資本主義の長所

高畠素之

世の中のすべての存在に、徹頭徹尾善なるものも、徹頭徹尾惡なるものもない。近頃、一部の人々から、まるで、惡魔の塊ででもあるかの如く考へられてゐる資本主義といふものも、その半面には中々良い長所を持つてゐる。まんざら見棄てたものばかりではないのである。勿論、惡いところは澤山ある。けれども良い所も少くない。要は善惡相殺して、アトにどつちが餘計に殘るかといふ問題だけである。

まづ資本主義の惡い點を考へて見る。資本主義の一番惡い點といへば、生産機關の獨占者たる資産家階級と、自己の勞働力以外には何等の生産要素を所有しない所の多數無産者階級とに、社會を二分することである。自己の勞働力以外に何等の生産要素をも所有しない人々は、この勞働力を賣るに非ずんば生活して行くことが出來ない。そして、それを買ひ取るものは即ち生産機關を獨占する所の資産家階級である。彼等はそれを否應なしに廉價に購買し、生産的に消費することに依つて、所謂餘剩價値なるものを搾取収得する。茲に初めて生産機關は資本となり、生産機關の所有者は資本家となるのである。かやうな階級對立の事實なくして、資本主義は存在し得るものではなく、また資本主義の發達と共に、この階級對立の状態は益々助長されて行くのである。

これは資本主義の一番惡い點である。第一に、それは人道の立場から見ていけないことであらう。第二に、それは國家存立の立場をも脅かすものであらう。第三に、そして最後に、それは資本主義自身の立場からいつても獅子身中の蟲である。なぜかといへば、以上の事實は、資本主義存立の第一義的條件ではあるけれども、それと同時にまた、資本主義自滅の必然的原因ともなり得るからである。資本主義の發展は、産業集中の傾向を必然に増大せしめるものであるが、その結果はまた必然に、一般無産勞働者の結合的反抗を助長せしめずにはおかぬ。マルクスの言葉を藉りていふならば、資本主義の發達すると共に、『資本制生産それ自體の機構に依つて訓練、統合、組織される不斷に増員しつつある勞働者階級の反抗が増大する。』かくして『生産機關の集中と勞働の社會化とは、その資本制的外殻と一致し難き點に到達』し『資本制的外殻は破裂する』に至るのである。かくて資本主義自滅の斷末魔は、無産階級が存立し勞働力の商品化が繼續される限り、到底これを避けることが出來ぬ譯である。しかるに資本主義なるものは、この事實の基礎上にのみ成立し得る立場に立つてゐる。この點において、資本主義は抜き差しならぬヂレンマに陷つてゐるものといはねばならぬ。

以上述べた如く、資本主義にはかかる致命的缺陷が含まれてゐるに係らず、一方にはまた、中々棄て難い所もあることを見逃すことが出來ない。少くとも、來るべき新社會にとつて、參考として斟酌せらるべき要素が尠からず含まれてゐるのである。いま、その最も顯著なる一例として、資本主義の起動精神たる營利の原則を擧げることが出來る。

資本主義が營利の原則に從つて運用されてゐることは、いま更事新しくいひ立てる必要もないであらう。營利とは讀んで字の如く、利益の追求を意味する。嚴密にいへば、貨幣利益を直接の目的として追求することである。資本主義は、この營利の欲求を以つて、凡ゆる經濟行爲の起動動機たらしめんとするものに他ならない。

この傾向には、勿論缺點の伴ふことも明白である。貨幣利益の追求が單なる經濟行爲の領域を超えて、人間行爲の一切領域に侵入するとき、人間生活の一切は貨幣價値に依つて秤量され、義理も、人情も、道徳も、節操も、すべてが商品化するといふ殺風景極まる結果を招來することになる。これは洵に寒心すべき傾向であらう。それにも係らず、私はこの營利の原則をば、社會制度としての資本主義に含まれる重要の強味と見るのである。

