『ムッソリーニとその思想』附記

凡例

  • 底本は『ムッソリーニとその思想』(実業之世界社,昭和三年七月)を用いた。
  • 底本の漢字は、jis第二水準以内の漢字は一律に旧字に改めた。
  • 底本に新字体(当時の略字)が用いられている場合も、jis第二水準以内の漢字は一律に旧字に改めた。
  • 仮名遣いは底本に依った。
  • 二字の踊り字は、一々注記せず、一律に文字に置きかえた。但し「ゝ」「ゞ」「々」はそのままとした。
  • 本書は総ルビであるが、初出論文に附されたルビ以外は、すべて省略した。
  • 底本に見られる明かな誤植・誤字は、初出論文と照合して訂正した。但し初出論文も同様の誤りを犯している場合は、注記せずに直した場合がある。また意味として通じる場合、或いは高畠氏自身の用字と思われるものはそのままとした。
  • 原文の句読点と初出論文の句読点が異なる場合、読みやすい方を採用したが、これは一々注記しなかった。
  • 本書第二章は津久井龍雄氏執筆にかかるため、テキスト化は断念した。
  • 附録として福士幸次郎氏の駁論を載せた。
  • 福士氏の駁論の中、判読不能文字は□を以て補った。
  • 福士氏の駁論の中、適宜記号(句読点、鍵括弧)を補った所がある。

底本

  • 著 者:高畠素之
  • 發行者:野依秀一
  • 印刷者:天沼藤太郎
  • 印刷所:天沼印刷所
  • 發行所:實業之世界社
  • 定 價:五十錢
  • 昭和三年七月八日印刷
  • 昭和三年七月十日發行

解題めいたもの

その序に6月10日の期限が記された『ムッソリーニとその思想』は、昭和3年に実業之世界社から出版された。全4章、本文188頁(序文2頁、目次3頁)、高畠氏最晩年の著書の一つである。

高畠氏のムッソリーニに対する論文は、彼れ自身、「彼れに關する評價乃至感想の執筆依頼を受けたこと昨年だけで十數回、我れながらムツソリーニの『專門家』らしくなつたのを苦笑してゐる」(本書所収「ムッソリーニを見る」)と云うように多数存在する。高畠氏が本書を出版した理由は明らかでない。しかし十数に及ぶ論文雑文中から、幾つかのものを択んで配列し、且つ「友人」津久井龍雄氏の手になる一章を加えて成ったのが本書である。

本書の初出一覧は後に掲げる通りであるが、一通りここでも確認しておく。まず第1章「ムッソリーニ論」は、『改造』第9巻第2号(昭和2年2月)に「ムッソリーニの思想と風格」として掲載されたもの。第3章「ムツソリーニズムと国家社会主義」は同名の論文で『大調和』昭和2年8月号に掲載されたものである。 「ムッソリーニ褒貶記」と題された第4章はそれらと異なり、主として『春秋』に掲載されたムッソリーニ関係論文と、『文藝春秋』『経済往来』の諸論、及び『読売新聞』誌上で戦わせた福士幸次郎氏との論争を纏めて一章としている。残りの第2章は、序文に見える如く、津久井氏の執筆を高畠氏が手を加える形となっている。諸々の執筆時期は、昭和2年2月から昭和3年6月(これは雑誌の奥付に依った場合であり、実際には更らに2,3ヶ月早いはずである。)までに著されたものである。

本書各章の内容は実際に読んで頂きたいが、概略すると、ムッソリーニの生涯及び政権奪取に至るまでの第1第2章、(……詳細を忘れたので文章を考案中……)の第3章、ムッソリーニの積極的諸政策を論ずる第4章から成る。この中、第1~第3章は各々それなりの纏まりもあるが、第4章は雑駁な論著の集積に過ぎない。強いて特徴を挙げると、ムッソリーニのファシスト革命が、日本で暴力的側面にのみ注目されるの誤りを論じ、その産業政策が政治上の集権主義と産業上の集散主義に特徴があることを力説し、併せてイタリアの小党分立的政治状況が然らしめたものであることを強調している。また諸種の歴史的状態から、ファシストが生れたことの必ずしも偶然でなかったことを指摘し、ファシストが誕生することで始めてイタリアは小康状態に至ったと考え、その成立に歴史的意味を与えている。(高畠氏の指摘の当否は兎角、実際にはファシストが権力を握っている時期にはマフィア等の活動は抑えられ、治安は安定していたというのは皮肉な事実ではある。)本書を読もうと思われる人には、ムッソリーニやファシストの歴史的評価の説明は不用であろうが、第二次大戦にイタリアが敗北する以前の評価として、読んで余りに現代と印象を異にする叙述となっているのは当然である。

