第一章 マルクスの生涯及其事業

高畠素之

1 生ひ立

カルル・マルクスは一八一八年五月五日、獨逸最古の古都たる、モーゼル沿岸のトリアー(英佛語トレーヴス)に生れた。時は恰もライン諸州が普魯西領となりたる後四年であつた。當時普魯西は『神聖同盟』に加入し、佛蘭西の異端邪説を一掃すると共に、一方キリスト教的獨逸思想の普及に腐心してゐた。異端なる佛蘭西人は獨逸ライン諸州に於て人類平等の主義を宣べ、一千年來の迫害と壓制との呪より猶太人を救ひ、之を市民となし人類となすことに、日も維れ足らざる有樣であつた。然るに『神聖同盟』のキリスト教的獨逸思想は遂に佛蘭西の平等主義を斥けて古き呪の復活を要求した。

マルクスの生後幾ばくもなくして、猶太人はキリスト教に改宗するか、公職を抛つて公事と全く關係を斷つか、二者其一を選ぶべしといふ勅令が下つた。

マルクスの血統は猶太人種であつたので、彼れの六歳の時、父母は改宗してキリスト教徒となるの已むなきに立ち至つた。マルクスの父母及び血統に就いて、獨逸に於ける著名のマルクス主義者にして、リープクネヒト、ローザ・ルクセンブルヒ等と竝んで今次大革命の急先鋒となつたクララ・ツエトキン女史は次ぎの如く言つてゐる。『此偉大なる人格、此天才的の思想家が如何にして出現したかの問題を解決するに當り、普通の學説は何の役をもなさぬ。なるほどマルクスの父母は利發な善良な人々であつた。然し彼等は理智的にさほど非凡な所があつたらしくもない。又、父方にも母方にも、曾てマルクスに比すべき大知識の出現した記録が存して居らぬ』と。

マルクスは斯くの如き父母の間に生れた第二子で、兄弟は澤山あつたが、社會に頭角を現はしたのは彼れ一人であつた。彼れの少年時代は學業優等で、而かも活溌でいたづらの、愛らしい腕白小僧であつた。彼れは時々皮肉な詩を作つて人を罵倒したりしたが、少しもセゝ細しい所のない、素直な無邪氣な性質であつたので、先生にも朋輩にも一般に可愛がられてゐた。

其頃の彼れの最も仲善しな遊び友だちと云へば、ヱストフアーレン家の二子、即ち兄のエドガアと妹のイエンニイとであつた。(此イエンニイは後にマルクスの妻となり、エドガアは普魯西の大臣となつた)。此二人の父ヱストフアーレンはマルクスの文學的趣味を養ふに最も貢獻した人で、マルクスは父よりヴオルテールとラシーヌとを讀み聞かされる時、一方このヱストフアーレンに依つてホーマアとシエキスピーアとを讀み聞かされた。

2 ライン新聞時代

かゝる間に彼れは普通教育を了へた。そこで最初はボン大學に、次いで伯林大學に入つたが、彼れは先づ父の意を滿たす爲に(マルクスの父は法律家であつた)暫く法律を學び、後ち自らの意を滿たす爲に歴史及び哲學を研究した。

伯林大學在學中彼れはブルノー・バウエルに引立てられた。然し彼れが大學の課程を終へた頃には、バウエルは既にボン大學の教授に轉じてゐた。そこでマルクスは一八四二年、ボン大學の哲學講師たらんと企てたが、バウエルは自己がしばしば監督官と衝突せる經驗よりして切に之れを諫止したので、其計畫は遂に放棄された。

然るに恰も善し、此とき一層望み多き活動の舞臺はマルクスの爲に開かれた。當時、自由反抗の氣分はライン諸州に横溢し、ブルヂヨアの有志者間に新聞發行の計畫成り、マルクスは遂に其異常なる材能を認められて同新聞の主筆に聘せられた。之れ即ち『ライン新聞』(Rheinische Zeitung)であつて、マルクスは當時僅かに二十四歳であつた。

