六、ムッソリーニは非『皇室中心主義』

高畠素之


『國家社會主義』(**1)といふ看板を掲げた私は、逸早くフアスシスト(**2)扱ひを受けなければならなかつた。ところが最近は、デモクラシーの總帥吉野作造氏や、日本農民組合の會長高橋龜吉氏や、さては共産黨の耆宿山川均氏などまで、一律同列にフアスシスト(**3)呼はり(**4)をされてゐると聞き、どうやら肩身が廣くなつたやうな思ひである。それで氣をよくした譯でもなかつたが、(**5)惡友の誘ひを渡りに舟で淺草は帝國館へ「ムツソリーニ」(**6)を見物に出かけた。

『觀兵式と記念祭との實寫的連續で、期待した興味は萬分の一も酬はれなかつたが、お蔭でムツソリーニの風貌だけは篤と拜見する光榮に浴した。その以前これも『永遠の都』と題する映畫の中で、ムツソリーニの片鱗はチラと瞥見する機會を得たのであつたが、當時の怪物的印象に比較すれば些か凡物的印象を免れず、ただもう大層もない獨裁大王の稚氣と衒氣に壓倒されるばかりであつた。否むしろ、それよりも壓倒されたのは、邦文で書いたタイトルに搗てて加へて(**7)辯士の説明である。先づ最初に、フアスシズム(**8)の萬國的適用を警戒すると、(**9)いとも親切な文句に始まり、下位春吉がダンヌンチオの兄弟分になつたり、ムツソリーニが熱烈な皇室中心主義者になつたり、呂律の程は甚だ頼母しからぬものであつた。下位春吉がブローカーでなからうと同時に、ムツソリーニは決して皇室中心主義者でなかつた。若し「熱烈」(**10)の言葉で評し得べくんば、彼れは寧ろ却つて共和主義者であり、唯だ便宜的手段として皇室の存在を肯定すべきことを聲明した男であつた。贔負の引き倒しもよりけりである。(**11)それと同時に、上は山川均氏に於いても然るであらう如く、下は斯くいふ高畠素之に於いても、世間の御贔負筋がせつかくムツソリーニ亞流を以て許して下さる御親切は感銘して忘れないが、時に全く引き倒しに類せざるに非ざることも附記して置きたい。』(**12)

×(**13)

以上は(*1)去る十二日の『讀賣』(*2)に書いた『贔屓の引倒し』と題する僕の寸感的時評であるが、これに對し、同紙(十四日)に例の福士幸次郎君が反駁文を寄せ(*3)、ムツソリーニが『皇室中心主義』者なることを陳辯(*4)したやうである。當日、うつかり讀み落としたのでいま更めて駁論の駁論を書くのも氣がきかず、弛緩した呂律を正氣で相手にするのも氣がさすが、どうせの莫迦らしさ序に、もう一度だけ本欄の末席を穢さして頂きたいと思ふ。(*5)

音に聞こえた福士君ではあるが惡文といはうか惡腦といはうか、理窟のメリハリを發見するに甚だ困難であつた。が、憤慨の要點を拜察するに、ムツソリーニを共和主義者らしく吹聽すると同時に、下位春吉氏(*6)をブローカーらしく暗示した點が高畠の『知つたか振り』だといふにあるらしい。だからこそ、高畠の國家社會主義が『合理主義のヘーゲル思想』の亞流だつたり、また『正動思想はマルクシズムだといふのか』と思つてゐるのであらう。阿呆らしい。(*7)

×(*8)

更めて蒸し返すまでもなく、あの一文は映畫『ムツソリーニ』の字幕と辯士とを彌次るに發端したもので、(*9)田口商會乃至帝國館の廻し者ならぬ(*10)福士君あたりから(*11)他人の疝痛を頭痛に病んで(*12)頂かうなどとは夢にも考へなかつた寸評である。『にも拘わ』ざるが故に、實は甚だ光榮に感じなければならぬ義理もあるのであるが、如何せん(*13)光榮も過ぎたるは尚ほ及ばざるに如かず、飛んだ贔屓の引き倒しに陷りしを遺憾とする。

