憲政常道の可能性

高畠素之

世渡りの道にかけては稀代の才人といはれる若槻禮次郎も、つひした多寡のくくり加減に誤算があり、思ひも設けぬ樞密院の毒殺で倒れねばならぬ破目となつた。三黨首會見で前門の虎をふせぎ、憲本聯盟で後門の狼に備へようとした作戰は、天晴れ原敬の榮華を再現しかねまじき勢であつたが、オバステ山の陷穿とは氣がつかなかつたものと見える。氣の毒といへば氣の毒だが、人の行末と鴨川の流れは昔から思ふにまかせぬ二大存在といはれたのであるから、これもやむを得ずとするのほかはあるまい。

かくの如く、若槻内閣の蹉跌はいかにも唐突であつただけ、後繼組閣の大命が何人に降下するか、しばらくは興味の中心となつてゐたやうである。筋書どほりの圓滿辭任なら、かうした興味を刺激するに至らずして結果は明瞭だつたらうが、動機が動機だけに、まつたく豫測を許さぬといふのが實際の事情だつたやうに思はれる。ところが、思ひ思ひの豫測に裏切るか適中するかして、田中義一がこれを拜受することになつた。田中内閣の出現に對して、政友會と張作霖が欣喜雀躍したことはいふまでもないが、一般の人氣もまた、それが憲政の常道だといふので歡迎し、少くとも、積極的な抗議をはさむものは見うけられなかつた。のみならず、これを奏請した西園寺公望までが天晴の殊勳者らしく持ち上げられ、尾崎行雄の言草ぢやないが最近の美事善行なるかに取沙汰されてゐるのである。考へてみれば、なぐられ損の清瀬一郎ばかりはいいツラの皮であつた。

咽喉元すぎて熱さを忘れる大和魂もさることながら、如何にひゐき目にみても決して人望があるといへない田中義一が、單に衆議院における第二黨の總裁だといふ理由で、機密費も羊刀も無視して歡迎するのは、それが憲政の常道だからと考へられるところに存する。誇張していへば、如何に政治上の前科者でも被告人でも、第二黨總裁たる事實によつて一切を帳消しにして悔いない一般的心理が、輿論の形式で反映したればこそである。そこに自らなる時勢の推移を發見すると共に、看板によつて實體を引きずつて行く徑路を達觀することが出來る。以下すこしく、門外漢の政變觀を中心にして、這般の消息を瞥見してゆきたいと思ふ。

教科書的政治學の教ゆるところに從へば、政黨の存在は國政運用の便宜に基づくといふ。物もいひやうであるから、さうした定義も立てて立て得ないわけぢやないが、少くとも現在の政黨を對象として論ずるかぎり、全然の虚僞でないまでも多分の虚飾を藏してゐる。政黨は洋の東西を問はず、政權の獲得を唯一最大の目的とした利益集團である。中には共産黨と稱する場ちがひの政黨もあつて、ブルヂオア議會の内部的攪亂などとキイた風の理屈を竝べてゐるものもないではないが、これは最初から政權希望に見すてられてゐるため、及ばぬ戀の遠吠をするやせ犬の所業にひとしい。隨つてもし、頭數的條件が政權希望に多少でも接近し得るやうになれば、本來の馬脚を露はすべきことは彼等の異母兄たる社會黨の實例に徴して明瞭である。

政黨がすでに政權獲得を目的とする以上、彼等の理非曲直にかかはらざる努力が、すべてこれに向つて集中されるのは當然である。いふまでもなく議會政治は、夜店のミカンなみの多數政治であるから、議會におけるこの數學的事實を完全に確保し得れば問題はない。そこで最も常識的な方法としては、投票的多數を掻集めることに政黨の最初の努力は拂はれてゐるが、不幸にしてその多數を得られなかつた場合には、人爲的に少數と少數を組合せて比較的多數の形成し、もつて政權機會に一歩でも近づかうとする努力が拂はれる。

