第四講 階級鬪爭竝びに未來社會

高畠素之

1.階級鬪爭の意義

社會に階級對立が存在する事實、竝びに階級鬪爭が政治上、社會上の推轉に極めて重要な役割を演ずるといふ事實は、マルクスを俟たずして既に早くから認められてゐた。マルクスをフランスから追放したギゾーの如きブルヂォア政治家も、またサン・シモンやフリエーの如き『空想的社會主義者』も、階級及び階級鬪爭については、それぞれ一定の見解を示してゐた。然るに今日では、階級鬪爭説の本家はマルキシズムに歸せられ、マルクスこそ階級及び階級鬪爭説の眞の創始者であるとせられてゐる。これには相當の理由がある。

マルクス以前の階級概念は、斷片的で不十分であつた。且つ階級鬪爭の眞の意味については、殆んど知るところがなかつたとも言ひ得る如き有樣であつた。然るにマルクスが出でて、茲に初めて階級なるものの概念を確立し、階級鬪爭の眞義を明かにしたのである。

マルクス以前の社會主義者(空想的社會主義者)は、人間の本性に合致した社會の建設を夢みてゐた。彼等に依れば、現社會に於いて、各階級が相對立して利益鬪爭に耽り、種々なる害惡を生ぜしむる所以は、人々が人間の本性に目覺めず、虚僞の社會制度を設けてゐる事に在る。一度び我々が人間の本性に目覺めて、眞義の社會制度を組織するに至れば、一切の軋轢鬪爭は一掃せられて、茲に抗爭のない平和な理想社會が實現される。社會運動は、斯かる理想社會の實現を目的とすべきである。隨つて、社會運動なるものは、鬪爭心から出づるものであつてはならない。然らずんば、運動そのものが既に理想と背馳することになるからである。

斯樣にして『空想的社會主義者』は階級對立を以つて、人間の醜惡なる欲情から出づるものであるとなし、階級鬪爭も亦、諸種の社會的害惡と相共に撲滅すべきものであると考へた。

然るに、マルクスの見解はこれと著しく趣を異にしてゐる。マルクスに依れば、從來に於ける一切社會の歴史は、階級鬪爭の歴史である。然し一定の社會に於いて相鬪ふところの諸階級は、この社會の經濟的基礎たる生産方法の所産であつて、人間の惡意や過誤の産物ではない。ところで、生産方法なるものは、生産力の發達に依つて變化せしめられ、次第にヨリ高級な形へと進んで行くものであるが、この進展を現實的に可能ならしめる動因となるものは、即ち階級鬪爭である。換言すれば、階級鬪爭を通してのみ、生産方法の進展は現實化されるのである。

一定の社會組織は、一定の經濟關係に照應し、一定の經濟關係は、一定の生産力に照應する。然るに、社會の生産力は間斷なく發展を遂げつつあるに反し、經濟關係の方は或る期間、舊來の形態を保守してゐる。そこで、兩者の間の矛盾が次第に増大して、經濟關係が生産力に照應しなくなると、茲に舊來の經濟關係は崩壞して、新たなる經濟關係に取つて代はられる。だが、この交代は、人間の力を藉ることなくひとりでに行はれるものではない。苟くも社會の變化發達にして、人間の關與なく行はれ得るものは一つもない。東京市街は50年の間に面目を一新したといひ、或は僅々數年の間に飛行機が目醒しく發達したといふ。此等の變化發達はひとりでに行はれたものでなく、人間の手を通して行はれたのである。經濟上の發達も之れと異なるところはない。

有史以來一切の生産方法(隨つて資本制生産方法も亦)は、搾取經濟の範圍に在つた。奴隷經濟、農奴經濟、資本主義經濟といふ如く、形は種々異なるとはいへ、いづれも一の社會群が他の社會群の餘剩勞働を搾取するといふ一點に於いては、相異なるところがなかつた。例へば、奴隷經濟に於いては、奴隷所有者は奴隷自身の生活を維持するに足る以上の勞働を奴隷に強制して、その果實、その生産物を占有してゐた。そこに、奴隷社會の階級區別が見られる。餘剩勞働の搾取者たる奴隷所有者群は、共通の利害に依つて結合せられ、一の階級を作つてゐた。奴隷群も亦、相互に共通した利害に依つて結合せられ、彼等の所有者に相對立せる一階級を作つてゐた。封建社會に於ける領主と百姓及び町人、現代に於ける資本家と賃銀勞働者との階級對立も亦、同樣な搾取關係に立つものである。

斯樣に、一定の階級關係は、一定の搾取的經濟關係の基礎上に立つものであるから、後者に變化が生ずれば、舊來の搾取階級は存立し得ないことになる。奴隷勞働に立脚する經濟關係が他の經濟關係に一變したとすれば、奴隷所有者階級の存續すべき地盤がなくなる。そこで奴隷所有者階級は、舊來の經濟關係を永久に維持しようと努める。彼等の意志は、舊來の經濟關係を代表することになるのである。然るに被搾取者たる奴隷は、自己の生活をヨリ良くせんがため、彼等の所有者階級に反抗し、舊來の經濟關係を打破しようと努めるやうになる。經濟關係と生産力との間の矛盾が増大して、社會經濟の圓滿な發達が阻止せられ、被搾取階級の生活が益々堪え難きものとなるに從つて、彼等の反抗もまた益々熾烈となり、遂には搾取階級との間に最後的の決戰を企てるやうになる。斯くして搾取階級が敗北し、舊來の經濟關係が破壞せられたとき、發達した生産力に照應するところの、新たなる經濟關係が樹立せられたることになるのである。

マルクスは斯樣な見地より、階級鬪爭を單純な道義的立場から否定するところの空想主義者に對抗して、階級鬪爭こそ社會發達上の本質的な意識動力であると斷定した。彼れは『共産黨宣言』の冒頭に曰く、『從來に於ける一切社會の歴史は、階級鬪爭の歴史である。……壓伏者と被壓伏者とが不斷の對抗關係に立ち、或は隱然、或は公然の間斷なき鬪爭を續けて來た。此等の鬪爭は全社會の革命的改造を以つて終るか、然らずんば相鬪へる兩階級の共倒れに終ることを常としてゐた』と。即ち被壓伏者(被搾取階級)の意志が貫徹すれば、社會全體は改造されてヨリ進んだ段階に入るが、然らざる場合には、搾取階級も被搾取階級も共に疲れ切つて、遂には社會の滅亡を招來すると謂ふのである。

