリカ、ロシヤ、スペイン等、等、これらの諸國が、アフリカ、アメリカ、アジアの諸大陸、竝に(6)太洋の諸島に角逐し、追ひつ追はれつの果てしなき植民戰爭を繰り返へしたのは、偏へに經濟的利益を獲得したいばかりの慾念であつた。

弱肉強食の生物學的法則は、國際間にも遺憾なく適用される。今や世界は、あらゆる隅々の無人島まで、何れか富強國の地圖的色彩で塗りつぶされてしまつた。新しい植民戰爭が起るとすれば、これら富強國相互の間で生死を決定しなければならぬから、不自然な『勢力範圍の協定』を行つたりして、蛇と蛙と蛞蝓の三すくみを反映してゐるのである。武装的平和といふ文字は、かうした微妙な國際關係を形容した言葉に外ならない。

『平和』の經濟的利益

武装的なりに平和は維持されても、それがため各國が帝國主義政策を放棄してゐるのではない。外發しないだけ寧ろ内訌し、それだけ弊害の程度を濃厚ならしめてゐる。

今もいふとほり、現代の帝國主義は政治的支配を放棄し、純粹に經濟的支配のみを目的とするやうになつたのだから、平和手段に於いてそれが達成されるものなら、何にも醉狂に犠牲の多い戰爭沙汰を望むものはない。要は經濟力を掌握して、實質的に支配し得れば文句がないのである。さういふ重寶な方法があるかといへば、實は大いにあるから、武装なりにも平和が保たれてゐると見るの外はない。

更めてマルクスを擔ぎ出すまでもなく、資本主義の發展は資本の集中と同時に企業の合同を促進し、それだけ資本の獨占も産業の獨裁も露骨にならざるを得ない。資本主義も茲まで發展すると、中心勢力は産業企業より金融銀行へと移動し、産業資本よりも金融資本がヨリ優位を占め來たること、これは現在の我が經濟界に見て明瞭であらう。金融資本が獨占的な勢力を獲得すると、製品の代りに資本そのものの外國輸出が行はれ、他國民の手に依つて他國民の消費を目的とする生産を行はしめ、國際的にその利潤を収得するといふ方法が行はれる。植民地乃至保護地を對象とする間接的掠奪は、祖國の強兵を背後にして行はれたのであつたが、今度は文明開化の隣接地や工業地に向つて、同じくこの間接的掠奪の方法を適用し得たのである。例へば、支那に對する列強の經濟政策の如き、武力を併用せずして經濟支配の實質を取らうといふ寸法で、それ自體が最も新しい型の帝國主義を代表してゐる。素朴的な帝國主義が強兵を最大條件としたに反し、今度は資本力のみが帝國主義遂行の唯一要件となり、武力は寧ろ無用の長物とならしめた感が多い。

資本力に於て抜群の英米兩國が、好んで常に平和主義を宣傳すると同時に、萬更らのお體裁でなく軍縮會議に奔走するのは、かうした利害打算を根本としてゐるが故である。彼等にして見れば、世界が現状であつて呉れた方が都合がよく、勝敗を度外に置いても、戰爭による犠牲はなるべく避けたいに違ひあるまい。唯だしかし、彼等がいはゆる正義人道から平和を愛好するのではなく、經濟的利益を収め得るが故に平和を愛好することを知れば足りやう(7)

町人的帝國主義の打倒

領土擴張による政治的支配權の増大を無上の樂しみとしたらしいナポレオン流の素朴的帝國主義は、中道にして趣味と實益の兼行を望むビスマルク流の二兎的帝國主義となり、今や外面如菩薩にして内心如夜叉なるクーリツヂ流の算盤的帝國主義に褪化(8)した。最初の英雄主義は斯くして最後の町人主義に墮し、弊害はやうやく陰性を帶びるに至つたのである。英雄帝國主義は流血の慘事を現出したか知れないが、その間にはおのづから男性的な氣魄が披瀝されてゐる。これに反し町人帝國主義は、如何にも女性的で濶達の氣風がなく、而も戰爭以上の慘事を日々夜々に扶植しつゝある。支那人でなくとも『打倒』してやりたいのが人情ではないか。

然らば打倒の方法は如何にすべきか? 富める者ますます富み、貧しき者を(9)ますます貧しからしめる資本主義は、個人と同時に國家に對しても同樣の運命を隨伴する。其限りに於いて、彼等の平和主義に相槌を打つて追隨してゐたのでは、百年の河清を待つと同樣の愚を繰りかへすに過ぎない。同じくまた、彼等の資本主義の自然的崩壞を待つにしても、それが先樣の御都合である以上、果たして崩壞して呉れるものやらどうやら判つたものではない。善いか惡いか、勝つか負けるか、それら一切の條件を無視してかかれば、町人帝國主義を打倒する唯一の方法は、英雄帝國主義の發揮のみに求められるであらう。

植民地爭奪に立ち遲れたドイツは、毒を制するに毒の政策を採り、武力に依る打倒を最後の手段として強行したが、幸か不幸か慘敗に終つた。現在の日本は、恰も戰前のドイツと同じやうな立場に置かれ、同じく軍國主義の非難を頂戴してゐる。果たして然るか否かは別問題として、日本が日本として獨個の地位を領有するためには、寧ろ軍國主義的に結束してこそ有利である。何にも英米の非難に小さくなつてゐる必要はあるまい。富の個人的獨占が害惡であるなら、同じく國家的獨占も害惡でなければならない。而も資本家に對する勞働者の罷業權が合法であるなら、後者に於ける戰爭權も合法でなければならない。――などと、これは日本と英米とを引き合ひに出したから變なものだが、これは經濟的帝國主義が正善で軍事帝國主義が邪惡だといふやうな一般常識に對し、必らずしも然らざる旨の一針を頂門にさしたい老婆心である。



初出:『春秋』第一巻第九号(昭和二年十二月。原題:帝国主義の新旧)

注記:

※初出論文との異同(現行→原本)
※小見出→漢数字(一~六)
※文末→「―十月二十二日―」の付記あり

(1)帝國主義→「主義」なし
(2)特色とす→特色となす
(3)はじめて→始めて
(4)爲に→ために
(5)政治的優勝慾→政治優勝慾
(6)竝に→竝びに
(7)足りやう→足りよう
(8)褪化→褪下
(9)貧しき者を→貧しき者

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