歴史的反對黨たる政友會と革新倶樂部が合同したのも、憲政會と政友本黨が聯盟したのも、ひとしくその打算から出發したのであつた。隨つて政爭は、どこまでも陰性なることを特色とし、ただそれを如何にも正々堂々らしく見せかけるため、むしろ裝飾的必要のために、政策を掲げて公明らしく振舞ふにすぎない。政黨の掲ぐる政策なるものはその意味で、狗肉屋の看板たる羊頭と解して、少しも差支へなく、政策を實行するための必要から政黨が存在すると考へるのは、まつたく本末を顛倒した解釋である。即ち政權を掌握して十分に支配慾を充たし、更にこれに伴つて生ずる物質的利益を享樂するために政黨の離合集散が決定されるのである。

憲政常道論のお題目は同樣にして政黨による政權の壟斷を修飾する言葉として考案されたものである。

元來議會政治なるものは、これが最初の解説者モンテスキユーの唱破せるごとく、新興の商工階級が舊來の貴族階級から政權を奪取するために考案した制度である。國民の輿論を反映せしめるといふやうな理屈は、むしろ内面の野望をさうした巧言令色で誤魔化さんがために用ゐられたもので、今日といへどもその事實は三ツ兒の魂として殘存してゐる。政黨の幹部專制はかかる馬脚の露出である。ただ同じ少數專制でも、貴族のそれは民衆の利害と如何にも關係が遠いらしく考へられ易いに反し、政黨のそれは表面上の理屈だけでも、どうやら身にちかく利害を代表するらしく吹聽し、巧妙な詐術を用ひて民衆を錯覺せしめ易い理論を有するところから、あだかもそれが國民の意思を直接に代表するかの如く考へられ、同時にそれが時代に認容される理由ともなつてゐる。しかし實體は、貴族たると政黨たるとを問はず、いづれも專制たることに甲乙は存しない。

甲黨から乙黨への政權移動が、一の專制から他の專制への移動を意味するかぎり、國民そのものにとつては甲の藩閥から乙の官僚への政權移動と何等の違ひも存しないのである。しかるに一方は憲政常道として歡迎せられ、他方は憲政逆轉として拒否せられるといふのは、兩者の時代に對する適應性の相違とみるより、兩者の宣傳術の優劣性に歸すべき部分が多い。

政黨は今もいふとほり政權獲得を唯一最高の目的とする利益集團であるから、出來得べくんば一黨による政權の獨占を希望してゐる。しかし事實において、あらゆる複雜な利害關係を同時に滿足せしめることは不可能なるを以て、可及的少數の範圍において政權の授受を暗默に約束し、外來者の侵入を共同の敵として排撃せんとする心理に傾かしめる。この心理は政黨相互の極端な排他的傾向にもかかはらず、來るべき日の熟柿を待つ打算に一致し得るところから、いはゆる憲政常道論の常套句となつて喧傳せられてゐるのである。フグは食ひたし命は惜しし反對黨に政權の城を明渡すことは何よりのしやくの種でも、中間のトビに油揚をさらはれまい用心から、口の先だけでも憲政常道の題目をとなへて他日の熟柿を待つ心理は、一樣に黨人を支配して來たところのものである。

若槻内閣が倒壞して田中内閣が成立するまで、恐らく憲政會としては本黨との聯立内閣か、純本黨内閣か、あるひは憲本聯盟を基礎とする中間内閣かを希望し、神佛に祈願をこめても政友會内閣の出現を邪魔したかつたに違ひない。しかし一度、田中義一に大命降下せりと見るや、口をぬぐつてそれが憲政の常道であるといふ意味から、積極的に歡迎しないまでも消極的な抗議を發する者さへなかつた。彼等が本心を裏切つてまで憲政常道の泣き笑ひをしなければならぬといふのは、それもこれも平素の心柄で、かつて政權をさらはれた腹いせに憲政常道論を高唱した手前、いかに何でも手の裏をかへすわけに行かなかつたのであらう。いろは歌留多の文句ぢやないが、これこそ『うそから出たまこと』である。