2.プロレタリア階級の結成

前述の如く、社會階級なるものは、經濟上の搾取關係に依つて成立するものである。現在の社會に於いては、搾取者たるブルヂォア群と、被搾取者たるプロレタリア群とが、基本的に社會階級を成してゐる。此等兩階級の利害は、徹頭徹尾相反對するものであつて、一方の利益は他方の損失となり、他方の利益は一方の損失となる。この事實を認識するには、格別立ち入つた考察を必要としない。資本制生産の確立と同時に、資本家に對する勞働者の階級對立は發生してゐる。世には、勞資の抗爭を以つて一部煽動家の製造物であるかの如く主張する人もあるが、事實は決してさうでない。階級鬪爭を主張する近世社會主義の發達以前にも、勞資間の抗爭は社會的の事實として存在してゐた。遠き過去は暫く措き、現在について見ても、勞資間の抗爭が決して一部煽動家の産物でないことは明かである。今の日本で、階級鬪爭の理窟を知つてゐるやうな勞働者は左程多くない。而も勞働者の行動に對する資本家の嘆聲は到るところに聞かれる。同盟罷工や怠業は絶える暇がない。資本に依る勞働搾取の事實が存在する限り、社會主義者などの『煽動』はなくとも、勞資間の衝突は絶對に免れ難いところである。

が、また他方に、マルキシズムが勞資鬪爭の發達に無關係のものでないことも、明かである。なぜならば、マルキシズムはこの鬪爭を正當づけるところの理論を與へ、この鬪爭が終極に於いてプロレタリア階級の勝利に畢るべきことを力説し、以つてプロレタリアの鬪爭心を激勵するからである。

前講に述べたところに依れば、資本主義の發達に從つて社會の資本は益々少數資本家の手に集中し、中間階級たる小製造業者、小商人、小農民等はプロレタリアの地位に落ち込む。勞働要具の發達は、勞働者の熟練と體力とをますます不要に歸せしめ、成年男子勞働に代ふるに婦人小兒勞働を以つてすることを可能ならしめる。加ふるに、勞働要具の發達は勞働生産力の増進を意味するものであるから、生産上に必要な勞働者の數は益々減じて來る。これがため、過剩人口たる産業豫備軍が膨張して、就業勞働者の生活は益々不安に陷り、勞働者階級の窮乏は限りなく増大する。これが、前回に紹介したマルキシズムの主張の要領である。

資本家階級の成員が次第に減少するに反し、プロレタリア階級の人口は益々増大して來る。これ即ち、プロレタリア階級の戰鬪能力の増進を意味する。而して又、プロレタリア階級の窮乏増大、即ち勞資兩階級間の貧富懸隔の増大は、資本家に對する勞働者の敵抗心の増進を意味する。この敵抗心が階級鬪爭となつて現はれたとき、曩の戰鬪能力は現實的の力となつて絶大の威力を發揮する。多數の力は常に少數の力を壓倒する。プロレタリア階級がその多數力を團合して奮起するとき、少數者たる資本家階級は一たまりもなく屈服してしまふ。

プロレタリア階級の前途には、斯くの如く必勝の運命が微笑んでゐるのである。けれども、彼等が眞にその威力を發揮し得る爲には、全成員を擧げて協力結合し、共同の目標に向つて直進せねばならない。それには先づ、彼等がおのおのその經濟上の位置を自覺して、蔽ふべからざる階級意識に到達することを要する。プロレタリアの階級鬪爭を通して社會的の一大變改を成し遂げんとするマルキシズムが、何よりも先づプロレタリアの階級的自覺と、それに基づく階級的結成とを促さうと努める所以は茲に在る。

これについては、階級及び階級鬪爭に關するマルクスの辯證法的考察を一瞥する必要がある。マルクスに依れば、資本家と勞働者との間には、越ゆべからざる階級的の溝渠が横はつてゐる。この溝渠は、先づ經濟上の事情に起因するものである。勞働者はその勞働力の所有者たる立場から、出來得る限りそれを高く賣らうとし、反對に資本家はその購買者たる立場から、出來得る限りそれを安く買はうとする。即ち勞働者は成るべく高い賃銀を得ようとし、資本家は成るべく低い賃銀を拂はうとするのである。この利害對立は、對等な位置に立つた賣手買手間の利害衝突たるに止まるものでない。勞働力の賣手は、これを賣らなければ忽ち餓死してしまふ。勞働力の買手たる資本家は、自己の課する條件を若し勞働者が容れないとすれば、彼れを餓死せしめることが出來る。資本は勞働は支配してゐるのである。この關係からして、勞働に從事する多數民衆の間には、共通の境遇、共通の利害關係が生じて來る。彼等は資本に對立した位置に於いては最初から一つの階級を成してゐるが、それ自身としては未だ階級たるに至つて居らない。彼等は時に同盟罷工を決行したり、組合を作つたりするが、それは未だ嚴密の意味の階級鬪爭ではない。彼等がそれ自身として階級となり得るためには、確然たる階級的意識に到達することを要する。然らば階級的意識とは何かといふに、それは彼等勞働者相互の間に於ける連帶の感情を第一の要素とする。けれども、それだけでは十分でない。階級意識の成立には、更らに他の條件が必要である。即ち彼等の生活條件は、彼等を被搾取者たる位置に置く資本主義經濟に依つて直接決定され支配されるといふこと、而して資本主義經濟は資本に依る勞働の搾取に依つてのみ立つといふことの認識が必要になつて來る。この認識を得て、初めてプロレタリアの階級意識は完成せられるのである。この階級意識に基いて、資本主義經濟そのものを廢絶し、搾取者たる位置から自階級を解放せしめようと企てるに至つたとき、茲に初めて彼等の鬪爭は眞個嚴密の階級鬪爭となる。