福士君の見解に從へば、ムツソリーニの傳統主義者なるが故に皇室中心主義者でなければならぬといふ。何故の傳統主義者なるかの證據は、(*14)彼れが『羅馬のラテン的また帝國的な傳統は今又加特力教によつて代表されてゐる。羅馬に目を注ぐ四億萬人の大衆は、イタリヤ人であるところの吾々に取つては(*15)關心と誇りの一對象を構成する』といふ言葉を發し得たことに求めてゐる。福士君が『鬼の首』として紹介されたこの文句を俟た(*16)なくとも、ムツソリーニの『傳統主義』は高畠に於いて百も(*17)承知之助、試みにムツソリーニに關する雜多の拙文を見よなどと失禮なことは言はぬが、そんなことは討論終決の問題として彼れが『皇室中心主義』でないから『ない』といふに何の不思議があるか。

×

福士君の混冥的頭腦に於いては或は傳統主義と皇室中心主義とが(*18)同義異語であるかも知れない。けれども、當のムツソリーニはイタリヤ人ですよ、日本人ぢやありませんよ、どうか混同しないやうにして呉れ給へ。

日本人の傳統主義は直接に皇室中心主義に一致する。それは『万世一系』の『天皇』を戴く事實(*19)と、この事實に對する『認識』とに於いてである。君民一致の天孫人種は、豐葦原の記憶を思ひ出すことに依つて皇室の尊重を倍加するが、(*20)イタリヤ人に取つては(*21)古代ローマへの『憧憬』が直に(*22)サルヂニヤ王家に對する『忠節』となつて反映すべく餘りに相關性も必然性も稀薄でなければならぬ。けだしローマの建設は紀元前七五〇年といはれ、選擧王政時代から執政共和時代となり、オクタヴイアヌスの帝政が確立してからも東西の兩國に分れ、その後の興亡盛衰は、さすがの福士君だつて中學時代に教はつたことと思ふ。現王室の始祖カロロ・アルベルトがイタリヤ北部の小王となつたのが一八四〇年代、その子のビクトリオ・エマヌエルが周圍の王公國を攻略し曲りなりにも統一事業を果して『イタリヤ國王』の尊號を得たのが一八六一年(*23)今を去る僅六十六年前の話しではないか。(*24)のみならず、當時のローマはベネチヤと共にサルヂニヤ王家の支配圈外にあり、普佛戰爭のドサクサ紛に(*25)火事泥をきめ得たのが一八七〇年、それ迄(*26)サルヂニヤ王權とローマ法權とは(*27)絶えず反目抗爭を續けて來たのであつた

×(*28)

加特力教の傳統は、如何にも燦然と輝いてゐるであらう。それに對するムツソリーニの憧憬も、なるほど本當であるに違ひない。だが、それだからどうして、サルヂニヤ王家への『中心主義』に結果しなければならぬのであるか。法權に大して最後まで敵對した現王室には、寧ろ『不中心主義』であつてこそ論理の當然ではないか。君の用句を逆用すれば、ムツソリーニが『皇室中心主義者』(*29)ないと言ひ得るのは、彼れの傳統主義者であることを知つて始めて言ひ得るのだ。(*30)『七ツ丘』の光榮を力説するムツソリーニは、よろしく三千年の昔に還つて『共和主義者』たるべし、六十年の昔に止まつて『皇室中心主義者』たるべきではない。

とはいふものの、僕は決して、ムツソリーニが現王室への忠誠を誓つたのを『不當』とするのではない。寧ろフアスシオが、卒先して王室への忠誠を披瀝したのは、やがて皇室を生活の中心として一絲不亂に結束する『日本』に追隨せんがための下心とも解せられ、椽大な理想の程を頼母しくさへ思つてゐる。あれだけの獨裁的勢力を揮ひ得れば、名實とも『國民の王』となりたがり易いところを、我れみづから王室への忠誠を示し、以て國民的信仰の對象たらしめんとする態度は、なかなかに得やすからざる政治家的才腕だと(*31)思つてゐる。

だが、それとこれとは別問題、彼れが『若し熱烈と評し得べくんば寧ろ却つて共和主義者』だつたことに間違ひなく、その最初が『便宜的手段としての皇室(王室)の存在を肯定』した事實も變りはない。福本君は何を證據に、彼れが生れ落ちての『皇室中心主義』者だつたと(*32)斷定するのか。獨り合點の『買ひ冠り』を金科玉條に(*33)『利いた風な毒舌を吐くのが落ち』となつて貰ひたくない。

