新編『批判マルクス主義』原序

高畠素之


『批判マルクス主義』とは『マルクス主義の批判』と『批判的マルクス主義』との兩面の意味を含ませたものである。マルクス主義は諸種の個別的學説の集積であつて、これら諸學説の各々を承認し、且つ其總和に依つて與へらるべき有機的體系の中に特殊の感激的尊嚴を含ませてゐるのであるが、マルクス主義の提示する各個の學説は果して、現實的批判の俎上に一樣の價値を認められ得るものであらうか。また其總和たる體系それ自身の有機的結合の上に何等の無理なる點もないと言ひ得るであらうか。かかる考察の立場からすれば、マルクス主義なるものは、私にとつては一つの批判對象たるに過ぎない。この方面に於ける私の任務は、『マルクス主義の批判』を以つて終始する。

然し私は又、マルクス主義の眞理的要素を認めることに、怯懦であつてはならない。マルクスの命題には幾多の錯誤と矛盾とが含まれてゐることは事實であるとしても、少なくとも彼れが資本制度の發達について與へた歴史的考察の價値は不朽である。更らに此考察の結論たる資本制生産の終了、次いで生ずべき新社會の曙光に對する暗示、竝びに此推轉行程に於けるプロレタリア階級の歴史的役割の強調――これらの貢獻も亦、等しく不朽の價値あるものと信ぜられる。若し此等の考察がマルクス主義の本質的要素であり、而してマルクス主義の本質を是認するものは即ちマルクス主義者であるとすれば、私も亦一個のマルクス主義者であると言ひ得るであらう。然し私は又、マルクス主義の誤れる點をも熱心に強調する。そこで、假りに私がマルクス主義者であるとしても、私をマルクス主義者と認めることはマルクスの神髓の冒涜であると感ぜられるほど、私はマルクス主義に於いて極度に批判的である。

批判マルクス主義の中に、正統派マルクス主義の巨頭と稱せられるカウツキーのデモクラシー論を組み入れたことは、聊か調子はづれの嫌ひがないでもないが、社會主義對デモクラシーの論究に於いては、今日では寧ろレニン系共産主義者の主張が正統マルキシズムの本流たらんとする形勢であるから、それに對して鋭き批判的の立場を守るカウツキーの所論を以つて、本書の一部を飾らせたことは、必ずしも無理な場ふさげとして非難さるべきではなからうと信ずる。

本書の内容は、本書を作る爲に書いたものではない。從來斷片的に時折り書いては發表したものの中から、如上の兩意義を含む本書の題名に相應したもののみを選んで蒐めたものに過ぎない。

大正十四年六月二十四日

高畠素之


批判マルクス主義
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