無政府主義論

高畠素之

無政府主義の言ふことは、私にもよくわかる。それに共鳴したがる傾向も、私は多分に持つてゐる。ネヂのかけ具合で私などは立派に無政府主義の信者になり得る素質だ。が、現在のネヂ加減では、無政府主義の正反對を走つてゐる。

無政府主義は、現實に對しては極度の悲觀、理想に對しては極度の樂觀であるが、私は理想も現實もみな悲觀である。ただ、その悲觀のうちにのみ、せせこましい安心立命らしいものを握つてゐるといふに過ぎぬ。

無政府主義は、強權に依つて立つところの現實を極度に邪惡視して、人の本性にその對蹠的美しさを見る。私にとつては、人の本性そのものが強權を喚び起したのである。人の性は惡である。人は生れながらにして、みな自分勝手なシロ物である。エゴイズムの權化である。が、それでは社會がもち切れず、自分ももち切れなくなるから、茲に社會的自然淘汰の必然の結果として、強權に依る支配統制の社會的機能及び器官が生じて來たのである。社會に政府が生じ、國家が生じ法制的制度が生じたのは、みなこの必要からだ。

人の性が若し互讓愛他のものであるならば、社會には國家も法律も要らない。誰れもかれも心の欲する儘に動いて、それで立派に秩序が保たれて行く筈だ。しかるに、近世國家はもとより、原始的の種族社會といへども、何等かの程度に於いて強制を加味した法的秩序を有たぬものはない。この點に於いて、原始社會が近世國家ほどに著しく強制權力の發動を示さなかつたのは、人間の慾望が單純で、その分化作用が進まなかつたからに過ぎぬ。それでさへ、多少の權力的秩序は避けられなかつたのである。

資本主義の後に來たるべき社會は、資本主義のもとに發達した慾望分化の現實を基礎とせねばならぬ。かかる社會に對して、無政府主義は如何なる經濟組織を理想するか。いま、その分配制度について見る。無政府主義の主張するところは各人の必要に應じて消費するといふ仕組である。この主張は超現實的の樂觀主義に立つものだ。第一は、人の本性を愛他互讓にありとする倫理的樂觀主義、第二は、舊制度覆滅後には社會の物質的生産力が無限に發達すると見る經濟上の樂觀主義。

必要に應じて消費するといふ分配制度を可能ならしめるためには、人がみな愛他互讓の神の子でなくてはならぬ。しからずんば、如何にして限りある物資と相對的に無限なる慾望との調節を圖るか。何人も米を欲して麥を欲しないといふ場合、麥多くして米少きとき、如何にして米を要求する萬人の慾望戰を調節するか。が、幸にして、人の性は善である。人は先づ他人の便利を圖つて、己れの慾望充足を後廻しにする。そこで、誰れも彼れも、米が欲しいけれども、米は先づ他人に讓つて、己れは麥で滿足するから、その間に何等の衝突も起らない。――といふのが、無政府主義の主張である。

或はまた、人の性は假りに善でないとしても、物質の供給が無限であるならば、上述の如き分配制度も何等の確執を伴はない。萬人が先づ米を望んでも、米の供給が無限であるならば、何等の騷動も起らない。如何に激しく預金の取附を食つた銀行でも、拂出資金の供給にことを缺かぬ限りは破綻の虞れがない。しかるに、物資の供給を無限ならしめるためには、その生産力が無限に發達してゐることを要する。無政府主義はこの方面にも、極めて樂觀的である。

以上兩面の樂觀主義が倒れてしまへば、無政府主義の分配制度は不可能とされる。そこで、クロポトキンの如きは、この兩面の樂觀主義に科學的論據を與へることに、最も力を注いだ。彼れの『相互扶助論』は倫理的樂觀主義に科學的論據を與へんとしたものであり、彼れの『田畑、工場及び作業場』は經濟上の樂觀主義に科學的論據を與へんとしたものである。

