誤解されたムツソリーニ

高畠素之

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現代日本に於ける最大の人氣役者は何といつてもイタリヤの彈壓宰相ベニトー・ムツソリーニである。彼れの人物經歴に關する著書の如きも、極最近だけで十指を以て算ふべく、悉く多大の賣行きを示しつつあるといふ。筆者は勿論、その全部を通讀した譯ではないが、これら諸種の紹介に於いて甚だ遺憾に耐えぬことは、ムツソリーニ及びフアスシストに關して肝腎の建設的方面が閑却され、專ら破壞的方面のみが強調されてゐる一事である。

戰後の赤色暴徒の跳梁跋扈に對して、成るほどムツソリーニとその一黨は如何にも彈壓的であつた。『光榮あるローマ』進軍は、斯くの如き傍若無人なる彈壓の記録であり、且つまた内外の諸政策も悉く男性的氣魄の發揚であつた。その限りに於いて、デモクラ的凡俗主義の弊害を痛感する現代日本國民が、彼れの具現する英雄主義的行動を隨喜渇仰する心理も窺はえる。が、しかし、ムツソリーニの全貌は、決してさうしたヒロイズムに於いてのみ理解し得べきではない。『祖國の富強なくして國民の幸福なし』といふフアスシオ的スローガンに俟つまでもなく、彼れの思想行動の全部が國民主義に立脚する事實は疑ひを容れない。社會主義の排撃といふ一事も、實はそれが祖國の富強を障碍すればこそ敢行した手段であつて、決して資本家的利害に迎合せんがためのものではなかつた。

勞働者たると資本家たるとを問はず、祖國の興廢を念慮とせざる思想行動は、彼れに取つて不倶戴天の仇敵である。國家無視的勞働運動を彈壓する反面、更に自己の利潤獲得を唯一の目的とする資本家的行動に對しフアスシオ政府が斷然たる處置を採つた所以のものは、偏に斯かる信念に立脚するところあつたがためである。『階級鬪爭は舊時代の舊思想である』と彼等は言う。果して然るか否かは別問題として、ムツソリーニの如く祖國の利害休戚を第一義とする觀點からすれば、勞働者も資本家も一視同仁であり、兩者の衝突が必然に國家の衰運を招來する以上、國家の強權を行使して緩和融合の方法を採る理由はおのづから察知し得られる。

然るに、我が國に於けるムツソリーニの追從者もしくは反對者は、彼れの特色を勞働暴壓の一事に要約し、以て資本家的個人主義又は非國家的社會主義を是認する口實たらしめんとしてゐる。故意の誤解か無意の誤解か知らぬが、當のムツソリーニは定めし若干の苦笑を禁じ得ざるものがあらうと思はれる。

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フアスシスト・イタリヤは言ふまでもなく、ボリシエヰーキ・ロシヤの如き勞働國家ではない。少くとも、勞働者を本位とする國家ではないのである。けれども、勞働者本位ではなくとも生産者本位の國家だとは言ひ得る。然り、生産者といふ意味を、凡ゆる生産事業の寄與者と解する限りに於いて現代イタリヤこそ最も多く生産者本位の國家と見るを得るだらう。

『我等の理想とする國家は、總べての人間が進んで働き、一人の徒食者をも認めざるそれである』とムツソリーニは喝破する。勞働者はその『勞働』に於いて、技術家はその『技術』に於いて、資本家はその『資本』に於いて、協力合同して以て生産事業を發展せしめるやうな状態こそ、ムツソリーニの理想する産業國家でなければならぬ。けだし彼れは、人も知る如く青年時代を革命的サンヂカリストとして送りしが故に、三ツ兒の魄を今日に延長して『生産者本位の國家』を組織せんとしつつある。尤も、革命的サンヂカリズムに於ける生産者とは、それ自體が勞働者と同義異語に外ならぬが、今日の彼れは凡ゆる生産の寄與者といふ意味で、別に技術家と資本家とを包括して『生産者』の稱呼を附してゐる。斯くてそれは、舊サンヂカリズムに對して新サンヂカリズムと呼ばれ、同じ見地から國家サンヂカリズムとも呼ばれてゐる。

新サンヂカリズムの見地に於いては、勞働者と技術家と資本家とは相互に侵し侵されざる權利を以て保障される。三者は決して別個の『階級(クラス)』を代表するものでなく、唯別個の『部類(カテゴリー)』を代表するに過ぎぬ。國家に對する義務の關係は三者とも等一であり、いづれが上でいづれが下といふ相違もない。各個の部類は各個に與へられた義務を實行することに依り、祖國への忠勤を間然なからしめるのみである。

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フアスシスト・イタリヤの政治組織が、極端に中央集權的であることは何人も知悉するところであらう。然るに他の一方、その經濟組織は斯くの如く分權的である。即ち、それぞれに必要な自主權を保留した三個の國民聯合――勞働、技術、資本の産業的國民聯合が國家の最高機關たる組合内閣に直屬し相互に侵し侵されざる關係に於いて特立してゐるのである。