彼れは此新聞で間斷なく檢閲官と戰つた。そして彼れが人心を贏ち得る驚くべき魅力は此の時既に發揮された。檢閲官は伯林政府の忌諱に觸るゝ章句を見逃すことが屡々あつたので、譴責に次ぐに譴責を以てせられ、其更任は絶ゆる時がなかつた。そこで政府は遂に二重檢閲制を設け、檢閲官の檢閲後、州長官が再び之れを檢閲すると云ふ制に改めた。所がこれ又大した功果が無かつたので、遂に一八四三年、『ライン新聞』の發行を禁止した。

3 巴里時代

之れより先、マルクスは其幼な馴染のイエンニイと結婚したのであるが、彼れは此の禁止の命に接すると同時に、獨逸を去つて佛國巴里に赴き、同所でアーノルド・ルーゲと共に『獨佛年報』(Deutsch-Franzoesische Jahrbuecher)と云ふ雜誌を發行した。彼れは此誌上に於て『ヘーゲル法理學の批評』(Zur Kritikder Hegelschen Rechtsphilosophie)及び『猶太人問題』(Juden Frage)と題する二個の長論文を公にした。彼れが當時既に哲學の中から社會主義に進むの道を發見したことは、此二論文の内容が明かに之れを證明してゐる。

『獨佛年報』は後ち幾ばくもなくして廢刊となつたが、之れと關係中マルクスは其生涯の協勞者エンゲルスと相知るに至つた。エンゲルスは彼れより若きこと二歳、從來永く英國に滯留してゐたので、其唯物的思想を早くより體得し、既に全然ヘーゲル學派と隔絶してゐた。爾後、此二人は親密なる友情を結び、長短相助けて政治上にも、學問上にも、終始相携えて變ることなく、眞に模範的な友愛協助の實を示した。

『獨佛年報』廢刊の後、マルクスとエンゲルスとは、ハイネ、エヱルベツク等と協力して、巴里に『前方へ』(Vorwaerts)と題する雜誌を發行し、其新結合の宣言として、一八四四年二人共著の『神聖なる家族』(Die Heilige Familie oder Kritik der Kritischen Kritik)と題する小册子を公にした。

此書はブルノー・バウエル等のヘーゲル理想派を諷刺的に批評したものであつて、後年マルクス説の社會學的根據を成すに至つた唯物史觀説の萌芽は既に明かに此書に現はれてゐる。マルクスは當時頻發する革命的叛亂を觀察して、人類の理想を働かしむる根本の力が實に之等の社會的事實、換言すれば階級鬪爭の中にあることを明かにした。マルクスは此見地に基いて、當時の巴里を支配してゐた動搖的生活(それは實に二月革命の先驅に外ならぬものであつた)を縱横無盡に批評解剖した。又、彼れは當時巴里で蒐集した幾多の材料に依つて、生産及び交換の諸要素等が社會進化の上に演ずる重要なる役目を評價し、そして結局之等の要素が社會の發達を決定する終極の原因であることを明かにした。彼れは此書に於て、ヘーゲル學派の舊同志に辛辣の質問を向けて言つた。『彼等は自然、自然科學、及び産業に對する人類の諸關係を閑却してゐるが、そんなことで歴史の一語をも理解することが出來ると信じてゐるのであらうか。彼等は時代の産業、實際生活に於ける直接の生産方法を理解することなしに、其時代を實際に知ることが出來ると信じてゐるのであらうか』と。之等の片言雙語(隻語)に依つても、彼れが當時如何にヘーゲルの理想主義を脱却して、唯物史觀の見解に達してゐたかを知ることが出來る。此書は不幸にして英譯がない。先きの『猶太人問題』及び『ヘーゲル法理學の批評』等と共にフランツ・メーリンク編『マルクス・エンゲルス・ラツサルレ遺稿集』(Aus dem Literarischen Nachlass von K.Marx, F.Engels und F.Lassalle, herausgeben von F.Mehring)の中に納められてある。

マルクスは此の間專ら經濟學と佛蘭西革命との研究に從事し、同時に絶えずペンを以て普魯西政府と戰つてゐたが、普魯西政府は當時有力の佛國大臣ギゾウに迫つて、遂にマルクスを佛國外に放逐せしめた。

4 ブルツセル時代

そこでマルクスは巴里を去つて白耳義ブルツセルに赴き、同處で勞働者協會の設立に盡力し、『獨逸・ブルツセル新聞』(Deutsch-Bruesseler Zeitng)に投稿し、又一八四六年自由貿〔易〕主義者の大會に招かれて自由貿易に關する講演を試みた。

