第二講 資本主義の必然的崩壞

高畠素之

1.唯物史觀の現社會適用

マルクスの唯物史觀説の大體の概念は、前講に述べた通りであるが、これに依れば、一定の社會組織は物資的生産力の發達程度に應じて、その基礎上に成立するものである。これ故、生産力に變化が起れば社會組織も隨つて變化する。即ち生産力の發達に伴つて、社會組織も亦、變化發達するのである。社會の生産力は、一日も休むことなく不斷に進歩する。然るに社會組織なるものは、一度び確立された後には、法律や習慣などに依つて固定され、不變化されて來る。そこで、最初は生産力とよく調和し、生産力の進歩を助長した社會組織も、生産力が發達して或る程度以上に達すると、もはやこの調和が保てなくなる。初め生産力の發達を助長した社會組織が、今や却つてその障碍となるのである。社會の生産力が發達するにつれて、社會組織との矛盾衝突は益々甚しくなり、遂には社會組織の改造、即ちマルクスの所謂社會革命なるものが避け難い勢ひとなる。斯くして遂には、進歩せる生産力に相應した新たなる社會組織が造られることになる。社會の進化は斯樣に、經濟的進歩の結果として必然的に進行してゆくのである。

マルクスの見るところに依れば、現在の資本制社會も亦、斯かる歴史的變化を免れ得るものでない。資本の私有と、自由なる營利競爭とを基礎として組み立てられた資本制社會組織は、その内部の生産力と調和してゐる間は立派に存續する。けれども生産力が或る程度以上に達すると、もはや從前の如き效力を示すことが出來なくなり、却つて種々なる弊害を示すやうになるのである。資本主義經濟の發達した國に於いては、今や既にこの社會組織と生産力との間の矛盾が著しい程度に達してゐて、近き將來に社會革命の來たるべきことを豫想せしめる段階に達してゐる。

然らば資本主義經濟の内部に存する矛盾とは、抑も如何なるものであるかといふに、この經濟組織に於いては營利といふこと、利潤の獲得といふことが、凡ゆる生産活動の動機となつてゐるに拘らず、生産力の進歩に伴つて利潤を得る可能が益々減少して來る。利潤獲得の可能が減少すれば、それだけ、生産に對する刺戟が稀薄となり、生産力の進歩は阻まれることになる譯である。斯くして、資本私有に基づく營利經濟は、或る限點に達したとき必然的に生産力の進歩を阻止するやうになる。そこで、生産力がこの限點を乘り越えて更らに進歩し得るやうにするためには、資本私有の營利經濟組織を打破することが必要となる。かくして、資本主義經濟はそれ自身の内部に含まれる法則に依つて、必然的に崩壞せざるを得なくなるのである。

マルキシズムに於いては、資本主義崩壞の行程を上述の如く唯物史觀の學説に結びつけてゐるのであるが、これは唯物史觀の立場を離れても行程し得られぬことはない。元來、一定の現象がそれ自身の内部に含まれる矛盾に依つて崩壞するといふ如き見解は、すべての科學に見出され得るところであつて、斯樣な必然の行程を認めるといふ事と、唯物史觀的に一元的なる必然の行程を認めるといふ事とは、必ずしも同一であることを要しない。唯物史觀に於いては、一切の社會的變遷を生産力の變化發達に歸せしめる。即ち唯物史觀は生産力一元の必然觀を採るのであるが、一元的であるにしろ、多元的であるにしろ、又假りに一元的ではあるとしても、それが生産力一元であるか、他の因子一元であるかを問はず、資本主義を以つて一つの經濟組織と見做し、この經濟組織はそれ自身の内在的矛盾に依つて必然的に崩壞するといふ見方は、經濟上の法則が他の一切の社會的法則を決定すると見るか否かといふ事からは獨立して、單に經濟上の法則それ自身だけの上からも肯定し得るところである。經濟的發達の合則性を、經濟的法則の必然性を認めるといふ事と、經濟的法則を以つて他の一切社會的法則の決定原因たらしめる事との間には、概念上明かなる區別が與へられねばならない。

が、此等の兩見解はいづれも、資本主義の内部に包藏される矛盾を以つて、經濟上の矛盾とする一點に於いては相共通してゐる。然しこれを經濟上の矛盾と見ないでも、資本主義がそれ自身の内在的矛盾に依つて崩壞するといふ見解は成立し得る。例へばツガン・バラノフスキーの如きは、資本主義が一方には、勞働に從事する人間を經濟上の一手段に化してしまふと同時に、他方には萬人の人格の中に最高の目標を置くところの權利概念を普及せしめたといふ點に、資本主義の内在的矛盾を、資本主義崩壞の必然的矛盾を認めた。この場合には資本主義それ自身の内部に含まれる矛盾は肯定されるけれども、それは單なる經濟上の矛盾とはされず、寧ろ經濟上の法則と倫理的規範との間の矛盾とされるのである。ツガン・バラノフスキーは、この矛盾のために資本主義が必然的に崩壞して、社會主義の樹立に到らしめることを力説してゐる。