そもそも經濟制度の運用において最も困難なことは、個々人の自由と全制度の秩序又は統制とを如何に調節すべきかといふ問題である。自由の立場からいへば、社會は全然無秩序、無統制なるに越したことはない。また秩序統制の部面からいへば、個々人の自由は絶對にこれを抑制するに如くはないのである。而して、個々人の自由を抑制すべき最も直接にして且つ最も有效なる手段は、國家の權力を無制限に擴大することである。封建制度(及びその後に生じたいはゆる警察的國家制度)は、この意味において最も鞏固に統制された社會制度であつたといふことが出來る。しかしながら、その統制は、個々人の自由を全く犠牲とすることに依つてのみ購はれたものである。だが、餘りに甚しく自由の窒息された所に發展の餘地はない。自由の完き窒息は、創意の發動を抑壓することになるからである。發明や冒險の絶滅を意味することになるからである。かくして、封建制度や所謂警察國家の制度は、極端に走つた權力的統制の爲に發展の進路を塞がれて、結局化石状態に陷つて了ふより他はなかつた。

そこで、資本主義は自由を強調し出した。競爭の自由、營業の自由、企業の自由、投資の自由、勞働の自由、資本主義はかやうに極端なる自由放任主義をモツトーとして、封建的壓制に對抗し始めたのである。けれども極端なる權力的統制が、社會的活動を緊縛して進歩と發展との餘地を奪ふが如く、極端なる自由放任が、混亂無秩序を誘致して、社會的頽廢の末路を準備する虞れのあることもまた明白である。

しかるに資本主義は、一方にこの自由放任を強調しつつ、他方にその必然の結果たるべき混亂無秩序を制止すべき妙諦を包藏してゐる。自由放任の必然的惡結果を制止する爲に國家的權力を作用させるといふならば、それは同時にまた自由その者の窒息を意味することにならう。而して自由の窒息はまた同時に、自由の齎らす良結果をも抑絶することにならう。しかし、資本主義は一方に、自由の手綱を極度に弛めたが、而もその必然の惡結果を避くるため國家權力に據ることを必要としなかつた。けだし、營利の原則は、自由を抱擁しつつ、同時にまた國家權力の役目をも盡し得るからである。

例へば、國家的統制を前提しない自由主義經濟制度の下においては、需要多き貨物の生産貧しくして、需要少き貨物のみ徒に多く生産される、といふ弊害を伴ふ虞れがあるやうに一應は懸念される。然しそれは杞憂である。資本主義の下では、かかる結果が生じない。貨物の供給が需要を超過すれば價格は必然に下落して、他の事情に變化なき限り、利潤は低減することになる。而して資本主義の下における一切の産業は、營利の原則に依つて運用されるものであり、加ふるに資本主義は投資の自由を認めるものであるから、利潤の低下した産業における資本の一部は、反對の理由に依つて利潤の増進した他の産業に流動して行く。かくして需要供給の均衡は保たれ、經濟生活上の混亂は防止されることになるのである。

更に一例を擧ぐれば、自由放任主義經濟制度の下においては、生産し易き貨物のみ多く作られて、生産困難なる貨物の拂底を來す虞れあるやうに考へられるのであるが、これも營利の原則に依つて、自然に調節され得るものである。價格及び利潤の調節作用は、上述の場合と同一の均衡結果を齎し得るからである。

要するに、營利の原則なるものは、自由放任主義と同根一族であつて、而もその反對因素たる國家權力の作用をも兼ねてゐるのである。ただ、資本主義の發展と共に、動もすれば自由放任の部面にのみ偏局的強調が示され、國家權力的作用の部面に鎖磨を來たす結果、種々なる弊害を齎らすることとなるのである。

以上は制度運用上の方面に就いていつたのであるが、營利主義は更に一個の衝動又は慾望としても作用し得る。そして、營利を一個の慾望として見るとき、そこに極めて微妙なる社會的作用が看取されるのである。

そもそも營利上の慾望は、單なる物質的慾望(經濟上の慾望)であるか、乃至はまた獲得せる物質的利益を他に向つて誇示せんとする優勝の慾望であるか。營利が若し單なる物質的慾望にのみ基づくものとすれば、有限なるべき物質慾の爲に無限の物質的利益を獲得する必要はない。他を凌駕せんとする優勝の心理に出づればこそ、營利の願望は無限に進むこととなるのである。この意味において、營利上の慾望は即ち優勝の慾望であるといひ得る。