一八四七年六月、マルクスは有名なる『哲學の窮乏』(La Misere de la Philosophie)を公にした。之れは其前年公にされた佛蘭西の無政府主義者プルードンの『窮乏の哲學』を批評論駁したもので、素と佛蘭西文で書かれた。獨逸譯は一八八四年エンゲルスの手で公にされた。英譯(The Poverty of Philosophy)もある。

マルクスは巴里滯留中、幾多の佛國社會主義者と知合ひになつた。當時の巴里は何しろ革命的動亂の渦中にあつたので、思想界に於ても社會主義者のモテ方と云ふものは恐ろしい有樣であつた。マルクスは總ての社會的傾向の觀察者として斯くの如き現象に非常なる興味を感じた。『哲學の窮乏』は實に斯くの如き興味と觀察との結晶であつた。當時一部の社會主義者の間には、極度の貧困を目にして革命的生命の豫備的條件となすものがあつた。又、革命の原動力を社會の物質的條件に求めないで、個人の心理的自覺の中に求むる者があつた。そしてプルードンは實に、此兩傾向の最も有力なる代表者であつた。マルクスは其唯物主義の立場から、之等の『ブルジヨア的空論』を論破するの必要を感じた。斯くの如き四圍の必然から(主)〔生〕じたものが、即ち此『哲學の窮乏』である。

此書の公にされた同じ年(即ち一八四七年)マルクスはブルツセルの勞働者協會に於て『賃銀勞働と資本』(Lohnarbeit und Kapital)と題する講演を試みた〔。〕之れは後、一八四九年四月四日以降の『新ライン新聞』紙上に連載され、其後また獨立の小册子として公にされた。英譯(Wage-labour and Capital)もある。河上博士の手になつた邦譯もある。

此書は其れより十二年後に公にされた『經濟學批評』及び更に其後に公にされた『資本論』の萌芽とも目すべきもので、マルクス經濟論の骨子を頗る平易な言葉で書き綴つたもの、七十年後の今日尚、我々が多大の興味を以て玩味することの出來る名著である。

元來マルクスの學説には、其社會學的方面に唯物的史觀あり、經濟學的方面に價値論、剩餘價値論等がある。そして前者は主として佛蘭西の歴史的事實及び社會主義者の思想より學び、後者は殆ど總て英國から學んだ。然るにマルクスは其ブルツセル滯留以前までは英國のことを知らず、其注意は全く佛蘭西方面に集つてゐたので、隨つて其學説の形成に於ても、佛蘭西を背景とする唯物史觀の方が先きに成立した。

所が一八四五年の春、マルクスはエンゲルスに伴つてブルツセルから英國に旅行した。此旅行はマルクスの思想發展の上に、特筆大書すべき一事件であつた。なぜならば彼れが英國の資本主義經濟學に接觸するに至つたのは、正に此時に始まつた。彼れは英國到着後、暫らくの間は、かねてエンゲルスの蒐集して置いた諸種の經濟書及び其抜萃、竝びにマンチエスタア其他の圖書館にある經濟書をば實に『飽くことを知らずに貪り食つた』。それは一八四五年夏の事で、マルクス經濟論の種子は此の時蒔かれたものである。そして其最初の収穫は實に此『賃銀勞働と資本』であつた。

マルクスは此書に於て、資本の根底を成す利潤が、勞働(嚴密には勞働力)なる商品賣買の事實、及び此商品を勞働者から買ひ取つた資本家が、それを生産行程に於て生産的に消費するの事實に淵源することを明かにし、資本が一個の歴史的所産であること、又た資本と勞働との利害が全然相衝突すべき性質のものなることを闡明して、階級鬪爭の社會的必然を暗示した。マルクス獨特の經濟論は既に茲に現はれてゐる。

5 『共産主義者宣言』の發表

マルクスは先きに巴里に在りし時『共産主義者同盟』(Bund der Kommunisten)なる革命的結社の首領連と交際してゐたが、ブルツセル滯留中エンゲルスと共に之れに加盟した。

