翻譯の東洋主義

高畠素之

東洋主義とか西洋主義とか、これを對立的に考へる考へ方がすでに西洋的である。特に紅毛人の癖といふ譯でもないが、彼等の概括癖は、何事にあれ靈と肉、精神と物質といつた二元的な分類を取らしめ、昔からヘブライ思想だのギリシヤ思想だのと、大して根據があるとも思へない分類方法により、思想そのものの發生まで二元的に解釋してゐる。東洋主義といひ西洋主義といふも、つまりは舊套依然たる靈肉の對立概念を代表し、ヘブライの代りに東洋を、ギリシヤの代りに西洋を代還したものに過ぎない。逆面的に説明すれば、精神文明と物質文明とを表象する言葉として、便宜のために東洋とか西洋とかの名稱を附したものと考へられる。

しかし嚴密には、東洋だつて唯物的な思想があり、西洋だつて唯心的な思想がある。殊に文物制度の世界的交流が今日のやうになつては、それぞれの文明を精神的だの物質的だのと特徴づける理由が薄弱ならざるを得ない。煙突の林立に比例して、機械文明を呪詛する反對要素が西洋に増大する一面、富の生産の増加といふ現實的必要は、あらゆる牧歌的な東洋にも機械文明の輸入を餘儀なからしめたのである。

近頃謂ふ東洋主義とは、文明呪詛の紅毛思想をそのままに移植したかの如くである。例へば流行のスペングラーなどは、その代表的な思想家であるが、トルストイやニイチエやシヨペンハウエルや、さてはクロポトキンやモリスやペンティーや、彼等はいづれもその意味での東洋主義の渇仰者らしく見られる。日本の思想家の間にも、數多の彼等の亞流を出現せしめた。その一人たる生田長江氏は、彼れの重農主義藝術を提唱するに當り、西洋の工本的であるに對して東洋の農本的であることが、兩者の文明を決定的に相違せしめたかに論じられた。そして西洋の豫言者的思想家が、東洋への渇仰を表白せる意味で農本主義を強調し、そこに彼れ自身の重農藝術の是正を發見してをられた。一應は尤もらしい議論である。だが、如何に物質文明が劣惡で精神文明が優秀であつたにしても、その故に工本主義が下等で農本主義が上等だといふ論理は成立し得ない。これは風土學的、地質學的、人口學的等、あらゆる自然的な條件に制約されるものである限り、精神文明が高級だから甲國民も乙國民も擧げて農本主義を採用するといふ譯には行かないのである。

イギリスが機械文明に先驅し得たのは、彼等の國民が鐵や石炭の産出を天然的に惠まれてゐたのが最初の條件である。同時に日本が機械文明に於いてイギリスに追隨し得なかつたのは、如上の天然的資源に惠まれなかつたからだと言ひ得る。といつて日本が、豐葦原なる昔ながらの農本主義で押し通せるかと言へば、國土狹くして地味痩せ、毎年百萬からの口數が殖える状態では、農業ばかりで國利民福を増進することは絶對に不可能である。そこで善くも惡くも、農業に加へるに工業なり商業なりの發展を絶對に必要とし、國内で資源と販路を得られなかつたら、國外にこれを求めるのやむなき状態に當面しつつある。

政友會内閣の産業立國政策なるものは、看板としては何等の新味を發見されないが、滿蒙地方や支那本土に産業立國の對象を求め出したことは、それ自體が『善くも惡くも』の國民的煩悶を如實に表白したものでなければならない。さういふ一切の條件を無視し、西洋的な抗議派の口吻を直譯するのは變なものである。

東洋主義と西洋主義との分類方法が、すでにかくの如き無理に出發するのみならず、東洋主義なるものが紅毛人の概念を借用したのであるから、東洋の一族たる我々日本人の眼光には、それが著しく歪められた形容として映ずることも免れがたい。いはゆる東洋主義なるものは、彼等のオリエンタリズムの譯語であつて、生え抜きの東洋語としてのそれではない。逆輸入である。