然し以上いづれの見解を以つてしても、資本主義經濟が、資本主義それ自身の内部に含まれる矛盾に依つて崩壞に歸するといふ一點は、等しく肯定し得るところである。マルキシズムに於いては、資本主義經濟が斯く必然的に崩壞すると共に、その基礎の上に立つ一切の社會制度も亦、必然的に變革されると説く。而してその後に出現すべき社會は、國家の名に於いて資本(生産機關)を所有し、産業を經營するところの經濟組織、即ち社會主義の經濟組織を基礎として成立する。斯くして、資本私有と個人營利の原則とに依つて進歩を阻まれてゐた社會の生産力は、新たなる發達の路を見出すことになる。而して資本主義經濟のもとに發達した生産力は、多數の勞働者が協力するところの大規模な生産方法を生み、大資本の集積集中を生んでゐるのであるから、資本を國家の所有に移し、生産を國家の管理に轉ぜしめる準備は、今日既に與へられてゐる譯であつて、社會主義の社會は極めて合理的に、何等の無理もなく實現されることになるのである。

資本主義社會と社會主義社會との交代の、この必然性に對する科學的論證となつたものは、即ちマルクスが大著『資本論』の中に展開した所の鬱然たる經濟學説である。これより、マルクスが資本崩壞の過程を如何に論證するかを見ることにしよう。

2.資本の生命

現代社會は何故に資本主義社會と謂はれるか。そこでは資本が最高の權威を持ち、資本が支配するところの經濟組織がその基礎となつてゐるからである。世人は動もすれば、資本と富とを混同する傾きがある。これほど大きな錯誤はない。富は單なる物的對象である。如何なる社會形態の下にも、富は存在し得る。然るに資本は單なる富ではなく、一定の社會關係の下に置かれた富である。この社會關係とは即ち、富の所有者をして、富を所有せざる人々の勞働を直接に利用することに依つてヨリ多くの富を、貨幣に言ひ現はされた利益(利潤)を獲得せしめるところの關係を謂ふ。この關係を外にして、富の存在は考へられるけれども、資本の存在は考へられない。

即ち資本とは、貨幣利益を得るため私的に利用せられるところの富であつて今日直接私消費に定められて居らない富の殆んど全部は、この資本的利用の下に置かれてゐるといつても過言ではない。隨つて、富の生産を目的とする産業が、今は徹頭徹尾、資本的の動機に依つて動かされるやうになつたのは、是非もないことである。

資本としての富の目的は、貨幣利益の取得といふ一點に盡きることは上述の通りである。資本の心には血も涙もない。在るものはただ、粲然たる黄金の光りのみである。否、義理も、人情も、貞操も、良心も、國家も、國民も、この粲然たる黄金のためには、自己増殖上の一手段と化せしめられる。貨幣利益獲得のためには、資本は如何なる犠牲をも忍び、如何なる行爲をも敢てするのである。貨幣利益獲得のためには、國家の軍隊に砂の鑵詰を提供することをすらも恥としない。愛國も賣國も、不義も道徳も、賣淫も貞淑も、若しこれらのものが利潤獲得の手段たり得るとすれば、その限りに於いて、資本の目には一切の區別對立が消滅する。殘る所はただ、利潤の多寡といふ區別のみである。この區別に對應して、種々異つた資本行爲が激成されるといふに過ぎない。これに就いて、イギリスのダニングといふ人は面白いことを言つた。

『自然は眞空を恐れると言はれてゐるが、恰度それと同樣に、資本は利潤なきところを恐れるのである。適當なる利潤があれば、資本は極めて大膽である。1割の利潤が確實であれば、資本は何處に於いても充用され得べく、2割の利潤があれば活溌となり、5割の利潤があれば積極的に大膽となり、10割の利潤があれば人間の定めた一切の法律を蹂躙し、30割の利潤があれば如何なる犯罪をも顧慮せず、所有者が死刑に處せられる危險をも顧みないのである。若し混亂と紛擾とが、利潤を齎らすとすれば、資本は自由にこれを奬勵するであらう。』

要するに資本の目的は、利潤の獲得及び増殖といふこと以外にない。而して資本家なるものは、この資本に目鼻をつけた存在物に過ぎないのである。彼等は利潤のためには如何なることをも敢てする。而して今日の社會は主として、斯かる資本主義道徳のために支配されてゐるのである。表面的には體裁の好い色々な政策や宣傳が行はれているけれども、多くは世人の目を欺瞞して、この根本目的を維持しようとするものに過ぎない。

