文藝變形時評

高畠素之

文學新舊の辯

相馬御風氏がまだ文壇的活動に精勵してゐたころ、美的觀念の時代的推移を問題にしたことがある。固定觀念を拒否するスチルネルに傾倒したらしい彼れとして、この提唱はいかにも彼れらしい心理の必然性を反映したものだが、而もこれをいはゆる社會文藝の見地から展開したところに、時代の新しい魅力を把握した理由がうかがはれる。

當時にあつて藝術家は、星菫の神に餘年なく奉仕することが、最高にして唯一の使命であるかの如く考へもし、また考へられもしてゐたのである。機械の雜音や煤煙の惡臭は、それがアカデミツクな美學の關する問題でなかつたため、何ら藝術家の興味を刺激すべき對象ではなく、むしろさうした刺激に興味を感ずることが、藝術を冒涜するものと信じられてゐた。この時代常識に反抗した彼れが、好んでツルゲーネフの『散文詩』とゴルキーの『チエルカツシユ』とを比較對照し、前者に描かれた靜止美から後者に描かれた活動美への變化を、時代による美的觀念の變化のうちに觀察したことは、たしかに一歩の先見であつたと言ひうるであらう。

當時を經過すること十年、その間に、プロレタリア文學だの新感覺文學だのといふ運動もあつて、今では才人御風せつかくの發見も餘りに平凡な眞理となりをはつた。機械や煤煙はおろか、それに附隨してもたらされる物質文明の派生的結果は、現代文學のあらゆる特色を決定したかの觀がある。例へば無産階級の苦悶を描くにしても、有産階級の享樂を描くにしても、彼等の文學はことごとく、御風のいはゆる動的な美を求めることに出發してゐる。これは現代社會の活動的傾向を直接に反映したもので、空漠たる人生を論じたり、不變の戀愛を憧れるべく、餘りに性急になつた心理の變化を表明するものでなければならない。

實際、筋肉的なると頭腦的なるとを問はず、機械の附屬品として勞働しなければならない現代人に取つて、星菫の美や浪子さんの戀は餘りに刺激が薄弱すぎるのである。砂をかむやうな生産生活の疲勞を癒やすためには、いきほひ消費生活に強烈な刺激を必要としてくる。美の追究もまた、何かなし怪奇的なものを好新してくる。斷髪や洋服の流行は、一面かうした心理要求を反映したもので、必ずしも活動の利便に貢獻するためとばかりは考へられない。現に子供の服裝は、少しも生産勞働に關係しないのであるが、活溌らしいらしくないとで、子供彼等の美醜をよほど増減してゐるのである。今日このごろ、和服にお下げの少女を見ることは多少の醜惡さを感じさせるが、天然の麗質はそれほどでなくとも、明るい斷髪洋裝の少女はかへつて優美さを感じさせるといふやうに時代は美醜の判別をも浮動させるのである。これ『美的標準の時代的變化』を現實に語つてゐる。

文學にしてもその通りである。舊いとか新しいとかいふことは、或は文學の本質に關係する問題でないか知れないが、舊さによつて棄てられ新しさによつて迎へられるのは當然の理由から出でてゐる。即ち文學は美そのものの表現にあるのだから、時代の興味に訴へない結髪和服の少女を題材とするよりも、斷髪洋裝の少女を描いて時代の興味に訴へる方が、はるかに效果的だといふのがその理由である。もちろん本質的にみていづれが優劣であるかは、親ゆづりの顏と相談しなければならない。が、それにしても、新しさが放射する或る種の美は、天の作せる麗質をさへ眩惑せしめ得る力を備へてゐるのである。

次に拾ひあげた數氏の作品は、果して新しいとばかりは言へないであらう。中には、甚だしき本質的な舊さを暴露したと思はれる作品もあるが、唯だ時代の新しい問題を把握してゐるといふ意味で、私の本職とする仕事へも多少の因縁を有するところから、妄評多罪の責任を引きうけたに過ぎない。

前田河氏の『太陽の黒點』

前田河氏は一時プロレ派の總帥らしく傳へられてゐた。得意の題材とするメリケン・ヂアツプ物語が、いかにも西部劇歡迎の時代心理に投じたといふものの、幸か不幸かプロレを題材としたものは、餘り世間の問題にはされなかつたやうである。それがため、メリケン種の涸渇は氏の沈默を餘儀なからしめたが、先月號の『改造』に發表した『太陽の黒點』はあの組で三十四頁といふ長篇、力作の眞價を問はうとする慨はおのづからにして窺はれる。

