第六章 資本論第三卷まで

高畠素之


1 はしがき

マルクス『資本論』第一卷の全譯はマダ公にされないが、其大要は既に幾度びか紹介された。曾て山川均氏が『大阪平民新聞』で其梗概を紹介したことがある。福田徳三博士の『勞働經濟講話』にも、可なり詳しく紹介してある。其他何々博士何々教授の經濟學や社會問題に關した書物を見ると、大抵曲りなりにも其梗概を紹介してある。近くは又、賣文社から其解説書が出た。

それで歐羅巴語の讀めぬ人でも、『資本論』第一卷に何んな事が書いてあるか位ゐは大體見當がつく。所が第二卷第三卷になると中々さうでない。殊に第三卷は、其の經濟學的價値に於て第一卷に劣らぬものと云はれてゐる位ゐであるが、從來その要點を批評したものとしては、僅かに福田博士の『經濟學講義』があるばかり。

そこで何とかして、其ホンノ大體の骨子だけでも紹介し度いとは、私の日頃の(縮願)〔宿願〕であつたが、何しろ事が面倒なので已めにした。茲に紹介するものは、第三卷の梗概と云ふよりは、寧ろ其梗概の序文に過ぎぬものである。

2 資本論矛盾説の矛盾

マルクス批評家の中には、マルクスが『資本論』第一卷の立場を第三卷に於て覆へしたと主張する者がある。然し此説の取るに足らぬことは、之等兩卷の内容よりも先づマルクスの著述履歴が之を明かに證明してゐる。元來、マルクスは一八四七年、既に其經濟説の根本觀念を明白に造り上げてゐたので、箇々の特殊問題に關する細目に就ても其多くは既に一八六三年迄に草稿として纏められてあつた。『資本論』前後三卷、及びエンゲルスが其第四卷として編纂する筈であつた『剩餘價値學説史』の重要部分は、總て之等の草稿中に含まれてゐた。其後に造られた草稿は、只だ右の一八六三年迄の分を補充布衍したのみで、原理の上には何等新しき物を加へなかつた。

されば一八六七年、マルクスが『資本論』第一卷を公にした當時には、第三卷の骨子は既に全部仕組まれてあつたので、若し論者の主張する如く、第三卷に依つて第一卷の原理が顛覆されたとすれば、第一卷の原理は其れを書かぬ先きに既に裏切られてゐたものと解するの外はない。マルクス程の大知識が、マサカそんなヘマを爲る筈はなからう。又爲たにした所で其れを氣付かぬ譯はない。氣付けば何とかボロを出さぬやうな細工をしさうなものだ。

3 資本論前期の諸作

以上はマルクスの著述史から見た辯解であるが、更らに兩卷の内容から判斷しても、一向怪しい所はない。否、見事に首尾一貫してゐる。第三卷は第一卷の否定でなくて、其當然の歸結であることが分る。

『資本論』前期に於けるマルクスの經濟著書を年代順で數へてゆくと、先づ『哲學の窮困』及び『賃銀勞働と資本』を擧げねばならぬ。此二つは何づれも一八四七年に公にされたもので、當時マルクスは尚未だ『勞働』と『勞働力』との區別を立てることが出來なかつた。即ち勞働は價値を造るも、それ自體には價値を有せざる人間行爲であるが、勞働力は其れ自體に價値を有する一箇の商品であつて、其商品の價値はそれが再生産に要する勞働時に依つて定まると云ふ、重要な區別を立てることが出來なかつた。正統派經濟學に從ひ、勞働力と云ふべき所を尚勞働と呼んでゐた。

『哲學の窮困』及び『賃銀勞働と資本』に次いで、一八五九年『經濟學批評』が公にされた。此書は後年『資本論』第一卷の根底を成した價値及び使用價値の解剖を行つたもので、マルクスは之に關して『資本論』第一卷第一版の序文中に次の如く言つてゐる。『經濟學研究の内容は本卷第一篇第一章に概括されてある。其概括は單に連絡及び完備の爲のみではなく、又、其説明を改善した。如何やうにか事情の許す限り、彼書に於ては單に暗示に止まつてゐた多くの點を、本書では一層充分に説明した。反對に又、彼書に於て詳細に説明した事を、本書ではホンノ暗示に止めた所もある。彼書に納めた價値及貨幣説の歴史に關する諸節は、言ふまでもなく、全部之を削除した。然し彼書の讀者は本書第一篇第一章の傍註に於て、右の學説の歴史に關する新らしき參考資料を發見するであらう。』