3.利潤の源泉

然らば、資本家の利潤獲得の源泉となるものは何であるか。商品の生産こそ資本家が利潤を造り出す唯一の源泉である。資本家は、その所有する貨幣を以つて、生産に必要な機械や原料を買ひ入れ、勞働者を雇ひ入れて、商品を生産しこれを市場に賣り出して、最初に支出した貨幣よりも多くの貨幣を得る。生産に要した貨幣と、生産物を賣つて得た貨幣との差額、これが即ち資本家の利潤の本體となるものである。資本家は絶えず利潤を追求し、絶えず利潤の増大を欲してゐる。そこで彼等は利潤の一部を以つて自己の生活を享樂すると共に、他の一部をば最初の資本に追加して資本總額を増大せしめ、かくして從前よりも多量の生産をなし、多額の利潤を得る。資本は斯樣にして、多々益々増大せしめられることになるのである。

資本家は斯くの如く、商品生産から利潤を得るのであるが、然らば此利潤なるものは如何にして生み出されるか。マルクスはこの問題を次の如くに解決してゐる。

マルクスに依れば、甲なる商品の一定量と乙なる商品の一定量とが相互に交換されるのは、兩者の間に共通した或る物が含まれてゐるからである。その共通した或る物とは、一定量の人間勞働量を謂ふ。即ち人間勞働なるものは、商品の價値を形成する要素であり、價値實體となるものであつて、一商品の價値はその生産上社會的に必要なる勞働時間(その社會に平均的なる生産技術により、平均的能力を持つ勞働者が、平均的の勞働能率を以つて爲す勞働の一定量)に依つて決定される。然るに今日の社會に於いては、人間の勞働力も亦一種の商品であつて、他の商品と同樣に賣買される。而してこの勞働力なる商品の價値も亦、その生産上社會的に必要なる勞働時間に依つて決定されねばならぬ。勞働力の生産に必要なる勞働量とは、畢竟するところ、勞働者自身(及その一家)の生計に必要な衣食住の生産に支出される勞働量であつて、この勞働量が即ち勞働力の價値を決定する要素となるのである。

資本家は生産を行ふに當り、右の如くにしてその價値を決定されるところの生産機關(勞働要具及び原料)と勞働力とを買入れる。即ち、1日何程かの賃銀を以つて、勞働者の身體に含まれてゐる勞働力を自由に使用し得るところの權利を購買するのである。而して此等の生産機關と勞働力とを生産上に消費して、新たなる商品を造り出す。若し新たに造り出した商品の價値が、生産機關及び勞働力の購買に要した價値と同じであるとすれば、資本家の利益は少しもないわけであるが、新たに生産された價値が、支出された價値よりも大であるとすれば、資本家は利益を得たことになる。ところで、生産上に消費される生産機關の價値が、新たに生産される商品の中にそのまま移轉されるものであつて、物の形は變つても價値には増減を來たさない。斯かる移轉價値以上に尚ほ新たなる價値を附け加へるものは、專ら勞働力の機能に屬するところである。

抑も勞働力の價値なるものは、前述の如く、勞働者の生活を維持するに必要とされる生活資料の價値に等しい。資本家は賃銀を以つてこの價値を支拂ひ、1日の勞働力を勞働者から買ひ取るのである。ところで勞働者は工場に赴いて1日に何時間かを働けば、資本家から受取つただけの價値は生産し得るのである。然るに資本家は、與へた價値を返して貰ふだけでは滿足しない。勞働力の價値を回収し得る時間よりも更に長時間の勞働を、勞働者に強要する。勞働者が1日の勞働力の價値として受取る金高が2圓であるとし、それだけの價値は4時間の勞働で回収し得るとしても、資本家は勞働者が4時間で仕事を止めてしまふことを許すものでない。恐らく8時間か10時間か働かせる。若し8時間働かせるとすれば、差引き4時間分2圓といふ超過價値が資本家の手に殘される。これが即ち、資本家の餘剩價値となるものである。

餘剩價値は斯くの如く、勞働力を生産的に消費することに依つて生み出される。けれどもこれだけではまだ、資本家の利潤は完成されない。斯樣な餘剩價値を含む生産物をば市場に賣り出して、これを貨幣に換へることが、第二段の仕事となるのである。資本家は生産物を消費者に販賣することに依り、茲に初めて價値と共に餘剩價値をも實現することが出來る。即ち餘剩價値は商品の生産行程に於いて生ずるものであるが、その實現は商品の流通行程に於いてなされるのである。けれども既に生産された商品を斯く販賣するためには、更らに新たなる資本と勞働とを必要とする。この販賣のために新たに必要とされる資本及び勞働は、餘剩價値の立場からすれば不生産的なものであつて、何等の餘剩價値をも造り出すものではないのである。それ故、同一の資本家が生産と販賣との兩者を擔任するとすれば、彼れの資本の一部は必らず不生産的に使用されねばならぬことになる。然し現實に於いては、資本家間に分業が行れて、專ら生産に從事する資本家と、販賣のにみ從事する資本家との區別が生じて來る。而して商品の販賣に從事する資本家も、その資本に對して一定の利潤を得ることを目的としてゐるから、これがため生産に從事する資本家は生産行程に於いて成立せしめた餘剩價値の全部を我がものとすることが出來ず、その幾分を他の資本家(商人)に割讓せねばならなくなつて來る。

