『マルクス経済学』備忘録

凡例

  • 底本には『マルクス經濟學』(『現代經濟學全集』第四卷、日本評論社、昭和四年)を用いた。
  • 底本の漢字は、jis第二水準以内の漢字は一律に旧字に改めた。
  • 底本に新字体(当時の略字)が用いられている場合も、jis第二水準以内の漢字は一律に旧字に改めた。
  • 仮名遣いは底本に依った。
  • 二字の踊り字は、一々注記せず、一律に文字に置きかえた。但し「ゝ」「ゞ」「々」はそのままとした。
  • 原文に見られる明かな誤植・誤字は、注記せずに直した。但し意味として通じる場合、或いは高畠氏自身の用字と思われるものはそのままとした。
  • ルビは小文字で( )に括った。
  • 傍点は太字に置き換えた。

底本

  • 現代經濟學全集第四卷
  • マルクス經濟學
  • 著 者:高畠素之
  • 發行者:鈴木利貞
  • 印刷者:君島 潔
  • 印刷所:共同印刷株式會社
  • 發行所:株式會社日本評論社
  • 昭和四年八月十日印刷
  • 昭和四年八月十五日發行

備考

本書の成立過程と問題点について若干記しておく。なお本書は序説以外は諸種の点からテキスト化する予定は無い。

本書の目録などは「著書一覧」の「備忘録」に挙げてあるので、そちらを参照されたい。ここでは本書が如何なる経緯で成立したか、具体的には高畠素之の絶筆たる本書の中、何処までが高畠素之の筆になるのかの考察を記しておく。

本書は高畠素之の著書ということになっている。その著書の中でも、彼の絶筆ということになっているのである。ただこの絶筆というのが曲者である。同じ絶筆でも、本書を完成させた直後に死去したか、或は校訂のみを弟子が行った場合は、ほぼ問題なく高畠素之の著書として問題なかろう。併しこの書はその意味での絶筆ではなく、高畠素之が完成を期していたという意味の絶筆である。ひとまず本書序言にある石川準十郎氏の次の一文を引く。本書が昭和三年九月に着手され、同十一月末には既に高畠素之の手に完成し得る望みの無くなったことを記した後、次の様に云った。(やや込み入った内容であり、私が書き直すと問題を起す可能性のあるため直接引用することにする。著作権は侵していないと考える。――問題が有ればすぐ削除しますので訴える前にご一報を。)

……その時には既に、その完成稿が二百字詰原稿用紙約七百枚(本書全体の約半分)に達してゐた。が、その後遂に再び起つ能はずして、その年も暮れんとする十二月二十三日、我々の環視の中に永眠したのである。

その死去に先ち、執筆を断念するに際して、氏は私にその完成を遺託したのであつた。そこで私は、異常な緊張の下に、一応、精密に氏の立画したところの叙述体系に即し且つ氏の直接指示せるところに従つて、これを遂行すべく考へた。然し、その後の考慮と事情とは、殊に出来るだけ急速にこれを完成しなければならないといふ事情は、最初のこの私の考へを変更せしめ、同門下の他の諸君との協力の下に、大体氏のこれまでの他の著述に論述せるところのものを基として、編纂的にこれを執筆完成することになつた。随つて本書は、私の手に依つてのみ承述追補されたものではない。本書後半の更に約半分を占むるところの、第三部『余剰價値の配分』及び第四部『資本制生産の崩壊』と、第一部の一部分(第三篇『協業・分業・機械』)は、同門下の神永文三、小栗慶太郎、橋野昇の三氏の協力を俟つて成つたものである。

……我々の手に成れる本書後半は、本来高畠氏の意図したところのものに充分精密に即し得なかつた。例へば読者は、本書序説一の中に、『……』と述べてあり乍ら、その遂に果されずにゐることに気付かれるであらう。また更に同様に序説一の中に、『……』と書かれてあり乍ら、これも遂に果されずにあるを見られるであらう。斯かる一切は、前記の事情のために、これを果し得なかつたのである。しかし私は、それがために、先に高畠氏の書き下したところのものを、後に我々の一存で勝手に削除し変更すべきではないと考へ、これをそのまゝに保存した。……

ここからは少なくとも高畠自身、序説は執筆していたことが分る。次に「二百字詰原稿用紙約七百枚(本書全体の約半分)」も同じく高畠の手になるのであろう。それ故に「我々の手に成れる本書後半は」とも言い得るのである。その逆に高畠門下の手に成ったものは、「本書後半の更に約半分を占むるところの、第三部『余剰價値の配分』及び第四部『資本制生産の崩壊』と、第一部の一部分(第三篇『協業・分業・機械』)は、同門下の神永文三、小栗慶太郎、橋野昇の三氏の協力を俟つて成つた」のであるから、確実に第三部と四部、及び第一部第三編は高畠の筆には成っていない。そこで問題になるのは、「本書後半の更に約半分を占むるところの」と云われる以外の本書後半の前半半分、即ち「本書全体の約半分」の「半分」なる部分がどこかということになる。