早い話しが、地域的な東洋といつても、支那と印度と日本とに於いては、民性にも趣味にも氣風にも、著しき相違がそれぞれに發見されるのである。さうした相違を發見しがたい紅毛人が、東洋的といふ單色で一律同斷に片づけるのはやむを得ないとしても、日本人までその尻馬に乘るがものはあるまいと思ふ。支那は支那、印度は印度、日本は日本、おのづからなる相違を究明することが、むしろかうなつては必要なのではあるまいか。

勿論、過去何千年の交通的關係の遮斷により、東洋と西洋とでは、文物的にも制度的にも、惹いては思想的にも、別個の發達をなして來たことは事實である。その意味では、必ずしも東洋的と西洋的とを分別し得ぬ譯ではない。いつも引き合ひに出される佛教思想の如き、それ自體が東洋的なものであつて、慈悲とか、忍辱とか、悟りとか諦めとか、佛教の影響の下に生育した思想も紅毛人には不案内であるかも知れない。だが、それなりにかうした影響を反撥する要素も他面には育成され、同じく釋迦の教義から啓導された佛教であつても、印度と支那と日本では、各國獨個の發達をなして來たのである。

かかる相違は如何にして決定されたか、私などの興味からすれば、むしろその探求が重大であるかのやうに思はれる。

當世流行の唯物史觀的解釋に從へば、思想が事實を生むのではなく、事實が思想を生むのだといふ。もつと端的にいへば、精神は物質の投影であつて、宇宙の本態は物質だといふのである。これは唯物史觀的な解釋と呼ぶより、唯物史觀構成の一要素たる唯物哲學の教へるところであるが、右の解釋に從へば、思想が事實を決定するなどと考へるのは大それた話で、思想は常に事實の後塵を拜して進行しなければならない。果してしかるか否か、そんな穿鑿で道草を喰つてゐる餘裕はないが、かうした考へ方は若し東洋と西洋と對立する段になれば、如何にも西洋的なそれを代表してゐる。西洋的ではあるが、しかし有力に眞理を喝破してゐることは否定しがたい。

佛教が印度を發生地としたのは、その地理學的乃至風土學的な自然條件に由來する。太陽の直射は萬物を燒き、一たび豪雨が見舞へば洪水が地上を范濫する。さうした地方にあつては、人爲の無力を痛嘆する反面に自然の猛威を畏怖する感情を助長し、やがて悟りと諦めの宗教を發生せしめた理由がおのづから窺はれる。ところが自然畏怖の感情は必ずしも印度人の專賣といふのではない。支那人も日本人も同斷である。唯その程度に於いて、印度人ほど強烈でないといふに止まる。そこに佛教を國際的に弘布し得た原因があると共に、各個國民の賦有する自然條件の相違により、受容と發達の形式を異ならしめた理由も發見せられる。

これは單なる一例であり、且つ説明としても不備である。が、大體に於いて、國民の性向なり趣味なり風格なり、或は思想そのものなりの決定が、かくの如き自然條件に制約されることは想像し得るであらう。

日本は小學校の教科書が説明する如く、四面環海の細長き島國である。温帶に位置して地勢に凹凸おほく、それらの關係は四季の變化を分明ならしめ、雨量と共に濕度を高からしめてゐる。水田による稻作を發達せしめたのは、日本人が米食を最も希望したからではなく、かうした自然條件に負ふ偶發的結果に外ならない。

