第三講 國家主義思想小史

高畠素之

1.プラトンの共産國家主義

ソフィスト及びソクラテースの思想

國家主義的思想は、遠く古代ギリシァの昔に源を發してゐる。有名なるペルシァ戰爭(紀元前500―449年)は、ギリシァの大勝を以つて局を結んだ。その時以後、渺たる一島國ギリシァは遽かに版圖を擴げ、國力を充實し、勃々たる新興の元氣を以つて宇内に雄飛する有樣となつた。戰勝國の常として、自然ギリシァ諸國家の間にも國民的自負が高まり、動もすれば一切の個人生活を擧げて、國家的祭壇の犠牲たらしむる如き風潮を示した。その頃流行し始めたソフィストの思想は、或る意味に於いて斯かる風潮に對する反動と見ることが出來る。

ソフィストは人間界に於ける一切の固定的原則に反對して、如何なる人間關係も時と處とに依つて千差萬別であり、普遍妥當の絶對的眞理なるものは人間社會に行はるべきものでない、と主張した。人が生を求めて、死を厭ひ、樂を望んで苦を避けるのは自然の法則であり、自然の法則は即ち正義であるから、これを阻止し抑制せんとする人爲の法則は總べて不正である。人爲の法則は、ただ合意を基礎とする場合にのみ、遵守すべきであるとした。

かやうな個人自由主義的思潮は、勢ひの赴くところ、既存一切の制度文物に對する否定破壞的な傾向となつて現はれねばやまない。斯かる流行思潮の雰圍氣中に成長して、つぶさにその惡弊を目撃したのはソクラテースである。彼れは敢然としてこの傾向に反抗した。

彼れは、人間が理想に向つて進むに當り國家生活は必然不可缺の條件であると信じた。勿論、國家の名でなされる行爲のうちにも往々にして不正なるものがあり得る。けれども、それは國家が惡いからでなく、國政運用上の手段を誤まるところに起因するのである。斯かる惡結果は、國家の認むる合法的の手段を以つて矯治することが出來る。たまたまさういふ惡弊に逢着したからといつて、直ちに國家生活そのものをも否定し去らんとするが如きは、これ即ち角を矯めて牛を殺さんとするものである。

ソクラテースは斯ういふ見地から、國家生活の重要なる所以を力説した。古代世界に於ける國家主義思想は、茲に初めて稍々具體的の體系を與へられた。ソクラテースのこの思想を繼承して、これを更らに展開し改造し、加ふるに精緻なる構造と組織とを以つてしたものは、即ちプラトンの理想國家論である。以下、その細論に入るに先だち、當時の一般社會状態について簡單なる叙述を與へる。

アテーネの社會的位置

茲に問題となるのは、ペルシァ戰爭の終熄以降、マケドニアのフリップに依つてギリシァが征服せられるに至つた約150年にわたる一時代であるが、この時代の初期に於いても既に、奴隷と自由市民との關係は暫く措き、同じ自由市民間に在つても富者と貧者、特權貴族と無權民衆との階級區別、階級對立は、稍々著しく現はれてゐた。しかし、この階級對立は尚未だ、國家に對する自由市民間の共同利害を分解せしめる程度には達して居らなかつたのである。しかるに、この時代の終末に近づくに從つて、相異つた階級間の抗爭軋轢は次第に熾烈となり、アッチカの如きは多くの奴隷以外にただ少數の大富豪と多數の極貧者とを包有するに過ぎぬ有樣となつた。

この現象は、ギリシァ全土を通じて一般に見られたところであるが、それが最も際立つて現はれたのはアテーネ國家である。アテーネはペルシァ戰爭の結果、ギリシァに於ける最強最大の國家たる位置を占むるに至つた。彼れはペルシァの軛を覆へすと同時に、彼れ自らギリシァ全土に對するヨリ大きな軛となつたのである。征服諸領土に對しては憚るところなく奴隷勞働を課し、戰勝に伴ふ巨額の商業利潤を獨占した以外に、尚莫大の戰利品や強制貢賦に依つて限りなく富を増大することが出來た。これらの富は主として富者の懷ろに流れ込んでしまつたのであるが、一般市民も亦その餘澤に與からんとすることを避け得なかつた。これがため、市民は一般に勞働を厭ひ、ひたすら富者の殘肴に依つて無爲懶惰の生活に惑溺する有樣となつた。アテーネ市民は斯くしてギリシァ全土の嫉視、羨望、憎惡の的となつたのである。

この對立は遂に、公然たる反アテーネ感情の爆發となつて現はれた。ペロポネサス諸國家はスパルタを盟主として、アテーネに矛を向けた。が、この反抗は單に、アテーネの横暴に對する隣接諸國家の抗爭を意味するばかりではなく、一面に於いては又デモクラシーに對するアリストクラシーの抗爭を意味するものであつた。アテーネはギリシァ全土を通じて最もデモクラチックな國家であり、これに反してスパルタは最もアリストクラチックな國家であつた。アテーネの勢力下に服した諸國家内に於いて、最も重き痛手を受けた市民分子は貴族富豪であつた。先ず第一に掠奪の對象とされたのは彼等であつて、一般市民ではなかつた。またアテーネそれ自身の内部に於いても、一般市民は國費の負擔を出來得る限り貴族富者に轉嫁せしめようと努めた。アテーネ國内に於ける貧富の抗爭はますます露骨強烈となり、果てはアテーネの貴族富豪でありながら公然敵國スパルタと款を通ずるといふ如き結果を來たした。スパルタの勝利は、彼等にとつて民衆の横暴を覆滅すべき唯一の有效手段と見做されたのである。

この戰爭は、かのペロポネサス大戰として史上に名高いものである。この、約30年間(紀元前431―400年)の久しきにわたつた大戰は、遂にアテーネの全滅を以つて局を結んだ。アテーネはアッチカの小土に範圍を局限されて、スパルタに隷屬する身となつた。デモクラシーに代つて、スパルタ流のアリストクラシーが覇を唱へることになつた。今や國民は暫らくその活動をやめて、靜かに國家興亡の由來を省察すべき位置に立たしめられた。最も理想的の國家組織とは果して如何なるものか、國民の知識的關心は、擧つてこの問題に集中した。

プラトン國家觀の社會的環境

斯かる歴史的事情の下に、プラトンは生ひ立つたのである。彼れはペロポネサス戰爭の勃發後間もなく(紀元前429―427年)、由緒ある貴族の一子としてアテーネに生れた。彼れは終生、その貴族的境遇に相應しき觀念を捨てることなく、デモクラシーに對しては常に反對の立場を把持してゐた。裕福なる境遇の下に育くまれた彼れは、早くから詩や哲學に沒頭した。20歳の頃、ソクラテースの門に入つたことは、彼れの思想發展に對する一大轉機となつた。この時以後、彼れの關心は專ら哲學の研究に集中した。彼れは自己獨特の考想と、埃及、シリア、南部イタリア等諸方面への漫遊とに依つて、ソクラテースの立場を繼承しつつ更らに獨自の思想體系を展開した。とりわけ、國家及び社會に關する考察に於いてさうであつた。彼れはみづから直接、實政治に參加することに依つてその理想を行はうとはしなかつたけれども、彼れの國家觀念は決して單なる架空的想像の範圍に止まるものではなかつた。

紀元前368年、シラキュースの老僭主ディオニシウスが死んだ。彼れの息子ディオニシウスは早くから哲學者に興味を有ち、國政上にも種々なる改革を行はうとする氣慨を示す如く見えた。彼れの義兄弟にしてプラトンの友であつたディオンは、この若き主權者を彼等の理想實現の味方に引き入れようとした。プラトンはこの目的を以つてシラキュースに行つた。彼れはデモクラシー全盛のアテーネに於いては、到底その理想國家を實現すべき見込みなきことを知り、シラキュースの僭主を通してこれが實行に着手しようとしたのである。けれども、結果は期待を裏切つた。僭主はただ、虚榮と誇示とのために、哲學者を歡迎してゐたに過ぎぬことが明かとなつた。プラトンは幻惑の哀心を抱いて一度び歸國したが、なほ斷念し切れず、再びシラキュースの王宮に赴いて勸説大いに努めたけれども、これがため僭主の怒りを招き、命からがら自國に逃げ歸るといふ悲慘な運命に逢着した。