然るに眞の階級鬪爭は、また必然に一つの政治的鬪爭である。蓋しマルクスの見るところに依れば、國家は階級搾取のための一機關であるから、被搾取階級は政治革命を起して舊來の政治組織を根本的に改造することがない限り、その經濟的位置を變更し得るものではない。搾取者たる支配階級は、その經濟的支配を確實に維持してゆく手段として、國家を利用する。而して被搾取者たる被支配階級は、支配階級の國家權力を自己の手に移し、これを利用することに依つてのみ、經濟的に自己を解放し得るのである。そこでプロレタリア階級の内部に階級意識が呼び覺まされることは、プロレタリアの經濟的鬪爭が政治的鬪爭に轉化されることを意味する。さればこそ、マルクスは『共産黨宣言』の中で、『勞働者の局部的鬪爭をば、一つの階級鬪爭に集中せしめ』又は純經濟上の衝突を政治的の鬪爭に轉化し、斯くしてプロレタリアをば『階級隨つて又政黨に結成せしめることが、共産黨の最重要任務』だと言つたのである。

然るに、マルクスは同じ『共産黨宣言』の冒頭では、曩にも引抄した如く、從來に於ける一切社會の歴史は階級鬪爭の歴史だと主張してゐる。この主張は右に述べたところと矛盾してゐるやうに見える。これについて、ツガン・バラノフスキーが左の如き解釋を與へたことは、恐らく妥當であらう。

マルクスに依れば、一つの階級がそれ自身としての階級に構成される迄には、永い發達期間を要する。而して斯かる豫備期間の持續中には、階級鬪爭なるものは存在しない。徐々たる階級の發達が絶頂に達したとき、階級間の決死的鬪爭が行はれ、『全社會の革命的改造、又は鬪爭諸階級の共倒れ』を以つて終局を告げる。階級鬪爭は斯くして、人類の歴史に一段落を畫する頂點となり、新たなる進歩の出發點となるのである。歴史上斯かる時期は稀れにしか現はれて居らない。隨つて階級鬪爭も亦、稀れにしか現はれて來ない。けれども歴史的諸事件のうちで、決定的な最も重要なものは階級鬪爭であつて、他の一切の事件は階級鬪爭を中心にして觀察されねばならないのである。

例へば現在に於いて、プロレタリアとブルヂォアとの間には階級鬪爭が進行してゐるけれども、それが文明國一般を通じて目立つやうになつたのは極めて輓近の現象である。それ以前に於ける勞資間の經濟的衝突は、階級鬪爭の資格を缺いてゐた。けれども、斯樣な組織なき勞働者の苦鬪も、プロレタリアの階級的發達にとつては缺くべからざる重要な要素となるものであり、將來に於けるプロレタリア革命の準備となるのである。

斯樣に考へて來ると、一切社會の歴史は階級鬪爭の歴史であるといふマルクスの主張は必ずしも不當でないことが解る。マルクスの見地からすれば、世界の全歴史は畢竟するところ階級の發展であり、階級鬪爭の前提となるものであつて、社會革命に於いて絶頂に達する階級意識の覺醒段階を示すものに外ならない。

3.プロレタリア革命

マルキシズム階級鬪爭説の概要は、以上述べた如くである。然し茲に注意して置かねばならぬことは、プロレタリアの階級鬪爭は、一切の階級を廢絶し、階級なき社會の實現を期するものであつて、從來の歴史に現はれた階級鬪爭が舊き階級對立に換へて新たなる階級對抗を樹立したのとは、本質的に趣を異にしてゐる。プロレタリアとブルヂォアとの階級鬪爭は、現在に於ける所有形態と生産方法との矛盾の意識的反映である。プロレタリアは資本主義の下に發達した社會的の生産方法を維持發展せしめ、これに對して所有形態を適合せしめようとする。即ち社會的の生産方法に對應させて、資本所有の社會化を實現しようとするのである。一度び資本の社會化が、社會に依る資本の所有が實現された曉には、もはや何人も餘剩勞働を搾取することは出來なくなる。餘剩勞働の搾取を可能ならしめる原因は、資本私有に外ならないからである。資本主義以前の社會には、搾取のために直接武力や迷信を利用することが行はれたけれども、此等の搾取手段は資本主義の下に於いても既に陳套に歸せしめられてゐる。それ故、最後に殘る資本私有なる搾取原因が除かれると共に、社會にはもはや搾取の事實が見られなくなる。ブルヂォアが滅びると共に、プロレタリアも亦存在しなくなる。『階級及び階級對立を有する舊ブルヂォア社會が存在しなくなつて、各人の自由なる發展が、全員の自由なる發展の條件となるところの一つの聯合がこれに代つて現はれるのである』(『共産黨宣言』)。

マルキシズムの最後の目標は、斯かる階級なき自由聯合社會への到達に在る。が、其處に到達するには、一つの中繼段階を經過する必要がある。マルクスは『共産黨宣言』の中で斯う言つてゐる。

『勞働者革命の第一歩が、プロレタリアを支配階級の地位に引き上げること、即ちデモクラシーを征取することに在るは、曩に述べたところである。プロレタリアはその政治的支配權を利用して、ブルヂォアから漸次に一切の資本を剥奪し、一切の生産機關を國家の手に、即ち支配階級として組織されたプロレタリアの手に集中し、而して生産力の總量をば出來得る限り急速に増大せしめることとなるであらう。これは勿論、最初は所有權及びブルヂォア的生産事情に對する壓制的侵害を以つてするにあらざれば、なし得ないところであらう。この方策は經濟上、不徹底で維持し難きものであるかの如く見えるけれども、運動の進行につれて自己の埒外に跳り出て、全生産方法を變革する手段として避くべからざるものとなつて來る』と。

即ちプロレタリアはその理想社會に到達する以前に、先づブルヂォアの政權を占取して、自ら支配階級となりプロレタリア國家を造り上げねばならない。然しこのプロレタリア國家なるものは、國家それ自身としての國家、即ち本來の國家とは全く相異つた性質を持つてゐる。マルキシズムに依れば、國家とは階級搾取維持の機關である。エンゲルスはその著『オイゲン・ヂューリングの科學の革命』の中に次の如く述べてゐる。『從來の社會は階級對立の範圍内に動いてゐたものであるから、隨つて國家を必要とした。國家とは要するに、夫々の時代に於ける搾取階級が、その外部的生産條件を維持し、特に又被搾取階級をば當時存在せる生産方法に依つて與へられた壓伏條件(例へば奴隷制、農奴制、隷農制、賃銀勞働制)の下に強制的に抑留せんがための一機關である』と。然るにプロレタリアは階級搾取維持のために、國家權力を掌握するのではない。プロレタリア革命の目的は、階級搾取を廢止し、階級そのものを廢絶せしめるに在るからである。そこでプロレタリア國家は、ブルヂォア國家と正反對の任務を與へられることになる。この任務は如何にして果されるか。