しかし不幸にして、日本は火山脈と地震帶の活動が激甚である。風土學的に惠まれてゐる反對に、地質學的には惠まれてゐないのである。かかる自然條件に制約される日本人に、大陸的な規模の雄大を望むことは出來ない。器局が兎もすれば倭小になり勝ちなのも道理である。だが同時に、物事の細かい味を噛み分けたり、一を聞いて十を知つたりの鋭敏な感受性は、反對に日本人の獨壇場でなければならない。平たくいへば、物わかりがよく、どこまでも小器用で、何事にもソツのないのが日本人の特徴であらう。かうした性向には、耐久力を要求されぬ代りに爆發力が期待される。五月の鯉の吹き流しと輕蔑した江戸ッ子氣質は、實はそれが江戸ッ子ばかりの特徴でなく、日本人全體の特徴を決定してゐるのである。その意味で、俳諧文學や浮世繪美術や、さては三味線音樂に代表される日本趣味は、如何にも日本人らしい特徴を如實に表明してゐる。同時に稗史講談に傳へられる町奴氣質は、それ自體が日本人の性向を偶像化したものであつて、火山脈や地震帶の活動と一軌なる爆發性を象徴化したものである。

同じ東洋人といふものの、如上の日本人の氣風は獨個であつて、他の支那人や印度人にはたうてい發見されない特徴である。さうした細目の相違に不案内な紅毛人は、皮膚の類似から日本も支那も一緒くたに考へ、それを『東洋的』といふ名稱で概括してゐる。だが、よし日本的なものが支那的な影響を多分に受けてゐるにしても、決して支那的なそれが全部ではない。日本には獨個な日本的なものがある。

私は音樂には全く無縁の人種である。唯好んで活動冩眞を見物するところから、時たま『日本の夏の夜』といつた奏樂に出くわすことがある。如何なる紅毛人の作曲か知らないが、私のやうな音樂情緒の稀薄な人間の耳にも、あの音樂が夏夜の日本を象徴してゐるとは聞こえない。上海あたりの場末を想像させるほど、それほど支那的なものである。これはホンの思ひついた一例だが、ゲイシヤに左前のキモノをきせ、フジヤマを背景にしてハラキリをさせる程度の淺薄な知識で、日本趣味を云々されるなどは我慢がならない。物ずきな異國趣味から、ミソもクソも一緒くたの日本讚美なら、折角の好意だが『大きなお世話』と申し上げるの外はない。

東洋主義にしてもその通りである。埋沒された東洋の美點を發揚することは誰しも異存はないが、紅毛人流の異國趣味を眞に受け、一切の西洋的なものに對する排撃に傾向するなら、少からず藥が利きすぎた嫌ひがありはしないか。文物的にも制度的にも印度や支那の影響は立派に消化した日本人である。殊更東洋的なものを助長しなくても、日本人としての東洋性は別に不自然を伴はないのである。それよりも寧ろ、西洋的な美點を取り入れることの努力が、靈肉兩面なる日本人の生活内容を豐富ならしめる所以だとも考へられる。

東洋が精神的で西洋が物質的だといふ解釋は、曩にもいへる如く必ずしも誤れる解釋ではない。しかし逆に、精神的なものは東洋だけだと考へるなら、これは大變な錯誤である。勿論紅毛人の間には、荒唐無稽の仙人修業に憂身をやつしたり、難行苦行で精神の不健全性を特別に助長したりの風習はなかつた。これは如何にも東洋的なものであらう。だが、嚴密な意味に於いて、そんなことが『精神的』であり得るかどうかは疑問なきを得ない。幽玄といふ言葉には、例へば佛教哲學などは恰好な名稱であらう。が、抜き差しのならぬ組織の完備は希臘哲學が上位である。しかるに前者にだけ精神力の偉大を認め、後者にそれを認めないといふのも變なものである。一長一短は雙方にあらうが、地域關係を基礎に精神と物質の銀張りを引くことは困難であらう。

思ふに東洋が精神的だと一般に考へられるのは、釋迦、基督、マホメツトの三教祖を東洋から生んだといふ程度の、ごく常識的な解釋に基づくかの如くである。これは谷崎潤一郎氏の指摘した言葉だが、東洋が精神的だと考へられるのは『ただ西洋に比べて物質的方面が著しく劣つてゐるために、精神的の方面ばかりが目立つ』かうである。(『改造』四月號『饒舌録』)若し、しかりとすれば、一向に有りがたくもない精神文明の名譽ではないか。