彼れはこのこと以來、一切の理想實現的意圖を放棄して、死に至るまで、ひたすらその哲學の完成に沒頭した。

プラトンの國家論

彼れの理想國家論の最も本質的な部分を成すものは、最良の國家組織とは何ぞといふ問題の研究である。現存の國家形態及び社會形態が極めて不良なるものであることは、彼れにとつて何等疑ひを容れる餘地がなかつた。財産の私有と貧富の對立とは、終極に於いて國家の頽廢を齎らさねば止まない。『一つの國家に於いて、富と富者とが尊敬されるとき、徳や喜に對する注意はヨリ少なくなつて來る。』斯かる國家は、一國家たる外觀を示してゐるとはいへ、事實に於いては二國家である。即ち富者の國家と、貧者の國家との對立を意味するものである。これら兩要素間の軋轢抗爭が極點に達したとき、支配者となるものが富者たると貧者たるとに論なく、國家は必然に崩壞を免れなくなる。

然らばブラトンは、斯かる不良なる國家組織に代ふるに、果して如何なる國家組織を以つてせんとするのであるか。彼れは曰く、ひとり共産制度のみが、斯かる國内的軋轢を廢除し得ると。

けれども彼れは、一切の階級差別を廢除しようとはしなかつた。國家を維持發展するには共産制度の樹立を要するけれども、それは單に支配階級だけの共産制度でなければならぬ。支配階級に對して財産私有を廢止してしまへば、彼等は最早勞働者に對して搾取抑壓を行はうとする誘惑を感じなくなり、民衆を脅威するところの狼たる位置から、民衆を保護するところの番犬たる位置に轉化される。

勞働階級たる農民や手工業者に對しては、財産私有を維持する。商人に對しても同樣である。これ蓋し、當時に於ける生産方法の必要に出でたところである。當時に於ける生産の基礎となつたものは、農工業上の小規模經營であつた。而して斯かる經營を維持するためには、勢ひ生産機關の私有を必要とした。當時、大規模の經營も既に現はれてゐたが、これはいづれも奴隷の使用を以つて行つてゐたものである。自由市民勞働者は小規模經營の範圍にのみ限られてゐた。彼等に對して生産機關の私有を廢除することは、これ取りも直さず、産業そのものの廢除を意味するものであつた。プラトンが私有の撤廢を、支配階級の間にのみ局限しようとした所以は茲にある。

理想國家に於いては、支配階級は生産に從事することがない。彼等は、勞働者からの貢賦に依つて生活するのである。隨って彼等の共産制度は、生産機關の共有ではなく、消費資料の共有を意味するものであつた。

支配階級は國家の守護者たるべきものであつて、國民の最良分子中から選擇される。が、彼等の階級的位置は必らずしも世襲的ではない。凡庸者は驅逐される。と同時に、勞働階級の所屬者中からも、優秀なる人物は採つてこれを支配者の隊列に加へるのである。

支配階級に對しては、財産の私有を禁ずると同時にまた家庭の私有をも禁じた。家庭生活は消費生活の一部であるから消費の共有を基礎とする以上は、家庭の私有を禁ずることもまた當然の歸結といはねばならぬ。

然らば、家庭の共有は如何にして行はれるか。先づ親子關係についていふならば、子供が生れると掛官が來てこれを國家の託兒所に連れて行く。隨つて、肉親の親子關係は國家の記録を通しての外は知り得なくなる。支配階級の間では、年齡上の一定の差を以つて親子の別を立てる。

次に兩性關係についても、國家はこれを個人的偶然と機會とに放任することなく、國家みづから各男女の配偶關係を選定するのである。如何なる男子に、如何なる婦女を配すべきかといふことは、總べて國家自身の重要任務となるのである。男女の位置は概して平等でなければならぬ。官職上にも、教育上にも、男女の待遇差別を認めない。

男女の教育も亦、國家の擔任するところであつて、その目的は專ら國家のため優秀なる支配者を養成するにある。プラトンの國家制度は概してスパルタの貴族政治から學ぶところ多かつたものであるが、とりわけ教育制度に於いてはこの傾向が著しかつた。ただ異なるところは、スパルタ流の偏武的教育を廢して、哲學的思想の訓練に重きを置いた一點である。

要するに、プラトンの共産主義は國家維持の必須條件として考案されたものであつて、國家の維持發達といふことが窮極の眼目となつてゐた。國家を鞏固ならしめるためには、國内の軋轢衝突を除去することが、最大急務である。貧富の懸隔は斯かる軋轢抗爭の主要原因たるものであるから、先づ貧富の對立をなくすることを考へねばならぬ。

そこで彼れは、自由民を勞働者と支配者との兩階級に區分し、勞働者の間には生産機關の私有を認めたけれども、支配者は支配機能の擔任を專務とするものであつて、自餘の生活は消費方面にのみ限られるものであるから、彼等に對しては富の私有を許さず、一切の消費生活を通じて共同共有の原理を徹底せしめようとした。

この理想は當時の社會的、經濟的事情に照應したものであつて、當時に在つては決して架空の想像的觀念に止まるものではなかつた。勿論、社會的、經濟的事情の全く一變した現代の人から見ればこれが極めて滑稽なものと感ぜられることは是非もない次第だが、それにしても、彼れが國家存立の最大根柢として共産制度の樹立を主張した一點は十分に評價し得る。彼れは共産制度樹立のうちに國家主義の徹底を求めたのである。そこに、彼れの國家主義の獨特な行き方が示されてゐる。

2.マキアヴェリの強力國家主義

中世思想への反動

ヨーロッパ中世の政治思想は、教權至上の統一主義に終始してゐた。人類は神意に依つて社會を構成する。人類社會の生活には靈的及び俗的の兩面があつて、此等はおのおの相異つた支配者の下に統治せられることを便利とする。けれども宇宙の支配者たる神は靈であるから、便宜上靈俗兩界に對して、おのおの特殊の支配者を設けるとはいへ、神意の直接的傳達者たるものは靈界の支配者でなければならぬ。俗界の支配者は靈界の支配者に隷屬すべきであり、法王は帝王の上に君臨すべきである。

この傾向は更らに發展して、法王は神意に依り世界を統治すべきだとする思想を生ぜしめるやうになつた。斯かる教權至上の傾向に對抗して、個性の尊嚴を高調したものはルネッサンスの曉鐘である。個性の主張は一面に於いて政教分離の要求を伴つた。教會は宗教上の權力を保有するだけに止め、世俗一切の支配は擧げてこれを國家の手に集中せしめようとする主張が起つた。この主張は、個性尊重の傾向と内容的には一致しないものであるが、教會が政治上一切の權力を壟斷してゐた中世への反動として、此等の内容的に相矛盾する兩傾向が時間的に表裏して表はれ來たつたことは偶然でない。而してこの政教分離の思潮を最も強く代表し、政治上に於ける國家權力の確立を最も徹底的に力説したものは、マキアヴェリの政治思想である。

マキアヴェリの環境

彼れは1469年、イタリアのフロレーンツに生れた。當時のイタリアは、古代ギリシァ又は近世のドイツと同じく、大小幾多の國家に分裂してゐた。その最大なるものには、北方のミラン侯國を始めとして、ヴェネチア及びゲヌア兩共和國があつた。その他、フロレーンツ、ナポリ、シシリー等比較的有力なる諸都市と相竝んで、多數の小都市、小國家がその間に介在し、互ひに嫉視抗爭を續けるといふ有樣であつた。イタリア外部の有力なる國家(ドイツ、フランス、スペイン等)を聯盟して、國内の仇敵に對抗しようとするものも少なくはなかつた。また國内政治に於いても、貴族富豪と民衆とが露骨に相對立して、蝸牛角上の爭を續けてゐた。

斯樣な環境の元に生ひ立つたマキアヴェリは、早くから國家の危機に直面せしめられた。この慘憺たる國情は、愛國者たる彼れの座視するに忍びないところであつた。彼れは何とかして、この四分五裂のイタリアを統一し、以つて一大民族國家を確立せねばならぬと信じてゐた。彼れの國家主義は、斯かる國家的環境と中世の教權政治に對する反動との下に育くまれたものである。

