現代人心浮動の社會的必然性 ―モガ・モボの跋扈も偶然ならず―

高畠素之

資本主義社會にあつては、凡ゆる生活樣式の分裂化的な傾向と同時に、その他面には平均化的な傾向も亦行はれる。生産上の分業といふことは、資本主義の發展を可能ならしめる根源となり、それが延いて職業上の專門家的傾向にも影響し、一の專門は更に數個の專門に分化せしめられ、それがまたヨリ多數の專門に分化せしめられて停止するところを知らない。例へば醫者の如き、最初は加持祈祷に頼る巫女や坊主の兼業であつたが、草根木皮に頼る職業的な醫者が出來てからも、彼等は萬病の治療を司つてゐたのである。それが外科と内科とに二分し、同じ内科はやがて産科や、婦人科や、皮膚科や、泌尿科やに分裂し、眼醫者と齒醫者とは全く別個な專門を司る職業となり、素人たる我々には窺ひ知ることを許さざる小專門は、夫々の分科の中にも更に細目の分科をもたらしつつある。これなどは、資本主義社會に於ける分裂的傾向を雄辯に立證するものであらう。

しかし、その反面にまた、一見いかにも正反對なる傾向と見られる平均化の現象も、これと負けず劣らず作用してゐる。元來、資本主義社會に於ける生産は、それ自體が機械に倚頼するものである。人間は機械に對して助手の役目を果すに過ぎず、推しなべて機械の附屬品たる位置を出で得ない。個人的な才能や技術は、勿論それなりに彼等の優劣を決定するにはするが、齊しく附屬品として立ち働らかねばならぬ限り、猫たると杓子たるとは大して關係しないことになる。これは資本家的生産方法に隨伴する特有の現象で、それ自體が、平均化的傾向の必然を豫定するものでなければならぬ。

一方また、個人に於ける財産状態等について見ても、資本主義的生産の發展が、社會大衆をプロレタリアの群列に陷沒せしめる限り、而してこれらのプロレタリア群列が大同小異の賃銀で甘んじなければならぬ限り、社會大衆の所得と同時に財産も勢ひ平均化の傾向に誘はれるであらう。かくして彼等の社會的關心は共通性を帶び、生活樣式の一切も亦共通性を採ることを免れがたい。加ふるに、彼等の衣食住が彼等の趣味や嗜好を滿足せしめることを許さず、大量的に生産されるものを嫌應なしに押しつけられるとなつては、好むと好まざるとに拘らず、あらゆる部面に平均的現象が行はれるのもこれ理路の當然といふべきであらう。

資本主義社會に於けるかうした平均化的傾向は(分裂化的傾向と同じく)、單に國内的に行はれるのみでなく、國際的にも行はれるのである。族性の相違や傳統の相違は、おのづからにして國民的色彩を分別せしめる原因となつてゐるが、而もそれを超越して作用するところの有力な原因を形成してゐるのである。

資本主義的生産方法をこの世に出現せしめた抑もの動機は、飽くことを知らぬ人間の營利衝動に外ならぬ。利潤の獲得――即ちヨリ多く儲けたいといふ希望からである。機械や器具の發見發明は、或はその發見發明者の名利を超越した動機から成されたにしても、これを生産上に利用する人々は、それに依つていくらでもヨリ多くの利潤を獲たいからに外ならぬ。大工場の設立も、大勞働者群の雇傭も、大資本の投下も、何もかも一から十まで、かくすることに依り多大の利潤獲得を可能とするが故である。

既に資本主義的生産方法が營利目的を中心とするなら、營利獲得の對象が自國人たると他國人たるとは問ふところでない。彼等は唯儲けられさへすればよいのである。原料品や勞働賃銀に於いて外國が廉いなら、何の躊躇もなくその『外國』を利用するであらうし、反對に外國人相手の商賣が儲るといふなら、如何に内國人の必要を訴へる生産があつても、さうした必要は平氣で蹂躙しても、ヨリ多大なる利潤獲得のために外國人の需要に迎合するであらう。善くも惡くも、今更野暮を言つたところで始まらない。

利潤獲得に内外を擇ばざる結果は、それだけ國境的差別の撤廢に貢獻せしめる。風俗ばかりか人情に於いても、次第に差別を薄弱ならしめて行くのである。これを促進する現實の條件は、運輸交通の開發といふことであるが、而もそれさへ實は資本家の利潤獲得に刺激されたものである限り、資本主義の平均的傾向は國際的であることが知られるであらう。寧ろそれは、營利目的を唯一最大の使命とする以上、無政府的性質を本來的に具有してゐるのである。自由の女神に跪拜する資本主義は、干渉を豫定する國家の荒神の支配に甘んじないのが當然である。

そこで實際問題に展開する。最近の姦しい問題にモガ、モボの是非論がある。斷髪彩色の少女や喇叭ズボンの青年が、日本の淳風美俗を破壞するとかしないとかの議論である。

女は結髪で男は散髪、これは明治以來の我が成文的風俗である。隨つて、男の長髪と同時に女の短髪は、言ふまでもなく傳統の美俗に背反してゐる。また隨つて、それ故に怪しからんといふ論法が持ち出されるのも免れがたいであらう。しかし、この問題は、當面の怪しかる怪しからんの水掛喧嘩の前に、もつと重大な社會的理由があることを知らなければならぬ。