斯の如く『經濟學批評』の實質は、總て『資本論』第一卷の中に精選復載されてあるが、さればと云つて後者が出來たから前者はモウ不要だと云ふ譯ではない。殊に前者の序文中に納むる唯物史觀の組織的説明は、マルクスが此方面に殘した最も貴重の文章と云はれてゐる。

價値及び使用價値の問題は、既に『經濟學批評』の中に取扱はれてゐるが、剩餘價値及び利潤に對する其關係に就ては、同書にはまだ何等の説明が與へられなかつた。前記の『賃銀勞働と資本』では既に資本が剩餘價値の結果であることを説いてゐるが、勞働及び勞働力を價値に對する其關係に於て解剖しなかつたので、剩餘價値及び利潤の問題竝びに勞働力對資本の交換に於ける物價の働き、更に剩餘價値の産出及び其の利潤化に關する問題に就ては、尚ほ不明の域を脱することが出來なかつた。

右に次いで此方面に一歩を進めたものは、『價値、價格及び利潤』に關する講演であつた。此講演は一八六五年六月、國際勞働者總會に於て述べられたもので、マルクス説の總體に對する一瞥と見ることが出來る。それは單に『資本論』第一卷の主題を含むのみならず、又全三卷の問題に觸れてゐる。若し『資本論』第一卷の讀者にして、此講演の一語一句を熟讀玩味したならば、彼等は商品が常に何處に於ても、其價値通りに賣買されるか何うかと云ふ問題に就て、左程頭を痛める必要はなかつたであらう。なぜならば、マルクスは此講演に於て既にヱストンの賃銀基金固定説を否認し、生産及分配に於ける諸々の要件が絶えず變動しつゝある事、及び價格が資本家の自由意志に基かずして經濟的理法に左右せらるゝ事、竝びに賃銀の増騰は消費資料に對する勞働者の需要を増大し、此需要増加は遂に消費資料の供給を超過するに至るが故に、結局物價騰貴を招來するに過ぎぬことを明かにした〔。〕斯くの如くにして、價格は一時的に價値より遠ざかることあるも、軈て競爭の作用は、徐々に物價の平衡を恢復するであらう。

以上は勿論、ホンノ暗示として、右の講演に含まれて居る。其眞意義は『資本論』第三卷に依つて始めて明瞭になつた。尤も第一卷の中にも、其多少の暗示は與へられて居る。

尚、も一つ此講演に於て一層重要なる事は、平均利潤率が甲の生産部門に於て低落し、乙の生産部門に於て上進する結果、甲の資本が乙に移轉すると云ふ問題である。元來、一定の生産部門に放下された總ての資本を通じて平均利潤率が實現されると云ふことは、其生産部門内の箇々の資本家が自己の生産物を其夫々の價値で賣らないで、價値とは必らずしも一致せざる價格で賣ると云ふこと、隨つて夫々の資本家は其夫々の産出する剩餘價値に比例してゞなく、其夫々の資本が當該生産部門の總資本に於て占むる百分率に比例して、利潤を収めると云ふことを意味する。

4 資本論第一卷の制限

以上は總て、マルクスが『資本論』第一卷を公にするズツト以前に暗示した所であつて、若し第一卷の研究に當り、之等の暗示を忠實に念頭に置いたならば、總ての商品は其夫々の價値で賣られると云ふ問題を中心とする、例の論爭は悉く之を避けることが出來たであらう。右の講演は實に、一八八五年エンゲルスが『資本論』第二卷の序文に於て經濟學者に提出したる課題の解決手引たり得るものであつた。元來マルクス説に依れば、同じ大さの資本でも、其組成分子たる可變資本と不變資本との比例が違へば、其獲得する剩餘價値の分量も亦當然に異つて來たらねばならぬ筈である。然るに事實は夫と反對に、可變部分と不變部分との比例を異にする種々なる同額の資本は、同一期間内に同額の平均利潤を獲得してゐる。此事實に對して、マルクス説を如何に調和すべきかと云ふのが、右のエンゲルスの課題の要旨であつた。此課題の解決は既に前記の公演中に含まれてゐる。此講演に於て、マルクスはアダム・スミスに關連し『自然價格』(平均價値)が物價動搖の中心點を成してゐる事を述べた。今、此暗示を、可變資本對不變資本の比例變化より受くる剩餘價値算出上の影響に就て試みたるマルクスの解剖と合せ考ふる時は、右に云ふエンゲルスの課題の解決方途は、容易に之を窮知することが出來る。