要するに本書は、高畠氏の綿密な意図の下に書き上げられた著書ではない。折に触れて論評された所のものを纏めたという、氏の他の著書と同じ体裁のものである。とはいえ、編修は高畠氏自身であり、またその最晩年の著書であることを考えると、「ムッソリーニとその思想」の題目の下、氏のムッソリーニ観、随ってムッソリーニに独裁的権力を与える所のファシストについての一般的な考察であると考えて差し支えあるまい。(他に纏まったものとして、『大思想エンサイクロペヂア』中の「ファシィズム」(奥付は昭和2年12月の発行)がある。)

しかし高畠氏は、本書でも指摘している如く、自身の国家社会主義とファシストとが別物であることを強調している。気質的な評価は別としても、高畠氏がムッソリーニをあれこれ論評する必要はない。にも拘わらず、何故にムッソリーニの評論を多数執筆したのであろうか。無論それは依頼されたからに外ならないが、ならば何故にそのような依頼が多数高畠氏に寄せられたのか。それは高畠氏がムッソリーニを論評する必要を感じたからというのではなく、世間が高畠氏のことを和製ファシスト(もちろんムッソリーニのファシストのこと)の如きものと見做したことによる様である。つまり氏の国家社会主義とファシスト運動とを同一視する所から、ムッソリーニ評論の依頼が多数寄せられたと考えられる。

本書に収めた福士幸次郎氏の指摘の如く、福士氏は氏周辺の状況を「日本では高畠君をムッソリーニ運動の別家のものに見てゐるものが沢山ある。わたしの田舎の労農党員なぞはすつかりさう思ひ込んでゐて、私に好意的にこの労農党員がそれを語り、且つ研究してゐると語つた事がある」(「高畠素之氏を駁す」)と語っている。福士氏は、氏の立場に立って、これらの動向を愛国主義と国家主義とを同一視する状況から生まれたものと推測している。これは高畠氏にしても迷惑な話であろうが、本人の意向とは別に、このような同一視が為されたことが、高畠氏が本書所収の諸論文を書く直接的な動機であろう。そのことが氏をして、「我れながらムツソリーニの『專門家』らしくなつたのを苦笑してゐる」なる皮肉を語らしめた理由であろう。(※)

最後に本書のテキスト化に当り、若干の変更点を挙げておく。第1に、既に指摘した如く、第2章は津久井龍雄氏の手になり、それに高畠氏が手を加えるという手順になっている。この様な場合、通常は殆ど津久井氏の執筆と認めてよいであろうから、第2章は津久井氏の著作権下にあると見做し、今回のテキスト化には収録を見送った。

その他、本書はいずれも初出論文が明らかであるから、それとの校勘を行い、必要に応じて校勘表を附した。但し極度に細微に渡る場合は省略し、底本に従って表記することにした。

また第4章最後の「ムッソリーニは非皇室中心主義」は、元来、福士幸次郎氏との論争によって生れたものである。(詳しくは下の「「ムッソリーニは非『皇室中心主義』」について」を参照。)本書のみを通読しても理解できるようになっているが、高畠氏の観点からのみ論争が理解されるのは、福士氏に対して不公平である。そこで福士氏の著作権が切れていることを鑑み、本テキスト化に於いては、福士氏の高畠氏駁論も掲載することにした。断るまでもなく、本書原本には福士氏の駁論は掲載されていない。本サイトに「附録」として公開してあるのは、テキスト化に際しての、編集者の配慮からに過ぎない。

(※)高畠一派に近い中山啓の「上杉氏と高畠氏が提携するまで」(『改造』第五巻第三号,大正12年3月)には、ムッソリーが政権を握ったことに感激した旨が記されている。これに対し、『局外』四月号(大正12年4月)に「女子と小人は養ひ難し―中山啓に与ふ―」と題して小栗慶太郎氏が反論を載せている。そこでは、中山の文章に「高畠はしきりに、一歩をムツソリニに先きんぜられたのを口惜しがつて唇をかみ、唇からは血が滲み出した。神永は嗚呼この腕を如何せん、と云つて鉄板を撲つて……」「矢部周は感極つてムツソリニ万歳を称へつゝ電柱を抱いて接吻をした」云々などのことを否定し、「そんなビロードな事実が一体どこにあつたのか」「ムツソリニが伊太利の政権を握つたことを痛快だと思つたことがなかつた訳ではない。而し……自由民権時代の壮士でもやりそうな形式で、それを発表した覚えは毛頭ないのだ」と指摘している。高畠にとって、社会主義を知り尽くしたムッソリーニが、それを逆用して政権を掌握したことの快感はあっても、その限りでの快感に止まったのであろう。

