勞農帝國主義の極東進出

高畠素之

目糞が鼻糞を笑ふといふ譬はちと尾籠だが、勞農ロシアの擔ぎ廻る打倒帝國主義の看板にも、さういつた身のほど知らずさが見える。毒を以つて毒を制する氣轉にも通じやうが、そこにはまた觀音樣でお賽錢を釣るやうな外道的營利主義も働いてゐる。帝國主義といふものは、何も資本主義ばかりの專賣ではない。國にして帝國主義的ならざるはなしといふ、ムツソリーニ派の言ひ方には誇張もあらう。瑞西やモナコでも國でないとは言へぬからである。が、苟くも獨立の一國として優越の本能と燃ゆるが如き覇圖を有する程のものは、みな結論に於いて帝國主義的たることを避けられぬ。それは國家自我の實現と發展との努力に伴ふ必然的歸結だ。

勞農ロシアは社會主義國家である。少くとも、社會主義國家たらんとしつつあるものだ。而も一面には、燃ゆるが如き國家的野心を帝政以來植ゑつけられてゐる。彼れのいはゆる世界赤化とは、この兩要素の結合作用に外ならぬものである。だから、世界平和の使徒を以つて任ずる共産ロシアも、軍備擴張に汲々たることは人道主義の資本アメリカと兄たり難く弟たり難い。軍備は國防のためといふ御託を、いまさら共産ロシアから受賣りするにも及ぶまい。

要するに、國家的勢力範圍の擴張といふことが主一の目的だ。領土の擴張は、國家的範圍擴張の素朴なる一形態に過ぎぬ。拳固で撫でるといふ祕法もある。やれ帝國主義打破の、民族解放のといふ口の上から、ドンドン自國の勢力範圍を擴張して行けば世話はない。薄利多賣が多賣厚利の羊頭であり、社會奉仕が社會搾取と兩頭の蛇であり、デモクラシーが少數支配の一變形であるのと同じ意味で、勞農ロシアの反帝國主義は帝國主義の社會奉仕といへやう。

勞農ロシアの世界征服は、『世界赤化』の假面を以つて現れてゐる。『世界赤化』とは世界を擧げてロシア流の共産主義に化せしめるといふことであるが、世界といつても事情は一樣でない。歐米諸國では資本主義が完成されて、プロレタリアの自覺も進み勞働者の組織も發達してゐるが、有色諸民族は歐米列強の屬領又は植民地としてその搾取壓迫の下に呻吟してゐる。そこで歐米諸國に對しては、直接、勞働者の階級的組織運動を共産主義的に刺戟し啓蒙して資本主義に當たらしめると同時に、劣弱被壓制民族、殊に東方諸民族に對しては、彼等の民族的自覺を促して歐米列強の帝國主義的覊絆を脱却せしめるといふ戰略を採つた。前者は階級鬪爭であり、後者は民族鬪爭である。前者を直接の赤化といふならば、後者は即ち間接の赤化である。第三インターナシヨナルは主として前者の目的遂行のために設けられたものであるが、後者に對しては特にスターリンを擧げて獨特の民族政策を遂行せしめた。

勞農ロシアは最初、第三インターナシヨナルに依る歐米赤化に向つて直進する計畫であつたらしいが、この方面の運動は事毎に失敗して手も足も出なくなつてしまつた。しかるに、東洋方面に對する民族政策は着々その功を奏して、民族自決のお臺目は巧みに舊露領諸民族を一括して勞農傘下に誘きよせる好餌となつた。尤も、歐露西北邊疆の諸州に對しては、三月革命以來の分離を基礎として夫々の獨立を認めたが、他の露領諸民族に對しては、一面民族自決權を與へると同時に、その内部には着々サウエートの勢力を扶植浸潤させて、分離はしても結局モスコーの支配下に舞ひ戻らずしては立ち行かぬやうにした。

だから、これらの屬領に對する民族自決主義といふものは、ちやうど資本主義の下に於ける『勞働の自由』のやうなもので、勞働者は勞働するもしないも自由の人格だといふが、勞働しなければ食へぬやうな位置に立たして置いてさういふのであるから、これは何のことはない、勞働への強制を胡粉で塗飾したものに過ぎぬ。露領劣弱民族もこの筆法で、民族自決を惠まれて、結局モスコー治下への復歸を自發的に強制された。

斯くして、一九二〇年から一九二一年五月に至る間、一度び獨立した白ロシア、ウクライナ、アゼルバイヂアン、アルメニア、ヂオルヂイア等各地方の共和政府は、モスコー政府と勞農同盟條約なるものを締結せしめられ、續いて一九二二年十二月に至り、これらの獨立共和國はサウエート社會主義共和國聯邦としてモスコー政府の下に統一された。その後、更にウヅベツク及び、トルコマン兩共和國をも加へて、いまではモスコー政府(ロシア社會主義サウエート聯合共和國)の下に、白ロシア社會主義サウエート共和國、ウクライナ社會主義サウエート共和國、後コーカサス社會主義サウエート共和國、ウズベツク社會主義サウエート共和國、トルコマン社會主義サウエート共和國の五共和國が統合されて、これをサウエート社會主義共和國聯邦と稱してゐる。これらのうち、ロシア、ウクライナ及び白ロシアの三つを除き、他は悉く東洋民族國であつて、帝政以來ロシア政府の支配下に抑壓されてゐたものである。