プロレタリアが政權を掌握した曉には、その權力はプロレタリア階級自身の利益のためにのみ利用せられることなく、全社會のために利用せられねばならない。然し全社會のためといふことは、終極の目的であつて、この目的を達成するためには、舊社會を恢復せんとする一切のブルヂォア的反動を押へつけ、舊來のブルヂォアを強制權力の下に壓伏せねばならない。そこでプロレタリア國家は、プロレタリアがブルヂォアを壓伏するところの機關となり、プロレタリアの階級支配機關となるのである。

プロレタリア國家には、尚いま一つ重大な役目がある。政權の移動が行はれても、舊來の經濟事情は當分變化なく存續し得る。現にロシアに於いては、共産黨が天下を取つて數年になるけれども、現實の經濟事情は依然として共産化されることなく、舊ブルヂォア的社會の特徴は根強く殘留してゐるのである。そこで斯かるブルヂォア的殘留を廢除するため、プロレタリア國家は私有資本の活動範圍を次第に狹めると同時に、生産の國家管理を益々擴張して、經濟的搾取の行はれる餘地が無いやうにする。斯くして、資本の私有が全く廢除され、生産の國家管理が完全に行はれるに至つたとき、社會には餘剩勞働搾取の餘地がなくなる。プロレタリアの政權掌握後に尚ほ殘存するところの搾取的經濟は斯樣にプロレタリアの政權運用に依つて漸次に制限せられ、遂に全くその存在の根柢を失ふに至つたとき、これに代つて搾取なく階級なき共同社會が建設せられ、一切の強制權力は不要となつて、國家は遂に自滅してしまふのである。

エンゲルスは上記『オイゲン・ヂューリングの科學の革命』の中に、左の有名な叙述を與へてゐる。

『プロレタリアは國家權力を奪取して、先づ生産機關を國有にする。然しながら斯くすることに依つて、プロレタリアはプロレタリアとしてのそれ自身を廢絶し、一切の階級差別及び階級對立を廢絶し、隨つて又國家としての國家を廢絶する。從來の社會は階級對立の範圍内に動いてゐたものであるから、隨つて國家を必要とした。國家とは要するに、夫々の時代に於ける搾取階級が其外部的生産條件を維持し、特に又、被搾取階級をば當時存在せる生産方法によつて與へられた壓伏條件のものとに強制的に抑置せんがための機關である。……壓伏すべき何等の社會階級も最早存在しなくなるや否や、階級支配が廢絶され、從來に於ける生産上の無政府を基礎とした個々の存在競爭が廢絶されると同時に、またこれに基ける諸種の衝突や、過剩が除去されるや否や、もはや特殊の壓伏者たる國家を必要とするところの壓伏せらるべき何ものも存在しないことになる。……社會事情に對する國家權力の干渉は一つの部面から他の部面へと次第に不用となり、遂には自然に寢入つてしまふ。人に對する支配に代つて、物の管理と生産行程の指導とが現はれて來る。國家は廢止されるのではなく、自滅するのである。』

右のエンゲルスの叙述は、マルクス國家觀の要領として再々引合ひに出されるものであるが、この一文には前後矛盾した命題が含まれてゐる如く見える。即ちエンゲルスは、最初にプロレタリアは社會革命に依つて『國家としての國家を廢絶する』と言つて置きながら、終末の個所では『國家は廢止されるのではなく、自滅するのである』と説いてゐる。『廢絶』(止揚)とは外部からの強制手段に依つて消滅せしめられることを意味し、自滅とは外部の力を俟たず、自然に消えてなくなることを意味するものであるから、兩者は概念として相容れない。レニンはこの矛盾を次の如く解決した。國家が自滅するといふのは、右の一文に依つても知られる如く、最後の段階であつて、その前に先づプロレタリア革命に依るブルヂォア國家の廢絶が行はれねばならないとするのが、マルキシズムの主張である。國家自滅の結論は國家廢止の序説と相俟つて、茲に初めてマルクス國家論は全きを得る。即ちプロレタリアの政權掌握に依つてブルヂォア國家が廢止され、然る後に、尚ほ殘存しつつあるプロレタリア國家(レニンはこれを半國家とも謂つてゐる)が自滅する段取りとなるのである。レニンのこの説明は、今や一般マルキシストの承認するところとなつてゐる。

4.ボリシェヰズムと社會民主々義

マルキシズムの社會主義社會に到る中間段階には、プロレタリア獨裁の國家が横はつてゐる。プロレタリアの社會革命は先づ、プロレタリアの政權掌握を以つて開始される。この理論はマルクス、エンゲルスの明白に教ふるところである。然しプロレタリアは如何なる方法に依つて政權を掌握し、これを如何なる形に行使すべきかといふ問題に關しては、マルクス主義者の中にも異論がある。此等の異論中の極めて顯著なる對照として、ボリシェヰズムの主張と社會民主主義の主張とを擧げ得るであらう。先づボリシェヰズムの主張を概説して見る。

ボリシェヰズムの創唱者レニンの解釋に依れば、プロレタリアの政權獲得は所謂××××に依らねば不可能であり、而して一度び獲得された政權はプロレタリア獨裁の形で行使されねばならぬ、とはマルクス及びエンゲルスの主張するところである。エンゲルスは國家を以つて『一種特別の抑壓權力』なりとした。隨つて、プロレタリアの自己解放は先づ、プロレタリアを抑壓するブルヂォアの特殊權力に代ふるに、プロレタリアの特殊抑壓權力を以つてすることから、始められねばならない。エンゲルスはこの過程を『國家としての國家の廢絶』と呼んでゐることは、曩の引抄に示した通りである。ところで、この抑壓權力の交代は決して平和×××を以つて行はれるものでない。この點に於いては、エンゲルスもマルクスも、常に××××の避くべからざる所以を強調したことは事實である。レニンはこれに就いて『オイゲン・ヂューリングの科學の革命』の中に與へられたエンゲルスの所説を指摘してゐる。