尚また、土地所有者から生産上に必要な土地を借りたり、貨幣所有者や銀行から資金を借入れたりしたとすれば、彼等に對しても、地代や利子として餘剩價値の一定分を割讓せねばならない。此等の割讓部分を控除した後に殘る部分が、即ち利潤(産業利潤)として生産資本家の手に収められるのである。

これを要するに、利潤の本體は餘剩價値であり、餘剩價値は生産行程に於いて造り出され、流通行程に於いて貨幣に實現される。而してこの餘剩價値の源泉となるものは、即ち勞働力の購買に投ぜられる資本(マルクスはこれを可變資本と名づけた)である。生産機關の購買に投ぜられる資本(マルクスはこれを不變資本と名づけた)は何等の價値、何等の餘剩價値をも生みいだすものではない。

4.資本の集積と集中

現社會の富は、急速に膨張を遂げつつある。然るに現社會の富なるものは、曩にも述べた通り、直接私消費に定められるものを除く外は、殆んど全部、資本として利用せられてゐる。それ故、現社會に於ける富の蓄積の大部分は、資本の蓄積に外ならないことになる。

ところで資本の蓄積は、仔細に觀察すると、二樣の形態を採つて行はれてゐることが知られる。その第一の形態は集積(コンセントレーション)であり、第二の形態は集中(セントラリゼーション)である。

資本の集積とは、技術的方面から見れば、一群の生産機關と勞働者とが、一つの中心に集つて有機的に活動することである。これを價値の方面から見れば一人の資本家の手に所有せられる資本金額が増大することである。更らに解り易く言へば、單位としての各資本が、夫々獨立を保つて増大して行くことである。いま茲に、ABCDの四資本があるとして、AはA'A"A'''といふ風に増大し、BはB'B''B'''、またCはC'C''C'''、更らにDはD'D''D'''といふ風に増大すること、これが即ち資本の集積である。これを卑近な例で示せば、ABCDといふ四つの雪だるまが、夫々に獨立を保つて雪の中を轉がされて行くやうなもので、轉がされる度數が殖えれば殖えるほど、いづれも大きくはなるが、如何に大きくなつても、依然として四つといふ數を保つてゐるのである。

次に資本の集中とは如何なることを指すかといふに、おのおの異つた所有者に屬する資本單位は、相互に競爭し合ふ一面を持つてゐて、相反撥すると同時に、又他面には、相互に吸引し合ふ性質をも具へてゐる。この吸引の一面が反撥の一面を壓倒したとき、獨立した各資本は幾つかづつ結合し合ふことになる。この結合過程は二樣に區別せられる。一つは幾つかの資本が競爭し合つてゐる中に、競爭に敗けた方が勝つた方に併呑される場合であり、他は第二者に對する競爭の必要上、強大なる力を造り出すために進んで幾つかの資本が合同する場合である。いづれの場合にも、資本の獨立した單位數が減じて個々の資本を大ならしめる。曩の例でいへば、AがBと合し、CがDと合する如きである。この場合には、ABCDといふ四つの單位はAB及CDといふ二單位に減じてしまふが、これらの單位は夫々自己の量を増したことになる。Aといふ雪だるまとBといふ雪だるまとが相合して一つとなり、CとDとも同樣に一つとなるのであるから、雪だるまの數は減つても、夫々の量はヨリ大となる。これが即ち資本の集中であつて、この集中が進めば進むほど、巨大なる資本が益々少數者の手に掌握されると同時に、他方には又、資本を持たない人々の數がますます殖えて來るのである。

マルクスの推論に依れば、この集中の勢ひが、若し何等の障碍にも出會ふことなく自由に進行して行くとすれば、終極に於いて資本家の數は次第に少なくなり、遂には一産業に投ぜられる一切の資本が結合されて、單一なる資本家の指揮の下に置かれる時が來る。これが一つの産業部門に於いて達し得る極度の集中形態である。又、一つの社會について言へば、單一なる個人資本家又は資本家社會の手に、社會的資本の全部が合一される瞬間にも到達し得るであらう。これが、一社會の内部に於いて達し得る極度の集中形態である。