實際、政治上の進歩發展といふものは、大抵はウソから出たマコトや、ヒヨウタンかた出たコマによつて決定されるのである。議會制度そのものさへ、發生的にはブルヂオアが政權を奪取する口實で考へ出したものだが、それが如何にも國民の輿論を代表するかに吹聽した手前、次第にプロレタリアにまで門戸を開放しなければならなくなり、どうやら今日では、曲りなりにも國民の輿論を反映させなければならぬ結果に立ち至つてゐる。同じことは政黨の政策に對してもいひ得べく、始めは單なる客寄せの手段だつたものでも、店の信用を維持しなければならぬ當面的必要から、羊頭に對しては羊肉を賣らなければならなくなり、ウソからマコトを甚だ多く放出してゐるのである。

憲政常道論のごときものでも、藩閥官僚の勢力が牢固として、抜くべからぬ當時は、青書生の革命談義よろしくの元氣があり、拍手喝采を購ふには絶好の題目であつた。從つてあらゆる超然内閣への叩頭にもかかはらず、當時の黨人が口をぬぐつて憲政論を説けば、萬更鬼の念佛とも思はれなかつたのである。しかし時勢が今日となり、有象無象の腦裏にまで憲政は常道でなければならぬと刻印されては、まさか冗談ですますわけにもゆかず、苦笑をかみことして敵黨總裁への大命降下を讚美するの餘儀なき事情を招いてゐる。彼等にとつては『招かざる客』であつても、かくして輿論の普及は行はれ、いはば政治的進歩を促す動力ともなるのである。

政黨者流の憲法常道論がいかに政權本位であるかの證據は、彼等の論題がつねに、組閣の資格だけを問題としてゐることにおいて明瞭である。例へば若槻内閣の暗礁となつた緊急勅令案に對する樞密院の態度のごとき、その法制上の職能と憲法上の解釋がどうあらうと、衆議院を基礎とする内閣を撲殺の結果に導いたものである限り、政黨は共同の問題として考究をつくさなければならぬはずであつた。彼等の憲政への渇仰が、その大聲叱呼するごとき民意の暢達にありとすれば、龍袖にかくれて何時でも陰謀を加へ得る樞密院の存在は、中間内閣の阻止や貴族院令の改革に先行して、何とか處置すべきが當然の理屈である。しかるに事實は、痩犬の遠吠なみにすら輿論が提起されず、觸らぬ神にたたりなしとの打算から一樣に沈默を守つてゐる。

思ふにこれは、時に味方を思はざる撲殺に導くことがある代り、逆用すれば敵をイビリ出す手段にも貢獻すべきところから、不言不語の間に樞密院利用の心理が、黨人を支配した結果だらうが、これなぞは憲政濟美の理想に對しては最初の障害たるべきである。ところが、かうした一切は棚にあげ、第一黨から第二黨への政權移動の原則のみを憲政常道と吹聽し、中間のトビを警戒する利害の一致點において愚夫愚婦を煙に卷くのは、黨人の狡智を表明した大べら棒といふのほかはない。

當の被害者たる憲政會にして、もし次の政權機會からまつたく見はなされたと知つたら、まさか樞密院の横暴を天災としてあきらめるはずもなからうが、待てば海路の日和があると打算すればこそ、敢てこの際は指をくはへて引き下つてゐるのである。いらぬ腕立てして後日の悔を殘さうより、天下泰平の常道論でお茶を濁しておいた方が、やがてわが身にさく花となるだけでも効果はあるべく、それが泣き笑ひなりに、田中内閣の出現を一應は歡迎させた彼等の底意である。

議會がはたして民意を代表するか否か、また果して代表し得るか否かはしばらく預りとして、少くとも形式だけの範圍では國民代表の機關と認められてゐるのみならず、豫算を成立せしめ法律を制定するには、是が非でも議會の協贊を經なければならぬ關係上、いかな超然内閣といへども議會の多數決に超然たることは、許されない。その意味からいへば、政府の主體が黨人だらうと官僚だらうとを問はず、民意を無視することは理論上できない相談である。同時に國民の利害關係から見ても、政黨内閣だから利益が暢揚され、官僚内閣だから害惡が助長されるといふはずもない。故意か無意か黨人は、この事實をまげて根本的に利害の背反があるかに強辯してゐる。即ち、憲政常道論がそれである。