モスコー政府はかくの如く、露領諸民族に對しては民族自決主義の好餌を以つてこれを自家藥籠中のものとなし、聯邦として再統合することを得たのであるが、聯邦外の東洋諸民族に對しては、直接これを統合することの不可能を信じ、專ら帝國主義打破の標榜によつて支配國家への叛逆と各民族の自主的獨立とを援助し、以つて間接にこれを自家勢力の圈内に誘ひ込むといふ戰略を採つた。この目的のために、勞農ロシアが今日まで最も熱心に力をこめたものは、近東及び中東諸國、即ちトルコ、ペルシヤ、アフガン及び印度の四ケ國であつた。これらのうち前四者に對してはその支配勢力たるイギリスへの反抗を刺戟し、民族自主の實現を促した點に於いて、勞農ロシアの努力は相當の成績を収めたが、トルコに於けるケマル・パシアの蹶起は民族自主の軌道を文字通りに進行して、國家主義の樹立に到達し、赤化帝國主義の木乃伊とりを却つて木乃伊にしてしまふやうな皮肉の結論を示した。

ペルシヤ及びアフガンも、大體に於いて同樣の傾向を示すに至つた。印度に對しては、赤化の可能最も多きに拘らず、茲ではイギリス政府の警戒嚴重を極めて水も洩らさず、流石の勞農帝國も氣ながに出直しの機會を待つほかはなくなつた。

要するに、近東及び中東方面の赤化進出は思ひのほか困難であつて、對英反抗心と民族的自覺の喚起とは幸ひに功を奏することがあつたとしても、その結果は、兎もすれば勞農帝國本來の所期とは背馳した方向に進展して行く傾きがある。そこで勞農ロシアは方向を一轉して、極東方面にその民族政策的赤化帝國主義の鋒鋩を集中するやうになつた。

極東に於いては、從來でも滿蒙、支那本部、朝鮮等に對する赤化宣傳は相當旺んに行はれてゐたが、近東及び中東方面の苦き體驗以來、頓に極東への鋒鋩を鋭くしたことは疑はれぬ。殊に、支那に對する食ひ込みは極めて根強く深刻であつて、支那に於ける近時一切の排英運動も、北伐軍の擡頭進出もその背後にあつて勞農帝國主義が直接絲を曳いてゐることは公然の祕密である。ただ、下手をまごつくと、茲でも亦、木乃伊とりのロシアが却つて木乃伊にされる虞れがないでもない。木乃伊とりのロシアを木乃伊にするか、それとも支那みづからロシアの木乃伊にされるかは、一に懸つて自覺支那の聰明と決意の如何にあることだ。

新たに生れ出でんとする支那國家の將來を擔ふべき人的要素は、勞農ロシアの奴隷たることに甘んずるが如き共産主義盲信の徒ではなく、勞農ロシアの帝國主義的野心をも逆に利用して、支那國家確立の肥料たらしめんとする氣魄と識見とに富んだ純眞の愛國者でなければならぬ。ロシアに愛國者レーニンが出た如く、支那も亦支那それ自身のムツソリーニを生み、ケマル・パシアを生むことに成功しない限り、たとひ列強帝國主義の覊絆からは首尾よく脱出し得たとしても、遂には勞農帝國主義の食ひ物となる運命を免れることは出來ぬであらう。

勞農ロシアの極東政策は、支那に於ける勞農勢力の確立を主たる目的とするものであるが、この目的を達成するためには滿蒙一體を擧げて勞農帝國の支配下に置くことが必要である。けれども滿洲には日本の勢力が張つてゐるから、うかとは手が出せない。そこで露領シベリアと直接隣接してゐるところの蒙古を先づ手に入れ、一面滿洲に魔手を伸ばしつつ、支那本部を意の儘に料理して行かうといふのである。シベリアから北京に達するには蒙古を經由することが最も近道であるのみでなく、蒙古はまた東、滿洲に通じ、西、新彊に接して、政治上これらの各地に勢力を張る上にも極めて便利な位置を占めてゐる。

勿論、ロシアが蒙古を併呑しようとする熱望は、單にかかる地理的位置の上からばかり來てゐるのでなく、蒙古それ自身としても相當重要な資源を提供してゐる。

蒙古は面積百三十六萬方哩もあつて、一般に不毛の土地といはれてゐるが、牧畜に適した地方も可なり多く、農耕採木にも適し、加ふるに砂金を産出することも少くないから、ロシア人は茲に移住して本國から織物、諸雜貨を輸出し、この地から家畜獸皮その他を本國に輸入することが出來る。ロシアが蒙古に垂涎する一半の動機は、かかる經濟上の理由からも來てゐる。