『太田爲吉は跛であつた』といふ書き出しのこの小説は、納豆と飴と饂飩の行商人たる彼れと、彼れの周圍を取りまく場末の淫賣窟とも貧民窟ともつかない十三軒の家庭を運命的に取り扱つたもので、いふまでもなくプロレ種の代表的なそれである。題名を『太陽の黒點』としたのは、それが人類社會の景氣不景氣を決定するといふ所の俗説を象徴し、資本主義社會に作用する不可抗の法則、即ち貧しき者を次第に貧しからしめるといふマルクス説を暗示したものに外ならない。隨つて提供する問題も食慾、性慾、育兒、住居等の一般問題から、賣淫による二重搾取、大經營による小經營の壓迫等、まるで玩具箱を引ツくりかへしたやうな亂雜さである。

前田河氏に從へば、この一群の長屋はあらゆる不潔と背徳と醜行の公許される社會で、それ自身がポンペイの最後を免れぬ存在であつた。梅毒第三期の不見轉藝者、とも奴の絶望的な放火は、やがて十三軒の家屋を灰燼たらしめてしまつた。燒跡には、中流階級のためにアパートメントを建てようとする慈惠會の一派と、彼等自身の住居權獲得を標榜する主義者の一派との抗爭が開始される。さうした最後の結果が、温情主義に對する社會主義の勝利を豫定すること勿論であらうが、この小説は、前者に對する後者の宣傳布告だけで終つてゐる。

いふまでもなく典型的の宣傳小説である。部分的な技巧に見ても、跛の爲吉が壁紙のかはりに張りまわした古新聞から社會主義の要素的な知識を吸収する。殊に黒田禮二のモスクワ通信を通して、サウエート・ロシヤの社會生活に憧れを抱かせるといつた技巧は、單に思ひつきとして面白いばかりでなく、宣傳の效果にも投じ得たのである。その他、行商人たる爲吉がいかにして芋粥をさへ啜り得なかつたか、性慾調節の賣淫を營利化することに如何なるカラクリが仕掛けられてあつたか、搾取を不可能とする賣女がいかに塵埃のごとく棄てられたか、等、等の事實について、或る程度の寸法的解釋はたしかに宣傳的效果を収め得たであらう。

しかし、さうした宣傳的意味を離れて見ると、およそこの小説ほど陰慘にして卑猥なものは少い。『反抗の權利』をさへ奪はれた一團の寄生蟲的存在として、人間の想像しうる最も暗鬱な地獄を描いたといふか知れないが、それにしても、健全なるべき無産階級の文學が、かうも病的であつてよいものかどうか。――といふ意味は、何も無産階級の文學が必ず『救ひ』を豫定しなければならないといふのではなく、ありのままの現實をありのままの問題として提供することの意味も認めるのであるが、桃色の消毒紙や腐爛せる梅毒や、その他あらゆる醜と惡とのかぎりを盡した文字の驅使が、彼れの宣傳文學にいかなる『必要』を有するかの疑問である。

『三等船客』の處女作以來、私はこの作者の藝術衝動の低調をつねに感じる。それがため、取材の特異と構想の雄大にもかかはらず、世評に追隨して彼れをプロレ大將に祭り上げることを躊躇させたが、今にしてこの『太陽の黒點』を讀了するにあたつても、最初の印象を深めやうとも薄めるところはなかつた。

未來社會に對する使徒的渇望は、彼れにおいて少しも嘘はないであらう。しかし同時に、猥雜なものに對する彼れの興味が、それを凌いで遙かに強烈なことも事實らしい。その結果は、主題の中心を離れて猥雜なものに對する賞玩で道草を喰ふことになり、ひいて作品の印象を稀薄ならしめるのが毎度の通例である。當面の作品について言へば、伏字的情景に關する餘りにも執拗な饒舌は、主觀に對しての必要部分をたしかに超過してゐる。しかもそれが、科學者の冷徹さにおいて描かれず、恰も好色家の猥談らしく描かれてゐる意味で、藝術衝動そのものの未熟乃至低調を想像させるのである。