政權が第一黨と第二黨との間を往來してくれることは、その獲得を中心目的とする政黨に取つては素より願はしき希望に違ひない。けれども全般的國民にとつては、政權の所在がいかなる勢力にあらうと直接關係するところでなく、寺内正毅の標語ぢやないが、善政さへ布いて呉れれば、それで滿足するのである。ただ、人間の淺猿しさで、自己が自己以外のものから支配されてゐることを意識したがらないため、曲りなりの屁理屈をこぢつけても、自己の支配は自己の意志によることを認識したがるところから、一種微妙な政治上のカラクリを成立せしめたのである。

政黨政治の成立はかうした心理の反映と見られる。自己の行使した投票結果といふ氣やすめにおいて、君臨する專制的實體が似ても似つかぬ鬼ツ子なるにかかはらず、目をつぶつて我慢することにもなるのである。その弱點を衝いた政黨は、政權壟斷の齒に憲政常道の衣をきせ、お爲ごかしに野望を充たさうとするのである。

政黨政治の歡迎が一種の氣やすめに由來したにしても、さうした氣やすめの追求が一般的事實である限り、それも時代適應の制度として是認せねばならない。しかもいふところの憲政常道論が、かかる政黨政治の運用的便宜に出發したといふ事實において、單なる狡智以上の必然性も是認しなければならないであらう。だが、政權に二黨交代もしくは比較多數黨移動の原則が、東西古今の時間的竝に空間的範疇を超越して行はれ得るかどうかは、いふまでもなく甚だ疑問とすべきである。

たとへば米國のごとき、社會黨なり農民黨なりの勢力が殆ど無力な國にあつては、共和黨と民主黨の相互交代による政務の運用は極めて容易である。それがフランスやドイツになると、十數個の小黨が亂立して壓倒的多數を占むるものなく、議席の數學的順位は、遙か下風に立つ共和社會黨のブリアンやパンルヴエや、或は人民黨のストレーゼマンや中央黨のマルクスや、いづれも多數黨の領袖ならざるものが組閣の事業に當面してゐる。

實際の便宜からいへば、二黨對立が立憲政治の最も望ましい形態である。が、あらゆる地理的、歴史的、經濟的、心理的等の要素によつて決定される政黨の離合集散は、少くとも佛、獨二國において實際の便宜を超越して小黨分立に傾向せしめ、教科書どほりの常道論を適用し得なかつたことを明證してゐる。

實業同志會や革新倶樂部を包括する日本の政情は、單獨組閣の實力を有する政黨がない意味で、英米的であるよりも寧ろ佛獨的であるのを特色とする。しかもこの佛獨的實體に對し、英米的形式を直譯しようといふのが常道論客の提案であると共に、元老西園寺公望の素志であるとも傳へられる。事實、議會の三分の一しか所有せぬ政友會總裁に對し、敢て後繼組閣の適任者として奏請したのは、西園寺公望の憲政常道を渇仰する牧歌的熱情と受取れるが、後が野となるか山となるかの考慮については、決して細心であつたとはいへないであらう。

道途の風説によると西園寺公望は、政權のタライまわしを自然天然に可能ならしめんため、元老の存在は彼れを最後の名殘りにとゞめたい意向だといふ。その老婆心はもつともらしく聞こえるが、しかし日本の變則的憲政は、何も元老の存在に根本の原因をおくわけでなく、むしろその政勢の複雜性に歸納すべき部分が多い。