兎に角、これらの動機から、ロシアは今や蒙古を事實上の屬領としてゐるのであるが、一概に蒙古といつても外蒙古と内蒙古とでは事情を異にする點があり、ロシア勢力の扶植に於いては外蒙古の方が遙かに進んでゐる。ロシアの野心は、蒙古一帶を打つて一丸となし、いはゆる蒙古聯盟なるものを確立して、茲に極東赤化の本源を完成しようとするにあるらしい。が、内蒙古は地理的位置の上から滿洲に接近し、早くから滿洲朝廷に服從してゐたが、外蒙古の親露傾向は殆んど傳統的ともいふべきものであつて、一六八八年外蒙古が滿州朝廷に服するやうになつてから後も、ロシアに對する尊崇には何等動搖がなかつた。

そこでロシアも亦、外蒙古を手に入れることはさして困難でないと信ずるやうになつた。勞農ロシアは外蒙古のこの傳統的親露感情を利用して、その内部に赤化の魔手を伸し、いまでは事實上完全にこれを自家藥籠中のものとしてしまつたのであるが、表面上は矢張り支那の領土たることを認めたやうな形にしてある。この邊、ロシアのやり方は極めて帝國主義的に惡辣であつて、獨立の形で豫めこれを自己の事實的屬領となして置きながら、一面支那に對しては依然たる外蒙宗主權を認めるといふ態度を採つてゐる。

外蒙古に對する勞農ロシアの赤化經營は後に述べるが、一九二一年の外蒙獨立宣言は全くロシアの尻押しに成つたものである。この獨立宣言の後、一九二一年十一月五日モスコーに於いて露蒙修交條約なるものが締結された。この條約に依ると、勞農政府は明らかに外蒙古の獨立を承認してゐる。しかるに、一九二四年三月十四日カラハン顧維鈞間に調印された露支協定を見ると、その第五條に於いて明らかに蒙古の獨立承認を取消してゐるのであるが、それにも拘らず前記の露蒙修交條約は依然その儘にしてある。つまり蒙古に對しては、お前は立派な獨立國だといつて置きながら、支那に對しては蒙古の獨立を否認してゐるわけであつて、第三者から見ると何が何だか薩張り解らないのであるが、ロシア自身にして見ればこれが頗る要領を得てゐる。要するに、かうして置いて、結局は身も骨もその儘そつくり掻つ攫つて行かうといふ腹なのだ。

一九二三年、勞農ロシアは外蒙古の北境ウヱルフネヂンスクを首府とする地方一帶を中心にして、ブリヤート蒙古自治共和國を建設せしめ、これをロシア社會主義サウエート聯邦共和國に加入せしめた。バイカル湖附近イルクツカヤ縣に住するブリヤート人は約十一萬、ザバイカル州に住する者は約二十三萬であつて、總數三十四萬人に及ばないが、前者は早くからロシア文化に浴し、勞農政府樹立後は率先してその麾下に馳せ參じた關係上、勞農政府は先づ彼等を動かして遂にブリヤート蒙古共和國を建設させたのであるが、これには深い魂膽があつた。即ち茲に確立した自治共和國を媒鳥とし策源地として、外蒙古一帶に手を伸ばさうといふ計略であつた。

これより曩、勞農政府はウンゲルン軍に逐はれた蒙古亡命客をウヱルフネヂンスク及びイルクツク兩市に招待し、これを露國民たる蒙古人ブリヤート人等をも加へて蒙古國民黨なるものを組織せしめ、この團體の活動を通じて蒙古の獨立を行ひ、以つて全蒙にわたるロシア勢力の扶植を徹底せしめようとした。この運動は燎原の勢を以つて發展し、一九二一年設立當時には黨員わづかに百五十を算したに過ぎなかつたが、一九二三年には二千五百六十人、一九二四年には四千人となり、一九二五年には既に七千人を超ゆる盛況を呈した。

この團體の組織は第三インターナシヨナルに模つたもので、各地の代表者百三十人より成り、國民黨議會なるものを機關とし、中央執行委員會を設けてこれが最高執行機關としてゐる。中央執行委員會は三十名の委員から成り、國務總理以下各閣僚の指名權を握り、國務會議の決定をも否認し得る權能を附與されてゐる。その牛耳を執る者は、言ふまでもなく共産主義者であつて、國民黨議會の名譽議員たるロシア人ワシリヱフなるものがブリヤート人リンチノ等を手先として一切の切廻しをしてゐる。曩に述べた一九二一年の蒙古獨立革命も、これらの共産主義者が中心となり、勞農ロシアの尻押でなし遂げたものであるから、この獨立が全然ロシアに隷屬せんがための獨立であつたことは蔽ふべくもない。