猥談かならずしも醜惡だといふのではない。又醜惡かならずしも低調だといふのでもない。例へばゾラの『巴里』に描かれた汚行は、極度の醜惡を露出しながら、なほよく藝術としての調子の高さを失はずにゐる。これに比較して、わが前田河廣一郎氏の創作は、藝術たるべき一歩手前のところで投げ出されてゐはしないか。門外漢の藝術談議もおぞましいが、私がもつて藝術衝動の低調と呼ぶのはさうした彼れの創作態度を意味するにほかならない。

新自然主義を固執するといふ彼れが、與へられた現實の寫生に專念するのは、もとより當然の理由を發見してのことであらう。だが、雜然たるがままの寫生が必ずしも藝術を意味しないことは、これも我々ふぜいが取り立てて言ふまでの問題ではない。しかるに、往々にして前田河氏の創作には、玉石混淆の現實がなまのままで放り出され、それが寫生の故をもつて肯定されてゐるらしく思へる。『太陽の黒點』にも、さうした部分が隨所に發見された。これを渾然たる藝術たらしめるには――などと餘計な文句は省略するが、それほど『自然的』であることを固執するにかかはらず、彼れの作品は甚だしく『不自然的』な條件を平氣で使用してゐる場合が多いのはどうしたものか。

東京の場末を條件とするかぎり、彼れの題材とした六軒長屋のごとき存在、即ち曲りなりにも藝者屋と名のつくものと乞食同樣の行商人が壁一重で雜居したり、またその同じ長屋で、常磐津と長唄の師匠に挾まれて賣文生活の社會主義者や、夜警の老爺とその娘たる女工の家庭があつたり、如何に空想は自由であらうとこんな場所は考へることが出來ない。而もその長屋が、牛小屋を改築したものと聞いては、場末の發展がいかに無政府的であつても、決して東京近郊に存在の可能性を見出し得ないのである。さうした不自然に出發するこの長屋の出來事が、あらゆる不自然で讀者を面くらはせること勿論だが、それをしも新自然主義だとは彼れも敢ていはないであらう。

それもこれも、宣傳のためとあらば野暮はいはない。その代りといふのも變だが、利率の均等主義だの、鷄の毛虱だの、およそ日本人の語彙と常識で判斷しかねる文字は、これから願ひ下げにして貰ひたいのである。更にもう一つは、冒頭の一句である。これは鈴木彦次郎氏が『文藝時代』に發表した出世作の題名と一致する意味で、いかにも氣のきいた書き出しではあるが、それも今度から願ひ下げにして貰ひたいのである。

池谷信三郎氏の『橋』

新時代の作品が、無産階級の苦悶か、さもなければ有産階級の享樂かを取り扱ふのを有力な特色にかぞへるなら、前田河氏に對して池谷信三郎氏の『橋』は、後者の代表的な作品と言ひうるであらう。もつとも享樂といつても、その意味は紀文大盡や淀屋大盡の豪奢と指すのではなく、來るべき日の滅落を豫想しながら、またその運命を將來に肯定しながら、なほ現在の生活を享樂するといふ輕快なそれである。

『橋』は新時代の叙情小曲である。菓物の香氣や、太陽の光線にめぐまれた新時代の健康である。

扱はれてゐる事件が日本での話なのか、それとも外國での話なのか、登場する人物が日本人なのか外國人なのか、そんなことは少しも問題にならないほど、それほど國際化されたある種の『新時代』が描かれてゐる。もつと明白にいふと、資本主義の或る段階への發展が、國境的差別を超越してかうした種類の男女と戀愛とを出現させるであらうところのそれが、叙情詩的にまた象徴詩的に描かれてゐるのである。

交通の發達に伴つて増大した資本家的社會の生産は、やがて生産それ自體を増大するため交通の極度なる發達をうながす。汽船によつて海路を連結し、飛行機によつて空路を開拓した今日、ロンドンと二ユーヨークと東京とは、文字どほり一葦帶水の關係に置かれてゐる。かうした時代において、風俗や文化の交流がもつとも迅速に行はれるのは當然で、價値を尺量する單位さへ『店員が彼の身長を米突法に換算した』とこの作者もいふやうに、共通の標準を採用することに結果したのである。即ち資本主義下における『平均化の傾向』と呼ばれるのがそれである。銀座の行人にみる服裝は、かくして、ホリーウツドの男女活俳に共通性を發見する。そして誰も彼れも、棲息する社會の機械的な、取引的な、乾燥的な生活法則の桎梏から逃れようとして、瞬間の燃燒的な享樂を追求するやうになる。