『××が歴史上更らに異つた役目、即ち革命的役目を演ずること、マルクスの言葉を以つて言へば、一の新たなる社會を孕んでゐる各舊社會の助産婦となること、社會的運動が解決せられて、麻痺死亡した政治形態を破壞するための要具となること、これに就いてはヂューリング君は口を緘して一言も語らない。氏はただ呻吟嘆息の下に、搾取經濟を顛覆するためには××は恐らく必要であらう(不幸にして! なぜならば、××の行使は必らずその行使者を墮落せしめるから)との可能を承認するに過ぎないのである』と。

マルクス及びエンゲルスの合作たる『共産黨宣言』の中にも、同一の見解が所々に現はれてゐる。例へばプロレタリアの發達が或る點に達すると、從來或は多く或は少なく隱蔽された形で行はれてゐた××が『公然たる××に破裂し、ブルヂォアの×××××に依つてプロレタリアは、その支配權を確立するに至る』と謂ひ、また『共産黨はその主義政見を隱蔽することを恥とする。彼等は公然宣言する。彼等の目的は從來の社會組織を××××××することに依つてのみ達せられる。支配階級をして共産主義革命の前に戰慄せしめよ』と謂へる如きは、その最も著しいものである。更らに1848年11月7日の『新ライン新聞』紙上に掲げられた文章の中にも、『舊社會の斷末魔の苦痛を、新社會分娩の苦痛を、短縮し、輕易にし、集中する方法は僅かに一あるのみ』と斷言して、××××なるものの必要を力説してゐる。

然し、マルクス及びエンゲルスの主張は、斯かる革命是認論のみを以つて終止するものではない。彼等は他の一面に於いて、平和手段によるプロレタリア革命の可能をも承認した。而してドイツ社會民主黨の理論的指導者たるカール・カウツキーの如きは、この平和的マルクスの言説を強調することに依つて、レニン等のボリシェヰズムに對抗した論陣を張つてゐる。

然らば、平和手段に依るプロレタリアの政權獲得は、如何なる場合に可能であるかといへば、勞働者が選擧權を得、言論出版の自由を得、結社の自由を得てゐる場合が、即ちそれである。結社の自由の存するところに在つては、勞働者は公然政治的目的に向つて團體行動を採ることが出來る。公然の團結が許されるといふことは、團體を大にし鞏固にするための缺くべからざる必要條件となつてゐる。言論出版の自由は勞働者の意志を疎通し、階級意識を普及するに缺くべからざる條件である。而して勞働者が選擧權を得るといふことは、結社の自由と言論出版の自由とに依り廣大なる組織と正確なる階級意識とに達した勞働者をして、その政治的要求を合法的に追求せしめる直接の手段となるものである。アメリカやイギリスの如きデモクラシーの發達した國に於いては、多數勞働者の階級意識が發達し、選擧權が普及してゐるから、彼等はその參政權に依つて、プロレタリア解放の目的に直進することが出來る。彼等は立法部に多數を制して、ブルヂォア代表を壓倒し、以つてこの方面から平和的にプロレタリア獨裁を實現することも決して不可能でない。

要するに、マルクスは、デモクラシーの發達した國と、發達しない國とでは、プロレタリアの政權掌握、舊政治の顛覆の方法が、おのづから相異なるべきことを認めた。エンゲルスも『エルフルト綱領』を批評した書物の中で、マルクスと同樣の意見を述べてゐる。彼れは曰く『議會に一切の權力が集中されて、人民の多數が議會の背後に置かれるやうになるや否や、立憲的に如何なることをも意の如く行ひ得る諸國では、舊社會が發達して平和的に新社會に化成されて行くことは、考へ得るところである。フランスやアメリカの如き民主的共和國、また……王黨が民衆に對して無力となつてゐるイギリスの如き君主國は、正にそれである』と。

即ち多數國民の後援を有する政黨が、議會を通して自由に國政を左右し得る國に於いては、平和手段が可能だといふのである。エンゲルスは更らに此等の國とドイツとを比較して、『ドイツに於いては、全然共和主義的の政綱を立てることは許されない。而して斯かる事實こそ、平和的な方法を以つてドイツに共和制度を樹立せんとすること、否、單に共和制度のみでなく、進んでは共産主義社會をも建設せんとすることが、如何に甚だしき幻想であるかを證明するものである』と主張した。

マルクス及びエンゲルスは、以上の如く、プロレタリア獨裁の目的を達成する手段として、平和的と××的との二途を認めた。然らば一度び獲得されたプロレタリアの政權は、如何なる形で行使されるか。この問題に就いても、兩樣の解釋が行はれてゐる。

レニンは普通の意味のデモクラシーを否認する。レニン等のボリシェヰストに依つて成就されたロシアの共産制度は、舊來のブルヂォアから參政權を剥奪し、勞働者及び共産黨員でなければ政權に參加する資格を持ち得ないやうにしてしまつた。レニンはこれをプロレタリア・デモクラシーと稱し、茲にプロレタリア獨裁の本體が置かれてゐると主張する。

これに對して、社會民主主義のカウツキーは、プロレタリア獨裁は普通の意味のデモクラシーの下に於いても可能であると主張する。從來プロレタリア階級の政治的勢力は微弱であつて、議會にはブルヂォアの諸政黨が壓倒的大多數を占めてゐた。そこで、彼等は意の儘に國政を左右してゐたのであるが、然しプロレタリアが軈て彼等の位置に代り、絶對多數黨となつた曉には、現在ブルヂォアが議會を通してプロレタリアを支配してゐるのと同樣にして、プロレタリアがブルヂォアを支配するやうになることは、決して不可能でない。

カウツキーのこの主張は、根據なきものではない。マルクス及びエンゲルスは巴里コミユンを以つて最上の政治形態なりとした。マルクスはその著『フランスの内亂』の中で『コミユンは、本質上勞働者階級の政府であつた。収得階級に對する生産勞働者階級の鬪爭の結果であつた。勞働者階級の經濟的解放を行ひ得べき政府形態が漸くにして發見せられるに至つたものである』と言つてゐる。然るに、このコミユンなるものは、巴里の諸地區に於いて普通選擧制の下に選擧せられた市會議員から成り立つたものであつて、それはデモクラシーと相反するものではなかつた。