×

ムツソリーニは明白に熱烈な共和主義者であつた。どれほど『熱烈』だつたかといふに、國王が名もなき無政府黨の一青年に狙撃されたとき、當時の社會黨首領ボノミ(後の首相)が御見舞のため伺候したのを怪しからんといつて痛撃し、ボノミ除名の動議提出者となつたに見ても知られる。これは一九一二年の話だが、その後も『教會の財産沒収』と『共和國の建設』とは、暫らくムツソリーニ一派の二大看板として公然掲揚されてゐた。看板としての『共和國の建設』が下されたのは一九一九年、フアスシオの運動が産聲を擧げた年であるが、その當時に於いても『教會の財産沒収』は(*34)幾多の社會主義的政策と併列して掲げられ、福士君の引用したる『……の傳統は加特力教によつて代表されてゐる』などとは未だ言はなかつた。

『我等の主張は簡單なり、我等はイタリヤを統合せんと欲す』といふ傍若無人の宣言を發し、一九二二年十月、光榮あるローマ進軍を開始せる時ですら國王がフアスシオ攻撃の許可をフアクタ内閣に與へた際は、彼れムツソリーニも露骨に不快な氣色を示したといはれる。幸か不幸か、フアクタ内閣の無力はフアスシオの猛威に對抗し得べくも(*35)見えず、軍隊も悉くこれに投ずるといふ状態であつたから、國王もつひに『政府の戒嚴令を認めざる』旨を仰せ出だされ、次でムツソリーニの代表デ・ペツチに對し『戒嚴令を下したことは自己の本意でなかつた』と釋明せられたのである。國王がムツソリーニを『親愛なる甥』と呼ばれるやうになつたのは、斯うした(*36)經緯があつてから後のことに屬する。(*37)

×

『我黨は王室維持に贊成であつた。その運動の主眼は、自由の施設を擁護し(*38)軍隊を鼓舞して、イタリヤの國威を發揚せんとするにある……』といふ當時のムツソリーニの示威演説を見れば、嘗ての主義者時代は敢て(*39)問はず、黒襯衣(*40)を着たての頃でさへ、福士君の謂はゆる(*41)『皇室中心主義』は甚だ浮動的であつたことが知られる。少くとも最初は、便宜的であつたといふのが眞相である。

然しこの事實は、少しもムツソリーニの不名譽を意味するものではない。若しムツソリーニが日本人であつたら、骨を割き肉を唆つても飽きたらぬ不逞漢だが、悲しい哉、彼れはイタリヤ人として生れたのである。三千年來の傳統に渇仰する心理と、六十年來の王室を尊重する念慮とは、彼れ(のみならず全イタリヤ人)に於いて共一では有り得ない。それが『愛國』主義者となり得ても(*42)容易に『忠君』主義者になり得なかつた悲哀である。是非善惡の批評を(*43)日本人的常識に於いて下すことそれ自體が、全くの場所錯誤でなければならない。

福士君の頭の惡さは、イタリヤ人ムツソリーニを直に日本人ムツソリーニと混同したのみならず、日本人高畠素之までその亞流であるかに混同してゐる。それは假りに我慢するとしても、ムツソリーニが『皇室中心主義』でないと指摘した高畠が、暗に『皇室不中心主義』であるかに諷した一事は、全く以て聞き棄てならぬ誣妄である。馬鹿も休み休みに言へ。(*44)

×

大體、先達ての拙文が、ムツソリーニの『不採』を攻撃したと思ふ福士君の頭は、餘程ゼンマイの卷き方が足りない證據である。皮肉や洒落の解説をするほど、それほど間の抜けたことはないが、痛くもない腹を探られるのが癪だから福士君に後學のための説明を加へて上げよう。

『皇室』といふ傳統的觀念は、君民一如の歴史的三千年を經過した日本人のみが、單り始めて獨占し得る光榮でなければならない。我等は深くもそれを誇りとするだけ、輕卒にムツソリーニが(*45)『皇室中心主義』などと言はれると、甚だ(*46)不快を覺えるのである。映畫『ムツソリーニ』に於いて(*47)、明白な共和主義者だつた彼れが、生れながらの日本的『皇室中心主義』者(*48)らしく吹聽されてゐるに對し、僕は内心多大の憤悶の情を隱し得なかつた。如何にも空々しく、恰も彼れが『万世一系主義者』だと言はれてゐるやうな氣がして心から底から『戲談』ぢやないと痛嘆したことであつた。辯士の無恥と無智とに對する當時の憤慨をあの一文に壓縮して餘情を汲んで貰はうと思つたところが、福士君の如き頓狂な男が『知つたか振り』で飛び出し時代と場所の錯誤を盡した言ひ掛かりをつけるので、持つたが病の癇癪玉をつひ破裂させる結果にもなつたのである。ムツソリーニを『万世一系主義者』と呼んだら、どうだ福士君、多少は君でもくすぐつたく思ふだらうが……

