第二章 マルクス説と私の立場

高畠素之

1 何もかも自分の爲

坊主が憎くけりや袈裟までの逆を行つて、人物を愛慕すると其人物に附屬する一切に惚れ込むと云ふ、謂ゆる人物崇拜、盲目的の沒我道樂は、僕の頗る滑稽視する所である。僕は人物に惚れ込むことはあつても、其人物の有する主義・主張・學説・思想の内容に對しては、常に冷靜の批判的態度を守るつもりでゐる。(1)又、主義・主張・學説・思想の範圍内に於ても、其一部を受入れるが故に(2)他の部分までを受入れねばならぬとは信じて居らぬ。善い所は取るし、惡い所は捨てる。彼方からも此力(3)からも、善い所だけを(或は善いと信ずる所だけを)掻き集めて來て、それを自説の爲に利用し吸収し總合し組織する。何もかも自分の爲であつて、相手の人物の爲ではない。僕は常に斯う云ふ態度で(4)總ての人物に對してゐる。

2 マルクスの人物と學説

僕はマルクスと云ふ人物が大好きだ。(5)あの猛烈な獸性と、總てを支配せねば已まぬと云つたやうな熱火の如き權勢慾と、そしてそれを指導し調味する鐵の如き意力と、縱横無碍の奇略と、鋭利なる頭腦と、該博なる智識と、辛辣なる掛引と、小兒の如き無邪氣さと、春風の如き温情とは、眞に人間臭き人間の王なる哉と叫ばしめる。僕は世界史上、未だ曾てマルクスほど偉大なる人物を發見したことが無い。

然し此偉大なるマルクスの學説になると、必ずしも總てが偉大と云ふ譯ではない。或部分は既に陳腐化し、或(6)部分は今尚ほ新鮮である。新鮮なる部分と雖も、必ずしも總てが完全と云ふ譯ではない。

3 マルクスの哲學

マルクス説は、便宜上これを哲學的、社會學的、及び經濟學的の三方面に區分して考へることが出來る。哲學的方面に於ては、彼れは徹頭徹尾唯物的一元論者(7)であつた。唯物的一元論は總ての既成形而上學説(或は實在論(8))のうち、比較的最も(9)眞理に近い(10)ものと、僕は信じてゐる。只、それは總ての實在論の豫備條件たるべき、認識作用の考察を缺いてゐる。宇宙萬有は唯物的に一元だと云つても、人は元來宇宙萬有と云ふ絶對的實在を認識する能力を具備してゐるか何うか。それを先づ定めなくては論にならぬ。

僕の見る所に依れば、我々の認識機關は只だ(11)時空に制限された感覺經驗のみを許るす。我々に認識される(12)世界は、悉く時空の有限界に限られてゐる。我々は到底、この自由有限界以上の世界を知ることは出來ぬ。我々は只、感官の色眼鏡を通しての世界を知り得るのみである、(13)此の眼鏡を離れての、即ちカントの謂ゆる『物それ自體』の世界は、我々の認識の外にある。そして我々の認識に屬する世界、即ち我々の感覺經驗の範圍内に於ては、總てが唯物論者の主張する通りに動いてゐる。其所には一點の『自由』がなく、只『必然』があるのみである。

故に若し、唯物論が單なる諸科學の科學として、我々の經驗界のみを其の(14)研究對象とするならば、僕は一點も唯物論に反對する理由を見出さぬ。然るに唯物論者は、其自ら意識すると否と、公言すると否とに拘らず、事實上、形而上學(或は實在論)の繩張りに踏入つてゐる。なぜならば彼等は、我々の經驗界が即ち實在界であつて、我々の經驗の外に實在は無いと主張するからである。

此點になると、唯物論は却つて唯心論に對して一籌を輸する嫌ひがある。なぜならば、我々の(15)經驗の外に實在は無いと云ふことは、我々の主觀の世界が即ち實在だと云ふことになつて、結局バークレイ流の極端な觀念論に降參することになるからである。此の(16)弱味があるので、同じマルクス正統派の中でも、ポール・ラフアルグの如きは、我々の五感に映じた世界ほどアテにならぬものはない、我々は自己の五感でなく、物質の感覺に依つて眞理を認識するなどと云ふ、意味ありさうなナンセスを持出すことになつたのである。