マキアヴェリの現實主義

マキアヴェリの名は、壓制と暴虐の代名詞として傳統的に蛇蝎視せられて來た。人間を取扱ふことに於いて眼光紙背に徹せねばならぬシェクスピーアの如き大藝術家でさへ、『殺人的マキアヴェリ』といふやうな言葉を用ゐて、世の俗見に媚びようとすることを避け得なかつた(『ヘンリー6世』第3部)。フリードリヒ2世は彼れが尚ほ皇太子であつた當時(1739年)有名なるマキアヴェリ論を書いた大いにマキアヴェリ主義の害毒を痛撃したが、やがて彼れ自から皇帝となるに及び遺憾なくマキアヴェリ主義を發揮した。19世紀に入つて、漸くマキアヴェリの眞價を認識する學者が出て來た。ヘーゲルはその一、フヒテはその二、次いでレオポルド・ランケも亦『マキアヴェリはイタリアの幸福を求めたのであつたが、當時イタリアの状態は全く絶望に陷つてゐるかの如く見えたので、彼れは大膽にも自國のために毒を盛つた次第である』といつて、賞めたやうな貶したやうな評價を下した。

マキアヴェリは何故、斯くも世の反感を買つたのであるか。それは一には、彼れの理論體系の内容的傾向にも起因することであるが、その最も大なる原因は彼れの徹底した現實主義にある。彼れは曩には述べた如く、一面に極めて熱烈なる愛國者であつたが、他の一面にはまた假借するところなき冷徹辛辣な現實主義的性格の持主であつた。虚僞虚飾は、彼れの絶對に容れ能はないところであつた。彼れは現實を現實として取扱ひ、蔽ふところなき現實の前提から生きた定則を推論した。隨つて、彼れの學説には、世人の虚飾常識的本能を誘ふ餘地が些かもなかつた。と、いふよりも寧ろ、その謂ふところは、一々世俗の疚しい良心の圖星を指した。彼れの政治學は、政治そのものの現實曝露であつた。それ故、事實に於いて彼れの謂ふ如き政治を行つてゐる爲政者ほど、彼れの名を口にすることを恥ぢとしたのである。それは、彼れの謂ふところが虚僞であつたためでなく、寧ろ餘りに眞實であり、餘りに現實的であり、隨つてまた、餘りに辛辣苛烈であつたためである。それだけ、彼れの學説には動かし難い眞理が含まれてゐたといひ得る。

一例を擧ぐれば、彼れは政治の領域から道徳を驅逐した。世人はこれを以つて、彼れが道義の破壞者であるかの如く考へてゐる。それは飛んでもない誤解である。彼れにとつては、生きた政治が問題であつた。現實の生きた政治は、過去幾百年來道義の要素を容れて居らなかつた。政治と倫理とは現實的に對立してゐる。彼れはこの生きた現實を欺くことが出來なかつた。彼れの學的良心は、事實を事實として把握し考察することを命じた。事實を塗飾して中途半端の理論を編み出すことは、到底彼れの良心の許さないところであつた。

マキアヴェリの施政論

マキアヴェリの政治論は一般政治學として提供されたものでなく、主として當面のイタリアを救ふべき施政論として構想されたものである。その範圍内に於いて、彼れの主張は極端な君主主義であつた。國情の壞頽したイタリアを救ふには、ただ強大なる實行力を具へた帝王の出現に俟つのほかはないと信じた。而してこの帝王が國政を執り行ふに當つて如何なる規準に從ふべきかといふことが、彼れの最も力を罩めて論究したところである。

帝王の施政に於いて、先づ注意を要することは、一切の倫理的標準を度外視してかかることである。マキアヴェリは正義、廉潔、同情等各種の私徳を重んずる點に於いては、決して人後に落ちなかつた。政治上にも、往々にして此等の私徳が實效を示すこともあり得る。が、原則としては、政治に道徳は大禁物であるとした。

政治の目的は支配統制である。この目的にとつて有效なる行爲は、私徳上如何に邪惡視されるものと雖も、政治上にはそれが善であるとせねばならぬ。虚言は通例の倫理的見地からすれば惡であるが、年少者の教育上、場合に依つては善とせられることもある。教育上に於いてすら既に然りであるから、政治上に於いてこれが原則とせられる如きは、尚更ら當然の事といはねばならぬ。

人の性は惡である。人は生れながらにして、みな惡人である。毒を以つて毒を制する。惡を制するには、惡を以つてする外はない。人類は一般に、私慾、虚僞、怯懦、忘恩を本性としてゐる。それ故、愛を以つて國民を統治することは益が少ない。一番有效なのは、力を以つて脅威することである。帝王たるものは、獅子にして且つ同時に狐であることを要する。とりわけ新たに主權を樹立した帝王は、『人々が善とするところの一切を行ひ得るものではない。國家を維持するためにはしばしば忠實や、温情や、人情や、敬虔やと衝突することを免れない』(『帝王論』18章)。帝王は勢ひの赴くところに從つて、如何やうにも臨機の行動を採り得なくてはならぬが、表面上は常に一切の私徳なかんづく敬虔の味方であるかの如く見せかけることが必要である。蓋し『愚民は行爲の外觀と結果とに左袒するものであり』而して『世には愚民のほか何人も存在しないからである』(前掲)。新たなる帝王にして若し自己を維持しようと思ふならば、斷じて惡事惡行を恐れてはならぬ。また、必要に應じて惡事惡行を活用することをも學ばねばならぬ。蓋し『普通、善行とせられてゐて而も帝王の滅亡を招致するところのものがあると同時に、また惡行とせられてゐて而も帝王の保障と所有を確保するところのものも存する』からである。(前掲)

それ故、新たに他國を征服した主權者は『必然その國に對して行はねばならぬ惡行を豫め熟考して置いて、これを日々反覆することを避けるため一氣に斷行することを要する』(前掲)。斯くするときは、被征服者の苦痛を減じ、隨つて征服者に對する反感もそれだけ緩和されて來る。反對に『善行を施す場合には、その感銘を深からしめるため、久しきにわたり徐々と行つてゆくことが有利である』(前掲8章)。『新附の人民に對しては、最初は一般に苛酷な待遇を與ふべきである』(前掲3章)。また、從前自由都市であつたところのものに對しては、統治者みづから其地に居住して支配することが出來ない限り、寧ろこれを破壞してしまふ方が有利である。

以上述べたところに依つて、マキアヴエリの主張が極めて露骨率直な權力政治論に終始してゐることを知るであらう。『國家は權力である』といふ命題を初めて明瞭に提唱したのは彼れであつた。この點に、例へばハインリヒ・フォン・トラチケの如きは、マキアヴェリの近代的特徴を看取してゐる。

この權力國家説と表裏した彼れの根本主義に、いま一つ行力説といふのがある。エドワード・マイヤーの如きは、この行力説のうちに、極めて貴重なる近代思想の胚種を見出したと言明してゐる。

行力とは意志又は實行の力を意味し、偶然又は宿命と相對立した概念である。行力は善惡の彼岸にある。それは己れ自身のうちに總合された力であり、生命のエネルギーであつて、キリスト教の自卑忍從から向上精神の境地に人類を救ひ上げるところの動力となるものである。けれども力は休息を生じ、休息は懶惰を生じ、懶惰は無秩序を生じ、無秩序は破壞を生ぜしめる。と、同時にまた破壞から力が生じ、力から幸福が生じて來る。斯くして人類社會は、次第にヨリ高き段階へと進歩して行く。而して進歩の第一動力となるものは、つねに實行の力である。謂ふところの行力説とは斯くの如きものであるが、この點に於いても、彼れの思想は極めて現實主義的方向を指してゐたことが知られるであらう。

3.マーカンチリズム

マーカンチリズムの歴史的意義

マーカンチリズムは通常『重商主義』と譯されてゐる。アダム・スミスはこれをマーカンチル・システム(重商制度)と呼んだ。元來、この傾向は一定の學者又は思想家に依つて提唱された學説上の主義といふよりも、寧ろ當時の政府及び商業家の實行した政策的原理の總括に過ぎぬものであるから、これを主義と呼ぶのは些か語弊がある。いづれかといへば原生的に發達した一つの制度的傾向に過ぎないのである。しかし今日、キァピタリズムを資本主義と通稱してゐるところに對比すれば、それを主義と呼ぶことが必らずしも不當であるとは思はれない。キァピタリズムも其初め、或る一定の學者又は思想家の主義主張として提唱されたといふよりも、寧ろ社會經濟上の一制度として發生して來たものであるから、嚴密にはこれを資本制度と呼ぶが至當であらう。