此同盟は一八三六年、獨逸亡命者に依つて巴里に設立され、マルクスの入會前にありては、多少の陰謀的臭味を帶びてゐたが、今や全く其性質を一變して、共産主義傳道の單純なる一機關となつた。此同盟は獨逸勞働者倶樂部のある處には、必ず其聯絡を設け、英蘭、白耳義、佛蘭西、瑞西に於ける獨逸人倶樂部の殆ど全部と、獨逸に於ける多くの倶樂部との主なる會員は、皆なこれに加盟した。

共産主義者同盟の性質變更は、一九四七年に開かれた二回の大會に依つて完成され、其第二回大會に於て、宣言の起草をマルクス、エンゲルス兩人に一任した。之れ即ち有名なる『共産主義者宣言』(Das Kommunistische Manifest)であつて、翌一八四八年一月末はじめて獨逸語にて脱稿され、それがロンドンに於て印刷に附せられ、最初に一册が出來上つたのは實に二月二十四日のことであつた。

此宣言は近世勞働運動の礎石とも言ふべきものであつて、其何づれの部分がマルクスの手に成り、何づれの部分がエンゲルスに依つて供給されたかは問ふべきでない。マルクスとエンゲルスとは、其事業に於て友情に於て死に至るまで一體なりし如く、此宣言に於ても亦、徹頭徹尾一心同體であつたのだ。

此宣言の邦譯は曾て幸徳秋水、堺利彦兩氏に依つて試みられたが、不幸にして發賣禁止となつた。最近河上博士は『社會問題研究』第二册に於て、其梗概を紹介された。『一個の怪物歐洲を徘徊す。共産主義者の怪物即ち是なり』といふのが、此宣言の序文の書き出しで、第一章の劈頭には彼の有名なる『由來一切社會の歴史は階級鬪爭の歴史なり』の一句があり、最後の章の末尾は同じく有名なる『萬國の勞働者團結せよ』の一句で結んである。其内容は封建制度の倒壞より、近世資本制度の出現に至る經路を解剖し、總ての社會制度と同じく資本家制度も亦、其内部の經濟的事情より必然に倒壞して、新らしき共産社會の實現を呼び起すべき順序を明かにし、斯くの如き經濟的事實が勞働者の階級的自主運動を喚起して、結局勞働者の政權獲得に至るべきことを力説したものである。

6 新ライン新聞時代

前にも言ふ如く、『共産主義者宣言』は二月初旬に發表されたものであるが、同月二十二日、革命の噴火口は十八ヶ月靜止の後、再び茲に爆發した。そして其餘波は四方に波及した。ブルツセルも亦、之れが影響を受け、激烈なる示威運動は到る處に行はれた。白耳義政府は從來幾度か普魯西政府よりマルクス放逐の請求を受けてゐたが、茲に於て大に驚き直ちにマルクスを捕へて之を國境に護送した。

そこでマルクスは其友にして佛國州政府の一員なるフローコンの招きに應じて急ぎ巴里に赴いた。兎かくする中に、彼れは獨逸よりの吉報に接した。彼れの革命的活動の舞臺は今や其本國に開けんとしたのだ。かくて同年三月、彼れは其五年間中絶したる『ライン新聞』再興の計畫を抱いて獨逸キユルン市(コローン)に歸つた。

彼れの計畫は遂に『新ライン新聞』(Neue Rheinische Zeit-ung)に於て實現された。其記者には、エンゲルスの外、ウオルフ、ドロンケ、フライリヒラート〔、〕ウエールト等があつた。獨逸の新聞紙にして、斯くの如き手揃の編輯局を有したるものは、未だ曾て無かつたと云はれてゐる。そして其獨逸に於ける運動の綱領は、同國全部の一共和國及び波瀾復興の計畫を含んだ對露戰爭の開始であつた。

エンゲルスは記して言ふ。『新ライン新聞は、當時の民主的運動に於て、勞働階級の立脚地を防護したる唯一の新聞であつた』と。然し迫害の手は軈て來た。エンゲルスは更らに言ふ。『ライン州に於ける軍律は一八四八年に於て長期の發行停止を命じ,フランクフールトの帝國司法部は告發に次ぐに告發を以てした。而も新ライン新聞は猶ほ平然公然として編輯刊行せられ、政府とブルジヨアとの攻撃が暴を加ふるに從つて、其發行部數はますます増加し、其名聲はいよいよ高まつた』と。