「ムッソリーニは非『皇室中心主義』」について

本書最後には「ムッソリーニは非『皇室中心主義』」なる論文が収められてある。これは『読売新聞』に連載された論文を纏めたもので、当初は福士幸次郎氏との論争という形を以て書かれたものである。高畠・福士両氏の初出を挙げると以下の様になる。(背景色の違う部分が福士氏のもの)

本書頁数 初出 年月日 論題 番号
172~173 読売新聞 昭和2年12月12日 「師走の雑感」中の「贔負の引倒し」
同上 同年同月14日 高畠素之氏を駁す―ムッソリーニは皇室中心主義―
174~177 同上 同年同月20日 福士君の場所錯誤―ムッソは非『皇室中心主義』― (上)
177~180 同上 同年同月21日 福士君の場所錯誤―ムッソは非『皇室中心主義』― (中)
181~183 同上 同年同月22日 福士君の場所錯誤―ムッソは非『皇室中心主義』― (下ノ一)
184~187 同上 同年同月23日 福士君の場所錯誤―ムッソは非『皇室中心主義』― (完)
同上 同年同月25日 高畠素之君に―ム氏は共和主義か― (上)
同上 同年同月27日 高畠素之君に―ム氏は共和主義か― (中)
同上 同年同月28日 高畠素之君に―ム氏は共和主義か― (下)

このように『読売新聞』誌上では、「師走の雑感」中の一つにすぎなかったものが、福士氏の駁論によって論争という形を取った。そのため、本書収録に当たって、「師走の雑感」部分と「非『皇室中心主義』」を繋ぐための若干の加筆はされてある。しかし何れも原則として初出のままである。

福士幸次郎(1889~1946)は、青森の詩人で、地方主義(伝統主義)を唱えた人物である。大正12年の末に関東大震災を避けて青森津軽に帰郷して地方主義を主唱。この論争の年の昭和2年10月、東京世田谷に上京している。

高畠氏と福士氏の関係は如何なものであろうか。高畠氏は「例の福士幸次郎君が」云々、「音に聞こえた福士君」云々とあるので、氏の認識の範囲内の人間ではあったのだろう。福士氏が津軽に引き込んでいたのも知っていたようである。ところが氏は福士氏を「音に聞こえた福士君ではあるが惡文といはうか惡腦といはうか、理窟のメリハリを發見するに甚だ困難であつた。」などと論じており、甚だ罵倒を加えているのは気になる所である。自身の発言を批判されたのが気にくわなかったのであろうが、平素から評価している人物に対するものの様には読めない。(※)

福士氏は、「地方主義運動(傳統主義の一系)で郷里津輕にこの四年ゐた間、中央方面を見ると目立つて周圍の群少を駁してゐるやうに私に見えたのは、國家社會主義者高畠素之君もその一人であつた」云々とあるのみならず、「高畠君の思想は以前鳥渡注意して見たことがある。そして同君獨特の毒々しい社會觀念に多少あてられた事がある」などと云い、津軽在住の間に高畠氏の活躍は知っていた様である。

この様に特に接点のない二人が論争になったのは、福士氏の云う如く、高畠氏が「師走の雑感」で下位春吉氏を譏り、ムッソリーニを共和主義と見た点にある。しかもそれは両者の学説の為に必然的に行われた高尚なものではなく、単に高畠氏の「知ったかぶり」が福士氏の癪に障ったということに始まり、高畠氏も「知ったかぶり」呼ばわりされたことが癪に障って応戦したからに過ぎないのである。併し本心とは別に、論争そのものは、ムッソリーニが共和主義者か皇室中心主義者かという点をめぐって(少くとも本人達は)争い、そして互いに論争に勝ったつもりで終わったのである。

