フアスシズムの産業政策

高畠素之

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彈壓宰相ムツソリーニに對する個人的興味の發揚と同時に、フアスシスト・イタリヤに對する我が國民的興味も次第に増大して來たかのやうに見受けられる。然しさうした興味も、主として政治的方面にばかり限定されてゐるやうで、産業的方面は殆んど閑却された憾が多い。寧ろ一般の人々は、政治上の集權主義に併行して産業上の集中主義が強行され、勞働階級に對しては極度の脅嚇手段を發揮しつつあるかの如く考へてゐるらしい。これは大變な誤りで、フアスシスト政府は政治上に於いてこそ、成る程集權主義を採つてゐるものの産業上に於いては、反對に分權主義を採つてゐるのである。國家的サンヂカリズムと呼び、フアスシスト・サンヂカリズムと稱し、新サンヂカリズムと唱へるのは、斯うした産業分業主義の傾向を指したものに外ならない。

元來ムツソリーニは歐洲大戰當時まで社會黨の領袖として知られ、ラテン諸國民の特質を如實に表明した革命的サンヂカリズムの熱心な使徒だつた。年若くしてスヰスを流浪せる當時に洗禮を受け、フランス亡命時代にはその理論的指導者たりしソレルと交はり、深くもこれに傾倒した結果『三つ兒の魂』は今日においても失はずにゐたのであつた。サンヂカリズムは行動の理論であり、情意の哲學である。マルキシズムの社會的宿命主義を信ぜず、唯だ實力の力のみを信ずる。同時に、一切の政治運動を拒否し、經濟運動の一本槍で社會革命を斷行しようとする。隨つて、産業上の集中主義と政治上の集權主義とは、彼等の最も嫌忌するところであつた。幸か不幸か、ムツソリーニの政治上の政策はマルキシズム以上の集中的事實に結果せしめたが、産業政策に於いては、舊套依然たる分散主義を採用してゐる。前者の社會主義サンヂカリズムに對して、フアスシオの一隊がみづからを國家主義サンヂカリズムと呼び、新舊の區別を立てるゆゑんは茲に求められる。

サンヂカリズムに於ける新舊の兩派は、斯くして資本私有と個人企業とに立脚する現行制度の贊否を兩端ならしめた。即ち、前者がこれを積極的に破壞せんとし、後者がこれを消極的に支持せんとする相違である。フアスシストによる國民革命が、ボリシエヰーキのそれに劣らぬ意義を附與してゐるに拘らず、反動革命の資本擁護のと攻撃される所以もそこにある。

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『祖國の富強なくして國民の幸福なし』といふフアスシオ的スローガンに從へば、國家の政治的強大と經濟的富裕とのみが、國民的福祉の保障をなし得るゆゑんでなければならぬ。ムツソリーニは右の見地から政治上の集中主義を有利と觀察すると同時に、經濟上に於いては分散主義を有利と打算したものであつて、一見いかにも首鼠兩端するが如き政策を併用したのも、偏へに國民的福祉の増大に貢獻すべしと確信したからであらうと思はれる。果して然るか否か、これは俄かに豫斷を下し得ない事情もあるが、然し資本家とか勞働者とか技術家とか、さうしたいづれの『部類』にも權力の主體を置かず、包括的一體としての『國民』的觀點に於いて共勞共働を奬勵したのは、確かにムツソリーニらしい卓見と言ひ得よう。

フアスシスト・イタリヤの産業組織に於いて、最も有力な特色を決定してゐるのは、それが勞働、技術、資本の産業的國民組合によつて構成される一事に外ならない。この三個の國民組合(國民聯合)は相互に明別された體系を有するもので、それぞれの組合(聯合)はそれぞれに必要な自主權を保留し、而も合體して國民最高機關――即ち組合内閣に統轄されてゐる。内閣の首班はいふまでもなくムツソリーニであるから、彼れを圓錐體の頂點として相互に特立の權利を保有する三個の『部類』を代表する國民組合が、相互に侵し侵されざる關係に於いて鼎立してゐるのである。『イタリヤ國民を強大にし、繁榮にし、自由にする』といふ唯一の理想の下に、彼等は『國民的義務』として共勞共働の實果を強制されねばならない。