マーカンチリズム發生の歴史的社會的背景となつたものは、一面に於いて近世國家の成立であり、他面に於いては資本主義經濟の擡頭であり。中世の都市經濟現物經濟が破れて、貨幣經濟が行はれるやうになつた。ギルド手工業の特權的位置から突き落された多數のプロレタリア職人は、共同耕地の『圍込み』や『農民の追放』に依つて農村を逐はれ都市に流入した無數の農村プロレタリアと相合して、都市民の重要部分を構成するやうになつた。

それと同時に、アメリカ大陸の發見(1492年)は新大陸から多額の金を歐洲に齎らし、喜望峯を迂廻する印度航路の發見(1498年)は世界貿易の上に大なる刺戟を與へた。貨幣を確保した商業家は、都市に充滿する多數のプロレタリアを大纏めに雇傭して、茲に近世資本制度の産業的起點たるマニュファクチューア(工場的手工業)を成立せしめたのである。マニュファクチューアは生産方法の特殊な一形態として生じたものであるが、その成立上の企業家的因子となつたものは寧ろ貨幣を確保してゐるところの商業家であつた。近世資本主義は、生産上の特殊形態として發達したものである。が、新たなる事情に照應した生産を行ふには多額の貨幣を要する。貨幣が生産上の第一條件となつたのである。そこで貨幣を呼び求める聲が到る處に高まつた。

一方には又、近世に入ると共に西歐にはスペイン、ポルトガル、フランス及びイギリス等の專制的集中國家が成立し、續いて群小割據のドイツにも統一國家が設立された。國家の形成には、貨幣と人民とを要する。宮廷の費用は膨張し、常備軍の維持には多額の貨幣が必要とせられた。政治家はこの要求に應ずるため、特殊の方策を採るやうになつた。謂ふところのマーカンチリズムとは此等の方策に一貫して横はるところの根本原理に外ならぬものである。

マーカンチリズムは經濟上の國家主義ともいふべき特殊の政策的原理であるが、この原理は以上の叙述に依つて知られる如く、一面には近世資本主義の發達上必要とせられたものであると同時に、他の一面にはまた、近世國家の形成に伴ふ特殊の必然的經濟政策であつた。資本主義は國家主義と必然的に表裏するものではない。必要に應じて、國家を利用することもあれば、それに反對することもある。後年マーカンチリズムの反動として生じた個人主義的、自由放任主義的傾向も亦、資本主義の發達に利用せられた。國家の立場からすれば、個人主義や自由主義を容れる餘地は殆んどない。マーカンチリズム時代に續く近世の歐洲諸國家が自由主義經濟を容れるやうになつたのは、國家の自立的要求に出でたものではなく、寧ろ資本主義の要求に國家が隨從せしめられた結果に外ならないのである。

この點に於いて、マーカンチリズムは些か趣きを異にする。それは資本主義發達上の必要條件であつたと同時に、また近世國家の成立上にも缺くべからざる條件であつた。國家はそれ自身の立場から、マーカンチリズムを必要としたのである。それは自由主義經濟の如く、資本主義の要求に依つて、外部から國家に強制せられたものでない。自由主義經濟が國家の私生兒であるに反して、マーカンチリズムはその嫡出子であつた。この點から見て、マーカンチリズムを國家主義の一形態として取扱ふことは決して不當でないと信ずる。

マーカンチリズムの特徴

近世の諸國家は、殆んど時を同じうして各地に成立したものである。一度び形成せられた國家は、互ひに自己の優越と利益とのために全力を傾倒する。國家間には、利害の衝突が釀される。一國の利益は他國の損失となり、後者の損失は前者の利益となり得る。この事實から出發して、マーカンチリズムは、自己に有利となるべき貿易平衡を實現しようとするのである。

一國を強大ならしめるためには、貴金屬の充實を必要とする。貴金屬を充實するには、金鑛又は銀鑛の存在が必要である。けれども此等の鑛山は、如何なる國にも存在するといふわけでない。それを有たない國は、如何にして自國に貴金屬を充實せしめ得るか。有利なる貿易平衡の實現に依る外はない。貿易平衡とは、輸出入商品の價値總額の比較を謂ふ。いま甲なる國が乙なる國に金額1000圓の輸出をなし、而して乙から甲へ輸入した商品の金額が900圓であるとすれば、100圓といふ差額が現金で甲國へ流れ込んで來る。この場合には、兩國間の貿易均衡は甲國にとつて有利であり、乙國にとつて不利であるといふ。マーカンチリズムは、斯くの如き有利なる貿易平衡を實現しようとするのである。

けれども、さうするには、自國の輸出を盛んならしめると同時に、また他國からの輸入を防遏する必要がある。自國の輸出を盛ならしめるためには、國内の産業を奬勵せねばらなぬ。また外國品の輸入を防遏するためには、關税に依つて外國品の流入に對抗することが必要である。

そこでマーカンチリズムは、極端な關税政策を主張することになつた。けれども原料の輸入に對しては、課税主義を採らなかつた。外國から低廉なる原料を輸入し、これに加工した製造品を高値で外國に賣りつけることが、有利なる貿易平衡を實現せしめる所以だと信ぜられたからである。同樣な意味で、自國の原料や手工器具を外國に輸出することも嚴禁された。これについて、アダム・スミスは色々な實例を揚げてゐる。

たとへば、イギリスでは羊毛を箱、桶又は樽に入れて送り出すことを許さなかつた。ただ、革包みのものか、又は荷造布に包んだものだけを許すことになつてゐた。この包みの外部には、長さ3吋以上の文字で羊毛と明書すべき規定であつた。この規定に違犯したものは、現品を沒収され、1封度當り3志の罰金を課される。また、ケント及びサセックス兩州では、海岸から10哩以内の地域に居住する羊毛所有者は、羊毛を刈りとつた後3日以内に、最寄りの税關吏に對して羊毛の數量及び所在地に關し報告文書を差出さねばならぬ。羊毛を他へ運び出さうとする場合には、その數量や送先きの住所氏名等を文章で報告する義務がある。海岸接續地域15哩以内に在る者は、その地域内では何人に對しても羊毛を賣ることを許されない。これに違犯したるものは、現品を沒収され、1封度當り3志の罰金を課される。

以上は、原料輸出防止の實例であるが、手工器具についても同樣であつた。ヂォーヂ3世即位第14年の條例は、木綿、リンネル、毛織物、又は絹布製造用器具の輸出を禁じ、違犯者に對しては、現品を沒収する上に尚ほ200磅の罰金を課した。

マーカンチリズムは斯くの如く、有利なる貿易均衡の實現上國内産業の發達を奬勵したのであるが、産業の發達は一面に於いて人口の増殖を必要とする。そこで人口増加の奬勵といふことも亦、マーカンチリズムの一特徴となつた。ルヰ14世の治下では、10人の嫡子を有する者には免税の特典を與へ、20歳以下の結婚者には5年間の免税を許した。

マーカンチリズムは經濟生活に對する國家主義の進出であつたから、國家權力の干渉は到らぬ隈なき有樣であつた。國民の富とは、國家及び國王の富に外ならぬものとされた。そこでオンケンの如きは、マーカンチリズムの經濟政策を稱して『國王致富警察主義』と名づけた。

コルベールの政策

マーカンチリズムの實行者として最も徹底的の政策を行つたものは、フランスのジァン・パチスト・コルベールであつた。彼れは1619年、レームの或る製布業者の息として生れた。元來、商人となる譯であつたが、母方の叔父の世話でマザリン大僧正に仕へる身となつた。マザリンは大いに彼れを信任して、臨終の際國王に彼れの後事を託した位ゐであつた。

ルヰ14世の下に、フランス財政の難局に處して非凡の手腕を振つたのは彼れであつた。彼れはフランスの財政を豐かならしめる策として、間接税の賦課、寺領の沒収を行ふと同時に、國外の隆盛なる工業に着目して、諸外國から有爲の人材を招致することに努めた。彼れは斯くして、熱心にフランス製造業の振興を畫策したのであるが、その一手段として保護政策を採用した。彼れみづからは、自由貿易主義の支持者であると稱してゐたけれども、當面のフランス國情に對しては、保護政策を行ふ以外に難局を切り抜ける道がないと考へたのであらう。兎にかく、事實に於いては、熱心なる保護主義者であつた。