要するに、マルクス及びエンゲルスは、プロレタリア獨裁なるものが、全國民に參政權を附與するデモクラシーと兩立し得ることを認めた。但し、このデモクラシーに立脚したプロレタリア獨裁は、プロレタリアの實勢力が、政治上の自由競爭に於いてブルヂォアを壓倒し得る場合でなければ、維持し得るものでないとするのである。

5.生産機關の國有

以上論究したところは、社會主義社會實現の手順である。然らば、この社會主義社會とは如何なるものであるかを考察することが最後に殘つてゐる。

みづから科學的社會主義と稱するマルキシズムは、將來の社會に對して積極的の計畫を提出しないことを以つて特徴としてゐる。『空想的社會主義者』は凡ゆる空想の翼を擴げて、至善至美なる未來社會の姿を描き出し、これに對して人々の魂を惹きつけようとした。然るにマルクス主義者は、斯かる企ては兒戲に類する氣晴しに過ぎないとして一笑に附する。それは有害でないとしても、無益に終はることは明かであると主張する。マルキシズムの斯樣な態度は、唯物史觀の根柢から當然に生じて來るところである。マルクスが『經濟學批判』の序文の中に與へた唯物史觀要領記には、次の如く書かれてある。

『或る社會形態は、その内部に包容する一切の生産力が十分發達した後でなければ、決して亡びるものではない。そしてヨリ進歩した生産關係が出現するには、それを決定すべき物質的條件が既に舊社會の翼の下に孵化されてあらねばならない。そこで、人類は常に解決し得べき問題のみを提起するものだといふことになる。ヨリ精密にこれを考察すれば、凡そ問題なるものは、必ずこれを解決すべき物質的條件が既に存在するか、或は少なくとも發生しかけてゐるところにのみ生ずることが知られる。』

されば社會形態の改造は、人類の勝手な計畫に依つて遂行されるものではなく、既存の物質的條件に基づき、これに照應してのみ遂行されるのである。現代社會には搾取階級と被搾取階級との軋轢があるけれども『この資本制社會の内部に發達した生産力は、同時にまた右の軋轢を解決せしむべき物質的條件を作る』ことになる。

然らば、その物質的條件とは何であるか。一言にして盡せば、それは生産機關の集中、生産の社會化といふことである。然らばこの集中と社會化とは如何にして行はれ、如何にして必然的に社會主義社會を招來することになるか。マルクスは『資本論』の中で、これに對する簡單な叙述を與へてゐる。

『この収奪(私有資本の國有化)は資本制生産それ自身の内在的法則たる資本の集中に依つて完成される。つねに一人の資本家が多くの資本家を打ち殺すのである。この集中、換言すれば小數資本家に依る多數資本家の収奪と相竝んで、勞働行程の益々大規模となりつつある協業的形態、科學の意識的なる技術的應用、土地の計畫的利用、勞働要具の共同的にのみ利用し得べき勞働要具への轉化、凡ゆる生産機關を結合的社會的なる勞働の生産機關として止揚することに基く節約、凡ゆる國民が世界市場の網に絡められるといふ事實、それと共にまた資本制度の國際的性質等――此等一切の事象が發達して來るのである。斯かる轉形行程に伴ふ一切の利益を横奪獨占する大資本家の數が益々減少すると共に又、資本制生産行程それ自身の機構に依つて訓練、統合、組織されるところの、益々膨大となりつつある勞働者階級の反抗が増進する。資本獨占は、それと共に、又その下に、開花繁榮した生産方法の桎梏となる。生産機關の集中と勞働の社會化とは、その資本主義的外殻とは一致し難き點に達する。資本主義的の外殻は破裂する。資本主義的私有の終焉を告ぐる時が鳴る。収奪者は収奪されるのである。……個々人の自家勞働に基く分散的私有の資本制的私有への轉化は、事實に於いてすでに社會的生産經營を基礎としてゐる資本制所有の社會的所有への轉化に比すれば、比較にならぬほど永久的にして過激且つ困難なる一工程であることは言ふまでもない。前者に於いては、少數横領者に依る民衆の収奪が問題であり、後者に於いては民衆に依る少數横領者の収奪が問題となるからである』(新潮社版第1卷1024頁)。

要するに、資本制生産の發達につれて、社會の主要資本は少數大資本家の手に歸してしまふ。而して社會の資本が大となるに應じて、巨大なる生産機關の集中が行はれ、多數勞働者は分業と協業とに依つて社會的協同的の勞働を營むやうになる。彼等の勞働要具は、もはや數人で利用し得る如き矮小なものでなく、何千人何萬人の共同利用に依つて初めて效果を發揮する如き巨大なるものとなつて來る。資本主義がこれだけに發達して來るには、永い間の苦しい行程を要した。資本主義の下に於いては、少數者が多數者を横奪するのであるから困難な筈である。然し、社會の資本の大部分が少數者の手に歸した後、その次に多數者が少數者から資本を収奪するといふことは至つて簡單である。即ち社會の名に於いてこれを収奪し、社會の共同所有に移轉してしまへば可い譯である。プロレタリアの革命は、第一にこの所有移轉を強行する。されば、社會主義の目標は何ぞと問はれた時、世人は屡々生産機關私有の廢止と答へる。マルクスの言葉を以つていへば、『資本主義的私有』の廢止である。

前節に引抄したエンゲルスの文章の中にも、『プロレタリアは國家權力を奪取して、先づ生産機關を國有にする』と書かれてある。然し生産機關の國有といふことは、單にそれだけでマルキシズムの目標を成すものではない。生産機關の私有を廢止することに依つて社會主義的の生産を實現し、この生産方法に立脚する社會主義的の社會秩序を實現せんとすること、これがマルキシズム究極の要求である。

6.社會主義社會

然らば社會主義的生産とは如何なるものであるか。一言にして盡せば、社會の自己消費を目的とするところの生産である。尤も、この自己消費を目的とする生産には、二つの形態があり得る。即ち自己の欲望の滿足のために行ふ個人的の生産と、社會又は組合がその成員全體の欲望を滿足せしめるために行ふ社會的の生産と、この二つである。

第一の個人的自家生産形態は、未だ曾て一般的の形態として實行されたことがない。我々が歴史に依つて知り得る限り、人類は常に大小何等かの社會に於いて、その生活資料を獲得して來た。商品生産が現はれる以前の生産方法は、組合的の自家生産であつた。カウツキーはその著『資本論解説』の中で、インドの共産村落に就き次の叙述を與へてゐる。