過去の事業についていへば、自由黨と改進黨との雁行は、なるほど形式的には二大政黨の對立であつた。しかし、その實體は、黨首たる板垣退助や大隈重信を中心とする一個の封建的關係にすぎず、しかも彼等黨首は、他の封建的關係たる藩閥的勢力に對し、自己の政治的勢力を維持擁護すべき當面の必要から、政黨の名において抗爭をなしてゐたに過ぎない。その後、自由黨が政友會となり、改進黨が憲政會となつた今日に至るまで、前者においては伊藤博文、西園寺公望、原敬、高橋是清、田中義一、後者においては桂太郎、加藤高明、若槻禮次郎といふ如く、歴代の黨首はいづれも藩閥官僚の巨頭であつて、純然たる黨人は一人も發見するを得ない。この事實は、過去の政黨發達史がいかに變則的であつたかを雄辯に物語ると共に、政權目的を中心とする政黨が、いかにその黨首に總理大臣的人物を要求したかを立證するものである。

政黨はかくの如く、單にその黨首の人物を中心として離合集散して來たのみならず、あらゆる新術語の發見によつて變節を是正し、政府の主體が如何に官僚閥族的であつても、つねに政府黨たらんことを腐心して來たのである。憲政常道のさけびは、不幸にして政府黨たり得なかつた黨派が、口惜しまぎれに發した弱者の悲鳴にほかならなかつた。それが證據に、次の政府に對してもし幸ひに秋波を送り得たときは、口をぬぐつて知らぬ顏の半兵衞をキメこみ、干渉壓迫の非常手段に訴へても頭顱的多數をかき集め、なるべく賣り込みに便ならしめんことを努力したのである。

元老の存在意義は、かうした物理的ないし心理的なる政勢の複雜性を見極め、後繼組閣の最適任者を發見することにあつた。その限りにおいて、元老の存在が日本の憲政をして變則的ならしめたものでなく、變則的なる憲政に由來して元老の必要を生ぜしめたといひ得るであらう。

そこで問題は、識者先生の大聲叱呼するごとく、日本の憲政運用は元老の手を必要とせぬ程度に發達をとげたかどうかである。――イタチの最後ツ屁なりの憲政常道論も、なるほど當初の間は弱者の悲鳴にちがひなかつたが、人氣を最大の關心としなければならぬ商賣上の必要は、政權目的だけの成否で出し入れを露骨にできなくなつたのは事實である。これ政黨の自繩自縛で、いはばウソから出たマコトであつたが、國民の人氣をつながなければならぬ當面の必要は、よし『招かざる客』の憲政常道であつたにしても、露骨に澁面つくることは許されないやうになつた。事態ここに至れば、中間的勢力の闖入によつてアブラゲをさらはれる危險を甘受するより、むしろ反對黨の失政が直ちに味方黨の得政に導くやうな移動原則を有利とし、純理と實益はやうやく一致性を見出し得たわけである。

最近のわが政情は、おぼろげながらかうした純理と實益の一致性を發見しかけたところで、それだけ客觀的には發達をとげたともいひ得る。ただしかし、右のやうな政權の移動原則は、根本の條件において二黨對立たることを前提とする意味で、分立する政黨の利害が極端に複雜な状態においては、直譯的適用に甚だしき困難を伴ふことも考へねばならない。

米國のやうにひな形どほり二黨が對立する状態は、いふまでもなく常道論の原則的適用が可能である。勞働黨の擡頭と自由黨の凋落により多少その形態にゆがみをみせた英國にしても、保守黨の勢力が搖ぎなき限り、これもまた可能であらう。しかしフランスやドイツのやうに、一黨若しくは二黨のみによつて絶對多數を制し得ず、左右兩翼の比較多數黨を中心とすれば、中間黨の支持を得られぬ國にあつては、いろは的常道論の適用は絶對に不可能である。それがため、毒にも藥にもならぬやうなヌエ的人物を首班とし、その日暮しの政治をなすのほかはない。彼等にしてもし積極的な政策を行はんとすれば、中間的微温的政黨まで反對黨として硬化せしめ、ひいては我れとみづから自殺をとげるのほかはない。隨つてこれらの諸國においては院内的に無力なことが却つて院外的に有力な結果をまねき、少數黨なるが故に政權機會に接近し得るといつた奇象も行はれてゐる。