クロムウヱルの政策

フランスのコルベールと相竝んで、イギリスのクロムウヱルも亦マーカンチリズムの代表的實行者であつた。彼れは1651年、有名なる航海條例を布いたが、その内容は次の如きものであつた。

1.イギリス沿岸に於いては、外國船舶が漁撈及び運搬を行ふことを許さない。

2.船主、船長及び乘組員の總人員中、少なくとも4分の3がイギリス人民でないところの船舶は、英領植民地との貿易に從事することを禁ずる。

3.イギリスと諸外國との貿易は、直接に當該各國の船舶を以つて行ふべきであつて、中間貿易は總べて嚴禁する。

4.外國商人は、國内商人と同じく、輸入品に對して2倍の關税を支拂はねばならぬ。

5.植民地からの商品は、イギリスの港灣に向けて發送することを要する。

6.如何なる鹽魚、鯨鰭、鯨鬚、鯨脂も、イギリスの船舶を以つて漁獵し貯藏したものでない限りは、イギリスに輸入する場合2倍の關税を支拂はねばならぬ。

クロムウヱルは何故、かやうな航海條例を施行したかといふに、これに依つて世界の航海業を獨占し、國内の造船業を奬勵しようとするのが目的であつた。そのためには先づ、當時世界の制海權を掌握してゐたオランダに對して、致命的の打撃を與へることが必要であつた。斯くして、兩國間に葛藤が釀され、その結果は1652年から54年にわたる戰爭となつて現はれた。オランダはこの戰爭に破れて、海上の覇權は全くイギリスの手に歸することとなつた。イギリス今日の海上覇權は、クロムウヱルの航海條例に胚胎したものといひ得る。

マーカンチリズムの代表的學者

以上は實際的方面に於けるマーカンチリズムの代表的人物を擧げたのであるが、マーカンチリズムはまた理論方面からの支持者をも有つてゐた。勿論、これらの學者にはおのおの特殊の個性的特徴があるから、一概にマーカンチリズムの支持者として取扱ふことは多少の無理がないでもないが、大體に於いてこの共通範疇に屬せしめ得る人々を擧ぐれば左の通りである。

トマス・グレシァム(1519―79年)『惡貨は良貨を驅逐する』といふ、謂はゆるグレシァム法則の提唱者、貨幣の名目價値は鋳造費用と貴金屬材料の實質價値との合計に等しいといふ主張を立てた。

トマス・マン(1571―1641年)貨幣輸出を有利とする所以を説いた。貨幣の輸出は土地に種を蒔くやうなもので、例へば東印度から貨幣を交換して得た商品は、これを更らに外國へ輸出販賣することが出來る。それはヨリ大きな貨幣となつて、本國に回流して來る。又、自國の輸出品を増加するには、休閑地の耕作、奢侈取締法の制定、及び取引國の欲望を確かめる事、自國の船舶を以つて輸出をなす事、近海漁業の奮勵等が最も有效な手段であると説いた。

ジォサイア・チァイルド(1360―69年)保護主義の主唱者、資本の運轉を活溌ならしめるため、利子率の引下げ斷行を力説した。

以上のほか、イギリスではジェームズ・スチュアート、ウリアム・ペテー、ドイツではゲオルグ・オプレヒト、ベゾルト、フォン・ロール、フランスではボーダン及びモンクレテアン・ド・クットヴィユ、イタリアではアントニオ・セラ等が最も著名なマーカンチリズム學者であつた。また、哲學方面でマーカンチリズムを代表した思想家としては、イギリスのベーコン、ホッブス、カムバーランド等が最もよく知られてゐる。なかでもホッブスは、利己的個人主義の前提から國家至上主義に到達した現實主義的國家論の樹立者として、國家主義思想史上に極めて重要な位置を占めるものであるから、以下項を改めて彼れの所論を一瞥することにする。

4.ホッブスの契約國家主義

彼れの小傳

トマス・ホッブスは、1588年、イギリスのマルメルスベリーに生れた。オックスフォードのマグダーレン・ホールに入つて論理と物理とを學び、19歳にして同校を卒業した。卒業後キャヴヱンディシュ卿に招かれて、同家の家庭教師となり、3代數十年の長きにわたつて同家に仕へた。その後フランスに遊んで、デカルト、ガッセンヂ等と親しく交はつた。歸國後、無神論を唱へて教會に挑戰する傾向を示したため、チャールズ2世の怒りを買つてフランスに趣き、クロムウヱル政府の成立と共に再び祖國の人となつた。1660年の王政復古は、彼れの前途から希望を奪つた。彼れの最後の著述『長期議會史』の如きは、國王から發行の許可を得ることが出來ぬ程の有樣であつた。けれども、彼れは老後身心ともに衰へず、88歳にして尚且つホーマーの詩を翻譯するといふ元氣であつた。1679年、91歳の高齡を以つて死んだ。

彼れは最初、數學及び古典の研究を以つて生涯の事業とするつもりであつたが、後ち專ら政治哲學に沒頭した。1640年に君主政治論を完成したが、これは後ちに『人性論』及び『政體論』と題して別々に刊行された。1651年に名著『レヴィアサン』を刊行した。レヴィアサンとは假想の大鰐であつて、彼れは國家を以つてこの怪物に譬へたのである。この書は彼れの國家哲學の最も組織的な體系を示すものであるから、以下の叙述に於いては主として同書に示された論旨を取扱ふことにする。

彼れは虚飾を憎み眞實を愛する點に於いて、マキアヴェリと同型同種の性格であつた。明徹氷の如き頭腦と、鮮鋭針の如き洞察力とは、生きた現實の腹を割いて、生ま血の滴るやうな法則を掴み出さずには置かなかつた。彼れは貴族社會の環境に育ち、一見貴族の御用哲學と思はれる如き國家論を提出したのであつたが、卒先して彼れの主張に反對したのは上流人士であつた。これ、彼れの性格が餘りに眞實であり、彼れの論究が餘りに現實的であつた結果である。彼れの理論は上流社會をして現實の良心に直面せしめた。『體面』の維持を以つて人生の最重要事と心得てゐたイギリスの上流人士が、彼れの哲學を蛇蝎の如く忌み嫌つた所以は茲にある。同じ意味で、『體面』の奴隷たる學者知識者も亦、彼れに對して適當な評價を與へることに臆病であつた。哲學史上、彼れのために許されてゐた紙席の如何に狹小であるかを見よ。彼れの國家論は、時代の知識水準から脱却し切らない幾多の制限的要素を含むに拘らず、數百年後の我々に對してすら尚十分に生々とした現實反應を與へ得る。それほど、彼れの實感的洞察は人生の急所に觸れてゐたのである。

彼れの國家論

彼れは人の本性が利己にあるといふ前提から出發してゐる。凡ゆる人間行爲の動力となるものは、自己本位の欲望である。人と人との關係は本來、狼と狼との關係の如きものである。自然(現實的の自然といふよりも、寧ろ思惟上に假定された自然を指したものであらう)の状態に於いては、『一切に對する一切の戰爭』あるのみ。けれども、永くこの状態を續けてゐては、人類全體が亡びてしまふ。そこで人類は、『最初の契約』を結んで、この共同危險状態から脱却することになる。

最初の契約は、かのアリストテレースやグロチウスの謂ふ如き人類本有の社會的衝動に依つて與へられるものではない。それは全くエゴイスチックな、而も極めて自然的な、自己保存衝動から生れて來るものである。一切に對する一切の戰爭といふ状態を久しく續けるならば、遂には萬人の生存保證が奪はれてしまふ。そこで、人類は自己の生存を維持せんがため、斯かる本來の鬪爭状態から脱却する目的を以つて最初の契約を結ぶことになる。この契約に依つて、個々人は自己の利益のため、從來保有してゐた各自の權利をば唯一の權力の手に移轉する。この權力が單一の個人に依つて代表されるか、又は一つの集團(國家それ自身)に依つて代表されるかといふことは、いづれにしても關はるところがない。國家は支配者と人民との契約から生ずるものではなく、凡ゆる個々人の意志行爲から生ずるものである。彼等はレヴィアサンに向つて、異口同音に『さうしよう』と言ふ。これはどういふことかといふに、『私はこの人又はこの集團に私を支配すべき全權を委ねるから、君も亦君を支配すべき全權を同じ人又は同じ集團に委ねよ』と言ふのである。それを各人が各人に物言ふ如くにして一齊に取り定めてしまふ。