尤も右の講演では、マルクスはまだ『剩餘價値律』と云ふべき所を『利潤率』と呼んでゐる。然し彼は一方に、平均構成の資本を假定してゐる。平均構成の資本は其商品を價値通りに賣る。隨つて此場合、利潤は剩餘價値と一致する。唯、彼れは利潤率は之を總資本に對する計算に求むべきか、それとも可變資本に對する計算に求むべきかに就て、明確の判斷を缺いてゐた。然し此缺點は、『資本論』第一卷に於て全然訂正された。

以上の外、マルクスは當時尚ほ左の諸點に就て充分の説明を公にすることが出來なかつた。即ち可變資本對不變資本の比例變化が、絶對的及び相對的剩餘價値に及ぼす影響。商品それぞれの價値とは必らずしも一致せざる價格の働きに依り、剩餘價値が利潤に轉化すること、及び此轉化を支配する一般的理法。

右の中、第一點は『資本論』第一卷に於て充分に闡明された。然し第一卷も第二卷も、剩餘價値對利潤の關係を説明しなかつた。此最初の兩卷は總ての商品が其價値通りに賣買されると云ふ假定に立つた。それは説明の混雜を避くる爲に必要なことであつて、マルクスは決して箇々の事業が此假定通りに進行してゐるとは信じなかつた。然るに、『資本論』以前に於けるマルクスの諸著作、殊に前記の講演『價値、價格、及び利潤』を知らぬ人々は、動もすればマルクスが箇々の事實も亦右の假定通り進んで居るかの如く信じたやうに主張する。そこでマルクスが第三卷に至り、箇々の事實と右の假定との間に不一致の存することを認むるや、彼れらは茲ぞと計りにマルクスの變説改論を喋々するのである。

5 第一卷及第二卷の目的

然らば第一卷及び第二卷の右の假定は、全然事實に立脚せざる架空の斷案かと云ふに決してさうでない。否、此兩卷の研究對象の範圍内に於ては全然事實に一致して居る。なぜならば、此兩卷の目的は生産及び流通方面に於ける全體としての社會的資本を取扱ふことであつて、此全體としての社會的資本に對しては、商品が其價値通りに賣られると解し得るからである。

殊に第一卷は、賃銀勞働者と資本家との歴史的關係を説明するのが目的であつて、箇々の資本家間の關係を研究するのではなかつた。從つて、社會及び其全體としての資本勞働の立場を離れる必要は毫も存しなかつたのである。

要するに、第一卷も第二卷も、社會的總剩餘價値が箇々の資本家の間に分裂する問題とは沒交渉であつて、剩餘價値の利潤化は敢て問ふ必要がなかつたのである。即ち第一卷は單に商品の生産のみを取扱ひ、(等)〔第〕二卷は其流通を取扱つた。そして資本の諸相及び諸機能は、必要勞働に對する其關係に於て分析された。

然し此兩卷を綿密に研究し、そして其れを第三卷と比較對照するならば、前者の職分が畢竟後者の道ならしに過ぎぬことを發見するであらう。マルクスは第一卷に於いて、資本が可變及び不變の兩部分に分裂することが、剩餘價値造出に對して有する重要意義を明かにし、第二卷に於ては更に不變資本が固定及び流動の兩部分に分裂することが、資本の回轉に、從つて剩餘價値の流通に對して有する重要意義を明かにした。此後者の意義は、我々が第三卷に入り、生産費及び生産價格(即ち生産費に平均利潤を加へたるもの)の成立に對する固定資本の役目を研究するに及んで判明する。我々は又、此固定資本と流動資本との區別に依つて、資本家が常に其利潤率を自己の總資本に對して計算し、其計算に於て、總資本中の固定部分が全部消費されたか何うかに關しては一向頓着しない事、そして又其動機が專ら自己の収得する利潤を、其實際額よりも小さく見せるにある事を發見する。

6 平均利潤及び生産價格

斯くの如く、『資本論』前期の諸作、及び資本論の最初の二卷を仔細に調べて見るならば、我々はマルクスが『資本論』第三卷に於て、寸分も其前二卷の根本原理を變更したものでないことを發見する。マルクスの經濟著書は總てが同じ方向への論理的段階である。總て(か)〔が〕同じ根本材料に立脚してゐる。勿論、用語には一致を缺いた點もある。然し其用語の意義は一々説明してある。又少なくとも、『資本論』前後三卷を通じては總ての用語は一貫してゐる。