日本の政情がヨリ英米的であるか、あるひはヨリ佛獨的であるかはしばらく問はない。しかし同じプロレ政黨にさへ、すでに四派の分別を示してゐることから考へれば、普選施行後の議會が現在よりもなほ小黨分立に傾かしめ、次第に佛獨的な政勢を助長せしめやしないかを疑ふ。果してかうした時代が到來すれば、憲政會から政友會へといふやうな政權の移動は、いろんな意味で困難さを加へるであらう。もしこれが、フランスやドイツの如き國であつたなら、大統領自身が適任者を發見して組閣の命令を降し得やうが、陛下の大御心を煩はし奉るに畏れ多き事情ある日本においては、外國の典型において求め得ざる特有の機關により、奏請の大任を當事せしめなければなるまい。勿論それは形式上從來の元老とは別個なものであるか知れないが、性質上は何ら異るところがないであらう。

その意味からいへば、反對黨首領を後繼者に奏請し得る事情を前提としない限り、いはゆる憲政常道論は空想にひとしく、政黨の權威が増大すると否とにかかはらず、その日本的適用は甚だ困難なことを知らなければならぬ。最後の元老として死花をさかしたい西園寺公望の願ひもさりながら、獨り合點で早計にのみこまれては困りものである。

十一

とはいふものの、實際問題としての政權運用の形式は、案ずるより産むが易い結果となるかも知れない。その意味は、あらゆる小黨の分立的傾向にもかかはらず、これと別個にしておのづからなる二黨對立化も、同時的にはたらく作用として認め得られるからである。

さきにもいへる如く、政黨は政權の獲得を目的とする集團である。しかも現在においては、政策實現の機會としてこれを追求することより、寧ろこれによつて生ずる優勝慾の滿足と、更にそれに伴ふ金錢慾の滿足を對象として追求されてゐるが、政權への渇仰は黨人の痼疾的病状である。隨つて一黨が、獨力をもつて政權を獲得し得ざる場合は、ヨリ接近せる諸黨と聯繋して、ヨリ早急に政權の機會をとらへようと努力を傾注する。善意に解釋すれば、これによつて曲りなりにも政策の實行を庶期するともいへやう。が、その邊の消息はしばらく別問題として、要するにそれがため、對立せる二個の友黨關係を形成するのである。フランスやドイツの議會におけるブロツク・システムは、かうした理由から派生したものに外ならない。

日本にあつても、原敬治下の大政友會に對しては事實上の非政友提携が行はれ、なほ且つ壓倒的勢力を維持せるため二派に分別し、やがて憲政會が與黨の主體となるや政革の合同が成り、今や政友會の天下が來たつて憲本の合同は促進されつつある。これはいづれも勢力の均衡性に基準してゐる。その意味で『あらゆる政府は必ず反對黨を有つ』といふ命題は、決して二黨對立の状態にのみ適用される言葉でなく、聯合的政府にも聯合的野黨は存在するのである。この事實の半面には、一人をして獨裁者たらしめぬデモクラシー特有の心理的要素も多量に含有するが、他の一方より見れば、政務運用の現實的必要から、いはば便宜上の手段から促進された部分も多い。

十二

政治そのものが色んな意味で便宜主義であつて見れば、それに直接當事する政黨が、主義政策を超越して離合集散することも當然である。これを當面の問題に還元して論ずれば、いかに雜多な小黨が分立しても、結局は二大政黨の對立と同じやうな結果を導き、實際の政務運用にはさう大して支障を及ぼさぬといふ結果に通ずる。