『この國の生産を人口で割つただけの仕事は充分過ぎるほどしてゐる。だから、この國の贅澤を人口で割つただけの事をしてもいい譯だ。』――彼の主人公が考へる人生觀は、苦痛なる生産生活の代償を消費生活の享樂に求めようといふのだから、横から見ても縱から見ても『時代の子』たる資格を失はない。現代の享樂的な傾向は、八時間の勞働と八時間の睡眠に餘す八時間だけの殘務で、それ自體がすでに取引的な時代色を表明してゐる。戀愛にしてもその範圍を飛び越えることが出來ない。『一人の戀人を守るといふ事は、一つの偶像を作る事だ』からである。そんなら貞操はどうか。『若し彼女が貞操を守るとしたら、それは善惡の批判からではなく、一種の潔癖、買ひ立てのハンケチを汚すまいとする氣持からなのです。……彼女にとつて、貞操は一つの切子硝子の菓子皿なのです。何んかの拍子に、ひよつと落して破つてしまへば、もうその破片に何んの未練もないのです。』

戀愛は感情の閃光、貞操は肉體の雷火、いづれにしても永遠を約束するものではない。

かういふのが新時代であるのか、また新時代がこれでいいのであるかと言つたところで、それを『善惡の批判』で解決することが出來ない問題である。善くも惡くも、人間生活を支配する社會法則がかうした時代を不可抗的に出現せしめたといふだけの問題である。池谷氏の作品には、むしろノンセンスと思はれるこの物語を書くに、極めて適切な神經と知識を用意してゐるらしく見える。そしてそれを、如何にも輕快な筆致と豐富な語彙で連結し、象徴的な手法によつて一篇の叙情詩をつくるに成功してゐる。隨つてこの物語が、日本の帝都のどつかで行はれたらしい情景と事件であるに拘らず、前田河氏の場合とは全く反對に、少しも不自然な感じを與へないのである。

『風吹けば動的美を現す』といふ斷髪美學も、高速度輪轉機や、必然性や、精神鑑定や、階級公轉論や、チヤイコフスキーや、シヤルムーズや等、等の縱横なる驅使によつて、いかにも新時代らしい形態で表現されてゐる。そして『橋』の彼方にかくされた女の正體と、來たるべき時代の正體とは、霞をへだてたままに讀者の網膜を刺戟するであらう。

佐藤惣之助氏の『一市民の線畫』

池谷氏の『橋』がどつか造園的であるに對し、佐藤惣之助氏の『一市民の線畫』(大調和六月號)はいかにも野性的である。前者がヨリ精神的なら後者がヨリ肉體的、ヨリ都會的ならヨリ田園的、ヨリ叙情的ならヨリ牧歌的といつたごとく、極めて面白い對照を示してゐる。時間的にみても、前者が資本主義の高度なる發達段階を代表してゐるに對し、後者は資本主義への發達過程を代表してゐる。

『一市民』と呼ばれる田川庄太郎は、何かといへば腕力を持ち出す無頼漢である。無頼漢ではあるが工業都市として急速な發展を遂げた一市の政治を壟斷する實力があり、妾を二人、雇人を三十餘人、家作を二十軒も所有してゐる。彼にはまだこの都市が、わづかに中間の小驛として存在を保つにすぎなかつた時分、即ち年齡にして十歳から馬丁となり、十三歳で電信配達、十五歳で人力車夫、十七歳で外國人の狩獵案内者といつた風に商賣を代へ、露店取締から挽子大將、それから保險代理店と、彼れの棲む町の増大と共に商賣の手を擴げたのである。一方有力者としては、町會議員から郡會議員となり、市制が布かれる頃には彼の勢力が隨一なものとなつてゐた。更にまた、彼には、第一の女工あがりの妹に工學士技師を配してカフエーを經營させ、第二の白痴の妹に老いたる前科者を配して養鷄場を經營させ、第三の小妹に實直な四十男を配して樂器店を經營させ、二人の妾にも料理店と玉突場をそれぞれ經營させるといふやうに、天然の富と人物を利用することに非凡の才分を示したのである。彼れはかくして彼れを連結する五本の電話線により、安全に全市の血脈を統制することが出來たわけである。