一八四八年十一月、普魯西にクーデタアの事あるや、同新聞は毎號の劈頭に於て、納税を拒絶すべきことを説き、暴力に對するに暴力を以てすべきことを論じた。かくて一八四九年に至り、遂に二回までも起訴せられ、兩回とも幸ひに無罪の宣告を受けたが、ドレスデン及ライン諸州に於ける五月革命鎭壓の後、遂に政府の武力に依つて發行を禁止された。

『新ライン新聞』の初刊は一八四八年六月一日、其終刊は一八四九年五月十九日であつた。そして其終刊號は全部赤紙に印刷し、其卷頭にはフライリヒラートの手に成れる悲壯の詩を載せた。

7 倫敦に逃る

一八四八年巴里の六月革命以後、革命運動は漸く下火となつた。同年九月九日、ロベルト・ブルームは維那に於て戒嚴令の下に銃殺された。然し其後に至つて、諸所に急進主義者の煽動に依り革命的叛亂の勃發を見たが、いづれも勞働者の味方を有せざる運動であつたので、權力者のために脆くも蹶散らかされた。革命的勞働者の中堅は既に六月革命の銃瓦の下に亡び、或は『血塗らざる斷頭臺』と稱せられたる囚人植民地の露に萎んだ。

かくて『新ライン新聞』廢刊後佛國に止まりたるマルクスは、同國官憲のために同處を追はれ、遂に其最後の安息地たる倫敦に逃れた。倫敦に於てマルクスは、狂熱なる一部人士の提唱に成る革命再擧の運動と關係を斷つた。其後暫らくの間、『共産主義者同盟』は存續したが、倫敦の於て獨逸の運動を有効に指導するは、到底不可能なること明となり、かくて一八五二年の末、同盟は遂に解散された。

『共産主義者同盟』の解散後、マルクスは科學的研究と新聞雜誌寄稿とに一身を捧げ、『紐育トリビユーン』紙の寄書家として絶えず同紙上に、政治經濟上の一論文を寄せ、一八五九年有名なる『經濟學批評』(Zur Kritik der politischen Oekonomie)を公にした。

此書は實に後年公にされたマルクス一代の大著『資本論』の根底を成せる價値及貨幣の解剖の最初の試みであつた(、)〔。〕マルクスは『資本論』第一卷第一版の序文冒頭に於て『茲に予が公にせんとする作は、一八五九年刊行の拙著經濟學批評を繼續したものである』と言つてゐる。第一章に於て商品を解剖し、第二章に於て貨幣及び商品流通を論じ、貨幣に關する學説史の一瞥を與へてゐる。

マルクスの『勞働價値説』は此書に於て、始めて形成したものと云ふことが出來る。尚、此書の序文には唯物史觀に關してマルクスが試みた最初の又最後の組織的叙述が與へられてゐる。

8 『國際勞働者協會』の設立

マルクスが倫敦に腰を据えて以來、時勢は次第に暗遷默移して、文明諸國に於ける状況は漸く其の獨立の勞働運動を好望ならしめた。英國に於てはチヤーチスト黨は既に滅亡に歸し、空想的勞働運動は最早勞働者を滿足せしむることが出來なくなつた。

又、佛蘭西に於ては六月革命の慘憺たる流血の後、勞働運動は一時全く屏熄したが、今や又漸く其新らしき芽を萌き出さんとしてゐる。更に獨逸に於ても亦、勞働者はラツサルレに依りて、空しき調和の夢より呼び醒まされ、漸く自主的團結の必要を感じ、獨立政黨を形成せんとするの状態に達した。

斯くの如き状勢の下に於て、マルクスは今や諸國の勞働運動を統括して、其萬國的性質を鼓舞し、出來得る限り各國共通の聯合運動を助勢するの時機至れりと信じた。

恰もよし一八六三年四月二十八日、波蘭に對する同情會倫敦に開かれ、各國勞働者の代表者が之れに出席したので、其の席上『國際勞働者協會』(Internationale Arbeterassociation)設立の議が可決された。是れより三ヶ月を經て、七月二十二日第二同情會又もや倫敦に開かれ、其席上、社會問題は盛んに討議せられ、『國際勞働者協會』設立の議再び可決された。かくて其翌年四月、勞働者の代表者が巴里から來て、獨逸、波蘭、英吉利及び亞米利加の代表者と協議會を開き『國際勞働者協會』設立の目的を以て、國際勞働代表委員會を召集すること、及び之れが準備をマルクスに一任することを決議した。