實際、西洋の物質文明から壓倒された腹癒せに、まるで鬼の首でも取つたやうに東洋の精神文明を吹聽するが、私などには精神文明に於いても、特に東洋が西洋より優れてゐる證據が發見されないのみか、寧ろその方面でも、東洋は西洋に劣つてゐるのではないかと考へられる。なるほど東洋の古代文化は、西洋のそれを遙かに凌いだ時代があつたことは認める。しかしそれが、今日の優劣を比較する條件にはならない。昔は昔、今は今である。いやしくも現在を豐富ならしめんとすれば、過去の傳統と共に外國文化の渡來をも共同に攝取すべく、時間と空間の差別を問はない筈である。かうした考へ方は、それ自體が彼等のいはゆる西洋的な唯物思想を代表するか知れないが、善くも惡くも『現在』を中心として考へる段になれば、それ以外に別個な良案があろうとは思はれない。

尤も、さうは言ふものの、如何に執拗な東洋主義への渇仰者にしても、文章の經緯で誇張するほど西洋主義を蔑視してゐるのではあるまい。『嘗ては東洋の藝術を時代後れとして眼中に置かず、西歐の文物にのみ憧れてそれに心醉した人々が、ある時期が來ると結局日本趣味に復り、遂には支那趣味へ趨つて行くのが、殆ど普通のやうに思はれる』(同上)と谷崎氏は言ふ。これは『西洋に打ち勝つことは出來ないまでも少くとも東洋は東洋だけの文化を發達させなければ、東洋人は生きて行かれない』といふ氣持ちを説明するための言葉だが、一應は首肯されるに拘らず全部を贊成する氣持ちにはなれない。

東洋人が結局東洋趣味に復る、なほ局限すれば、日本人は日本趣味に復る、といふことは、必ずしも東洋の西洋に對する結局的勝利を意味する譯ではない。パンとチーズでトマト・ハイカラを氣取つてゐても、時に茶漬けに澤庵が欲しくなる日本人の食慾と同じく、その肉體的な生理組織に由來する部分が多大である。日々新聞が連載する『食味極樂』を見てゐると、その登場人物は彼等の郷土の特殊な調理や食物を無上の『極樂』らしく吹聽してゐる。お國自慢と片づければそれまでだが、實は彼等の物心ついて以來の味覺的訓練により、それらの調理や食物に適應すべく舌頭神經が準備されてゐるに過ぎない。現に味噌の如きは、その構成分子たる大豆や小麥や麹やの要素的多少により、それぞれに特殊な臭味を免れないのであるが、その臭味あるが故に、生れ落ちてから吸ひ慣れたいはゆる田舎味噌を愛用する家庭は隨所に見受けられるのである。

東洋人の東洋趣味といつたところで、早い話がそんな程度の愛着ではあるまいか。理屈をつける段になれば、幾らでも尤もらしい理屈をつけられるであらう。が、その故に東洋と西洋との文明的優劣にまで及ぶなら、些かお國自慢も名詮自稱の手前味噌に墮することなきかが疑はれる。

谷崎氏の東洋趣味に關する考察は、近來の傾聽すべき文字であつた。あらゆる西洋的な美點を肯定しながら、なほ東洋的なものに對する執着を脱却し切れないところに日本人の特徴性を發見し、寧ろその部分の發揚に依つて日本人の獨創を開拓すべきを主張したものであつた。隨つて、一派の東洋讚美者とは立場を異にしてゐる。『昔から自分の長所を棄ててしまつて他人の模倣を事とした者に成功した例はない。模倣者は永久に獨創者の跡を追ふばかりである。西洋の眞似をしてゐる限り、猿が人間になつても、結局人を凌ぐことは出來まい。』如何にも同感である。『汽車も電車もなかつた代りには地球上の距離は今ほど短縮されてゐなかつた。衞生設備や醫術が幼稚であつた代りには人口過剩に苦みもしなかつた。大量生産や機械工業がなかつたお蔭にはわれわれの衣服調度は皆丹青を籠められた手藝品であつた。かういふ世界も一個の樂園ではないか。人類の幸福に代りがない以上、それは必しも文明の退歩だとも云はれまい。』一應は尤もである。しかし、さればといつて『畢竟われわれは滅ぼされても構はない氣で東洋主義に執着』すべきかどうか。これに就いては嘗て私も斷片的な批評を書いたが(『新潮』五月號)、前段の立論に全部的な贊意を表しながら、結論に於ける東洋主義の固執には同意することが出來ないのである。