マルクスが『資本論』第一卷に於て、價値及び使用價値、竝びに不變資本、及び可變資本に關して與へた説明、更に第二卷の固定資本及び流動資本に關する説明は、總て其資本構成説の根本材料を成したものである。そして『資本論』第三卷の主題たる剩餘價値の利潤化、平均利潤率の成立等は、みな此資本構成説の必然の歸結である。元來、第一卷及び第二卷は、商品が其價値通りに賣買されると云ふ前提に立つてゐる。而も此前提は、社會の總資本を全體として見たる場合、或は只、社會の總資本と同じ有機的構成を有する資本(斯くの如き資本を平均的構成の資本と呼ぶ)に對してのみ可能である。

然るに社會の、若しくは同じ生産部門の、夫々の資本が、いづれも此平均的構成を有すると云ふことは事實あり得ない。社會の總資本の中、或者は其構成の發達が平均よりも後れて居り、不變部分よりも可變部分の方が、平均以上に大きい。之を低度構成の資本と云ふ。之に反して或資本は又其構成の發達が平均より進んで居る。即ち可變部分よりも不變部分の方が平均以上に大きい。之を高度構成の資本と呼ぶ。

扨て總ての資本は、競爭市場に於ける販賣を目的として商品を造る。そこで若し、需要供給の關係が平準を保つとすれば、平均的構成の資本は其生産物を價値(即ち不變資本、可變資本及び剩餘價値の總和)通りに賣る。同樣に他の夫々の資本も亦、此平均構成の資本が決定する平均價格にて其生産物を賣る。然るに高き構成の資本は、平均構成の資本よりも一層低價格で商品を生産するので其商品の販賣に依つて得られる平均利潤は、それを其の價値通りに賣る場合よりも、一層多くの剩餘價値を含むことになる。之に反して低度構成の資本は、平均構成の資本よりも高價値に商品を造るので、單に平均的利潤しか得られぬとすれば結局其の剩餘價値の一部を喪失することになる。

斯くて總ての資本は、各生産部門の、若しくば社會全體の平均的生産條件に依つて決定される平均價格で、其夫々の生産商品を賣る。そして總ての生産方面に於て、其謂はゞ基調的部門を成すものは、生活必要品を生産する部門である。生活必要品は實に勞働者の生活の大部分を形成するもので、不變資本に對する可變資本の價値比例を決定するものである。いづれの資本も生産費(即ち消費さられたる可變資本と不變資本との總和)に平均利潤を附加へる。そして此生産費と平均利潤との總和は、マルクスの謂ゆる生産價格を成す。平均構成の資本の生産價格は、即ち平均的生産價格である。

7 利潤遞減の法則

然るに需要供給は元來平均化の傾向を有するが、實際平均を保つことはない。人口の増殖と同時に、勞働の生産力も亦、生産技術の進歩、新沃土の開墾その他に依つて増進する。斯くて生産は屡々需要を超過して増大する。其の結果、資本は甲の生産方面を去つて、乙の生産方面に集中する。同じ一國内に於ても、勞働者の有り餘る生産方面と、不足なる方面とが出來てくる。斯くて甲時代に於ける平均的資本の調節地位は、乙時代に於ける其れと違つた構成の資本に取つて代はられる。そして高度構成の資本は、生産技術なり、需要供給なりの變動に依つて競爭の高まる毎に、最も有利の位置を占むるもので、平均構成及び低度構成の資本よりも安價に賣つて、而も尚ほ利潤を贏得することが出來る。

されば平均利潤率は決して固定的のものでなく常に其大さを變更してゐる。そして競爭の力は常に可變資本よりも不變資本を一層急速に増大する傾きを帶びてゐるので、競爭の續く限り利潤率は益々低下する傾向がある。

8 獨占の出現と利子

然るに競爭の必然の歸結は獨占であつて、獨占の出現後と雖も尚、上記の不變資本が可變資本よりも一層急速に増大すると云ふ傾向は繼續するが、然し最早競爭を恐れる必要がない。獨占者は競爭の作用に依るよりも、寧ろヨリ多く自己の欲する通りに其商品の價格を定めることが出來る。此、意識的な又氣儘な人間の制御力が、今や、制御し難き競爭の壓力に干渉し、競爭のもとに價値理法に依つて設けられた制限を超越する。

價値理法に打勝たうとする此獨占力は、競爭が尚市場を支配してゐる時に於ても、既に種々なる樣式を以て出現してゐる。殊に其初徴は利子及び地代の二方面に現はれる。

マルクスに依れば、利子も地代も共に剩餘價値の顯現態であつて、資本家的生産方法の下に於ては、雙方とも多かれ少なかれ産業的利潤の支配を受ける。そして又、産業的利潤は價値の理法に支配される。利子地代は斯くの如く産業的利潤の支配を受くる限り、利潤率と共に遞減の傾向を有さなければならぬ。然るに利子地代は、最初より獨占的性質を帶びてゐる。そして其獨占される限りに於て、それ等は多かれ少なかれ價値理法の支配を免れることが出來る。それと同時に價値理法は又競爭が産業界を支配する限り、多かれ少なかれ利子地代を支配する。