今も言ふとほり、資本主義社會にあつては凡ゆる平均化的傾向が作用する。而も國境を越えて作用する。當今の青年男女が、風俗的に人情的に、國粹的なものから離れて歐米的になつたのは、少なくとも或程度までこの不可抗な社會的必然を反映したものといひ得る。即ち、日本に於ける資本主義的生産の發達が、次第に歐米的水準に接近すると同時に、風俗的乃至人情的にも彼等の水準に接近せしめられた結果なのである。蒸汽機關を輸入し紡績機械を輸入し、その他の凡百の機械器具の生産的利用の輸入は、日本の資本主義を目まぐるしいばかり躍進せしめ、今や英米に次ぐ大資本主義國たる位置を確保せしめた。さうした日本人の社會生活が、資本主義に隨伴する特有の社會的法則に依つて規制される結果、この法則的規制に先行した歐米に類似して來るのは、まことに已むを得ない事情をおのづから表明してゐる。

慨世憂國の志士國士は、これを無批判的な追隨とのみ解釋する。もとよりその嫌ひも多い。だが、如何に歐米心醉が盲目的でも、これを猿眞似と同視することは出來ぬ。既に青年子女の心理を盲目的程度にならしめる程度に歐米のそれに誘引せしめたについては、それなりに必然的な理由がおのづから存せねばならぬ。その必然的理由とは、取りも直さず、資本主義の國際的平均化の傾向である。

別個の實例について言へば、各種各樣の社會主義的思想である。社會主義的思想は硬軟左右を問はず、いづれも資本主義の害惡を認め、これに代行すべき社會制度をヨリ合理的なる基礎に設計せんとする努力と言ひ得る。その限りに於いて、資本主義の齎らした副産物とも見られる。外國の機械や工場の輸入が、同じく外國の社會主義を輸入するの已むなかつた事情は、直ちに外國の風俗や人情を輸入するの止むなかつた事情に共通する。十把一束的に模倣呼ばはりをされては、凡百の社會主義者と共に當今の青年男女が齊しく迷惑と觀ずるところであらう。

歐米接近の物理的乃至心理的必然は、曲りなりにもこれで説明されたことと思ふ。殘る問題は、歐米と同時に日本の人情風俗が、何故にかく輕佻でかく浮薄となつたか、これである。

これに對する答辯も亦、お定まりの資本主義を借用すれば十分であらう。資本主義的生産が、人間を機械の附屬品たらしめることは前述の通りである。單に筋肉的生産勞働者ばかりでなく、頭腦的生産勞働者も押しなべて、彼等の興味と併行した仕事に沒頭する者はない。彼等は單に喰はんがための必要から、鐵槌を握り算盤を彈くに過ぎぬ。即ち、それ自體が取引的である。彼等の勞働は無味乾燥にして砂を噛むが如く、少しもこれに依つて快適な感情を攝取することは出來ぬ。彼等の賃銀はかくして彼等の苦痛の代償となり、彼等の享樂生活は生産的部面以外の消費的部門にも集中されることとなつたのである。即ち、生産生活と消費生活とは、苦痛と享樂とで完全に二分されたといふことが出來る。

これが當然の結果として、生産部面の生活が苦痛であればあるだけ、消費部面の生活に於いてこれを取りかへすべく、出來るだけ刺激的な享樂を追求するに傾くことはやむを得ぬ。強烈な酒精、淫蕩な舞踊、破調な言葉、怪奇的な美術、すべてさういつたものが、資本主義の爛熟と共に歡迎されるのは、かうした社會的必然の理由に出でてゐる。實際、一日の勞働苦痛で身心ともに困憊せる人々の神經系統に對し、一切の微温的なものは何等の刺激も與へ得ないのである。なるたけ直截的で瞬間的でそれを理解するに少しの教養も準備も必要とせざるむき出しの刺激のみが、彼等の心理を捕へ得る唯一の享樂對象として擇ばれる。ジヤヅや、タンゴや、チアールストンや、さては八木節や、安來節や、小原節やが、東西呼應して流行せし理由は、これあるが故に外ならぬ。世界の人氣を獨占する映畫も然り、健全なるべきスポーツすら、勝負第一の博奕的興味が、時代の人心に投じ得たと見られる理由が多い。

時代のかうした傾向は、如何にも粗雜で無恥であるかに見えるであらう。だが、目まぐるしく變轉する社會相に當面し、生きんがために喰ひ、喰はんがために働らき、苦痛の代償に賃銀を與へられる彼等にして見れば、よくも惡くも、さうした蕪雜強烈な刺激を求めない限り、生きて生き甲斐を感ずることが出來ぬであらう。