兎にかくマルクスの唯物的一元論は、他の總ての既成唯物論と同じく論理の不徹底であつて、マルクスの辿つた論理の脈絡を今一歩押し進めたならば、結局僕の謂ゆる懷疑的唯物論に到達しなければ止まなかつたであらう。(第三章參照)(17)

4 マルクスの歴史觀

次ぎにマルクス説の社會學的方面は、即ち『唯物史觀』(18)或は『經濟史觀』(19)として知られてゐる。所が此説にも亦、唯物的一元論と同じ程度の論理の不徹底がある。

マルクスに從へば、『人の衣食住を生産する方法』が、即ち『(20)其社會上及び智識上の一般生活を決定する。』然るに『人の衣食住を生産する方法』或は簡單に『出産方法』(21)なるものは、人間對自然の直接關係としての生産方面即ち生産技術(22)ではなく、人間對人間の關係、即ち社會關係を通じての、人間對自然の關係である。然るに社會關係と云ふ以上は、必ず其れに應當した一定の、法律上(竝びに道徳上)及び政治上の關係がなければならぬ。我々は經濟上の關係を外にして社會關係を考へることが出來ぬのと同じく、又法律上及び政治上の關係を外にして社會關係を考へることは出來ぬ。經濟關係は社會關係の實質を示し、法律上及び政治上の關係は即ち其形式を示してゐる。同じ社會關係を、其の實質的方面から觀察すれば經濟關係となり、其の(23)形式的方面から觀察すれば政治法律關係となる。經濟と法律及び政治とは、互ひに因果的關係に立つものでなくて、同位同格(24)のものでなければならぬ。

故にマルクスが、生産方法を以て法律上・政治上その他(25)の生活を決定するものとなしたのは誤りである。生産方法その者が、既に一定の法制關係(26)を前提してゐる。それは決して、マルクスの謂ゆる『物質的』關係にのみ極限されるものではない。生産方法はマルクスの主張する如く、法律的及び政治的『上部建築』(27)の依つて以て組立てらるべき『社會の眞實の基礎』ではなくて、法律上及び政治上の諸關係に締め括られた、社會生活上の實質的内容である。

尤もマルクスは他の一方に於て、此の(28)生産方法その者が又更に『物質的生産力』に依つて決定されることを認めてゐる。彼れは言ふ。『人類は社會的に其衣食住を生産する爲に、自己の意志からは獨立の、必然的の或種の關係を造る。其關係は即ち其社會に於ける物質的生産力の發達程度に相應する生産關係である。此關係の總和が社會の經濟的構造、即ち眞實の基礎を成すもので、此基礎の上に法律的及び政治的の上部建築が組立てられ、又之れに相應して或種の社會的自覺が生ずる事になる。』(『經濟學批評』序文)。即ち『社會の眞實の基礎』たる『生産關係』は、『物質的生産力の發達程度』に適應するものでなくてはならぬ。換言すれば『社會の眞實の基礎』の眞實の基礎は、物質的生産力だと言ふ(29)ことになる。

然るに此の(30)物質的生産力なるものは、其れ自體として生ずるものでなく、更に又他の種々なる條件に決定される。マルクスは其れらの決定條件の主なるものとして、『勞働の熟練の平均程度、科學竝びに其工藝的應用の發達程度、生産行程の社會的結合、生産機關の範圍及び能率、及び諸種の自然關係』を擧げてゐる(『資本論』第一卷第六版六頁)。(31)即ち其中には、科學の如き智識上の條件があるし、(32)また(33)生産行程の社會的結合の如き純社會的條件(既に法律上及び政治上の諸關係を前提とする所の)もあつて、社會の眞實の基礎が却つて或範圍まで、其『上部建築』に決定されることを許るすことになる。