『この共産社會の長は1人のこともあれば、又數人(大抵は5人)のこともある。1人の場合には、これをパテールといひ、數人の場合にはパンチといふ。このパンチ及びパテールの外に、尚ほ數多の役人がゐる。即ち財政主事はカルナム、或はマツアといつて、全團體とその屬員及び自團體と他の共産團體、若しくは自團體と國家との財政關係を指導監督し、タリールは犯罪及び侵害の調査に從事し、更らに旅客を保護し又これを恙なく隣りの共産團體に案内する義務を擔つてゐる。それから、トーテイは田野の保護と土地の測量を掌り、隣りの團體がその境界線を越えて、こちらの田野を冒すこと(これは就中米作の場合に有り勝ちなことであるが)なきやうに注意せねばならぬ。

『その外、灌漑係りがゐて、水流の停滯を防ぎ、その開閉を適度にして、夫々水田に十分の水を送る(これは特に米作の場合に重要である)。また禮拜のためには婆羅門僧あり、兒童に讀み書きを教へる學校教師がゐる。占星家は播種、収穫、打禾、その他重要なる勞働日のために吉凶日を占ふ。尚ほ、鍛冶屋もあれば、大工もあり、車匠も、陶工も、洗濯人も、牧牛者も、醫者も、舞踏女も、時には又歌手さへもある。

『此等の人々は皆、自己の全團體のために勞働せねばならぬ。而してその代りに、田畑なり収穫物なりの分配に與る。』(改造社版10頁)

原始的の社會には、斯樣な生産方法が一般に行はれてゐた。勿論、團體の形態や大さは種々多樣であつたけれども、生産物が團體員の間に賣買せられないで、直接分配せられてゐた一點は異なる所がない。斯樣な自己團體の消費のための團體的生産こそ、即ち社會主義的生産と謂ふべきものである。

然し今日主張されてゐる社會主義的生産は、斯くの如き原始的生産形態の復活に依つて實現されるものではない。資本主義の後に來たるべき社會主義的生産方法は、資本制生産方法の下に發達した物質的基礎上にのみ形成せらるべきものである。

第一に、社會主義的生産の行はれる範圍、即ち、社會主義的社會の範圍については、マルクス主義者は、略ぼ今日の國家を標準としてゐる如くである。今日經濟的に自給自足し得る社會團體としては、國家よりも大にして完全のものが見出されないのであるから、マルキシズムが國家の領域に生産範圍を置かんとすることは當然であらう。カウツキーはその著『エルフルト綱領』の中に記して曰く、『分業はますます廣く行はれ、個々經營の生産物は、種類に於いてますます專門的となり、供給範圍に於いて世界的となつて行く。而も個々の經營はますます擴張せられ、何千人となく勞働者を使用するものが續々現はれて來る。斯うなれば、自己の欲望を自ら充足し、その充足に必要な一切の經營を包括する組合は、前世紀の初めに於ける共産團體や社會主義的植民地などとは、全く桁の違つた範圍のものでなければならぬ。斯樣な社會主義的組合の範圍となり得るものは、現存の社會的機關の中では唯一つあるのみ。それは即ち現代國家である』と。

然しカウツキーは又、次のやうにも言つてゐる。『社會主義的社會状態の下に於ける經濟上の發達は、決して靜止するものではない。その發達の結果、社會主義的組合が繁榮するためには、組合の範圍は益々擴張せられねばなるまい。個々の社會主義的國民は遂に、唯一の共同團體に融合し、全人類は唯一の社會を形づくるであらうことは、私の固く信ずるところである。』即ちカウツキーは國家を範圍とするのは社會主義社會の初期段階に限られた状態であつて、經濟上の發達につれて、この範圍は更らにますます擴大されて行くと見るのである。

社會主義社會の範圍は、上述の如く、今日の國家よりも小ではない。然らばこの大社會の内部に於いて、人々は如何なる生活をするのであるか。そこにも古き共産制の復活が見られる。人々は社會全體のために働き、社會から必要な物品の分配を受ける。斯樣な制度の下に於いては、もはや何人も他人の餘剩勞働を搾取することは出來ない。資本制社會に於いては、機械及び生産技術の發達や、勞働者の知識及び熟練の發達や、科學工藝その他の發達やに基く生産力の増進は、小數資本家の富を増加し、一般民衆の生活を窮迫せしめる原因となるのであるが、社會主義社會に於いては、それは社會全體を富ましめ、隨つて社會の全員を幸福ならしめる所以となる。この社會には、もはや階級も階級對立もなく、各人は自由にその才分を發揮し、社會的富の享樂に與かることが出來る。

この自由聯合の社會には、勿論、國家なるものは存在し得ない。マルキシズムの主張に依れば、國家とは搾取階級が被搾取階級を壓伏するための機關、又はこの壓伏の法的秩序に外ならない。それ故、搾取される者も搾取する者も存在しない理想社會には、國家權力の必要が存する筈はない。そこで『共産黨宣言』の中には次の如く述べられてゐる。

『發達の進行中に階級別が消滅して、一切の生産が聯合した個々人の手に集中せられた時、公的權力はその政治的性質を喪失する。嚴密の意味の政治的權力なるものは、一階級が他階級を抑壓する爲の組織せられたる權力である。プロレタリアがブルヂォアに對する鬪爭に於いて必然的に階級として結合し、××に依つて己れを支配階級となし、支配階級として舊來の生産事情を廢止するに至れば、この生産事情と共に階級對抗の存立條件も、階級一般、隨つて又階級としてのプロレタリア支配も廢止されることになる、階級と階級對立とを有するブルヂォア社會がなくなつて、各人の自由なる發展が萬人の自由なる發展の條件となる一つの聯合が、これに代つて現はれるのである。』

社會主義社會に國家が存在せぬといふマルキシズムの主張は、以上に依つて明かである。然しマルキシズムに謂ふ如き國家(即ち階級搾取の機關としての國家)が存在しなくなるとしても、社會主義社會の下に強制權力そのものを本質とした國家が果して除去されるか否かは疑問である。マルクスもエンゲルスも、多數の個々人が集つて生活する所には、何等かの強制の存在は免れないと見てゐたやうである。エンゲルスがハーグのインターナショナル會議(1872年)に先だち、ドイツの社會主義者クノーに與へて、無政府主義者バクーニンを評した書簡の中には次の如き一節がある。