一人の徒食者をも認めざるフアスシスト・イタリヤにあつては、各人はいづれかの意味で生産事業に從事せねばならぬ。勞働者としてか、資本家としてか、或は技術家としてか、三者その一を擇んで國民的義務を履行するのである。これら三個の部類は、從事する職業關係と居住する地域關係とに依り、それぞれ國民組合を形成してゐるが、それらの國民組合は相合して、謂はゆる國民聯合に統轄される。例へば、資本家側の雇主聯合なら工業、農業、商業、海運業、陸運業、銀行業といつた國民組合に分岐し、その國民組合も工業國民組合なら工業國民組合で化學工業、生絲業、綿花業、機械工業、鑛業、雜業等の小組合に分轄されてゐる。勞働者の被傭人聯合も大體これと大同小異であり、技術者の專門家聯合は、學者、文士、畫家、技師等を始め凡ゆる種類の頭腦的職業者が包括される。

小組合が大組合(國民組合)に聯合し、大組合が國民聯合に統轄され、三個の部類は特立の權利を保有しつつ鼎立するが、しかしこれは決して相互の利害對立を目的としてゐるのではない。寧ろ却つて、階級的調和を促進せんがための手段に充用され、各關係組合は雇主と被傭人とに於いて相互の聯絡機關を設け、事端の發生を未然に防備すべく用意されてゐるのである。これは、産業組織に於ける勞働、技術、資本の三權分立と評すべきであらう。

産業上の斯くの如き三權分立的傾向は、如何にもサンヂカリズム的な特色と見られる。けれども、右の分立的三權は産業組織のみに於いて認容されるところで、政治組織の上に於いては單一なる組合内閣に隷屬する限り、必ずしも不可侵の特立的權利を保有してゐるわけではない。政治上と共に經濟上の實權は組合内閣に歸屬し、その首班たるベニトー・ムツソリーニの個人的權力に集中されてゐる。これは、最高權力を指揮するムツソリーニの獨裁專制を認容することに依つて、反對の經濟勢力を抑壓すると同時に、同盟罷業等を惹き起す餘地なからしめた周到な用意であつたとも解せられるであらう。

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産業國家の建設を理想とするフアスシスト・イタリヤであるから、經濟的單位たる組合は同時に政治的單位でもあり得る。隨つてまた、地理的區分を單位として選出された現在の議員及び議會を重視せず、寧ろ有れども無きが如く振舞へる事情も察し得られる。曩に勞働者代表を上院に入れ、今また選擧法を改正して組合代表に依る一院制度を確立せんとするムツソリーニは如上の意味に於いて産業國家の建設に百尺竿頭一歩を進めたものと見てよい。外電の報ずるところに從へば、地域代表を廢し職能代表を以つて議會を構成せんとするムツソリーニの提案は幸か不幸か、インマヌエル陛下の頑強な反對に會つて目下行き惱みの状態だと傳へられる。同時にまたムツソリーニは飽くまで素志の貫徹を期してゐるので、ために皇帝の退位を見るかも知れぬとさへ傳へられつつある。眞僞は知らず、しかしムツソリーニの人物思想を知り且つその主義政策を知る程の者なら、凡ゆる周圍の反對に抗爭しても、組合代表を内容とする一院制度の議會を作り上げはしないかと考へられる。

地域代表と職能代表との利害得失は別問題として、ムツソリーニが『一切の寄生者を絶滅せよ』といふモツトーを掲げ、憲法を改正してまで職能議會を創成せんとする意氣は、日本の自稱ムツソリーニストや自稱フアスシストの窺ひ得ざる境地である。況んや、フアクタ内閣を倒壞すると同時に、資本に對する高率課税とか、八十五パーセントの戰時利得税徴収とか、僧侶の全財産沒収とか、どこから見ても社會主義者の口吻と少しも違はぬ政策を提示して降らなかつた事實を知るなら、そんぢよそこらの資本家的番犬に過ぎぬ和製黒襯衣連は、恐らく事の意外に看板の取り外しを申し出るであらうと思ふ。

以上はフアスシストの建設的方面に關して、僅に片鱗の片鱗を傳へたものに過ぎぬ。蜷川博士流の論客は、故意か無意かムツソリーニの政治的英雄主義のみを紹介し、最も肝腎な彼れの産業政策に關しては全く沈默を守つてゐる。ムツソリーニは素より社會主義者ではない。然り彼れは、當時流行の國家無視的社會主義者でないが、しかし實質的にはよく社會主義の長所を採用し、以つて『強大にして優良なる勞働の創成』に努力を傾注しつつある。數年前の赤色組合員の殆ど全部がフアスシスト組合に轉化され、新フアスシオとしてムツソリーニを指示すること日毎に濃厚を加へつつあるを見ても、彼れが決して世の謂はゆる『反動』主義者に非ざることが明瞭であらう。

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