要するに、社會的諸關係の間に、交互因果的の連絡を求めやうとする態度が間違つてゐるので、社會的諸關係は總てが同位同列のものである。いづれが原因、いづれが結果と稱すべきものでなくて、總て同時に竝存するものである。只、同じ社會生活を其の(34)内容的方面から見れば經濟生活となり、其形式的方面から見れば法律政治生活となると云ふ差異が存するのみである。

5 マルクスの經濟學

最後にマルクス説の經濟學的方面を考へて見る。マルクスの經濟學説は『資本論』前後三卷に網羅されてゐる。勞働價値説(35)、剩餘價値説(36)及び生産價格説(37)の三の主要方面を含んでゐる。そして此三者の間には、首尾一貫した論理の脈絡がある。剩餘價値説は勞働價値説の必然の歸結であり、生産價格説は又勞働價値説及剩餘價値説の論理的歸結である。マルクス批評家の間には、マルクスの生産價格説は其の(38)勞働價値説及び剩餘價値説を裏切つたものである、生産價格説は眞理であるが、他の二説は虚妄であると主張する者が多いが、僕は左樣に信じない。勞働價値説及び剩餘價値説の根底に立脚しないで、生産價格は何うしても之れを充分に説明することは出來ぬ。(39)

然し僕は、マルクスの經濟學説が其の(40)唯物史觀説の歸結若しくは應用であると云ふ、マルクス自身及び一般マルクス信徒の説に左程重きを置くことは出來ぬ。マルクスの經濟論は其の(41)唯物史觀説から引離しても、結構存在の意義を保ち得る。歴史哲學に於て唯物史觀を排斥し、經濟論に於て勞働價値説その他を受入れることは少しも論理の矛盾でない。マルクス自身の主觀に於て、其經濟論が唯物史觀の應用であつたからと云ふて、我々も亦左樣に信ぜねばならぬ理由はない。『資本論』前後三卷の本文數千頁を通じて、唯物史觀を積極的に説いた所は一箇所もない。偶々それに言及した箇所はあつても、それはホンノ暗示に過ぎず、分量から云つても僅々十數頁に過ぎぬ。其十數頁を全部削除しても(42)『資本論』の論理的連絡はそれが爲に何等の支障(43)を受けぬ。(第四章參照)(44)

6 マルクス經濟反對論

マルクスの經濟論、殊に其根底たる勞働價値及び剩餘價値説に對しては、批評家側からいろいろの反對論が提出されてゐるが、殆ど一つとして取るに足るものは(45)ない。但し茲で一々それを數へ立てる餘裕がないので、就中目星しいもの三四を槍玉にあげて筆を擱く事にする。

第一、マルクスは價値の要件として、物の效用性即ち使用價値を無視したと云ふ説、(46)マルクスは勞働が價値の唯一の源泉であることを主張すると同時に、使用價値が價値の前提條件であることを主張した。使用價値の差異がなければ交換は行はれぬ。交換が行はれなければ商品はない。商品のない所に、價値の考察は無意義である。只、種々なる使用價値としての商品が互ひに交換(47)されるには、其夫々に共通の第三者が含まれて居らねばならぬ。それが即ち勞働である。そして夫々の商品の交換比例は、其體現する勞働の分量に依つて定まると云ふのが(48)マルクスの眞主張である。マルクスは決して價値の制限的(49)條件としての使用價値を無視せざりしのみか、却つて其れを自説の出發點と成してゐる。

第二、勞働の分量が價値の大小を決定するとするならば、生産者は怠惰であり不熟練であるに從つて、益々多大の價値を産出すべき筈であると云ふ説。マルクスは價値の大小を決定するものが個人的勞働の多寡でなくて、社會的に必要なる人間勞働の分量であることを主張する。隨つて(50)社會的標準以上に怠惰不熟練なる者は、たとひ人一倍長時間働いても、其割りに多大の價値を造ることは出來ぬ。

第三、價値が勞働に依つて決定されるものならば、何ゆえ勞働を加へざる土地に價値があるか。曰く、土地には價値なし。地價は地代を資本に評價したものに外ならず。地代は剩餘價値の一形態である。剩餘價値は勞働價値説に依らなければ、充分に之れを説明することは出來ぬ。