谷崎氏は『西洋に侵略され、國が滅ぼされる恐れさへなければ』と假定されたが、氏の意味する限りの東洋主義固執は必定に氏の危惧を現實的ならしめよう。而も『それもよし』と肯定するのは氏の立場であるが、實は我々に言はせればそれが甚だ困るのである。大時代にいへば、山河のみ依然たるものがあつたとて國が敗れては問題でない。故に我々の要求する西洋文明の移入は、それが單に『猿』から『人間』への進化にあるのではなく、絶對的に敗北を豫定される運命から、相對的に勝敗を決定し得る運命に轉向する必要としてである。精神文明を豐富ならしめるための東洋主義尊重なら異論はないが、それ故に一切の西洋を排撃すると同時に物質文明を否定するとなれば、藥の加減が利きすぎたことを憾みとするの外はない。

谷崎氏の所論は、藝術家としての誇張もあらうし、逆説もあらうと思はれる。それを大眞面目に受けるのも野暮の骨頂だが、私としては實は谷崎氏を刺身のツマに借用し、大方の西洋排斥派や國粹主義者を問題にしたかつたのである。いや寧ろ、今となつては西洋的異端思想の逆輸入により、紅毛者流の物數寄な眼光に映じた東洋主義をそのまま盲承する一派を問題にしたかつたのである。

『錦繪は保存すべき過去の藝術である。今日の美術鑑賞家は、現代の畫家に向つて、錦繪の模倣ばかりを求めはしない。劇評家は、舊派の名優に對して要求するのは、ただそれだけなのであるか。南北の作品春水の作品に接しても、今日の名優諸氏はそこに、形の上の錦繪美以上のもの、現代の觀客の心魂を動すものを見出し得ないであらうか。』(正宗白鳥氏『中央公論』八月號所載『演藝時評』)

正宗氏の一文を持ち出したのは唐突である。が、そこに西洋的な要素の移入といつて惡ければ、傳統的な要素のみの尊重を非難する口吻を發見したからである。それと同時に、小山内薫氏の最近を批評した次の言葉を引用したかつたからである。『………日本演劇の前途について夢見てゐた若い昔の夢も、年齡の進むと共に消失せて、徳川時代の日本人を祖先とする日本人らしく、歌舞伎劇にせめてもの不朽の藝術美を認めて、安逸を貪ぼらうといふ氣になるのではあるまいか。デ・アルキン氏などは、歌洲劇壇の趨勢に飽足りないで、日本の奇怪不思議な歌舞伎劇を見て、内容のよく分らないのを幸ひに、自己の空想をそこに托してゐるのであるが、我々から見ると、彼等外人の盲目滅法な批評に意外な妙味を覺えると共に、多くは噴飯を禁じ得ないものがあるのである。』

これは歌舞伎劇に對しての單なる一例だが、生田氏あたりが『豫言者的思想家』と隨喜する紅毛者流の東洋主義讚美も、恐らくは五十歩と百歩の相違であるまいかと考へられる。『内容のよく分らないのを幸ひに、自己の空想をそこに托する』ことは、お互ひ我々にしても身に覺えなき記憶ではないが、内容のよく分つてゐる側から見ると、これに托した空想が豐富であればあるだけ、如何にも滑稽であることも否定できない。例へば觀光團あたりの日本讚美論などは、如何にお世辭にしたところで、もう少し智慧がありさうなものをと、腋の下から冷汗が流れるやうな心持ちがする場合も少くはない。反對に歌麿や廣重や、さてはラフカデイオ・ハーンやピエル・ロチあたりの荒唐無稽な空想を眞に受け、それに輪をかけて空想した日本と現實の日本との相違を發見し、恰もそれが日本人自身の責任であるかに誣ひる外人識者も救はれがたい。