『我等の理想とする國家は、總ての人間が進んで働らき、一人の徒食者をも存在せしめざるそれである』とムツソリーニはいふ。イタリヤ國家の現在が、果して彼れの理想する如き状態にあるか否かは知らない。然し少くとも、次第にそれへ接近しつつあることだけは窺ひ知られる。資本家も技術家も勞働者も、各自の部類に於いて進んで働らく以上、いづれが優遇されいづれが虐遇されるといふはずはない。今や、イタリヤ國家はそれ自體が一の生産業者たるのみならず、尚また凡ゆる産業會社の大株主兼管材者ともなり、國民の全經濟的活動を調節し支配することを最上の任務としてゐる。彼等の謂はゆる新サンヂカリズムの名稱にふさはしき産業國家は、斯くして次第にその礎地を築き上げつつある。

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フアスシスト・イタリヤの産業組織の基礎となり、同時に政治組織の單位をなす國民組合(國民聯合)なるものは、その意味に於いて注目に値する。先づ資本家側の雇主聯合を見るに、これは職業の別によつて工業、農業、商業、海運業、陸運業、銀行業といふ七種の『國民組合』に分岐し、この國民組合の内部がまた各數種の小組合に分れてゐる。例へば、工業國民組合の中に、化學工業、生絲業、綿花業、機械工業、鑛業、雜業等の小組合がある如くである。被傭者たる勞働者聯合にも、大體に於いて資本家聯合と同樣の分岐があり、筋肉的竝びに頭腦的勞働者が、これに參加し、資本家組合に對陣してゐるかの如くであるが、階級鬪爭を目的とせざることは言ふまでもない。寧ろ却つて、階級調和のために利用され、各關係組合は雇主と被傭者とに於いて相互の連絡機關を設け、事端の發生を未然に防備すべく用意されてゐる。

技術家聯合は謂はゆる專門家聯合であつて、これは技術者國民組合、藝術家國民組合、技工家國民組合の三つに分れてゐる。それぞれに小組合があること前記二聯合と變りなく、第一者には學者、技師、技手等を包括し、第二者には文藝家、美術家等を網羅し、第三者にはそれ以外の專門家が統轄されてゐる。技術家聯合も關係範圍内に於いて、連絡機關に參加すること素よりであつて、これらの國民組合(聯合)は、相互に特立する體系を保有しながら、組合内閣の支配に置かれること、前述の通りである。産業組織に於ける勞働、技術、資本の三權分立は斯くしてその政治組織となるに及んで組合内閣の一權に集中され、而して最高權力を指揮するムツソリーニの獨裁專制を認容することにより、反對的經濟勢力を抑壓すると同時に、同盟罷業等を惹き起す餘地をなからしめたのであつた。一見いかにも兩端する如き産業上の分權主義と政治上の集權主義ではあるが、以上の意味では當然の政策を當然に行つたと見ることも出來るであらう。

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『階級鬪爭は舊時代の舊思想である』とは、ムツソリーニ及びその一黨が口癖のやうにいふ文句である。眞僞の穿鑿は別問題だが、祖國の富強なくして國民の幸福なしと見る解釋には、おのづから別個の眞理がなければならない。特にイタリヤは、天然の資源に惠まれること薄く、産業は萎微して振はず、戰後の國力疲弊はさらでだに甚だしく、失業者の洪水が各地のストライキと工場占領を病的に流行せしめるといふ状態にあつたから、フアスシオ的愛國運動の旗印が天下を風靡したのも當然であつた。階級鬪爭の思想が舊いとか新らしいとかいふ意味でなく、當然の亡國を招來すべき餘りにも明白な弊害を目前の階級鬪爭によつて見せつけられたので、上下ともに國民的協同の必要を痛感してゐたのである。