しかし互いに立場も違い、抑も主張の意図がずれているのでまともな論争になるはずがない。詳細は本文を見ていただけばよいのであるが、要するに高畠氏は日本の天皇と国家の発生的同一性に原因を求めて、日本にのみ皇室中心主義が可能であり、随って歴史のないイタリヤの現王室に対してムッソリーニが皇室中心主義である必要はないとする。王室=イタリアという関係は成立しないというのである。一方の福士氏は――実はよく氏の主張がよく分からないのだが――、ムッソリーニがイタリアの伝統的観念の下に精神発揚を行っているので、日本の皇室中心主義なものであると見做したようである。

福士氏の方は、よく分らない所が多い。氏は論争の「主」を決めよといって、次のように指摘する。

ムツソリーニは断じて共和主義者ではなく伝統主義者である。その立證は幾らでもある。そしてあの通り疑ふべからざる愛国主義者で民族主義者で、カトリツク教徒で、その民族的伝統を中心として自国の上に、世界の上に呼号してゐる。ところで主の方は簡単ながら之れ位でいゝとして……(上)

どのあたりが「之れ位でいゝ」のかよく分からないが、氏にあっては伝統主義の精神に満たされることが必要で、そうでない人間には分らないらしいのである。無理に分らないというのを分るつもりもないので、この論争はこれくらいにして於いて、若干福士氏の伝統主義を備忘録程度に説明しておく。

抑も伝統主義とは何か。この論争のあとの事であるが、福士氏は平凡社の『大百科事典』に「伝統主義」と言う項目で執筆している。(『福士幸次郎著作集』下,津軽書房,昭和42年)それによると、伝統主義(Traditionalisme)とはフランス文学史上に発展した(……以下、未完成)


なお全く余談だが、福士氏が(下)で指摘している大森某の「まてりありすむす・みりたんす」というのは、大森義太郎の論文である。大森氏は言わずもがなの労農派の論客で、暴力的で挑発的な言辞を弄して当時の雑誌に論陣を張っていた人物である。労農派系統の人は兎角、あまり評判の良い人間ではないが、利用価値があるといっている学者もいるらしい。それは兎角、福士氏の文中に出て来る土方成美氏(当時の東京帝大経済学部の教授で国家主義者とされていた)も、この大森氏の論文は頭に来たらしく、「思想暴力団」との関係で纏めている。土方氏が思想暴力団というのは、この大森氏と河上、大内諸氏のことである。(一般には向坂氏も含まれる。)土方氏が云うには、「まてりありすむす・みりたんす」は「悪意と憎悪とにみちたあげ足とりと、悪罵によってつづられたものであり、おしまいには私を気違い扱いにし、資本家から金を貰てマルクシズム批判をやっているかのように思わせる言辞を弄した悪口で、真面目に取り上げる気にならない」(『事件は遠くなりにけり』135頁)ものであったらしい。大森氏の言い分もあるだろうが、これは省略する。同氏の「まてり」云々は、同氏同名の著書に収められてある。

(※)清藤碌郎氏の『福士幸次郎』(北の街社,平成元年)に、志賀直哉の批判として「自分(=志賀氏)はそれ(=福士氏の文章)が実に悪文章である事に驚いた。それは文章というよりも、もう一つ前のものが悪いのである」、「自分の家にいた頭の悪い車夫にもひとしい」云々なる言葉があったらしいことが記されてある。(96頁。大正十一年のこと。但し志賀直哉の文章は未確認)掲載論文が『新潮』ということなので、高畠氏も手に取ったはずである。ならば高畠氏はこの手の言葉を利用して、上述の如き暴言を吐いたのかもしれないが、もちろん詳細は分らない。

初出一覧

論題 初出 年月日 原題・補記
1 ムツソリーニ論 『改造』第9巻第2号 昭和2年2月 ムッソリーニの思想と風格
2 フアスシオの生誕から組閣まで 津久井龍雄氏執筆
3 ムツソリーニズムと国家社会主義 『大調和』昭和2年8月号 昭和2年8月
4ムッソリーニ褒貶記 以下、小目
(1) 世界舞台の三人男 『春秋』第2巻第1号 昭和3年1月
(2) 誤解されたムッソリーニ 『文藝春秋』第6巻第6号 昭和3年6月
(3)国家サンヂカリズム 『経済往来』第2巻第11号昭和2年11月
(4) フアスシイズムの産業政策 『春秋』第2巻第4号 昭和3年4月
(5) ムッソリーニを見る 『春秋』第2巻第2号 昭和3年2月
(6) ムッソリーニは非『皇室中心主義』 『読売新聞』 昭和2年12月12,20~23日 (※)

(*)上記「「ムッソリーニは非『皇室中心主義』」について」を参照のこと。

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