其後五ヶ月を經て、一八六四年九月二十八日『國際勞働者協會』は遂に倫敦に於て設立された。マルクスは其新團體の宣言、綱領、會則等を起草したが、其主なる目的は、之れを戰鬪機關となすに非ずして、勞働者解放運動に一箇の中心點を與へんとするのであつた。此團體の設立は、實に十六年前、『共産主義者宣言』に依りて全世界の勞働者の前に叫ばれた、彼の『萬國の勞働者團結せよ』と云ふ訴への實行を意味するものであつた。

マルクスは此新團體の評議員會の一員に選ばれたが、此團體は元來種々なる異分子を混じてゐたので、其評議員會にも亦種々なる意見が代表された。そこでマルクスは此評議員會を指導誘掖する爲に有らゆる努力と忍耐とを費した。

當時評議員の一人ジヨン・ヱストーンなる人があつた。此人はロバート・オーエンの門下で、勞働者の賃銀を一般に高めやうとする努力は無益である。なぜならば資本家は、此より生ずる損害を償ふ爲に生産物の價格を引上げるからである。斯くして勞働者は、生活費昂騰の結果として結局又もと通りの状態に引下げられると云ふ議論を主張したので、マルクスは之れに答へる爲に、評議員會で一場の講演(英語)を試みた。其草稿は、一八六五年六月に開かれた國際大會にも提出されたが、マルクス存命中には遂に公にされなかつた。エンゲルスの死後此草稿が發見されたので、マルクスの娘にして英國の社會主義者アヴエリングの妻となつてゐたエリアナアの手で『價値、價格及利潤』(Value, Price and Profit)と題する小册子の形で公刊された。

此書の内容は或意味に於て『資本論』の綱要とも見ることが出來、又マルクス經濟論に對する一瞥とも云へる。それは單に後年公にされた『資本論』第一卷の主題を含むのみでなく、又マルクスの死後エンゲルスに依つて編纂された其二及び第三卷の内容にも觸れてゐる。マルクス經濟論の發達史上極めて重要な著述である。

9 資本論第一卷成る

一八六七年七月廿五日、マルクスの生涯の大事業たる『資本論』(Das kapital)第一卷が公にされた。マルクスの最初の計畫では此書を三卷に分ち、第一卷は『資本の生産行程』を取扱ひ、第二卷は『資本の流通行程』、及び『資本の總行程』〔、〕第三卷は『學説史』を取扱ふ筈であつたが、不幸にして第一卷を完成したのみで永劫の眠りに入つたので、後ちエンゲルスは右の第二卷の前半の草稿を『資本論』第二卷として(一八八五年)、又其後半を第三卷として(一八九四年)公にし、更にマルクス門下隨一の學者たるカウツキイは、エンゲルスの死後其委託に從ひ、前記の第三卷『學説史』を『剩餘價値學説史』(Theorien neber den Mehrwert)として(一九〇四―一九一〇年)公にした。

右のうち『資本論』は全三卷とも英譯があるが、『剩餘價値學説史』はまだ英譯されて居らぬ。

『資本論』は資本主義の經濟を支配する理法及び動力を解剖したる最初の大仕掛けな科學的試みであつた。マルクスは資本家的生産の解剖に依つて、總ての利潤の源泉を探究し、それが勞働者より搾取せる剩餘價値の領有に存することを明かにした。マルクスは此の剩餘價値説に依つて、勞働者は資本家的生産方法のもとに、原則として其勞働力の充分の價値を受けるものであるが、それでも尚資本家に搾取されてゐることを看破した。マルクスの見る所に依れば、資本家的搾取の事實は、勞働者が自己の提供する勞働力なる商品に對して其充分の價値を與へられると云ふ原則的條件のもとに説明されなければならぬ。然らば斯くの如き條件のもとに、資本は如何にして剩餘價値を搾取することが出來るか。曰く、それは勞働者が自己の勞働力以上の價値を造るからである。即ち自己の生産物の全價値を受けることが出來ぬからである。