蒙古國民黨が勞農政府の差金に依つてでつち上げられたものであることは上述の通りだが、その構成分子は最初から共産主義者のみであつたといふわけでない。獨立のための獨立といふ理想に燃ゆる純眞の愛國者も、少からずこれに參加してゐた。けれども黨内に於ける共産主義者の勢力が伸張するにつれて、これらの愛國者は片ツぱしから彈き出された。

共産黨の彈壓に拮抗すべく彼等の實力は餘りに微弱、彼等の識見は餘りに不透明であつた上に、四圍の事情もトルコやペルシヤの民族主義に於けるほどに有利でなかつた。これがため、彼等の民族運動は結果に於いて全然ロシア勢力扶植のための看板と肥料に利用される形となつた。

初め黨内にあつて熱心に活動してゐた者も、一度び勞農帝國主義の野心遂行に對して邪魔になると見做されたが最後、遠慮なく黨外に彈き出されてしまふ。それのみか、國民黨創立者の一人にして嘗ては國民政府の首相の地位に上つたボドーを初めとして、内務總長ブンツク・ドルヂー、司法總長トフトホの如き有力なる黨員十五名は、反革命陰謀に加擔したといふ廉で共産主義者のために銃殺されたといふ事實もある。それは一九二二年秋のことであつたが、最近に於いても、國民黨創立者の一人にして國民議會の議長なるダンザン及びその參謀ババサンの兩人は勞農ロシアの驅使に甘んじない程の愛國者だといふところから、これまたロシア政府の使嗾に依つて銃殺された。

要するに、蒙古國民黨なるものは、民族主義の假面を被つた勞農帝國主義の傀儡であつて、蒙古一帶にロシア勢力を瀰漫せしめんがための一手段たるに過ぎぬものとなつてしまつた。それに、この國民黨の別働隊として、いま一つ、青年共産黨なるものがある。これは二十五歳以下の共産主義者約三千人を以つて組織され、直接政治に關係することはないが、國民黨赤化の發電所として、また異分子剿絶の戰鬪的團體として、ロシア政府の公然たる手先を勤めてゐる。ロシア政府はまた、蒙古に於ける權力を永久に維持する目的で、クーロンに歩兵一個聯隊騎兵一個聯隊を駐在せしめてゐるが、これだけの兵力では外蒙古全體を鎭壓するに十分でない故、最近、軍官學校を設けて蒙古士官を養成し蒙古人を教練して約二個師團を組織せしめた。

蒙古に對する鐵道敷設も亦、勞農政府年來の計畫であつた。最近の報道に依れば、勞農政府はこの計畫の第一着手として、先づシベリヤ鐵道の一都府ウヱルフネヂンスクからキアクタ經由、外蒙の中心クーロンに達する鐵道の敷設計畫に着手し、既に諸種の材料を送つて、着々工事を進めてゐるとのことである。この鐵道計畫の實現に依つて、勞農ロシアがいよいよ外蒙一帶に對する通商上竝びに政治上の實權を確立し、進んで支那内部への政治的進出を露骨にして來たことは疑ひを容れない。

元來、ロシア政府はキアクタから張家口に至る鐵道敷設の豫定計畫を立ててゐたので、右のウヱルフネヂンスクからクーロンに至る鐵道計畫はこの豫定線の一部に過ぎぬ。そこでキアクタ・クーロン間線の落成を見た曉には、ロシア政府としては必らず過去の條約上の權利に基いて北京及び蒙古政府に對し、クーロンより張家口に至る鐵道敷設權を要求して、ウヱルフネヂンスクから一路北京に至る直通線を實現することになるであらう。かくしてロシアは一方に、支那中央に對する貿易上の通路を開くと共に、他方、支那政局に對しても直接の接觸を保つ位置に立つであらうことは、十分に豫測し得るところである。

勞農帝國主義の進出は、單に外蒙古のみでなく、進んで内蒙古にも食ひ入つて來た。茲でも運動の好餌に利用された看板は、お定まりの民族獨立である。この看板を餌として、外蒙古同樣の國民黨組織運動を起したのは一九二三年頃からであつたが、これには支那國民黨内で養成された急進的青年も加はり、一九二五年には黨員三百名、候補黨員三千名を算するに至つた。同年十月、第一回内蒙國民大會を張家口に開催し、外蒙古政府や廣東政府の代表もこれに參加した。馮玉祥も亦、その代表を送つた。彼れの國民軍と内蒙國民黨運動との間には、極めて密接な關係があつた。隨つて、一九二五年秋、郭松齡が奉天軍に對して叛旗を飜したときには、内蒙國民黨は狂喜してこれを迎へ、その成りゆきに非常なる希望を懸けてゐたのであるが、叛軍の慘憺たる敗北は、内蒙赤化の機會を少くとも一時的に葬つてしまふ結果となつた。彼等の信頼してゐた國民軍は北京を退き、張家口を棄てて、遠く甘肅省に撤退し、それと同時にまた、奉天政府の勢力が内蒙一帶に蔓つて來た。