この場合、半分は二つ考えられる。先ず頁の半分。次に篇章の半分である。頁の場合ならば、全430頁の半分、215頁前後が高畠執筆の限界となる。篇章の半分であれば、全四部なる本書の第二部までが高畠の筆となる。(尤も部ではなく篇乃至章で分けられないではないが、篇も章も通し番号ではないため、この可能性は低いと思われる。)

第一の頁の場合はどうであろうか。215頁を見れば直ぐに分るが、第一部第四編第二節第二項「全資本の労働者の所産化」がある。数頁前(209頁)に第四編が始まっているので、概ね第一部第三編までが前半で、それ以後が後半ということになる。次に篇章の場合はどうであろうか。第三部は321頁に始まるので、全体の75%余りが高畠の執筆した半分ということになる。厳密に第一部第三編(157~208頁)を引くと、総計60%余りが高畠執筆部分ということになる。前者の場合ならば、第一部の大部分が高畠の手に成ったことになるが、後者の場合ならば第一部大半と第二部全てが高畠の筆となる。何れが正しいのであろうか。

ここにより厳密に考えるならば、「随つて本書は、私の手に依つてのみ承述追補されたものではない。本書後半の更に約半分を占むるところの、第三部『余剰價値の配分』及び第四部『資本制生産の崩壊』と、第一部の一部分(第三篇『協業・分業・機械』)は、同門下の神永文三、小栗慶太郎、橋野昇の三氏の協力を俟つて成つたものである。」とある如く、第一部第三篇及び第三部と第四部は神永文三諸氏の手になるが、「本書後半の更に約半分」の前半部分、即ち石川準十郎氏の手になった部分が存在する筈である。この場合、前記の分類で云うと、篇章の半分というのは無理が生ずる。即ち第三部と第四部とは兎も角、第一部の大部分と第二部が高畠の手になるならば、石川氏の執筆場所が無くなるからである。ならば一応は頁の半分を高畠の自著と見做すべきであろう。

頁の半分ならば、第一部の大部分が高畠の手になり、第二部は石川氏の手になることとなる。この場合、215頁の中には第一部第三編が含まれるので、その部分50頁余りをを足して、第三編を除く1頁から260頁前後が高畠の手になることになる。260頁は第二部第一編第一章第一節中であるから、概ね第一部の大半を高畠の自著と認めてよいことになる。これならば第一部の大半が高畠の自著、第一部第三編のみ門下が担当し、第二部は石川氏、第三部と第四部は神永諸氏らの担当ということになる。だが本当にそうであろうか。

今一つの前提たる、「二百字詰原稿用紙約七百枚」とはどれほどの分量であろうか。200*700=140,000字であるから、これを本書一頁あたりの字数と比較すれば概算が出る筈である。本書は標準1行50字*17行であるから、一頁850字ということになる。ならば140,000/850で、「二百字詰原稿用紙約七百枚」は本書の164頁強に相当する。164頁というのは、第一部第三編に入って三頁目であるから、概ね第一部第二篇までに相当することが分る。無論字数の計算は概算であり、実際には一頁の増減はそれなりにあり、且つ二百字詰原稿用紙一枚分の増減もそれなりにあるであろう。併し大凡の目安にはなるはずである。

併し二百字詰原稿用紙七百枚が第一部第二篇までに相当するならば、上記頁の半分なる仮定も若干訂正を要する。即ち第一部第二篇までを高畠氏が担当し、第一部第三編及び第三部・第四部を神永氏等諸氏が担当し、第一部第四編及び第二部を石川氏が担当したことになる。原稿用紙から換算した164頁というのは、本書の半分よりはやや少ない。併し大目に数えようと思えば、半分と言えないではない40%弱である。

勿論これらは何れも高畠氏が第一部第一篇第一章から順次執筆した場合の話しであり、飛び飛びに執筆した場合は全く無意味に帰するのである。併し高畠は『マルクス学解説』其他等に於いて既に幾つもマルクス経済学に関して総括していることからすれば、冒頭より構成を立ててそのまま執筆したと言えないではあるまい。ならば本書は、第一部(確実にその中の第三篇は省かれる)のみが高畠の手になり、それ以外は彼の手にならないと考えられる。

ここまで長々と書いてきたが、その程度の理由で、確実に高畠のマルクス経済学最後の総括を示す部分を有意的に提示し得るとすれば、それは本書序説のみで充分であろうし、第一部第二篇までを開示した所で、それ程の意味はあるまい。これが今回のテキスト化に際して序説のみを対象とした所以である。

とはいうものの、或は上述の所と矛盾するようでもあるが、斯くの如き高畠の執筆範圍が何処までかという問題は、実際にはそれほど本質的ではない。昔は弟子が先生の文章を代作することも稀ではなく、高畠素之も多々それを用いていたらしい。門下と称される人々も、高畠素之の筆を真似て文章を作り、彼らしい文句を用いて解説を続けている。現代的な厳しく著者を明白にする立場からは兎も角、旧い意味ではこの本は高畠素之の著書ということになるであろう。

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