しかし田川庄太郎は無頼漢である。『さうだとも、俺は獸だ、獸だから上品な祕密主義は大嫌ひだよ。見ろ、俺は裸一貫だ』と名乘つてゐるやうに、過剩な精力を發散するために亂暴をはたらく場合がある代り、市政に對しても同等の權力を傾注するので、善くも惡くも彼れを除外するわけに行かない。作者の言葉を藉りるなら、彼れは『難破船や壞れた橋を修繕するための、一種の勞働蜂のやうにこの市になくてならない人間』である。『彼を見ればこの市が解る。市の魂が見える。彼はこの市の靈の一つの型である。』

資本主義は野卑でもあり不徳でもある。弱肉強食の事實が横行し、人をして顏を背けさせることも多い。しかし、人間生活に必要な物質的富の生産に貢獻し、利用厚生に資するためには、必然的に一たびは經驗しなければならなかつた社會進化の過程だとも言ひうる。佐藤氏の描いた工業都市を表象する田川庄太郎は、その意味で資本主義の精神と活力を表象するものであり、同時に『一市民』の運命描寫は直ちに『一都市』の運命描寫たり得た所以でもある。天然の富と人材との遺憾なき利用は、それが資本主義に於ける特色であると共に、また田川庄太郎の特色でもあつた。かくして彼れの過去は、彼れの棲息する都市の資本主義的發達の過程を體現し得たのである。

佐藤氏の意圖が、はたしてその效果をねらつたかどうかは疑問である。むしろ彼れの引用せるエマーソンの言葉から察しても、ヨリ多くの田川庄太郎の無頼漢的存在に與味を感じ、その運命を傳へることに意味を見出したのではないかと思はれる。それがためか、都市の發達に寄與する主人公の性格もぼかされ、せつかく大仕掛けな題材を提供しながら、時代の焦點をはづれた印象をさへ伴はしめたのではなかつたか。單獨に孤立せる興味をヨリ多く全體的に觀照し、都市の運命を個人の記録を通して寫映しうれば、恐らく現在の效果を倍加し得たであらうと考へられる。

片岡鐵兵氏の『金錢について』

地球の死滅といふ天文學的見地から、嘗てこの作者が彼の新感覺主義を是認した文章を見たことがある。地球の冷却をまつまでもなく、人間の定命は古來五十年と相場がきまつてゐる。さりとて大業な理窟を擔ぎ出したものではないか。それが新時代であるなら、一杯の盃に無情を托したエピクロスの昔から、紅き脣あせぬ間の戀愛を歌つた與謝野鐵幹まで、ことごとく『新時代的』であらねばなるまい。などと、餘計なお談議は遠慮するが、この一篇の小説は何も地球冷却説に關係したものではない。『此所の閑寂な風物の中に、最もヴイヴイツドな生活力を持つものが二つある。彼といふ都會人と、今路ばたの青草の中に落つこちて僅に光を吸つてゐる白銅貨と、この二つである』と、序詞の一文に書いてあるとほり、恐らく都會人と金錢の交渉を描くつもりであらうが、未完となつてゐるので意圖のほどはわからない。

『この社會と經濟的な交渉を持ちながら生活してゐる程度の如何で、人間に厚みや幅が出來るのだと彼は感じてゐる。』この彼れといふのは、ブローカーを商賣とし、シヨツプ・ガールを妻君とするところの流行的近代青年である。片岡氏はこの人生觀を主題として、生きた社會の金錢取引に從事するものが、如何に輕快で溌溂とした存在であるかを語らうとしてゐる。『生垣の中の四間の家に、四人の家族が住んでゐた。』最近病院の書記を馘られた父親と、四十女の母親と、二十四歳の姉娘と十六歳の息子とが全員である。もう一人、つい一ケ月前まで賣子をしてゐた妹娘も住んでゐたが、例のブローカーを勝手に選擇して郊外に家をもつてゐる。