イタリヤ國家を強大ならしめるには、先づ何よりも經濟的効果を擧げなければならぬ。それには物資供給の地を獲得しなければならぬ。ムツソリーニは斯くして對外硬政策を採り、トリポリ、アピシニア、モロツコ、タンヂール、アルバニア等諸方面の植民地領域の開拓を企てたのである。『苟くも經濟的及び精神的膨張を望む凡ゆる生活の基礎をなすものは帝國主義のみ』といふ鼻息だから、一切は押して知るべしであらう。同時に對内的にも經濟機能の改善を圖り、鐵道政策を改良し、金屬工業を奬勵し、電氣事業、石油事業等を補助し、さては行政、財政、税制を根本的に刷新するなど、矢繼早やに新政策を實行して僅か數年の間に全く見違へる程の業績を擧げ得たのである。のみならず、フアクタ内閣を倒して最初に政權を取つた當時は、資本に對する高率累進課税とか八十五パーセントの戰時利得税徴収とか、僧侶の全財産押収とか、どこから見ても社會主義者の口吻と違はぬ財政策を掲げてゐたに見ても、彼れが資本家擁護に傾き過ぎるといふ非難の當らざることが知られやう。尤も、この『進歩的政策』は即時實現を見るに至らなかつたが、フアスシズムが社會主義と正反對の概念を代表するかの如くに見る考へ方は訂正しなければなるまい。寧ろフアスシズムは、最初の間こそ暴力的であり、『反動的』でもあつたが、國内の統制が得られると共に次第に建設的な面目を加へ、社會主義の理想とする政策を實質的に施行しつつある事實さへ認められる。

ボリシエヰーキ・ロシヤの次第なる後退に對してフアスシスト・イタリヤの次第なる前進は好個の對照をなしてゐる。勿論、兩者に於ける一方的後退と他方的前進とは、永久に一致點を見出だし得ないのは明瞭であるが、『働らかざるもの食ふべからず』のモツトーと、『一切の寄生者を絶滅せよ』といふモツトーとが共一の思想を指示する限り、かなり接近した歩み寄りが見られぬとも限らないであらう。

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先に勞働者代表を元老院に入れ今また選擧法を改正して組合代表による一院制度を確立せんとするムツソリーニは、彼れを單に『反動派』としか考へ得ない多數の人々に奇異の感を抱かせつつある。だが、昔ながらのサンヂカリスト的氣魄が失はれず、イタリヤをして一大産業國家に築き上げんとする願望を知る程の者なら、寧ろ却つてそれを當然と是認するであらう。前述せる如く、イタリヤ國民は今やすべて國家の管理の下に組合制度を組織し、而して各人それぞれの職業に從事してゐるのである。組合代表が國民代表でなければならぬとすれば、それと同時に相對立する二院を存置する必要を認めぬはづである。フアスシズムに於ける投票權は、デモクラシーに於ける如く『市民として』の權利とは認められず、これを『生産者として』の權利として認めることになつてゐる。この概念に從へば、生産に從事せざる寄生的人物は、如何に個人的に優秀だつたところで、彼れが生産に寄與せざる一事によつて選擧權を拒否されねばならない。頭腦的なると筋肉的なるとは問はぬが、兎に角、生産的勞働に從事しなければ、政治上の權利まで剥奪されてしまふのである。

フアスシストの謂はゆる組合國家は、その政治的特質を生産者本位といふことに置いてある。この一事は、イタリヤの産業政策が確乎たる『原理』の上に展開されてゐることを語るものである。内閣の組合省は各個の産業組合を統轄しその福祉増進局は鋭意勞働者の肉體的精神的福祉の増進を講究しつつある。即ち、職業補習教育の施設、家政經濟の教授、勞働者庭園の増設、農村工業の奬勵等を始め、各種各般の保護施設が大規模に國家の手で行はれてゐるのである。ムツソリーニの理想は、これによつて『強大にして優良な勞働を創成』すると同時に、また『勞資間の關係を圓滑』ならしめんとするにあつたが、その効果は著しく現はれたと自讚してゐる。數年前の赤色組合員の殆ど全部をフアスシスト組合員たらしめ、新フアスシオとしてムツソリーニを支持すること日毎に濃厚となりつつある事實を見れば、必ずしも一流の大言壯語とばかりいへないであらう。

以上、ムツソリーニの産業政策として美點ばかり算へたやうだが、フアスシストといへば勞働暴壓を商賣にしてゐるかの如き誤解が横行してゐる當節、賞め過ぎても貶し過ぎるよりは正鵠を傳へ得たと自認してゐる。

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