斯くして成立した國家の手には一切の權力が保有される。國家は如何なる事をもなす權利を有つてゐる。それは『地上の神』である。それは如何なる法律、如何なる契約、如何なる義務に依つても拘束されることがなく、何人に對しても責任がない。國家の主權者は、その臣民の人格、財産、權利に對し、進んでは彼等の良心や、宗教やに對しても、無限の權利を有つてゐる。國家權力の如何なる分割も、國家形態への如何なる干渉も、その事それ自身が一つの矛盾である。國家を通して初めて權利が生ずる。自由なるものは、ただ『立法者が立法の際措いて顧みなかつた物の上にのみ』存する(レヴィアサン21章)。斯くしてホッブスの主權概念に於いては、民權又は人類の權利なるものは完全に排除されてしまふ譯である。

ホッブスは國家を以つて、レヴィアサンといふ巨大な動物に譬へた。そこで、彼れの理解した國家は一つの有機體であらうとは何人も想像するところであるが、事實は寧ろ『人爲的の生命』を備へた『人爲的の人間』に過ぎぬものであつた。それは有機體といふよりも、寧ろ一個の『機械』又は『時計仕掛』に比すべきものだとしたのである。

國家形態の如何は、ホッブスにとつて餘り重大な問題でなかつた。イギリスにとつては君主政體を最良のものと見てゐたやうであるが、君主權は必らず世襲たるべきものだとは信じて居らなかつた。さればこそ、チャールズ2世の下に忠良なる臣民であつた彼れは、クロムウヱルの下にも同樣に忠良なる臣民であり得たのである。クロムウェル治下の共和體も、彼れの目には一つの假装したる君主政體に外ならぬものとして映じた。彼れは帝王神權説には反對であつた。帝王は神の命に依つて帝王たるにあらず、國家は全く人定の一組織に過ぎぬものだとしてゐた。それは人定の制度ではあるが、しかし絶對的のものである。けれども、この絶對的國家は、種々なる形態を採り得る。君主國もあれば民主國もあり、貴族主義の國もある。が、民主政治といふものは、兎もすれば辯舌家の貴族政治に陷り易い。政黨間の軋轢抗爭から國家を保護するには、鞏固なる君主政治が最も有效であると、彼れは解してゐたやうにも見える。

ホッブスは國家及び主權の絶對性を主張するものであるから、この意味に於いて純粹の專制論者であつたとはいひ得るけれども、通例反動主義者と謂はれる思想家部類に屬すべき人では決してなかつた。彼れの謂ふ『最初の契約』なるものは、『一切に對する一切の戰爭』を終極的に取り除かうとするものである。それ故、彼れの見地からすれば、平和を有し得る所には平和を求めねばならぬといふことが、自然の第1原則となる。次に、何人も自己の安全を欲するならば、『一切』を求めんとする權利を擲つて、みづから他人に許すところと同一の自由を與へられることとを以つて滿足せねばならぬといふ原則が生じて來る。要するに、『汝の欲するところを人に施せ』『汝の欲せざるところを人に施す勿れ』といふことが、動かすべからざる社會的の自然律となつて來るのである。それ故、利己心と權力慾との前提から出發したホッブスの思想體系も、終極に於いては、理性と共同意志とに基づくとことの、客觀的權利を認めたことになる。自然の状態に於いては、單に情慾と、隨つてまた戰爭と、野蠻状態と、窮乏と、恐怖と、粗暴とが支配してゐるだけであるが、國家は此等のものを轉じて、平和と、理性と、人間性と、科學と、社會性との支配に變ぜしめる。これがホッブスの國家論から描き出される終極の結論である。

ホッブスの絶對國家は唯一の支配者たるべきものであるから、國家の内部には國家以外の支配者があつてはならぬ。他の如何なる權力に對しても、當時尚ほ傳統的の至上權を握つてゐた社會に對してさへも、國家は絶對に自由たるべきである。國家の利益を毀けざる限り、人民の言論及び行動は自由でなければならぬ。理性と自然權とを最高の標準と見做す眞の啓蒙的な主權者は、教會の壓迫を卻けて、思想及び學説の自由を認むべきである、と彼れは主張した。蓋し『理性や悟性に對する壓迫ほど、人の憎惡心を刺戟するに適したものはない』からである。けれども個人の自由は、國家の利益を犠牲として伸張さるべきではない。自由も、財産も、社會も、此等のものは總べて國家がその存在を許す限りに於いてのみ、存在し得るに過ぎぬからである。

殊に、財産の自由は警戒を要する。財産は利己心を刺戟する。『三角形の内角の和は二直角に等しいといふ命題が若し財産所有者の利益に反するとすれば、彼等は斯くなし得る限り、一切の幾何學書を燒き捨ててまでもこの眞理を抑壓してしまふであらう。』商人は、その最も著しいものである。彼れは商人を稱して、國家とその租税とに對する『不倶戴天の仇』だといつた。商人の誇りは、『賣買上の智慧に依つて、無限に富を集む』といふ一點に集中してゐる。彼等は貧しき人々を利用することに依つて富者となる。そのためには、貧しき人々に賃銀を支拂ふけれども、その賃銀は彼等が任意に定めるところのものである。そこで貧しき人々は、商人の富を造るために囚人にも及ばぬ程の悲慘な生活を送らねばならなくなる。

斯樣な状態は、國家のために決して有利なるものではない。國家は特權階級の存在を許すべきでない。ホッブスは斯かる見地から、資本主義に反對した口吻を時折り漏らしてゐる。勿論、彼れはこの見地から、實際的の結論を引くまでには徹底しなかつた。そこまで徹底すれば、恐らく國家社會主義に到達したであらう。この方面から見ると、保守主義の極端なる代表と見做されてゐた彼れの方が、通例彼れの對照として引合ひに出されるフランスの急進的自由思想家たちよりも、實質上遙かに急進的であつたといふことが出來る。

5.ヘーゲル及び其流派

ヘーゲル哲學小觀

ホッブスに於いては、自然の儘の人類はエゴイズムの體化である。それが國家人となるに及んで共同の全一體に轉化される。ヘーゲルの國家論も、大體に於いて同じ行き方をしてゐる。彼れに依れば、國家なき社會は、『自由に發動するところの經濟的エゴイズム』である。それが國家となるに及んで、倫理的の全一體となる。が、兩者の見解には次の如き本質的區別が認められる。即ちホッブスは、エゴイズムの支配から國家人への推轉を契機といふ偶然的の專擅に求めたのであるが、ヘーゲルはこれを絶對精神の發展に求めた。ヘーゲルに於いては、エゴイズムの表現たる社會も亦、同一なる絶對精神の現はれである。國家は社會の否定であるといふのは、同一なる絶對的觀念性が通過するところの發展徑路を示すものであるから、この推轉は否定であると同時にまた完成を意味する。これについては、豫め彼れの哲學體系の大體の傾向を呑み込んで置く必要がある。

ヘーゲルは1770年、ドイツのストットガルトに生れた。長じてチュービンゲンに學び、暫らく家庭教師などを勤めたことがある。1801年、イエナ大學の教授に任ぜられ、イエナ戰爭の終熄後(1806年)、バンベルグに轉じて、或る新聞紙の編輯を擔任した。1808年、ヌーレンベルグ專門學校の講師となり、そこに前後8年間勤續した。1816年、ハイデルベルヒ大學の哲學教授となり、越えて1818年ベルリン大學に轉じ、フヒテの後を承けて哲學の講座を擔當し、1831年同地に死んだ。

彼れの哲學體系は、3つの部分に分かれてゐる。第1は論理學(純粹觀念の科學)であつて、宇宙心意を取扱ふもの、第2は自然哲學であつて、現實世界の發展を取扱ふもの、第3は精神哲學であつて、觀念世界の發展を取扱ふもの。而して此等の3部門はそれぞれ、絶對性發展の3段階たる正、反、合に照應するものであるとする(辯證法)。絶對性は最初非物質的な純粹思想である。それが時空上の數限りなき原子體に分裂した後、再びそれ自體に還つて現實の思想又は精神となる。此等の過程を通じて普遍的の原理となるものは觀念である。實有と觀念とは一である。觀念はそれ自身のうちに、實有決定上の一切の屬性たるべき資格を包有してゐる。