『バクーニンに從へば、インターナショナルなるものは、政治的鬪爭を目的とするものでなく、社會的清算(革命の遂行)に際し、これを以つて直接、舊國家組織に代はらしめ得るやうに造らるべきものであるから、これを出來得る限りバクーニンの將來社會の理想に近づかしめることが必要になつて來る。この社會には、第一に何等の權力もない。權力は即ち國家であり、而して國家は即ち×××××を意味するからである。究極に於いて決斷を下すところの意志なく、換言すれば統一的の指揮なくして、如何にして工場を經營し、汽車を走らせ、船舶を航せしめんとするか。これに就いてはバクーニン等は何等説明するところがない。少數者に對する多數者の權力も亦、消滅するとされる。各個人各地方團體は、それぞれ獨立して自治を行ふといふのである。だが、僅かに二人の個人から成る社會にしても、その各人の自主權の一部を放棄せしめることなくして、如何にして成立し得るか。これまたバクーニンの不問に附するところであつた』と。

然るにマルキシズムの未來社會は、今日の國家に比しヨリ大ではあつても、決してヨリ小ではない筈である。この大なる社會が一個の團體として生活して行くためには、何等かの強制(個人の側から見れば不自由)が存在しなくてはなるまい。して見れば、マルキシズムは、一方に於いては『各人の自由なる發展の條件となる一つの聯合』即ち何等の強制なき自由聯合を求めつつ、他方に於いては必然的に何等かの強制を伴ふところの、廣大なる共産的生産方法を求めてゐるといふことになる。

先にも述べた如く、レニンの説に依れば、マルキシズムは先づ、プロレタリア革命に依つて『國家としての國家』(ブルヂォア國家)を廢絶し、これに代ふるにプロレタリア國家を以つてし、社會革命(生産機關の國有)の完成に依つて、プロレタリア國家の自然消滅を期するものである。

茲に謂ふ『國家としての國家』(ブルヂォア國家)の本質は、階級搾取の維持に在る。然るに、レニンは階級搾取のなくなつた後にも、尚ほプロレタリア國家なる『半國家』が過渡的に殘存すると説く。この半國家の本質は、プロレタリアに依る階級支配といふこと以外にはあり得ない。茲に於いて、マルキシズム本來の搾取國家觀は搾取なき階級支配といふ新たなる要素を追加されたことになる。若しこの新たなる國家要素を許さないとすれば、マルキシズムのプロレタリア國家といふ觀念は成立し得なくなる。

けれども、この新たなる要素の承認は、マルキシズム本來の國家觀とは相容れないものである。第一に、マルクスの唯物史觀に依れば、國家は階級搾取維持の機關又は法的秩序であつて、それ以外の何ものでもあり得ない。それ故、プロレタリア國家なるものは、國家であつてはならない。若しプロレタリア國家なるものを國家として承認するとすれば、マルクス主義國家論の根柢は崩れてしまふ。

第二に、斯ういふ矛盾が生じて來る。マルクスの階級説に依れば、階級關係とは搾取被搾取の關係に外ならない。搾取關係のないところに階級はあり得ない。然るにプロレタリア革命の後に、プロレタリアの『階級支配』を行ふとは何の意味か。プロレタリア革命の後には、搾取といふことは行はれない筈である。隨つて、如何なる意味の階級も存在し得ない筈である。そこで若し、プロレタリアの階級支配なるものを承認するとすれば、マルクス主義階級説の根柢は崩れてしまふ。

それ故、若しマルキシズムのプロレタリア國家、隨つて又プロレタリア階級支配なる觀念を救濟しようとすれば、階級支配は搾取關係なくしても成立し得ることを許さねばならなくなる。而してこの、搾取關係の有無を問はざる階級支配、即ちそれ自身としての支配階級(階級的強制支配)こそ、國家成立の唯一決定的要素であると見ることが必要となつて來る。歴史的にも概念的にも、階級搾取なき國家は成立するが、階級支配なき國家は成立し得ないのである。

が、以上の如く修正すれば、マルキシズムのプロレタリア國家説は救濟されるけれども、唯物史觀説に立脚したマルキシズムの國家及階級説、隨つてまた唯物史觀説そのものは、本來の面目を沒却したものとなつてしまふ。いづれにしても、マルキシズムの國家及階級説に蔽ひ難き矛盾の存することは爭はれない。

マルクスの『共産黨宣言』は、『萬國のプロレタリア、團結せよ』の一句を以つて結ばれてゐる。マルクスは一面に於いて、資本主義生産方法の發達が必然的に社會主義經濟制度實現の物質的條件を造り出すと同時に、他方には又、この發達から必然的にプロレタリアの階級的自覺が展開し、階級鬪爭が高調に達して、これが社會主義實現の能動的條件となることを説いた。而してこのプロレタリアの階級鬪爭は、國家を超越した萬國勞働者の共同戰線に依つて行はるべきものであるとした。これ即ち、マルキシズムのインターナショナルと稱するところのものである。インターナショナル本來の語義には、超國家又は反國家の意味は含まれて居らない。ナショナル(國家)對ナショナル間の交互連繋といふ意味であつて、もともと國家の存在を前提しての問題であるが、マルキシズムのインターナショナルは超國家主義である。

然るにマルキシズムの資本主義崩壞後に豫想する社會主義制度が國有主義、國家社會主義の限界を出でないことは曩に述べた通りである。勿論、遠き將來に對しては自由聯合の無國家社會を豫想してゐるやうに見えるけれども、少なくともその豫備段階として國家集中經濟の過程を經なければならないとする點は、一切のマルキシストに共通した見解となつてゐる。即ちマルキシズムは、資本主義崩壞後の經濟制度に對して、國家の存在と役割とを前提してゐる譯である。

然るに資本主義崩壞の能動的條件となるべき、マルキシズムのインターナショナル運動は、それ自身、國家に對する超絶及び否定の態度を意味してゐる。即ちマルキシズムは經濟上にはナショナリズム(國家主義)なる段階の必然を認めながら、運動政策上には端的にインターナショナリズム(超國家主義)の必要を高調してゐるといふことになる。斯くして茲にも、マルキシズムの蔽ひ難き矛盾が暴露されてゐるやうに思はれる。

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