5.蓄積の進行と可變資本の減退

資本から生ずる餘剩價値を資本に組み入れ、これを絶えず繰り返すことに依つて、資本家はその資本を不斷に増大せしめる。黄金を自家の金庫に充たすことは、彼等の最大目的であるが、これは又、必然避くべからざる條件として彼等の上に強制されてゐる。資本家同士は絶えず經營上の競爭をしてゐるのであるから、その結果、一定の産業部門に於ける企業の經營及び設備に必要な資本の最低限度は次第に高められて行く。

一例として、今日或る産業部門に屬する一企業の競爭能力を維持するに必要な最低投資額が2萬圓であるとすれば、20年後には新たなる勞働方法やヨリ精巧な機械の採用に依つて、投資の最低限界が5萬圓に増大するといふ如き結果を來たす。若し最初に2萬圓を持つて企業を開始した資本家が、利潤の蓄積を怠つた結果、20年後に5萬圓でなく、3萬圓の資本しか持たないことになるとすれば、彼れは恐らく競爭不能となつて立ち行かなくなるであらう。

餘剩價値の量が一定してゐる場合、蓄積を大ならしめようとすれば、資本家は彼れ自身の私消費を節減せねばならない。けれども餘剩價値の量は一定してゐるものでなく、方法の如何に依つて増大し得るのである。

その方法の最も重要な一つとなるものは、勞働力の價値を低減せしめることである。勞働者に對する支拂の量が少なければ少ない程、勞働者から搾り取り得る餘剩價値の量は益々大となり、而して資本家の私消費が増大しない限り、蓄積される餘剩價値部分も亦益々大となる。勞働力の價値を低減せしめる一切の原因、又は賃銀をこの價値以下に低減せしめる一切の原因は、資本の蓄積を助長するものである。そこで資本家及び其代辯者たちは、凡ゆる宣傳方法を用ゐて勞働者に儉約を勸めると同時に、また安價なる生活方法を發明する。而して、凡ゆる機會を捉へて賃銀を低減しようとし、賃銀の値上げに對しては最も頑強に反對する。

次に、いま一つの重要な方法となるものは、勞働時間を延長することである。如何なる國の資本家も此點には抜目がない。彼等は出來得る限り勞働時間を延長しようとし、短縮に對しては申し合せたやうに反對する。勞働時間を短縮すれば一國の産業が衰へるとは、資本家の口癖になつてゐるところであるが、彼等の言ふことにも一應の道理がある。何故かといふと、勞働時間を短縮すれば資本家の利益が減る。利益が減れば資本家は生産をする張合ひが抜け、生産に熱心でなくなるからである。營利を唯一の目的とする資本主義經濟の下に於いて、斯くなることは當然の歸結である。

然し勞働者が次第に勢力を得て來ると、資本家も我慾のみ張り通すことは出來なくなる。同盟罷工や怠業などを以つて手ごわく對抗される結果、或る程度の時間短縮は厭でも應でも承認せねばならなくなつて來る。

また假りに、勞働者の抵抗力がないとしても、資本家は1日24時間以上勞働させることは出來ない。人間1日の生活時間は24時間を最大限度としその間には食事もし、休息もし、睡眠もせねばならないのであるから、勞働時間を如何に延長しようとしても、この自然的限界を突破する譯には行かないのである。此等の障碍があるため、資本家は勢ひ勞働時間の延長といふことから一轉して、勞働生産力の増進といふ方法に頼らねばならなくなる。勞働生産力の増進が何故に、又如何にして、資本家の餘剩價値を増進せしめるかは、簡單に言ふと斯うである。

今假りに、1日の勞働時間が12時間であつて、そのうち必要勞働時間(勞働力の價値を回収するに必要な勞働時間)が6時間であるとする。即ち餘剩の勞働時間は6時間であつて、勞働者は自己の勞働力の10割に當る餘剩價値を資本家に與へるのである。ところで、この12時間なる勞働時間を延長しないで、餘剩價値を増加するには何うすれば可いか。答へは至つて簡單である。即ち、必要勞働時間を例へば4時間に短縮すれば可い。さうすれば自然に、餘剩勞働時間は6時間から8時間に延長される。1日の勞働時間は從前通り12時間であるが、必要勞働時間が4時間に短縮され、餘剩勞働時間は8時間に延長された結果として、資本家の餘剩は10割から20割に増加するのである。

然らば、勞働力の價値を回収するに必要な勞働時間を短縮するには、何うしたら可いか。勿論、勞働力の價値を低減すれば可い。ところで勞働力の價値なるものは、曩にも説明した通り、勞働者竝びにその一家の生計に必要な衣食住の生産に必要なる社會的勞働時間に依つて決定されるのである。それ故、勞働力の價値を低減するには、勞働者の衣食住を生産するに必要な勞働時間を減少せしめれば可いことになるのである。例へば勞働者が跣足で歩かないで、ゴム靴を穿くのが習慣であるとして、この場合一足のゴム靴を造るに必要な勞働時間が12時間から6時間に減ずるとすれば、勞働力の價値もそれだけ低減する譯である。