けれども優勝の慾望が營利の慾望となるためには、物質的利益の獲得といふ必然の條件を豫想しなければならぬ。優勝の慾望は、それ自體として營利慾望たるものではない。物質的利益の獲得を通して社會的威力を誇示せんとする場合に、初めて營利慾望が成立するためである。しかるに、この物質的利益の獲得といふことは、必然にまた、物質的慾望の充足の可能を含むものであつて、營利慾望の發動する所には必ずこの物質的慾望の充足に對する意識的又は無意識的の期待が前提されるのである。この意味において、營利上の慾望は物質的慾望を必然の條件又は道程とする優勝慾望であるといひ得る。要するに、それは優勝慾には相違ないが、特殊の條件に依つて拘束された優勝慾なのである。而して資本主義制度の下でこの特殊優勝慾たる營利慾望の支配を最も直接に受くるものが、資本家階級であることは無論であるが、この慾望は更に資本家階級以外の人心をも支配して、遂には直接又は間接資本主義制度の下に立つ一切の人心がこの慾望の支配を脱し得ないやうになる。實に資本主義制度の下においては、經濟上の慾望も優勝の慾望も、各獨立した慾望としては作用することなく、ただこの營利慾望といふ特殊の慾望としてのみ作用し得る如き状態に達するのである。

この營利慾望なるものは、社會進歩の推進力として一種特別の作用を發揮するものである。資本主義制度の支配下においては、科學の進歩も機械の發明も、多くはこの營利慾の刺戟に依るものと見て差し支へないのであるが、營利慾の存在せざる社會においては、他の慾望がこれに代つて社會進歩の推進動力とならねばならぬ。この場合、物質的慾望には多くを期待し得ない。單なる衣食住のためといふ動機は、持久的又は反覆的な努力の源泉とはなり得るであらうが、社會進歩の積極的要因たるべき人間の創造能力は、寧ろこれに依つて減殺される場合が多いのである。

しからば、優勝の慾望はどうかといふに、この慾望は確に創造能力の發動源泉となることが出來る。單なる興味の衝動が種々なる發明や創意の動機となる場合もあるが、優勝の慾望に依つて新たなる計畫が立てられ、新たなる事業が起され、新たなる創意發明が與へられるといふ場合も決して少くないのである。けれども、單なる優勝の慾望は、創意の源泉として有力であるとはいへ、持久的努力の源泉としては極めて微力なものであることを免れない。持久的努力を生ぜしむる點においては、寧ろ經濟上の慾望の方が遙かに有力であるといひ得る。

例へば、私が或る著述に從事してゐるとする。この場合、私の心には少くとも二ツの慾望が働いてゐる。一つは即ち内容の上にも規模の上にも立派な大著述を造り上げて、學界を壓倒し、世人の注意を集めたいといふ願望である。これは優勝慾の領域に屬するものである。他はこれに依つて、生活上の収入を得ようとする願望で、これは即ち經濟上の慾望に屬するものである。私の著述の實質に對する苦心計畫は主として右の優勝慾に依つて動機づけられる。けれどもかやうな苦心計畫を著述に作り上げるには長日月の努力を要する。この努力を事實において持久せしむる力は、優勝の慾望に在る場合よりも、寧ろさうしなければ食へないといふ強制の意識、さうすることに依つて生活上の収入を得ようといふ經濟上の慾望に在る場合の方が多いのである。

ところで營利慾望なるものは、この兩慾望の作用を巧みに選擇し合成したものである。曩にも述べた如く、營利慾なるものは經濟上の慾望の充足に對する期待を含む優勝慾であつて、經濟上の慾望の作用と優勝慾の作用とを綜合し一體となし、各單獨に作用する場合よりもヨリ高き能率を發揮せしむるものである。而して、この營利上の慾望は資本主義制度の下にのみ、獨立した普遍的の特殊慾望として確立される。隨つて、資本主義制度の廢止されたとき、この慾望もまた、おのづから分解し去るものと見るより外はないのである。

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