野口米次郎氏はそのヨネ・ノグチ的翻譯空想から、さうした外人識者の論據として『日本の風景を切』つたやうである。半ばは同感しながらも、日本をいつまでもお伽噺の犠牲たらしめんとする老婆心に對しては反感を覺えた。その感情は『有りがた迷惑』といふのが適當である。日本及び日本人は、童話や小説の材料として存在するのではない。煤煙や洋裝や機關銃やが、よしんば古來の風景を損傷すること多大であつても、それでなければ日本及び日本人の單位的生活が維持されない以上、あれやこれやのオセツカイは大きなお世話と申し上げるの外はない。

『………私の空想はハリーウツドのキネマ王國の世界に飛び、限りない野心が燃え立つやうに感ずるが、さて一と度び高青邱を繙くと、たつた一行の五言絶句に接してさへ、その閑寂な境地に惹き入れられて、今迄の野心や活溌な空想は水を浴びたやうに冷えてしまふ。』又しても谷崎氏の文句を引用するが、詩歌の道に暗い私も別な意味で、時々はかうした東洋趣味に惹き入れられることがある。谷崎氏に從へば、それは多年日本人の生活を左右した支那文明の影響だといふ。その通りである。また五十歳以上の紳士が、漢詩を作り、書道を學び、骨董に親しむのも同斷だといふ。同じくその通りである。しかし、これは東洋が西洋より文明的に優秀だからでなく、氏のいはゆる『故郷の山河を望むやうな不可思議なあこがれ』と解すべく、寧ろその靜的な特徴が老境の生理的要求に合致するからと見るべきであらう。隨つて『今の青年もやがて年を取つて來れば、東洋趣味が戀しくなるのではなからうか。いつまで翻譯文學と亞米利加製の活動冩眞で滿足してゐられるだらうか』と、疑問を挾むのに少しも不思議は感じられない。それどころか、近來は青年の間にも、東洋古典の研究熱が旺盛であるやうに見受けられるのである。

唯、注意すべきことは、それが意識的に埋沒された東洋の美點の發掘を目指してゐるかどうかである。私の解釋によれば、それは寧ろ西洋心醉の逆流的傾向を代表するものではないかと考へられる。『翻譯文學と亞米利加製の活動冩眞』に訓育された現代青年は、それ自體が翻譯的日本人であつて、舊來の傳統的日本人とは存在の意味を別個にしてゐる。彼等にとつては、あらゆる翻譯的な特徴が彼等の生活と思想を決定するところのものであり、謂はば舊來の西洋的要素が舊來の東洋的要素よりも多量なのである。さうした彼等に對しては、寧ろ西洋的なものより東洋的なものの方が、ヨリ多く彼等の飽くなき異國趣味を滿足させる對象でなければならない。ハーンやロチは愚か、忠臣藏の狂言をさへ假名手本のそれより小山内薫譯の某紅毛人(名前を忘れて恐縮)のそれを通し、不自然に歪み曲げられた異國趣味を喝采する當今の青年である。私の解釋が必ずしも屁理屈でないことは是認されよう。

實際、今日に於いては、あらゆる舊來の日本的なものは、それ自體が次第に外國的な性質を増加しつつある。琴の代りにピアノが、三味線の代りにヴアイオリンが、長唄の代りに聲樂がといふやうに、あらゆる家庭音樂が日本的なものから西洋的なものに變移した今日では、内國的なものは次第に外國的なものに化さんとしてゐる。かくの如くして、結髪の名殘りを力士に、振袖の名殘りを半玉に止むるやうに、一切の日本的なものを異國的なものたらしめんとしつつある。

いはゆる東洋主義をその意味で『翻譯』と呼び、事實上の西洋主義と解することは必ずしも決して不當ではあるまい。

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