かやうな有樣で、内蒙古に對する勞農勢力の進出も一時停頓状態に立つことを餘儀なくされたのであるが、ロシアは決してこの方面の運動を斷念したわけでないから、將來機會ある毎に再び擡頭し來たることは疑ひを容れぬ。勞農帝國主義の蒙古聯盟計畫は單に外蒙及び内蒙を包括するのみでなく、例へば滿洲の西北角に位して、東は興安嶺西は黒龍江の支流額爾古納河を以つて包圍せられる呼倫貝爾の如きも、その豫定計畫に含まれてゐることは明らかである。この地は面積約五萬五千萬方哩、土地は概ね荒蕪であるけれども、採木採鑛に適し吉拉金鑛や札頼諾爾炭鑛の採掘權はロシア人の手に歸して居り、また呼倫及び貝爾兩湖竝びに額爾須河に對する漁業權の大半も、ロシア人の占むるところとなつてゐる。

この地の宗主權は、歴史的にロシア及び支那兩國の間を絶えず轉々して來た。が、一九一三年ロシアとの間に締結された協約に依ると、完全なる自治が認められたことになつてゐる。その後、ロシア革命が起つて、東方を顧みる遑がなくなつた隙に乘じ、支那はこの地の自治を取消して、督辨呼倫貝爾善後事宜公署なるものを海拉爾に置き、これを統治したが、土人は依然として自治を要求してゐた。この要求に乘じて、勞農ロシアは茲にも亦、外蒙古同樣の民族運動を煽動して、同地一帶を蒙古聯盟計畫に引き入れようとしてゐる。この目的のため、最近國境に赤軍を移動し、呼倫貝爾駐在の支那文武官に贈賄するなど、あらゆる苦肉の策を講じてゐるとのことであるが、若しこの策謀が成功するとすれば、その影響の及ぶところ遂には滿洲をも勞農勢力圈内に拉致して行くことがないとも限らぬ。

滿洲といつても、南滿には日本の勢力が確立されてゐるから今のところ策の施しやうもないであらうが、帝政時代滿洲經營のために敷設した東支鐵道に對しては、舊ロシア政府の下に獲得した一切の權利及び利益を無報酬で支那に還附するといふカラハンの聲明があつたにも拘らず、勞農政府は斷じてこれを手放さうとしない。東支線の從業員は現在一萬二千五百人に達してゐるが、その大半(約一萬)は赤露系の分子に依つて占められ、沿線一帶にわたつて赤化帝國主義の魔手を擴げてゐる。と同時にまた、これらの從業員中には變裝した軍人をも加へ、彼等を基礎として自衞團なるものを編成せしめ、住民保護を名として沿線各地に於ける勞農勢力の扶植を武力的に徹底せしめようとしてゐる。この自衞團は相當武裝されてゐるものらしく、團員は現在一千名を出でないが、今後ますます増加されて行く模樣である。

以上は滿蒙に於ける勞農帝國主義進出の概況であるが、轉じて支那本部の状況如何と見るに、茲では廣東政府の擡頭といひ、最近に於ける北伐軍の飛躍的進出といひ、英國勢力の驅逐といひ、西北國民軍の確立といひ、いづれも表面上は支那自身の國民的自覺の表現たることを看板とし、事實上にもその意味が過分に含まれてゐることを拒み得ないとはいへ、背後にあつて絲を曳いてゐるものが勞農帝國主義である事實は蔽ふべくもない。

だから、假りにこの運動が豫定の筋書通りに成功して、イギリス以下列強帝國主義の干渉を悉く支那から驅逐し得たとしても、その曉には代つてロシアの帝國主義が支那を支配する如き結果を來たさないとも限らぬ。つまり、前門虎を防いで後門狼を入れるといふ筆法だが、さうなるもならないも一に自覺支那の覺悟と聰明と實力の如何に懸ることだ。支那にとつては、今こそ最も重大な時期である。

北伐軍の由來を説くには、國民黨の由來を明らかにすることが順序であり、國民黨の由來を知るには、その創立者たる孫文の名を逸するわけには行かぬ。孫文は辛亥革命の元勳であつて、社會改造上にも極めて進んだ意見を有ち、これに共鳴する學者、青年も決して少くなかつたが、何分にも軍事上の實力に乏しく、外はイギリス政府の妨害と、内は北洋軍閥の壓迫とに挾撃されて、久しく廣東の一隅に跼蹐することを餘儀なくされてゐた。しかるに、勞農ロシアが支那に魔の手を伸ばさうとするに當つて、先づ目をつけたのは、この孫文である。即ち、彼れの三民主義なるもののうちには、共産主義の理論と相共通した要素を少からず含んでゐるといふところから、これを餌として巧みに彼れを勞農ロシアの味方に誘ひ込んだのである。