この二つの家庭は、光線の直射に面する裏と表ほどの暗さと明るさを代表してゐる。そして臺所の仕事に沒頭する姉娘は、その暗さの故に妹娘の明るさに蹴をとされ、新婚の夫婦のオルガンごつこに焦慮を感じてくる。『自分はかうしては居られないのだ。どうかしなければならないのだ。』それは漠然たる性慾の焦燥であるらしいが、何かなし活動的な明るさに對して憧憬が向けられる。姉娘はかくして妹婿の『惡食』の對象とされるが、彼女は彼女で『自分がわざと彼の計に乘つて妹に復讐した』つもりであり、しかも『侮辱されることで以て復讐する事が出來た』ことに、一種の慘虐な勝利感をさへ覺えるのである。

『もう妾は誰をも怖れない。こんな面白くもない家の臺所にばかり、くすぶつてゐる必要もない。あたしは出て行かう、人中へ、世間へ。』――彼女は保險會社の外交員を志願した。その結果、わづか一週間もたたないうちに、彼女は見ちがへるばかり化粧上手になり、溌溂たる明るさを加へて行つた。『彼は何となく、妻の姉を情婦に持つことが、明るいロマンスに思はれて來出したのだつた。これは不思議な變化だつた。初めて彼女に觸れた時は、あとであのやうに不愉快で、物をいふのも慘めな氣持ちだつたのだが、此頃はまるで違つてゐた。彼はもはや、惡食の感じなしに彼女を抱くことが出來た。』

かういふ變化はどこから來るのであるか。『十分に此世の中の生産關係の中で動いて居る人間の情けには少しの氣味わるさも、不愉快な感觸もなしに愛してやることが出來るのであつた……』

主題が明瞭であるにかかはらず、この心理の變化は少しく唐突である。『職業を持つたからとて、一躍して男を惹きつける魅力まで備へて來たやうに思ふのは、自分の良人のわるい妄想だ』と考へる妹娘と共に、私もこの作者の概念に抗議を申し込みたいのである。しかし、かうした部分をのぞいてはそれが彼れの名譽であるか不名譽であるか知らないが、いかにも觀照の自然主義的な正確さは、その冷徹な心理解釋とともに新進作家らしからぬ冴えを見せてゐる。殊に最初の接觸に至る前と後の心理描寫や、オルガンごつこから次第にヒステリツクになつて行くあたりの心理描寫は、正宗氏あたりに見る一種の『意地わるさ』をさへ偲ばせるものがあつた。

しかし、この作者に取つて、かうした批評はむしろ有りがた迷惑と感ずるところであらう。それよりは、せつかく見出した主題の『金錢について』の效果を欲すると思はれるが、惜しいかな、この方は前篇だけだが十分といふことは出來ない。

人間が支配すべき筈の貨幣に、かへつて人間は支配されることの皮肉――これは最近、正宗白鳥氏が盛んに文藝時評で論じてゐる問題だが、かういふ題材は『書齋で人生を思索してゐる文學者』に取つて、餘りに複雜でもあり辛辣でもあり過ぎる。つまり荷が勝ちすぎるのである。それよりは『待合で唄を歌つてゐる相場師』がよく知つてゐる。片岡氏はみづからそれを肯定しながら、なほ彼れが思索家たる事實を一歩も出でなかつたため、名詮自稱で、『厚みや幅のない』作品を提供するに結果した。これに比較して宮島資夫氏の『金』などは、たとひ素材のままなる感じを與へるにしても、マンモンの繰る一本一本のカラクリに對しては明確な把握があるため、いはゆる文壇人には描き得ない効果を収めたのである。

社會の經濟活動に當事する人々が、時代の先端を切るといふ解釋はそれなりに正しい。しかしさうかといつて、一旦の職業を得たため急速な轉化が行はれるといふのは、待合において見ずして書齋において見たからに外ならない。片岡氏はかくして圖らずも、自己の主題によつて自己の弱點を暴露した。だが、それは必ずしも小説としての失敗を意味するものでなく、おのづから別個の意味を指摘してゐるのである。


以上四氏のほか、藤森成吉氏の『速力默示録』(新潮六月號)を始め、二三の時代的問題を扱つた作品の批評をするつもりだつたが、下手の長談議もどうかと思つてこの邊で遠慮する。當初の創作批評がいつの間にか創作解説となり、おまけにやれ資本主義の無産階級のと、花見の長刀ぶりを發揮したらしい。しかし、さういふ批評も、私の知る範圍ではまだお目にかからなかつたやうだから、一種の時代批評の變形として諒承して頂きたいと思ふ。

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