然るに銀行、株式會社、爲替手形等の發達と共に、利子は大部分、價値理法の支配を免れることになる。資本家的債卷の多くは、其背後に現實の價値を有せず、銀行預金でさへも、其大部分は現實の價値に依つて支持せられざる有樣となる。而も之等の預金なり債券なりには、總て利子が支拂はれる。そこで此種の利子に關しては、マルクスはそれが價値理法に支配せられず、全く偶然の支配に屬すること、從つて其歩合を決定すべき一定の理法なきことを言明した。かくて産業的獨占の出現と共に、利子と産業利潤との必然的結合は悉く打破せられ、獨占者は社會的理法に頓着なく好き勝手に生産及分配を支配することが出來る。然し彼等と雖も結局社會的理法の支配を免れることは出來ぬ。

合衆國最近の金利歩合は、南北戰爭當時に比して毫も劣らざるのみか、寧ろ一層高率を示してゐるといふ事實から推して、マルクスの利潤率遞減説を否認する學者がある。然し之は大なる誤解であつて、マルクスは決して金利歩合が絶對に産業利潤率に從ふとは主張しなかつた。彼れは只、利子が競爭の下に獲得せらるゝ産業利潤の中から支拂はるゝ限り、産業的生産の理法が利子を支配すると説いたに過ぎぬ。彼れは決して、銀行、金貸業者、株式投機者等が獨占的地位を占め、其資本の大部分が假想價値であると云ふ事實を見逃さなかつた。又、金利歩合が大部分、貨幣獨占者をして其『資本』の使用に對し高利を課せしむる如き市況に決定されると云ふ事實をも否認しなかつた。されば我々は此點に於て、爪の垢ほどもマルクス説を『修正』する必要を見ない。我々はマルクス説に依つて獨占の出現が齎らす一切の現象を充分に説明する事が出來る。

9 地代の種類及び本質

次に、地代に關してもマルクスは最初より、それが獨占の結果であることを認めてゐた。彼れは地代の史的形態を、勤勞地代、現物地代及び貨幣地代の三つに類別し、更に資本家的貨幣地代を相對的地代及び絶對的地代に類別した。そして此相對的地代は又二つの主要形態に類別される。其一は自然的豐度を異にする土地、同時に放下したる資本より生じ、其二は同一の土地に順番に放下したる(而も夫々結果を異にする)資本より生ずるものである。

絶對的地代は地主の獨占的地位と農業特殊の性質より生ずるものである。元來農業資本は工業資本に比し、其構成が一般に低度である。即ち平均構成の資本に比し、其可變部分が比較的大きい。從つて其剩餘價値率が比較的高いのである。利潤平均化の傾向に從へば、此平均率以上に高い剩餘價値部分は、他の平均以下に低い資本の方へ流れ込むべき筈であるが、土地は元來獨占的のものであつて、競爭の壓迫を超絶してゐるので、結局農業資本家は工業資本家と同じく平均利潤率を以て滿足し、それ以上の剩餘價値を地代として地主に支拂ふ。之が即ち絶對的地代〔で〕ある。

前に言ふ相對的地代は、此絶對的地代以上に尚土地の豐度、諸種の自然力等に依る勞働生産力の増進より生ずるもので、地主は之等の有利なる條件を獨占してゐる。そこで之等の條件を具備する土地に放下された資本は、他の絶對的地代のみを生ずる最下等地に放下された資本の生産費及利潤に依つて決定される平均生産價格にて其農業生産物を賣ることが出來る。斯くして生ずる剩餘利潤は、獨占のお陰で利潤平均化の埒外に立ち、地代として地主の領有に歸する。

10 修正説の修正を要す

之等のことは、毫もマルクスの價値説と抵觸しないのみならず、却つてマルクスの價値説より出發する時に始めて其眞相を理解する事が出來る。利子地代がマルクスの價値理法に直接支配されないのは、獨占の必然的結果であつて、マルクスは最初より競爭の支配下に立つ商品生産の域内に於てのみ、其價値理法の行はるべきことを主張した。同時に又、彼れは獨占の事實及其必然の結果を看過しなかつた。此點に於て、マルクス説は一點一角も修正を要しない。修正を要するものはマルクス説でなくて、マルクス説に對する修正論者の有意無意の誤解その者でなくてはならぬ。



注記:

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