マルクスは正統派經濟學の遺した價値説から、即ち總ての生産物は其生産に費された勞働時の分量に依つて決定されると云ふ見地から出發して、勞働者が有する唯一の商品たる勞働力を解剖し、此商品こそ實に總ての利潤の唯一の源泉であることを發見した。此商品の價値は他の諸商品のそれと同じく、其生産上、社會的に必要なる勞働時の分量に依つて定まる。然るに勞働量なる商品は勞働者の身體と分つべからざるもので、此商品の生産に必要なる勞働時とは、畢竟勞働者が自己の生存を維持するに缺くべからざる商品、即ち勞働者の衣食住を生産するに必要なる勞働時のことである。つまり一日の勞働力の價値は、勞働者の一日の生活資料の價値に等しいのである。

然るに社會の進歩は、勞働の生産力の増進を促すものであつて、此増進したる生産力の結果勞働力は資本家が之れを工場に於て生産的に消費する際、自己の價値、換言すれば自己を再生産するに必要なる價値よりも遙かに大なる價値を造る。此勞働の再生産に必要である以上の價値は、即ち剩餘價値であつて資本の利潤の唯一の源泉を成すものである。

マルクスは此の剩餘價値説の確立に依つて、資本家的社會に特有の周期的産業危機の原因及び其性質を説明することが出來た。彼れは、資本主義の發達と共に、資本家が勞働者より搾取したる剩餘價値を實現すべき市場がますます乏しくなることを指摘した。資本主義は一方に生産の社會的方面を發達せしめ、他方に生産物の個人的領有を保存してゐる。富と共(と)〔に〕貧を造る。限りなき勞働と共に限りなき怠惰を造る。生産過多と共に消費過少を造る。之れ實に資本家的生産方法に特有の社會的矛盾であつて、マルクスは此矛盾の中に、資本主義崩壞の原因を見た。即ち社會的生産と個人的領有との矛盾は、勞資階級鬪爭の客觀的原動力であつて、此鬪爭の結果は遂に資本の倒壞、勞働の勝利を以て了り、個人的領有は社會的領有となり、生産と領有との間に何等の矛盾なき社會状態の實現せらるべきことを仄めかした。

以上は『資本論』第一卷のアラ筋であつて、マルクスは更に第二卷に於て、資本家的流通行程を研究して商品の流通、金(隔)〔融〕機關の機能、及び資本の回轉を明かにした。そして更に第三卷に於て勞働者より搾取したる剩餘價値が産業利潤、利子、地代等に分裂する過程を闡明し、又『剩餘價値學説史』に於ては、フイジオクラツト派以後リチヤード・ジヨースに到る、各經濟學者の利潤觀を批評的に叙述した。

10 巴里一揆の勃發

『資本論』第一卷の刊行後三年、即ち一八七〇年、ビスマルクの鐵血政策の結果として普佛戰爭が勃發した。マルクスは當時、氣象學者が空氣の流動を觀察するが如き冷靜の眼を以て、此事件の發展を觀測した。普佛兩國の戰鬪的勞働者は此戰爭に反對したが、其勃發は遂に之れを停止することが出來なかつた。

佛軍は遂に破れた。巴里は普軍の包圍する所となつた。此時、飽食暖衣の愛國者等は直ちに之れを敵軍に交附しやうとしたが、平素祖國を有せずと宣言してゐた勞働者等は却つて之れを防禦した。彼れらは實にチエール及び其一味の愛國者に依つて放棄せられたる巴里の共和制を防禦したのである。そして佛國のブルヂヨアが其勞働階級の武器を執つて起たんことを恐れ、勝利者たる普軍の足下に拜跪するを見るや、彼等勞働者は遂に一八七一年三月十八日、共和救護のために蜂起し普軍及び自國のブルヂヨアに對抗した。

之れ實に有名なるコムミユン(巴里一揆)であつて、此一揆を有効に終らしめんことは實に『國際勞働者協會』の重大なる任務であつた。而かもコンミユンは優勢なる武力に依つて鎭壓せられ、同時に又『協會』は到る所に其公然の運動を妨げらるゝに至つた。