×(*49)

地方主義運動とやらは、仰せの如く傳統主義の一系であるかも知れない。然し『地方』の意味を『津輕』ばかりに限定せず、日本とイタリヤの相違の場合にも適用して貰はぬと困る。日本の地方主義が『皇室中心主義』に要約される代りには、イタリヤの地方主義がどう要約されるか位は豫め承知して置いて欲しい。ムツソリーニが『七ツの丘』の光榮(*50)を説けばこそ、僕は僕の傳統主義的見地から、彼れが日本的な意味での『皇室中心主義者』=『万世一系主義者』でないと斷じたに過ぎぬ。けだし、彼に於いては、どういふ傳統主義的見地があつたにしろ、特にサルヂニヤ王室を中心としなければならぬ理由がないと同時に、日本語的『皇室中心主義』になり得ないからである。隨つてムツソリーニが假りに『サルヂニヤ王室中心主義者』でなかつたとて、それがどうして彼れが『古代ローマの渇仰者』でなく、また『イタリヤ民族の(*51)……傳統觀念の下に生きて居』ない反證となるのか?(*52)

サルヂニヤ王家とイタリヤ國民との關係は、譬へていへば(*53)徳川公家に對する現在の(*54)日本國民の感情に似たやうなものである。外形的には相違があつたにしろ、本質的な相違があるべき筈がない。(*55)福士君の暴論を以てしても、高畠が『誰某は徳川公家中心主義者でない』と斷定したところで、誰某は愚、(*56)高畠までが、まさか『建國以來の淳風美俗を破壞する』とは言ひ得ないであらう。ムツソリーニの場合も全く同斷、浪花の葦が伊勢の濱荻となつても苦情の餘地が(*57)あるまい。即ち『王室中心主義』であつても、決して『皇室中心主義』では有り得ないのである。

×

問題が問題なだけ、ちよつと四五枚と思つたのが意外に長びいた。(*58)それもこれも福士君が、高畠の國家社會主義を妙に絡んで來たからである。福士君や蜷川新あたりから、勘ちがひの『同志』扱ひを受けないで濟むのは有りがたい仕合せだが、高畠が『愛國的』でないらしく誣妄した一事に對しては、名譽にかけ斷乎として取消しを要求する。『下位春吉氏を暗にブローカー扱ひ』するのが(*59)『暴状』なら、福士君の無責任な放言は抑も(*60)どうなるのであるか?

大體、この文句からして福士君の言ひ掛かりだ。僕が若し『白虎隊の石碑でイクラ儲けた』とでも言つたなら、而して若しそれが事實無根であつたなら、信心がらの福士君が鰯の頭(*61)の尊嚴を如何に呼稱しようと勝手だが、單なる比喩を楯に『身の程知らず』などとは片腹いたい。

が、それもよしこれもよし、降りかかる火の子なら『下位春吉』を『ブローカー』とも呼ばうぢやないか。ムツソリーニの兄弟分らしく吹聽し、故國への『賣り込み』を忘れないところは、鞘取りをしたせぬに拘らず、これをブローカーと呼ぶのは當今の常識である。隨つて、福士君の如く僕を『ムツソリーニ運動の別家』と思ひ込み、それで原稿料に有りついてゐると信じて下さるなら、僕自身がブローカーと呼ばれることも敢て苦痛としない。事實の眞否は兎に角(*62)、寧ろ大いに光榮と心得るかも知れぬ。下位春吉といふ人は、少くとも僕よりはブローカー的だらうぢやないか。

×

最後に、これは蛇足だが、僕はマルキシズム(*63)を正動思想と心得た覺えもなし、また『マルクス的國家觀念』をそのまま僕の國家社會主義に適用した覺えもない。事實は寧ろこれに正反してゐる。それ故にこそ、世人の謂はゆる(*64)反動的立場を僕の謂はゆる正動的立場として固持して來たつもりでもある。(*65)尤もそんなことは、福士君あたりに解つて貰へる望みもなし、また解つて貰ひたいとも考へぬが、打ち明ければそんなところ、そこが『蛇足』の名に恥ぬ所以でもある。だが、今後とも、これ以上の『蛇足』には亘らぬつもり故、福士君のみならず御安心あれ。



