マルクスの不滅性

高畠素之


こんど東大經濟學部教授として招聘されたウヰン學派の何とかいふ博士が、『もうマルクスの時代でない』といつたとか、新聞に出てゐた。かういふことを輕率に口走る學者に限つてロクな奴がない。

マルクスの本領は古いとか、新らしいとかいふところにあるのではない。マルクスは死んでも、時間は死なないのだから、時間の齎す新しい事實のうちには、マルクスの學説を古くしてしまふところも、無論あるにはあるだらうさ。けれどもマルクスの偉いところは、たとひ彼れの學説の全部が時間で腐らされても、時間の力ではどうにもすることの出來ないある種の生命を掴んでゐるところにあるのだ。

この生命は彼れの學的實感の強さ鋭さから來てゐる。彼れは單なる組み立ての雄ではない。社會人生の生きた現實に對して、錐の穗のやうな實感力を有つてゐた。そして、この鋭い實感力に觸れた現實の生命は、直ちに彼れの鋭い直感的推理を通して尨大なる學的構造の鎔爐のなかに流し込まれる。彼れの偉大さは試問(フラーゲシユテルング)の急所にあるのだ。必ずしも、問題の解決案そのものにあるのでない。彼れの提出した學説的命題は、時間の齒にかかつて磨滅することもあるだらう。けれども、彼れの捉へた問題の急所は、永遠に腐滅することがないと信ずるのだ。

マルクスに限らず、世界の思想史上に新らしい時代を劃するほどの大思想家は、皆この點に共通の特色と魅力とを有つてゐる。プラトンにしても、カントにしても、時間を超越した彼等の眞の偉大さは、彼等の學的構造そのものにあるのではなく、問題把握上の彼等の天才的機智に横はつてゐるのだといひ得る。

この點に於いて、マルクス信奉者の多くは贔屓の引き倒しに了つてゐる。マルクスの一言一句などは問題でない。個々の學説部分についても、古いものはドンドンすたれて行つて差支ないのだ。それではマルクスの有難味がなくなると考へるやうでは、まだ本當のマルクスの有難味を掴んでゐるとはいへない。小乘的の信仰だ。他力本願だ。或は(小泉信三氏の言葉を借りていへば)亞流ドン帳趣味だ。

たとへば、マルクスの唯物的辯證法といふやうな學説にしても、これをその儘今日問題にするなどは時代錯誤の甚だしいものだ。單なる學説としては、進化論前期の進化論的メタフイジークとしてのほか殆ど何等の意味もない。進化論が常識化した今日、辯證法でもあるまいぢやないか。

そんなら、マルクスが唯物的辯證法を提唱した事實そのものの奧には何等の生命的價値も横はつては居らなかつたかといふに、決してさうではない。マルクスにとつては、社會革命を法則として推論すると同時に、これを情意の意識的活動として評價するところに特殊の意味があつたのだ。それでなければ、問題を生きた形に捕捉することは出來ないと彼れは感じた。そこに特殊の面白味があり、そこに不滅の生命があるのだ。けれども、この形に把握した問題解決上の方法論としての辯證法には、當時の學問的水準から脱却し切らない幾多の歴史的制限がつき纏つてゐる。かやうな制限は、時の流れと共に洗ひ浚はれて、遂には辯證法の本體そのものまでも廢兵に歸する。それでも、彼れの生きた價値には微動だもない。彼れの眞價は寧ろ、革命論究の方法論として辯證法を掴んだといふ、その天才的機知の一點にあるといひたい位だ。

マルクスの形體を抱いて、マルクス信仰の安價な涙を手淫する彌次馬的マルクス信徒に對しては、『もうマルクスの時代でない』といふやうな低能的マルクス批判が、ちやうど手頃の喧嘩相手かも知れない。

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