第四、偉大なる藝術品の價値も亦、勞働の分量に依つて決定されるか。曰く、藝術上の特殊品は社會的に再生産(51)され能はざるものである。隨つて社會的に必要なる人間勞働の分量と云ふ尺度を應用することは出來ぬ。或は藝術上の特殊勞作は、一種の獨占的性質を帶ぶるものと見ても善い。マルクスの勞働價値説は、自由競爭に依る商品交換にのみ當嵌るもので、獨占の範圍内には之れを應用することは(52)出來ぬ。

第五、マルクスの剩餘價値説は勞働時間の短縮のみを眼目に置き、其短縮に逆比例する勞働能率の増減を無視したと云ふ説。之れは福田博士が熱心に唱へて居られる。此説は確かに一理あるものと僕は考へるが(53)、然しさう云ふ缺點はあつたとしても、それは結局剩餘價値率の計算に影響するだけのことで、剩餘價値その者の根本理論を動かすに足りない。(附録參照)(54)

以上の外に尚いろいろの反對論が提出されてゐるが、大抵モウ説き古したものであるから、茲に冗々しく反覆することを止める。拙譯『マルクス資本論解説』にも其一二を紹介批評してあ(55)る。(56)

要するに、僕はマルクスの人物を愛慕し、その(57)哲學・社會學説を棄て、其經濟論の本質(58)を全部受け入れると云ふ、一種異樣(59)の自由批判的態度を以てマルクスを利用してゐる。



底本:『マルクス學研究』(公文書院,大正八年十二月)
初出:『中央公論』第三十四年第七号(大正八年七月)
初出の論題:「▽マルクスの坊主と袈裟」

注記:

※初出の章題は(一)(二)……となっており、題名はない。例)「1 何もかも自分の爲」→(一)
※以下、初出との異同を記す(底本→初出)。


(1):でゐる→てある
(2):故に→故に、
(3):此力→此方
(4):態度で→態度で、
(5):だ。→である。
(6):或→我
(7):徹頭徹尾唯物的一元論者→傍点あり
(8):實在論→「オントロギー」のルビあり
(9):最も→最を
(10):近い→近く
(11):只だ→只
(12):される→せらるゝ
(13):、→。
(14):其の→其
(15):我々の→或々の
(16):此の→此
(17):(第三章參照)→なし
(18):唯物史觀→傍点あり
(19):經濟史觀→傍点あり
(20):『→なし
(21):出産方法→「プロデウクチヨンスワイゼ」のルビあり
(22):生産技術→「テクニーク」のルビあり
(23):其の→其
(24):同位同格→「コオルヂ子ート」のルビあり
(25):その他→其他
(26):法制關係→法律政治關係
(27):上部建築→「ユーベルバウ」のルビあり
(28):此の→此
(29):言ふ→云ふ
(30):此の→此
(31):。→なし
(32):、→なし
(33):また→又
(34):其の→其
(35):勞働價値説→傍点あり
(36):剩餘價値説→傍点あり
(37):生産價格説→傍点あり
(38):其の→其
(39):以下、「(尚、此問題に就ては『國家社會主義』六月號拙文『資本論第三卷まで』及び拙譯『マルクス資本論解説』原著者序文並びに同書第二篇第四章『剩餘價値と利潤』參照)」あり
(40):其の→其
(41):其の→其
(42):しても→しても、
(43):支障→支障中斷
(44):(第四章參照)→なし
(45):は→が
(46):、→。
(47):交換→奕換
(48):云ふのが→云ふのが、
(49):制限的→豫備
(50):隨つて→隨つに、
(51):再生産→「レプロデウチーレン」のルビあり
(52):は→が
(53):へるが→てゐるが
(54):(附録參照)→なし
(55):あ→ゐ
(56):以下、「尚、マルクス經濟論の正體に就ては、來る九月中に發行される僕の資本論全譯を熟讀せられたし。」あり
(57):その→其
(58):其經濟論の本質→其經濟論
(59):異樣→なし

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