コムミユンの如何なるものなりしか、其奮鬪と死とは何を意味したか、それはマルクスの手に書かれたる『佛蘭西の階級戰爭』(Klessenkaempfe in Erankreich)によりて知ることが出來る。マルクスは素より『國際勞働者協會』設立者の一人として此一揆に加つたのであつた。かくて此書は、マルクス自身の實戰記であると同時に又一面に於て唯物史觀説の應用として、貴重なる歴史的價値を有するものである。英譯は"The Civik War in France"と云ふ。

11 安らかな眠へ

『國際勞働者協會』はコムミユンの沒落後、全く其地位を一變した。即ち外に於ては實際運動の希望全く閉され、内に於ては各派の衝突と空想的陰謀とが漸く其頭を擡げて來た。當時マルクスは協會の總取締りの任にあつたが、其事務と責任とは次第に増加するの状勢を示した。彼れは今、何事を措いても『資本論』の續卷を完成しなければならぬ。そこで協會の組織性質に對しても何等かの變更を必要とした。是に於て、彼れは一八七二年ハーグ大會に於て、無政府主義者バクーニン一派との分離を遂げたる後、其本部を紐育に移さんことを主張し、遂に大會の承認を得た。彼れは之より『資本論』に專心することが出來た。

然し其後と雖も、彼れは尚各國、殊に獨逸の勞働運動に對して絶えず注意を拂つてゐた。一八七五年ラツサルレ派とリープクネヒト、べーベル派との聯合大會開かれた時、彼れは長文の書を送つて其綱領に就き論ずる所があつた。當時彼れの主張は、兩派聯合の機を逸するの恐ありしため採用されなかつたが、後年エル(ルフ)〔フル〕ト大會に於ける綱領改正の際、悉く採用された。有名なる『エルフルト綱領』と稱するものが即ち之れである。

彼れは元來強健なる體躯の持ち主であつたが、過度の勞働に依つて得た痼疾の爲め次第に衰弱を加へ、一八七〇年代には各地に其病を養ふの餘儀なきに立ちいたつた。

其上、一八七五年から一八八〇年までの間、マルクスの周圍には不幸が續いた。初めに其孫等が死んで、痛く彼れを悲ませた所へ、またエンゲルスの妻が去り、續いて一八八二年彼れの妻イエンニイが死んだ。それは彼れに取つて、如何ばかりの打撃であつたらう。ハイゲイトの墓地で葬式が濟んで、彼女の遺骸が穴の中に降されると、彼れはよろよろと倒れかゝつて、僅かにエンゲルスに依つて助けおこされた。

一八八二年、マルクスは佛蘭西の社會主義者ロンゲー(彼れの長女の夫)を訪れ、それから亞弗利加の北岸アルジール邊を旅行し、次いでワイト島のヴエントノアに遊び、一時健康を恢復したが、翌一八八三年倫敦に歸つてから六週間ばかり危篤の状態に陷つた。それから一時稍々見直したが、同年三月十四日遂に死んだ。エンゲルスが急報に接して行つて見ると、マルクスの三女エリアナアと忠婢エレンとが泣いてゐる。どうしたかと聞くと、何うも知覺が無くなつたやうだと言ふ。エンゲルスが書齋に行つて見ると、マルクスは知覺が無くなつたどころでなく、微笑を唇に湛えて全く死んでゐた。

附記。以上の外、マルクスの著書としては、一八四八年三月十三日から十八日にかけて獨逸の到る處に勃發した革命運動を評論せる『革命及び反革命』(英文Revolution and Counter-Revolution)及び一八四八年から同五一年(1)にかけての佛蘭西の騷擾期を批評解剖した『ルイ・ナポレオン論』(Der achtzehnte Brumaire des Louis Bonaparte英譯The Eighteenth Brumaire of Louis Bonaparte)等が最も弘く讀まれてゐる。因みに、本文載する所の諸書は悉く書肆大鐙閣計畫の『マルクス全集』中に網羅される。



注記:

※文字を増補した場合は〔 〕内に入れた。
※文字を訂正した場合は本文を( )に、訂正文を〔 〕に入れた。

(1)底本は「八仝一年」に作る。文意によって訂正した。

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