實有は最初、何等の屬性をも有せざる不定性のものとして存在してゐるものであるが、この状態から一轉して反對の状態に入る。而してこの否定は又、ヨリ高級なる肯定を喚び起すところの原理となる。純粹の光は闇に等しきものであつて最初は人の目に見えないが、闇となつた後再びそれ自身に還つて、樣々の色彩を採り目に見えるものとなつて來る。如何なるものも、それ自身の否定を含む。然らずんば、何ものも存在し得ないであらう。この全體系の本質を成すものは、活動であり、流動である。靜在するものはなく、すべてが生成する。

社會と國家

右に述べた如く、ヘーゲルの國家概念は、社會概念の對立であつて且つその完成を意味するものである。彼れに依れば、社會なるものは、各人が己れの欲望充足上の手段として他人を利用するため、家族相互間に結ぶところの倚頼關係に外ならぬ。社會とは『欲望と欲望充足のために行はれる勞働行爲との一體系』である。欲望の充足は、生活資料獲得の活動を喚び起す。而して、この活動は即ち社會の活動領域を構成するものである。そこで、市民的社會なるものは『一切に對する一切の個人的利害の戰場』となる。そこには、蔽ふところなき利害鬪爭と弱肉強食とが行はれる。各人は自己の利益を顧慮することに依つてのみ、他人の欲望を滿足せしめ得るといふ状態に置かれる。

然るに、國家はこれと全く反對した特質を有つたものである。社會に現はれた絶對精神は、國家に於いて自己を否定し完成する。國家は、絶對精神のヨリ現實的に客體化されたものであり、現實化された絶對理性である。國家は、それ自身の合則性を有ち、それ自身の運動を通過するところの觀念體である。

國家と、その觀念性の基礎體たる理性とは、同じ分母を有つてゐる。それは即ち、普遍妥當性の概念である。國家律はそれ自身のうちに、一つの理性内容を體化してゐる。國家理性は、個人、家族及び市民的社會の制限を突破することに依つて、それ自身の客觀性を、それ自身の絶對性を、換言すれば個別存在から引き離され自身の存在を證明するものである。

斯かる國家は、全一體の合理的意志に基づく組織であつて、個人の自由意志と、明示されたる合意とを基礎とする。けれども、この國家の成立には、單一なる總合意志だけでは十分でない。それは同時に又、合理的の意志たることを要する。ヘーゲルの國家は、客觀的理性の最も完全なる形態であり、斯かるものとして又同時に倫理性の完成された表章である。それは至高の倫理體であつて、個々の意志を總合理性の意志に從屬せしめる。個々の意志はこれに依つてそれ自身から、それ自身の獨立性と利慾とから分離されて、眞實の合理的自由を與へられることになる。國家に表現されるところの倫理性は、絶對意志、主觀意志の客體化であり、客觀的竝びに主觀的自由の完成を意味するものである。國家倫理性を通して、本質的意志の自己意識は普遍性の境地に引き上げられ、絶對不動の自己目的として現はれる。國家の總括力たるものは、粗硬なる強力ではなく、國家實現性の眞實の現實的基礎たる觀念性である。人類は國家を通してのみ、一切の價値を有つことが出來る。人類の國家生活は、倫理的自由意志と完全に一致する。斯くして國家は『倫理的の全一體、自由の實現』を意味するものとなつて來る。

この國家は、一般的利害と、その實質たる特殊利害との維持を目的とするものである。而してこの目的は、自由と必然との合成體たる各種法制の施行に依つて達成される。此等の法制は相合して國憲を構成する。國憲は、偶然又は專擅の結果として生じたものではない。それは、理性に内在するところの發展に從ひ論理的の合則性を以つて生ずる一つの精神體である。一切の相異なる法制的規定は、國憲に於いて一つの概念に總合される。國憲は、國家及び國家秩序の基礎となるものであり、統治に依つて實現されるところの一般的な合理的意志である。

觀念國家と歴史的國家

以上略述したヘーゲルの國家は、思想上に構成される觀念國家であつて、ヘーゲルはこれを唯一の眞實なる國家と見てゐるのであるが、この觀念國家が現實の歴史的國家と一致するものでないことは、彼れの明かに認めてゐたところである。さればこそ、彼れは善良なる國家と不良なる國家との區別を認め、『國家を觀念するに當つては特定の國家、特定の制度を念頭に置くことなく、專らこの觀念、この精神そのものを考察すべきである』と述べたのである(『法律哲學』258頁)。彼れの見るところに依れば、歴史上の各國家は、國家形成の段階に達した民族の内部に、財産の不平等竝びに職業階級の分岐を生ぜしめる。これがため、政治的秩序が必要になる。その必要の結果として、歴史上の國家は、階級的の對立及び不平等に立脚するものとなつて來る。市民的社會の下に成立した國家は階級對立を含み、支配者及び被支配者間の政治的不平等をその特質としてゐる。而して歴史上に現はれた個々の國憲は、此等の階級に對する個々人の法律的關係を示すものである。

斯くして、階級の發達竝びに分化、及び國家内に於ける各階級間の抗爭が、凡ゆる歴史的國憲の内容をなすに至る。古代ギリシァ及びローマの國家、中世の教會的國家、近世に於ける官僚的國家は、いづれもみな斯かる階級的抗爭の上に立つたものである。けれども、現實の歴史的國家が斯樣に階級利害に終止するといふことは、決してヘーゲルの觀念國家の實有性を否定する所以とはならない。ヘーゲルに依れば、現實の歴史的國家は、眞實の觀念國家たるべき途上に置かれてゐるものである。十分に發達し、完全に成熟した國家のみが、眞實の國家である。現實の不良國家は、個別利害に終止してゐる。隨つて、それは世俗的、有限的のものである。眞實の國家は、合理の無限性をそれ自身のうちに抱擁するところのものでなくてはならぬ。

ヘーゲルに依れば、社會も國家も、共に客觀的倫理性の現實に參加するものであるが、兩者の役目は寧ろ對立してゐる。社會は倫理性實現の途上にあるもの、國家はその完了を意味するものである。社會は鬪爭理性の領域であり、國家は凱旋理性の領域である。前者は倫理性の現象世界を代表し、後者は倫理觀念の實現を代表する。社會は家族の正に對する反として成立した。家族は自然愛の倫理性に立脚し、社會に於いては個人的の利害對立が支配する。社會は家族の否定であり、而してこの否定の否定として成立するところの最高綜合が即ち國家である。

如何なる個人も、此等3種の相異つた生活共同體に所屬する。隨つて、如何なる個人も、自分自身のうちに、此等の共同體に照應した三位一體的の倫理性を有つてゐる。家族に於いては自然の強制に依り、社會に於いては欲望の強制に依り、また國家に於いては倫理的認識の強制に依つて、何人も普遍實有の認識に達せしめられる。國家と社會との對立は、公益と私慾、精神と物質、理想と現實との對立であるが、この對立は客觀的倫理性の完成に必要な條件であり段階であるから、その意味に於いて又、絶對精神の現はれと見るべきものである。

ヘーゲルは斯くの如き國家觀に立つて立憲君主制を主張し、戰爭が進歩の不可缺的條件たる所以を力説した。力は正義であるから、國家對國家の關係に於いて弱者が強者に吸収されることも當然の歸結とせねばならぬと主張した。

トライチケ及びベルンハーデイの權力國家論

ヘーゲルの死後、彼れの學徒は二派に分裂した。一は彼れの辯證法を轉倒して、革新的急進主義の方法論的基礎たらしめたもの、アーノルド・ルーゲ、フォイエルバッハ、マルクス、エンゲルス、ラッサレ等に依つて代表される青年ヘーゲリアンと稱する一派が即ちそれである。他は正統ヘーゲリアンとも稱すべき一派であつて、このうちにはニーブーア、レオ、ランケ等の如き保守的思想家と、ルーデン、ドロイゼン、ドゥンカー等の如き自由主義的思想家とが含まれる。茲では正統派中、特にヘーゲルの權力國家主義を繼承した一派について簡單な叙述を與へる。その最も顯著なる代表者は、ハインリヒ・フォン・トライチケとフリードリヒ・フォン・ベルンハーディとの兩人である。