斯くの如く、勞働生産量の増進は、勞働時間延長の制限に依つて失はれる資本家の利益を償うて尚ほ餘りあるものである。然らば勞働生産力を増進するには、如何にすれば可いか。それには種々なる方法があるけれども、要するに勞働方法の改善と、勞働要具の發達との、いづれかに歸せしめられる。茲では後者に屬する最も顯著な一要素として、機械の改善を擧げる。

資本家が發達した機會を採用するには、二つの動機が働いてゐる。いづれも利潤の増進を求める動機には違ひないが、一つは生産物を價値以上の價格に販賣することに依つて、他は價値通りに販賣することに依つて、利潤の増進を圖らうとするのである。

機械の改善は勞働の生産力を増進せしめる。勞働の生産力が増進すれば、生産物個々の價値は低減する。そこで、同一種類の生産物でもヨリ進んだ機械を以つて生産した物の價値は、ヨリ小となる譯である。この生産物を若し、他の劣等な機械で造つた生産物の價値に從つて販賣するとすれば、ヨリ易い物をヨリ高く賣ることになるのであるから、茲に特別の利潤が得られる。資本家が我れ勝ちに、ヨリ優良な機械を採用しようとする意識的の動機は、主として茲に求められるのである。

けれども斯くして得られる特別利潤は、優良な機械が一般に行き渡つたとき消滅してしまふ。大抵の商品は、優良な機械で生産せられた商品の價値を標準として販賣されることになるからである。そこで資本家は、更にヨリ優良な機械を採用しようとする。斯くして益々改善せられた機械が出現することになるのである。

資本家が優良な機械を採用する、いま一つの動機は、これに依つて生活資料の價値を低減し、以つて勞働者の賃銀を低落せしめ、かくして餘剩價値の量を大ならしめんとすることである。餘剩價値とは、賃銀に充用される可變資本と新たに造り出される生産物價値との差額に外ならぬものであるから、勞働時間の延長は不可能であつても、賃銀が低減すればする程、餘剩價値の量は益々大となつて來る。この場合には、生産物を價値通りに販賣しても尚ほ、ヨリ大なる餘剩價値を獲得し得るのである。勿論、多くの資本家はこの關係を明白に意識してゐることはないかも知れぬが、資本主義の下に於ける機械採用の主要な動機が茲に存してゐることは疑を容れない。

6.餘剩價値生産上の困難

資本家は餘剩價値を増加するために、不斷に生産技術を革命改善し、勞働生産力を増進せしめる。ところで勞働生産力の増進といふことは、一定量の勞働(或は一定數の勞働者)に依つて運轉される生産機關の量が増大することを別の言葉で言ひ現はしたものに過ぎない。即ち、一人の勞働者に依つて加工される原料や、使用される勞働要具其他の物が増大することを意味するのである。これを價値の方面から見れば、勞働力の購買に投ぜられる資本(可變資本)の量に比して、生産機關に投ぜられる資本(不變資本)の量が増大するといふことである。

企業上に運轉される如何なる資本も、右の不變資本と可變資本との組合せから成つてゐる。マルクスはこれを資本の組成と呼んだ。資本の組成は、個々の企業に就いて見れば、おのおの相異つた比率を示してゐる。或る企業に於いては、不變資本と可變資本とが5分5分の割合を示してゐるかと思へば、また他の企業に於いては、前者が8、後者が2といふやうな割合を示してゐる。技術的發達が遲れてゐて、機械や工場などに多くの費用を要しない企業の資本組成は、不變資本の割合が比較的低く、可變資本の割合が比較的高い。これに反して、技術的發達の進んだ企業の資本組成は、不變資本の割合が比較的高く、可變資本の割合が比較的低い。マルクスは前者の如きを低位組成の資本と呼び、後者の如きを高位組成の資本と呼んだ。

然し、資本が次第に蓄積されて、勞働方法や勞働要具が改善され、勞働生産力が増進して行くに從ひ、いづれの企業も資本組成が益々高位に赴いて行く。勞働生産力の増進は利潤を増加することに依つて、資本の蓄積を促進するものであるが、資本の蓄積はまた、勞働生産力を増進せしめる原因となる。要するに、資本の蓄積と勞働生産力との兩者は、互ひに相助長しつつ發達して行くものである。

ところで、斯くの如く蓄積と生産力とが發達して、一定量の資本總額のうち、生産機關に投ぜられる部分が次第に増加し、勞働賃銀に投ぜられる部分が次第に減少して行くとすれば、資本家の餘剩價値はこれがため如何なる影響を受けるであらうか。