孫文と勞農ロシアとの提携に機會を與へたものは、彼れの幕僚廖仲愷であつて、この男が一九二二年夏、熱海に靜養中のヨツフエを訪れて共産主義の洗禮を受けたのが、そもそも始まりであると謂はれてゐる。けれども、彼れがヨツフエを訪れるについては、前以つて孫文の諒解があつたとすべき理由があるから、この訪問は寧ろ孫文側からロシアへの接近を持ちかけたものであつたかも知れぬ。

いづれにしても、この時以來兩者の間に密接な結合が成立した事は事實であつて、それから間もなく、孫文の片腕として陸軍參謀長として名聲嘖々たる蒋介石が露都に趣き、續いて一九二三年十二月ロシアからは問題のボロヂンが廣東に乘り込んで來た。彼れはモスコー政府から、二つの使命を託されて來た。一は軍官學校の建設援助、他は國民黨内への共産黨割込み、これである。彼れはその後二年足らずの間に、この二つの使命を完全に果した。國民黨及び廣東政府をして今日あらしめたのには彼れの怪腕が與つて最も力あつたといはれてゐる。

孫文は支那革命の元勳であつたが、直屬の軍隊を有たず、つねに雲南廣西などの落武者たる客軍に依頼してゐた。勞農ロシアとの提携が成立した當時、廣東の客軍はいづれも建國軍と稱してゐたが、その出身各省に從つて夫々獨自の編成をなし、他方民の租税を壟斷して横暴いたらざるなき有樣であつた。軍隊としての素質は勿論劣惡であつて、金錢のためにはいつ鉾を逆しまにするかも知れぬといふ利益本位の烏合の衆であつたから、流石の孫文もこれには大分手古摺らされたものである。

そこで、この客軍制を廢して、眞に主義主張のために戰ふところの精英的手勢を養はうといふことが、孫文の宿志であつた。そこへちやうど、ボロヂンの來廣に續いて、露都に行つてゐた蒋介石が歸つて來た。彼れはロシアで赤軍の組織編成を實地目撃し、その優秀なる成績に動かされて來たものであるから、茲に急遽革命軍士官養成の議が纏まり、一九二四年廣東下流十六哩の黄埔に、國民黨軍官學校の看板が掲げられた。

この學校の設立について、勞農ロシアが多大の援助を與へたことは言ふ迄もない。ガロン將軍以下十數名の將校が教官として、ロシアから派遣された。ボロヂンも亦、その名譽教授となつた。かくして、一九二四年五月五日に第一期生五百名を募集してから、昨年二月迄の間前後三回にわたつて供給された卒業生正に一萬人を下らないといはれてゐる。北伐軍はこれらの卒業生を中樞として編成されたもので、蒋介石を總司令となし、ボロヂン初め多數のロシア人共産主義者たちがその帷幄に參與してゐる。總司令部の指揮に服する廣東軍は、六軍團約二萬五千人であつて、これが北伐軍の中堅となり、それに廣西、湖南、湖北、江西、貴州等各地の軍隊が所屬し、總兵力十萬を超えてゐるとのことだ。總司令部には軍事部のほかに政治部も附屬してゐて、共産派中の最左翼たる鄧演達がその主任となつてゐる。

軍官學校に對するボロヂンの使命はかくして見事に果たされたわけであるが、一方、國民黨内への共産黨割込みについても、これまた豫定以上の成功を見た。支那共産黨が初めて北京に設立されたのは、一九一八年の春であつた。勿論、當時の組織は極めて不完全なもので、獨立の一黨たるに相應しい内容も實力も殆ど備つて居らなかつた。その後、陳獨秀や李大釗などの奔走で幾分の黨勢伸張を見たとはいへ、近世工業の發達幼稚にして勞働者組織の進まざる支那に、共産黨單獨の運動を以つて鞏固なる地歩を固めることは到底望むべくもない。

そこで南方に傳統的の潛勢力を有する國民黨に渡りをつけて、これを内部から共産主義化して行かうといふ方針を採るに至つた。ヨツフエが上海で國民黨の領袖と會つたとき、頻りに國民黨内への共産者抱擁を慫慂した所以も茲にある。ボロヂンも亦、ロシアの援助を得る條件として廣東政府が共産黨を容るべきことを極力主張した。孫文はこれに贊成であつたが、國民黨内にはそれを喜ばぬ分子も少くなかつた。かくては、國民黨の信を天下に失墜することにもなり、かたがた國民黨の屋臺をその儘共産黨に乘つとられてしまふ虞れがないでもないといふのであつた。

この形勢を早くも見てとつたボロヂンは、先づ國民黨内の輿論を共産黨進出のため有利に展開せしめる必要を感じ、その一策として、かねて國民黨内に萌してゐた廣東閥と非廣東閥との暗鬪に乘じて、孫文直系の廣東閥に金錢や、武器や、彈藥やを供給し、非廣東派の頭目李烈鈞一味の勢力を挫くことに全力を盡した。