しかしながら、これらの論據そのものが餘りに樂觀的であつたことは否定できない。彼れは動物界の相互扶助それ自身が、既にエゴイズムの轉形たることを看過した如くである。更に、相互扶助への轉形を生ぜしめるやうになつてからも、かく轉形せざる原形の儘のエゴイズムが、依然たる猛威を揮て竝存しつつあることをも看過した如くである。試みに、同じ母胎から生れた三匹の仔犬の間に一片の肉を投じて見よ。その瞬間まで、天使のごとき無邪氣さを以つて嬉々と戲れ遊んでゐた彼等の間にも、淺ましき餓鬼道の慘劇が展開せられるではないか。この種の現象は生物界の通則であつて、これに比すれば相互扶助の如きは、例外的といふべき程に稀有の現象たることは、クロポトキン及びその信徒でない何人も拒み得ぬところである。

生産力増進論についても、同樣である。科學が進み、生産技術が發達するにつれて、社會の物質的生産力が増進することは、論を俟たない。資本主義社會は營利の衝動に立つが故に、とりわけこの點に貢獻するところが多かつた。生産力の増進は、餘剩價値の増加及び特別利潤の獲得上、最も有力な槓杆となつてゐるからである。けれども、資本主義社會に於いてすら、生産力の發達には限りがあつた。況や、營利の衝動なき社會主義社會に於いて、クロポトキンの展開せる如き生産力の増進が果して普遍的に行はれ得るかは疑問である。更に況や、社會主義社會を『革命』に依つて實現せんとする場合、生産力の増進が爾(し)かく易々たるべしとは信ぜられない。或は寧ろ、革命後の一定期間、生産力の減退を來たすことすらもあり得るとせねばならぬ。

これらの點に於いて、無政府主義の倫理的竝びに經濟的樂觀主義に對するクロポトキンの科學的理論づけは、その理論づけそれ自身が餘りに非科學的に樂觀的であることを否定し得ない。しかしながら、これら兩面の樂觀主義に無政府主義の本壘を求めて、そこに科學的理論づけを與へようとしたクロポトキンの努力と卓見は、流石に凡を抜いてゐると思ふ。

私は倫理上にも、經濟上にも、無政府主義と反對の悲觀主義である。人の性はエゴイズムであつて、何人も先づ己れの便利を考へる。社會の物質的生産力も、なかなか思ふやうには發達しない。人の性がエゴイズムなればこそ、その調節上法制的の制度が必要になつて來るのである。社會主義の制度も亦、その一種に過ぎぬ。隨つて、性善に基づく社會主義制度といふことは、それ自身一つの形容矛盾たるを失はない。

そこで、曩の分配制度についていふならば、必要に應じて消費するといふ仕組は、その出發點からして既に性善の假定に立つものであるから、これは制度考察上の範圍に屬する問題でない。米の供給少くしてその需要多き場合には、必ず各人の慾望間に衝突が起ることを假定せねばならぬ。社會主義制度の考察は、この假定から出發することを要する。社會主義社會に於いて、分配要具としての貨幣の存在を必要とする所以は茲にある。

各人の貨幣収入についても、平等の原則は許すべきでない。人間はみな横着な動物であるから、勞働上の技能、實力、勤勉に應じて、収入に等差を附することを要する。

しからば、社會主義の社會主義たる所以は何處に存するか。第一は、出發點に於ける機會均等といふことである。何人も生れながらにして貧富の差異があつてはならない。みな一樣の白紙的出發點から出發せねばならぬ。第二は、上述の如き實力、技能及び勤勉に應じた収入の區別といふこと、第三は財産の讓渡及び遺産を許さず、隨つて死後に殘るところの財産は總て國家の手に沒収するといふこと(斯くせざるときは第一の機會均等が破壞せられるからである)。

これらの原理は、現在の資本主義社會に於いては一も完全に行はれて居らぬ。これを完全に行へば資本主義の本質は即ち完全に否定されることになるからである。無政府主義も社會主義の一派であるが、無政府主義に對立した社會主義としては、かくの如き國家社會主義のみが、際立つて獨自の立場を保持してゐる。我々は其處に、社會主義思想上に於ける理想主義と現實主義との對立を見るのである。

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