初出:社會時評・師走の雜感(『読売新聞』昭和2年12月12日(朝刊))

注記(初出論文との異同)

(**1)『国家社会主義』→国家社会主義
(**2)フアスシスト→フアスシイスト
(**3)同上
(**4)呼ばはり→呼はり
(**5)、→無し
(**6)「ムツソリーニ」→『ムツソリーニ』
(**7)加へて→加へし
(**8)フアスシズム→フアスシイズム
(**9)すると、→する
(**10)「熱烈」→『熱烈』
(**11)改行あり
(**12)『観兵式……置きたい。』→『』なし。「(十二月六日)」の日付あり。
(**13)×→無し


注記

※初出:『讀賣新聞』昭和2年12月20日、21日、22日、23日
※初出行末の句読点の異同は注記を省略した。

(*1)以上は→無し
(*2)『讀賣』→本誌
(*3)『贔屓の引倒し』以下→(初出)僕の寸感的時評に對し、例の福士幸次郎君が反駁文を寄せ(十四日)
(*4)陳辯→屡々陳辯
(*5)以下、「文藝欄編輯子よ、幸ひに諒せられよ!」あり。
(*6)下位春吉氏→下位春吉
(*7)阿呆らしい。→阿呆らしくつて話しにもならない。
(*8)×→○(以下、同じ)
(*9)、→無し
(*10)ならぬ→なら
(*11)から→から、
(*12)病んで→せんで
(*13)如何せん→如何せん、
(*14)、→無し
(*15)取つては→取つては、
(*16)俟た→俣
(*17)百も→百も二百も
(*18)とが→が
(*19)事實→『事實』
(*20)、→なし
(*21)取つては→取つては、
(*22)直に→直ちに
(*23)年→年、
(*24)。→、
(*25)紛に→まぎれに
(*26)迄→まで
(*27)とは→とは、
(*28)×→無し。
以上
初出:文藝欄・福士君の場所錯誤―ムツソは非『皇室中心主義』―(上)
収録:『読売新聞』昭和2年12月20日(朝刊)

(*29)『皇室中心主義者』→『皇室中心主義者
(*30)のだ。→』のである
(*31)だと→だとも
(*32)だつたと→だつたことを
(*33)→餘り
(*34)は→は、
(*35)得べくも→得べく
(*36)斯うした→かうした
(*37)以上
初出:文藝欄・福士君の場所錯誤―ムツソは非『皇室中心主義』―(中)
収録:『読売新聞』昭和2年12月21日(朝刊)

(*38)擁護し→擁護し、
(*39)敢て→敢へて
(*40)黒襯衣→黒シヤツ
(*41)謂はゆる→いはゆる
(*42)得ても→得ても、
(*43)批評を→批評を、
(*44)言へ。→言つてくれ!
(*45)ムツソリーニが→無し
(*46)甚だ→甚だしき
(*47)於いて→於て
(*48)『皇室中心主義』者→『皇室中心主義者』
(*49)×→無し。
以上
初出:文藝欄・福士君の場所錯誤―ムツソは非『皇室中心主義』―(下ノ一)
収録:『読売新聞』昭和2年12月22日(朝刊)

(*50)『七ツ丘』の光榮→『七ツ丘の光榮』
(*51)の→無し
(*52)?→。
(*53)いへば→いへば、
(*54)の→的
(*55)がない。→のものではない。
(*56)愚、→愚か
(*57)が→は
(*58)長びいた。→永びいた。
(*59)するのが→にするのが
(*60)抑も→抑
(*61)鰯の頭→鰯頭
(*62)兎に角→兎にかく
(*63)マルキシズム→マルクシズム
(*64)謂はゆる→いはゆる(直後の「謂はゆる」も同じ)
(*65)世人の謂はゆる反動的立場を僕の謂はゆる正動的立場として固持して來たつもりでもある。→(初出)世人のいはゆる反動的立場と同時に、僕のいはゆる正動的立場を固持して來たつもりでもある。
以上
初出:文藝欄・福士君の場所錯誤―ムツソは非『皇室中心主義』―(完)
収録:『読売新聞』昭和2年12月23日(朝刊)

inserted by FC2 system