また、中間派の頭株をも次第に黨内から驅逐し、遂には汪兆銘、蒋介石等と三角同盟をつくつて廣東政府を支配した上に、蒋介石を使嗾してクーデターを行はしめ、以つて廣東に於ける反共産派の勢力を一掃しようと圖つた。けれども國民黨内に於ける反共産的傾向の擡頭は、一九二五年三月孫文の逝去以來ますます露骨となり、同年八月には共産派の頭目たる廖仲愷暗殺され、同年十二月北京に集つた右翼派國民黨員は、公然と共産主義者排除、ボロヂン以下露人顧問の解傭を決議した程であつた。ボロヂン等が急遽北伐軍を起さしめた腹の底には、これに依つて共産派に對する黨内の不平を外に向はしめんとの魂膽も働いてゐたことは疑はれぬ。

北伐軍は破竹の勢を以つて、湖南を破り、武漢を突き、長驅して江西を陷れ、南京を襲ふといふ空前の戰績を示したのであるが、これには上記軍官學校設立援助のほか、武器彈藥等の供給についてロシア側から與へられた援助が與つて力あつたことも想像するに難くない。勿論、この方面の事實は特に祕密に附せられてゐるから、正確の計數を以つてこれを示すことは困難であるが、一説に依れば一九二四年末から最近に至るまで、勞農ロシアから支那に供給された武器は西北國民軍に對する分をも總計すると、小銃約十四五萬丁、大砲約四百門に上り、その他これに相應した量で彈藥、機關銃、飛行機も供給されたとのことである。また軍資金としては、年々四千萬ルーブル見當の金額がロシアから供給されて居り、その少くとも三千萬ルーブルは廣東政府に交附されてゐるといふ説もある。

更に、蒋介石がモスコー滯在中にロシア政府から六百萬元の借款を與へられたといふ説もあれば、最近に至り馮玉祥の西北國民軍が三百萬元の借款を受けたといふ風説も傳はつてゐる。また昨年八月末、露支兩國間に外蒙鐵道二線を敷設すること、サウエート聯邦政府は西北軍に毎月十萬ルーブルを供給すること、帝國主義國家とサウエート聯邦とが開戰した場合には、西北軍は全軍の三分の一を出兵して、サウエート側を援助し、支那と帝國主義國家との間に戰端が開かれた場合には、サウエート政府は四萬の兵を出動して支那を援助すること、等の密約が結ばれたといふ風説も傳へられた。

これらの計數に現はれたところでは、物質的方面の援助がさまで甚だしいとは思れないが、人力の供給に至つてはなかなかそれどころでなく、一九二四年ボロヂン以下百五十名の顧問を廣東に派遣し、それが今では二百名近くに増員されて、いづれも政治、軍事教育、等各方面の重要なる樞機に參畫してゐる。

勞農ロシアの支那進出は單に廣東北閥軍方面のみでなく、馮玉祥の率ゐる西北國民軍をも今では完全に共産主義化してしまつた。馮玉祥がロシアとの特殊關係を結ぶに至つたのは、ヨツフエの北京滯在當時からであるといはれてゐるが、一九二四年十月のクーデター前後から、この關係が特に具體化して來たことは疑ひを容れない。

元來、馮玉祥といふ男はクリスチヤン・ジエネラルといはれるだけに大した主義も主張もない俗物で、キリスト教的功利主義で固めた權勢慾の權化として以外には、殆ど取り柄のない人物らしいが、この男、第二奉直戰では見事に多年推服する如く見せかけてゐた支那唯一の人格者呉佩孚を裏切つて、北京に三日天下の快感を貪ることが出來た。しかるに、奉直戰に勝つた張作霖は、部下の李景林を天津に向けて、國民軍の海外交通を遮斷してしまつた。これがため、國民軍は海路に依つて外國から武器彈丸の供給を受けることが出來ず、厭でも應でもロシアの手に縋るのほかはなくなつた。この形勢は郭軍の敗北後ますます甚しくなつて來た。

郭松齡の叛逆が、馮玉祥の使嗾になつたことは、言ふまでもない。馮といふ男は、火事泥か、裏切りか、さもなければ他人の褌でばかり商賣しようとしてゐる。それが崇つて、郭軍の敗北後は北京にも居たたまれず、遠く西北方面に退却することを餘儀なくされた。かういふ形勢が、彼れをしてますますロシアの手にたよらしめる手引となつたのであつて、もともと孫文及びその一派の如く主義主張の共通を感じてロシアに接近して行つたものではない。

が、この日和見將軍も、いよいよロシアの手に縋つて一九二六年春モスコーに赴いてからは、まるで主義者かぶれの海坊主となつてしまひ、『眼前の形勢は、明らかに支那の將來がプロレタリアの勝利に歸結することを信ぜしめる』などと、一つ覺えの主義者的口吻を弄んで得々たる有樣となつた。