ポアンカレーを盟主とする共和黨三派のブロツク・ナシヨナーレは、その昔こそ互にしのぎを削り合つた仲であるが、社會黨三派に對しては單一黨と同じ程度の結束を見せてゐる。同じくドイツの社會黨と民主黨も、つい先達てまで犬と猿の間柄だつたが、右翼聯合に對しては共同戰線を張り、まつたく昔日の面影を發見することが出來ない。ただ歴史的にして地理的なる、また同時に階級的なる各黨の結合關係が、オイソレと合同を促進し得ぬ事情があるところから、緩衝地帶の意味で弱小な中間諸黨を介在せしめ、以つて政爭の險化を警戒してゐるに過ぎない。隨つてかうした聯盟の深化は、例へば英國勞働黨のごとく、内部に未だ解黨せざる小黨を包括しながら、なほよく單一黨の面目を保持し得たやうに、あるひは事實上の單一黨たらしめ得るかも知れないのである。

憲政會と政友本黨は、いづれ所詮は合同するものであらうが、よしんば合同の機會は實現されなかつたにしても、現在のところ二人の黨首を戴く單一黨と少しも相違は認められぬ。更に善選による今後の議會を豫想するに、無産諸黨が幾人の代表者を送り得たとて、一團の實業家議員がいかなる政府に對しても常に與黨たらんとするに反し、當分の内はいかなる政府に對しても野黨たるべき意味において、主力兩黨の相互交代を可能ならしめる政黨的分野はおのづから形成され得べく、いふところの憲政常道は必ずしも行はれないとも限るまい。

十三

以上の假定は政權に伴ふ利益條件の獲得が可能であり、且つ政策の實行も比較的容易である場合に限られてゐる。しかるにこれが勘定あつてゼニの足らぬフランスや、幾らもうけても戰債の拂ひに追はれるドイツや、更に百三十餘人の前大臣を存命せしめるハンガリーのやうに、いかなる政黨のいかなる人物が出ても、滿足の成績を擧げ得ないこと明瞭な諸國にあつては、アリの甘きにつくが如く政權の好餌で大臣病患者を吸収し得ないのみか、因果を含めてやうやく納得せしめるのがオチであらう。日本の將來には、かうした時代をちよつと想像し難いであらうが、もし假りに先達ての取付けさわぎが停止することなく、出る内閣出る内閣が、若槻内閣どほりの運命に逢着した場合を考へれば、恐らくフランスやドイツの轍を繰りかへしたことと思はれる。

もちろん、社會状態の相違は政黨の發達に對しても、フランスやドイツのそれより寧ろ英國的な過程をたどらしめ、増大する保守黨的實體に對し、漸滅する自由黨的實體を殘し、これに新興の勞働黨的實體を配することと思はれるが、それも雛形をたよりに漠然と豫想するのみである。憲本の合同勢力が第一者、政友會が第二者、海のものとも山のものともつかぬ無産諸黨が第三者なるべしとは、強ひて求めて求められぬ比較でもないが、興亡盛衰の過程まで同じだとは斷じかねる。

もし右の豫測の如く、政黨の大體的分野が決定されて行くものなら、いはゆる憲政常道論の命脈も相當に永いと思はなければならぬ。更に無産派論客の指摘するごとく、やがて對峙する有産無産の二大陣營に分別されるなら、また永く命脈が、保たれることであらう。しかし、その場合兩個の政黨が磁針の兩端を指すところの政策をならべ、建てつ壞しつ抗爭すべしと考へるなら飛んだ錯覺である。政黨の分別はブルジヨア黨相互においてのみ無必然ではなく、プロレタリア黨相互においても無必然であり、やがてはブルジヨアとプロレタリアの分別さへ無必然たらしめるであらう。そして、入れ代り、立ち代り、與へられた當日の問題を如何にも、當日らしく解決し、少しも變り榮えのしない政策を實行するであらう。それはあたかも在野時代に口を極めて排撃した若槻内閣の對支政策を田中内閣が踏襲し、大資本閥の代表たる英國保守黨政府が、率先して社會政策を實行するのと同斷である。

これを要するに、小黨を如何に分別せしめても、結局は二大政黨の對立化にいざなひ、利害が正反對すべきはずの二大政黨に分別しても、結局その行ふところの政策は極度に制約される小黨分立の場合と異り得ないのである。

デモクラシーの極致とは、まあいつて見ればそんなものである。

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