青年男女の輕佻浮薄を目の敵にする論者は、その責任が米國映畫や翻譯文學にあるかに論じてゐる。そしてかかる風潮を緩和防壓するため、東洋古來の文學や美術やの研究を奬勵すべきを説いてゐる。必ずしも無駄な努力ではないであらう。唯注意すべき點は、東洋の文學や美術やが如何に西洋のそれを凌いで優秀だつたにしても、これに依つて彼等のいはゆる歐米心醉を阻止し得ない一事である。

詩歌の枯淡、繪畫の奔放、音樂の幽玄、いづれも西洋のそれらには見出し得ない境地であらう。それだけ或は優秀だとも言へるであらう。しかし當代の人心は、如何に優秀であつても東洋的な靜寂味などをその琴線に訴へしめないのである。寧ろ西洋的な喧騷味が、たとひ劣惡であつても反對に誘引される。即ち、彼等の實生活が、さうした靜寂境を味到すべき一切の要素を喪失したからに外ならぬ。茶ノ湯も、生花も、盆石も、或は歌舞伎も、淨瑠璃も、更には三味線も琴も、尺八も、それぞれに卓抜な『美』を持つことは疑ひを容れぬ。しかし揃ひも揃つて、餘りに靜的であることを憾みとする。時代の活動的な傾向は、それらの靜的な美を味はうべく餘りにも人心が性急であり過ぎる。如何に優秀でも卓抜でも、それの有つ微温性は強烈な刺激を要求する人心に對して無縁の存在たらざるを得ない。

結綿に振袖の少女は、確かにそれなりの美を印象せしめる。丸髷の妻女も銀杏返しの藝者も、さては結城好みの若旦那も、共に一種の美を同じく持つのである。だが、如何にも有閑的で活動的な要求には背反してゐる。徒食が社會的虚榮心を滿足させた時代には、それぞれの有閑性は彼等の美を最高たらしめたか知れぬが、瞬間の燃燒的享樂を追求する時代の要求に對しては、彼等の美は餘りに靜的で何等の刺激を挑發するところがない。

これに反して、斷髪や洋裝は如何にも活動的である。高級なる觀賞に對して、それが果して美を喚起するか否かは別問題だが、必要が萬物の母胎だといふ解釋からすれば、社會的必要に應じて生れた如上の活動的姿態にも、おのづからなる美が發見さるべき筈である。その結果、必要を超過して時に肉體的露出に傾いたり、原色的刺激の誇張に傾いたりもするが、さうした怪奇性が却つて眩惑的效果を助長し、時代の刺激的要求に適應することを得たのである。卑俗低劣なりに、その方が時代色を濃厚ならしめたと見ることが出來よう。


資本主義的生産の採用に先行した歐米は、その副産的なる社會傾向にも先行したのである。ルイ王朝のフランスやヴイクトリア王朝のイギリスや、或はワシントン時代のアメリカやは、いづれも過去の日本と同じく不活動的服裝を特徴としてゐた。それが今日のサンシヤイン喜劇の海水浴美人に見る服裝に變化したのは、消費生活に極度なる享樂的要求を追求せしめた資本主義の影響である。遲れたりとはいへ、日本もまた彼等に劣らざる程度の資本主義國である。燃燒的刺激を要求すべき社會的礎地は、遺憾なきまでに培養されてゐる。色彩の強烈を競ふ青年子女の服裝を見よ、怪奇的な美の考案に腐心する彼等の努力を見よ、思ひ半ばに過ぎるものがあるであらう。

活動冩眞や飜譯文學は、かかる社會的傾向を助長するに違ひない。が、その役目は内外の流行心理を媒介する一個の運輸機關たるに過ぎぬ。汽車や汽船の物質的なるに對し、やや精神的な要素を有つに止まつてゐる。若し時代の人心が取引的でなく、代償的でなく享樂的でなく刺激的でなくその他等等でなかつたら、百千の米國映畫や飜譯文學に對して不感症が有り得たであらう。既に不感症でなかつた事實は、日本の資本主義的成人を意味するものでなければならぬ。

時代の輕佻浮薄はかくの如く、人心に直接の責任を歸せられるものでなく、人心をしてかかる傾向に誘引せしめた社會制度の罪科に歸せられる。モガ・モボが飽くまで憎いなら、根本の資本主義を憎むことに結果しない限り不徹底である。袈裟を憎んで坊主を憎まないでは、論理の辻褄が少しも合はないのである。


以上、主として風俗の問題に始終したが、人情とても同斷である。金錢的價値に於いて一切が取引される社會にあつて、人情ばかり濁りに染まぬ蓮の葉では有り得ない。親子愛も、夫婦愛も、戀人愛も、多かれ少なかれ取引的な性質を加へて來た。これは社會大衆がプロレタリア列群に陷沒した結果、老若男女を擧げて賃銀勞働に從事しなければならなくなり、從來の家長寄食が失はれて寄合世帶となつたからである。即ち、家族内部に取引關係が移入され、結合の基礎が道義から利害に轉化し、好む好まぬに拘らざる個人主義原則が確立されたからにほかならぬ。

寄食を代償の貞操が、根本的に浮動するに至るのも亦理の當然といふべきであらう。

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