元來、餘剩價値を生み出す資本は、前にも述べた如く、可變資本のみに限られてゐる。生産機關の價値は、新たに造り出される生産物の中にその儘移轉されるに過ぎないのである。されば勞働生産力が増進して、可變資本の生み出す餘剩價値の量は増加しても、資本全體(可變資本と不變資本との總量)に對する餘剩價値の比率は次第に低減する。マルクスは可變資本に對する餘剩價値の比率、即ち、「餘剩價値÷可變資本」を餘剩價値率と名づけ、總資本に對する餘剩價値の比率、即ち「餘剩價値÷總資本」を利潤率と名づけた。そこでマルクスは、總資本に對するこの餘剩價値の比率の減退の傾向をば、利潤率低減の法則と名づけたのである。

資本主義的生産が發達するにつれて、あらゆる企業の資本は益々高位に赴き、社會の總資本に對する利潤の比率が次第に低減して行くことは、以上の述べた通りである。然るに資本制度の下に於ける産業の經營は、資本家が利潤を得て益々資本を増殖して行くといふことを、根本動力としてゐるのである。それ故以上に述べた如く利潤率が低減するに從つて、この根本動力の作用が弱り、遂には生産の發達を阻止するやうになる。資本制生産は斯くして生産力との矛盾衝突を益々甚しくし、それ自身の内部に含まれる矛盾的の法則に依つて、遂にはそれ自身の存在をも否定せねばならなくなる。

7.餘剩價値實現上の困難

以上は、不變資本に對する可變資本の割合が低減する結果、如何に餘剩價値の生産が困難となるかを示したのであるが、資本制生産に含まれる矛盾は單にそれだけではない。元來、資本制經濟の目的は商品を生産しただけでは達せられない。生産した物品を更らに販賣して、貨幣に換へ、生産物の價値を現實的のものとしなければ、目的の全部を達したことにはならないのである。然るに資本制度の下に於ける生産は、勞働生産力の増進に依つて加速度的に増加して行くに拘らず、生産物に對する消費者の購買能力は遙かに低微な速度を以つて増進するに過ぎないから、その結果、販賣不可能の商品が多量に生産されるといふ減少を招く。謂ふところの過剩生産(生産過多)なるものが即ちそれであつて、資本制經濟はこの過剩生産が慢性的となるに及び、遂には進退谷まつた状態に陷るのである。

然らば生産物は何故に、かく販賣不可能の状態に陷るか。これは二つの方面から考へられる。一つは生産物が外國市場で販賣不可能となること、他は國内市場で販賣不可能となることである。

マルクスは『共産黨宣言』の中で、次ぎの如く述べてゐる。『ブルヂォアは、その生産物のために絶えず市場を擴大してゆく必要がある故、地球表面の到る處に追ひやられる。彼等は到る處に巣を作り、到る處に住みつき、到る處に因縁を結ばねばならない。』『ブルヂォアは、總べての生産機關を急速に改善することに依つて、又絶えず交通機關を進歩させることに依つて、總べての國民を(野蠻國民すらも)文明に引き入れる。彼等はその商品の廉價を重寶として、凡ゆる支那の城壁を撃破した。……總べての國民は、滅亡を欲しない限り、ブルヂォアの生産方法を採用することを餘儀なくされる。』

要するに、先進國のブルヂォアは、その發達した生産方法に依つて造り出した値安き物品をば、産業の遲れた國に送り出して、その國の人民に賣りつけ以つて多大の利益を獲得する。資本主義文明の先驅者たるイギリスの如きは、植民地貿易や、未開國との貿易に依つて、今日の富を築き上げたのである。けれども植民地にしろ、未開國にしろ、その産業は永久にわたつて幼稚の状態に止まるものではない。ブルヂォアはその商品と共に、資本主義文明をも植民地や未開國に持ち込む。斯くして、此等の植民地や未開國には資本制生産は發達し、資本の蓄積が行はれる。先進國の商品は、もはや昔日の如く莫大の利益を獲得することが出來なくなる。從前未開の状態に在つた諸國の生産が發達して、先進國の商品に匹敵するところの生産物を造り出すことになるから、先進國の商品は單に此等の國の内部で競爭を受けるばかりでなく、延いては他國の市場に於いても競爭を受けるやうになる。競爭者が多くなり、競爭が激甚となれば、利潤はこれがため次第に薄くならざるを得ない。

今日、海外に有利な市場を見出し得ないといふことは、すべての資本主義國にとつて頭痛の種となつてゐる。輸出に依つて商品を賣捌くことが困難になるとすれば、遂には國内の市場を唯一の捌け口とするの外はなくなる。そこで、生産増加と國内市場との關係如何といふことが、第二の問題となつて來る。