しかし、帝國主義ロシアの方からいへば、海坊主だらうが、蛸入道だらうが、そんなことは一向に頓着すべき筋合のものでない。一つこの蛸坊主を唆かして國民軍を盛り立て、これを南方の廣東軍と結合せしめようといふのが、ロシアの腹であつた。かくして一九二六年九月、勞農ロシアは綏遠の五原に馮玉祥を中心として國民軍大會議を開かしめ、馮をその聯合總司令に戴いて、廣東軍と同一旗幟の下に南北相呼應して勞農帝國の御用を勤めしめることにした。

それには、國民軍と國民黨との接觸をもつと緊密にして置く必要があるといふので、國民軍の李鳴鐘及び徐謙を廣東に派遣せしめ、國民黨本部に向つて國民軍の總括的入黨を申込ませた。國民黨は直ちにこれを受理し、馮玉祥を擧げて正式に國民軍政府委員及び國民軍總代表に任じた。かくして蒋介石と馮玉祥との間には、今や完全なる諒解及び結合が保たれ、ゆくゆく國民軍は長江以北を、廣東軍は長江以南を分擔し、支那全土を擧げて國民黨の天下にしようといふ默契が成立したと傳へられてゐる。

が、ロシアに對する態度の點では、國民軍及び廣東派兩者の間に多少の相違がないでもない。廣東派といつても、一概にはいへないが、少くとも、今以つて全然共産主義には行き切れない蒋介石などに比べると、馮玉祥一派の方が形だけにしろ遙かロシア的に左傾した趣きが見える。けれども將來若し、馮玉祥一派に見られるやうな盲目的本能を軌道として支那の國民的運動が展開されるとすれば、支那の運命は明らかに外蒙古の轍を踏むものであつて、前門に列強帝國主義の虎を防いでも後門からはロシア帝國主義の狼が大手を振つて闖入し、支那の自主的抱負を紙屑のやうにしてしまふことは見え透いてゐる。

ロシアを生かすものは、民族主義又は國民主義の餌を以つて極東一帶に勞農帝國主義の魔手を伸ばすことであるが、支那を生かすものは、支那それ自身の國民的確立でなければならぬ。列強帝國主義の驅逐も、この自主的努力の現れに過ぎないのである。そのためにロシアが力を藉すといふなら、その援助は有り難く頂戴して置き、それはそれとして、支那は支那のための支那だといふ行き方に猛進せねばならないと思ふのだが、果してさういふ形に事態を進展せしめ得るかどうか。

目下來遊中の國民黨領袖戴天仇は、支那の國民運動にロシアの後援があることは拒まぬけれども、それは決して支那を共産主義化せんがための運動ではないといふことを強調した。若し果してこの言明の通りであるとすれば、支那のため寔に結構なことだとは思ふが、さういふ口吻は、實をいふと、ボロヂン一派でさへ洩らしてゐるところだ。即ち彼等は曰く『廣東政府はロシアの共産主義に共鳴してこれを支那に鼓吹するために、ロシアの援助を受けてゐるのではない。ただ、國民革命を遂行するために、ロシアを利用してゐるといふに過ぎぬ。必要がなくなれば、いつでもロシアと手を切る。我々はただ、孫文の三民主義を金科玉條として、その實現に全力を盡してゐるに過ぎぬのである』と。さう言ふ口の下から、彼等は共産主義に反對する者を片ツぱしから驅除しようとしてゐるのだから、これも結局は、他國の帝國主義に反對しつつ、ロシアだけの帝國主義を民族主義のオブラートに包んで弱小民族の口中にだまし込まふといふ、共産黨一流の例の社會奉仕的瞞着手段の應用とも見られる。赤化したとか、共産主義化したとかいはれるのは、國民黨として對内的にも對外的にも非常に損なことである。國民黨を通じて、支那を食ひ物にしようとたくらんでゐる勞農ロシアにしても同樣である。これがためには、ロシアも近東及び中東方面で再々苦い經驗を嘗めさせられて來た。だから戴天仇の言明にしても、その儘ではなかなかおいそれと現金では買ひとれぬ譯である。

さればといつて、國民黨右派の連中に見られるやうな、獨裁專制主義反對の立場から共産黨に楯つくといふ行き方も、一向感服できぬ。問題は獨裁主義かデモクラシーかといふやうな、そんなふやけた方面に在るのではない。支那それ自身のための國民的國家の自主的確立如何といふことが、最もさし迫つた問題なのだ。それが獨裁だらうが、デモクラシーだらうが、そんなことのために今のところ氣をもむ必要は少しもない。共産主義だけが獨裁の一手專賣所といふわけではなし、獨裁でなければ當面の支那獨立が救はれぬといふなら、それもそれで結構な話ではないか。

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