トライチケ(1834―96年)は、國家の本質を權力に求めた。が、この權力は人類の至高善のために行使されねばならぬものとした(『政治學』第1部91頁)。彼れは國家を以つて、或る時は『獨立の權力として法的に統一された民族』であるとし(前掲13頁)或る時は又『人類の教育に寄與すべき一つの倫理的共同體』であるとしてゐる(前掲81頁)。彼れはこの二つの相矛盾する如く見える概念決定から結論を引いて曰く、いま、このヨリ深き、眞にキリスト教なる倫理性の尺度を國家に適用し、而してこの大なる總人格の本質が即ち權力であるといふ事實を念頭に置くならば、國家の最高倫理的義務が專ら自己の權力について腐心することにある所以を見出すであらうと。(前掲183頁)

この見地からすれば、單なる權力のための權力といふ觀念は排除されることになる。國家の權力なるものは、倫理的目的に對する一手段に過ぎず、それ自身のうちに目的を含むものではなくなる。そこで彼れは、政治をヨリ道徳的たらしめるためには、道徳をヨリ政治的たらしめることが必要であるといつた。語を換へていへば、個々人の生活目的からではなく國家それ自身の生活目的から、國家に對する倫理的價値判斷を汲み出だすやうにならねばならぬといふのである(前掲105頁)。斯くして彼れの主張する權力國家は、國家を以つて最高の倫理體とするヘーゲルの觀念國家と完全に一致して來る。

ベルンハーディの國家主義も、その根柢はトライチケの主張に依據してゐる。彼れも亦『力』を説いた。『力は力たると同時にまた最高の正義である。正義の爭ひは、力の尺度たる戰爭に依つて決定される』(『ドイツの次の戰爭』17頁)。戰爭は單に『文化のための必要不可缺な因子』たるのみでなく、また『倫理的の要求』でもある(前掲19頁)。それ故、戰爭廢止の目的に出づる一切の努力は『非倫理的のものとして』また『人間たる威嚴に添はぬものとして』極力排斥せられねばならぬ。戰爭を起さしめることは、政治家たるものの權利であるばかりでなく、また場合に依つては、その『倫理的及び政治的義務』たるものである。(前掲42頁)。

同樣の主張は、爾來ドイツ各方面の思想家に依つて反覆提唱せられたところであるが、多くは際物的煽動論調の域を脱せず、深き學説的論據に立つたものとも思はれないから、その紹介は茲には一切省略することにする。

6.國家社會主義

社會主義には種々なる流派があるけれども、國家に對する立場を標準として考へるならば、總べての社會主義思想は無政府主義、マルクス主義及び國家社會主義の三種に大別される。無政府主義は國家及び一切の強制權力を廢止することに依つて、勞働搾取制度を廢除せんとするもの、マルクス主義も終極に於いては國家及び搾取制度の廢除を目的とするものであるが、その中間段階としてプロレタリアに依る國家權力の掌握及び行使を認める。國家社會主義は、勞働搾取の廢止に依つて、眞の國家が完成されると説く。この最後の思想を最も完全に代表したものは、ロドベルトス及びラッサレの兩人である。いま、この兩人の國家社會主義思想を考察するに當り、更らに遡つてその先驅とも目すべきフヒテの思想體系から筆を起す豫定であつたが、もはや指定の紙數を超過したらしいから、この項は遺憾ながらほんの一瞥に止め、他日機を見て詳述することにしたいと思ふ。

ロドベルトス(1805―75年)の國家觀は根底に於いてヘーゲル説を踏襲したものである。彼れも亦ヘーゲルと同じく、國家はそれ自體を目的とするものであると説いた。國家は個人のために存在するものでなく、寧ろ個人こそ國家の福祉のために奉仕すべきものであるとした。國家に限らず、如何なる社會組織も、それを維持し鞏固ならしめるためには、各部分間の適合調和が必要である。そのためには、集中と機能分化とを要する。社會體の中心組織たる國家に於いては、尚更らさうである。國家は集中的となり、分業的となるに從つて、ますます完全のものとなる。而して社會主義の經濟制度は完全なる集中及び分業の原則に立つものであるから、社會主義制度の實現と共に國家は必然完成されることになる。

ラッサレ(1825―64年)に依れば、國家は永遠の過去から永遠の未來にわたつて、その本質を變へることがない。國家の本質とは、人類の自由の發展を完成し以つて個々人を一つの倫理的全體に結合せしめることにある。人類の歴史は、自然、窮乏、無知、無力等あらゆる不自由との鬪爭の歴史である。此等の不自由と鬪つてそれを克服すること、そこに國家本來の目的が置かれてゐる。斯かる國家の目的は、國家の觀念から必然に推論せらるべきである。

勿論、歴史的の各國家は、この目的に添はないものであつた。それは國家が階級的利害關心のために惡用せられてゐたからである。

既往一切の歴史は階級支配隆替の歴史であつた。勞働階級の使命は一切の階級的對立、一切の階級的壓迫を廢除するにある。勞働階級の問題は、人類全體の問題であるから、勞働階級の勝利と共に從來一切の階級支配は廢除されて、國家はその本來の使命に立ち還る。『國家の眞の倫理的本質』は、社會主義の實現に依つて、初めて完全に發揮されるものである。

右の叙述に依つて知られる如く、ラッサレは國家の本質を國家その者の觀念から推論した。この點に於いて、彼れはヘーゲル國家觀の正流を繼いだものだといひ得る。また彼れが從來一切の歴史は階級對立の歴史であり、國家惡用の歴史であると説いた點も、本質に於いてヘーゲル以上に出でたところがあるとは思はれない。ヘーゲルも亦、歴史的國家が『實質的』差別に立脚し、階級的不平等と階級對立とに立脚してゐることを認めたからである。ただ、ラッサレの主張に於いて最も特異とせられるところは、勞働階級の勝利と共に一切の階級差別が廢除されると説いた一點であつて、この見地に於いては、彼れは寧ろマルクス、エンゲルスと同一線上に立つものと見做され得る。

マルクス、エンゲルスも亦『プロレタリアの運動は、極めて多數な人々のためにする極めて多數な人々の、獨立した運動である。現社會の最下層たるプロレタリアは、公的社會を形成する上層諸階級全部が空中に破裂し盡されなければ、みづから起き、みづから立つことは出來ぬ』といひ、更らに『プロレタリアはブルヂォアとの抗爭に於いて、必然的にみづからを階級に統合し、一つの革命に依つてみづからを支配階級たらしめ、支配階級として強行的に舊來の生産事情を止揚してしまふのであるが、斯くすることに依つて又プロレタリアは、生産事情と共に階級對立の存在條件を、階級一般を、隨つて階級としての彼等自身の支配をも、止揚することになる』と述べた(『共産黨宣言』第2節)。然らば斯く上層諸階級を全部破裂せしめて、階級一般が廢除された後には、果して如何なる状態が殘るかといへば、『階級及び階級對立を有する舊ブルヂォア社會が存在しなくなつて、各人の自由なる發展が、全員の自由なる發展の條件となるところの、一つの聯合がこれに代つて現はれる』(前掲)。然るにラッサレの主張に於いては、勞働階級の勝利に依つて一切の階級對立が廢除されたとき、そこに初めて、國家が完成され、國家本來の使命が完全に發揮されることになるのである。

ラッサレに依れば、階級廢止後の新時代に於ける國家は、もはや舊來の如く外部的事情に促されて餘儀なく行動するものではなく、十分の自覺を以つて自己の『倫理的本質』を發揮し得るものとなる。從來の國家は、國家それみづからの立場に立つて自發的に行動したものでなく、事情の強制に依つて已むなく行動せしめられるといふ位置にあつた。隨つて、その爲すところは不徹底であり、斷片的であつた。今や、國家はそれ自身の足を以つて立ち、極めて徹底的に、自己の本質と使命とに一致した行動を採ることが出來る。斯くして國家は、史上類例なき人間精神の高翔と自由及び幸福の増進とを齎らすことになる。これ正に、必然の國から自由の國への躍進を意味するものであるが、それはマルクス及びエンゲルスの主張する如く國家の消滅に伴ふ必然的結果でなく、寧ろ國家の完成に依つてのみ與へられるところのものである。

この點に、ラッサレの國家社會主義とマルクス派社會主義との最も本質的な區別が看取される。

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