元來、商品には二重の性質がある。その一つは、何等かの人間の欲望を充たすといふ自然的の性質であり、他は、一定の代價を以つて賣買されるといふ社會的の性質である。野川の水でもわれわれの渇を醫するに足るが、これを商品とは謂はない。商品といふからには、人間の欲望を充たすといふ性質の外に、一定の代價を持つといふことが必要である。即ち一家の代價の支拂に依つて、甲なる人の手から乙なる人の手に移轉されるといふことが、商品の第二の性質となるのである。

商品は斯く人の欲望を充たす性質を持つてゐるから、何人もこれを欲求するけれども、一定の代價を有するといふ第二の性質があるため、誰でも自由にこれを手に入れるといふ譯には行かない。ただ代價を提出し得る者のみが、これを手にし得るのである。されば、商品が如何に多く生産されても、これを消費しようと欲し且つ購買能力をも持つ所の人が増加しなければ、商品は空しく立腐れとなるの外はない。

けれども商品の中には、直接消費されることを目的としないで、寧ろ消費物を生産したり運搬したりすることに役立つ物品がある。例へば機械の如きはそれである。機械は工場に据え付けられて生産に利用される場合には、生産機關であつて商品ではないけれども、市場に在つて買手を求めてゐる場合には商品である。ところで機械工業の發達は、機械を造る機械をも商品市場に送り出すやうになる。而して直接個人的の消費に歸することのない斯種の商品を造る生産者がますます増加して、二重にも三重にも間接的な生産に從事する所の人々が生じて來る。此等の間接的な生産は、一見人間の直接的消費とは關係するところなく行はれるやうに考へられる。けれども事實は寧ろ、直接に消費物を造るところの生産があつてこそ、茲に初めて間接的の生産なるものが成り立つのである。例へば不景氣のために織物の消費量が減じたとすれば、織物生産者はその生産高を減らさねばならず、隨つて織物の生産に使用する綿絲や機械もそれだけ不用となり、綿絲や機械を生産する人々もその生産を制限せねばならなくなる。要するに、生活品、享樂品に對する需要の存在が、凡ゆる生産の基礎となるのである。然るに社會に於いて生産品を需要する人々の大多數は無産者であるから、無産者の購買力が減退することは、生産者にとつては致命的の打撃となるのである。

無産者の購買力は、資本家の生産増進と同一の速度を以つて増進するものでない。なぜならば、前にも述べた如く、資本の増加は主として機械その他の不變資本の方面に行はれ、勞働者の雇傭に投ぜられる可變資本の増加率は、資本全體の増加率よりも遙かに微弱となつてゐるからである。可變資本とは、勞働者の勞働力を購買するところの資本である。而して勞働力の價値とは、勞働者が己れ自身及び一家の生存を維持して行くに必要なる生活品の價値に外ならない。隨つて可變資本の多寡は、勞働者の生活品消費の大小を決定する。假りに資本家の資本が増加して、生産物が豐富に市場に送り出されるやうになつたとしても、可變資本として勞働者に支拂はれる生活品購買費がそれほど増加しないとすれば、折角造り出した生活品も十分には捌かれないといふ結果を生ずる。

國内に於いて生産品が十分に捌かれないとすれば、勢ひ外國に市場を求めねばならなくなるが、前にも述べた如く、外國市場も亦次第に狹められて、多くの競爭品が輻輳を來たすやうになる。これがため、過剩生産は慢性的状態に陷り、折角發達した生産力を、控へ目の用ゐねばならなくなる。勞働者は、餘りに多く生産したために、失業せねばならないといふ皮肉な運命に陷る。

金儲けを生命とする資本制生産は、斯くして、金儲けが出來ないといふ最大の矛盾に陷る。これをその儘に放任して置けば、經濟上の壞滅は免れなくなる。この壞滅から社會を救ふ道は、資本主義經濟制度の廢除といふこと以外には考へられないのである。營利のための生産を廢し、生産の所有及び監理を國家の手に移して、社會全體の消費のために生産を行ふといふ制度にすれば、資本が勞働を搾取することもなくなり、生産物は如何に増加しても多々役々辨ずる譯である。商品が賣れないために抑壓されてゐた社會の生産力は、これに依つて解放され、自然の資源と人類の技術との及ぶ限り、生産力は自由に限りなく發展せしめられるのである。

然らば資本主義經濟制度の廢除は、如何なる人類要素に依つて擔任されるか。これを擔任する者は、言ふまでもなくプロレタリア階級である。資本の蓄積、生産力の増進は、その半面にプロレタリアの窮乏の増大、プロレタリアの階級的自覺の發達を伴ふ。此等の原因に依つてプロレタリアは必然的に、資本主義經濟制度の廢除、社會主義經濟制度の建設を意識的に追求し努力するやうになる。これについては、尚ほ次講で立ち入つた説明を與へる。

inserted by FC2 system