最後の鬼面藝術

高畠素之

生前の芥川氏とは面識があつた譯でなし、また作品に對しても、どつちかと言へば無縁の衆生だつた私である。氏の自殺に對する事情調査や心理分析は、隨つて私として適材でないことはよく承知してゐる。ただ一の社會事實として、氏の自殺の『型』に於ける或る種の『新しさ』の發見が、巧言令色をヌキにして面白いと思へたので、妄評多謝の責任を引き受ける氣持となつたに過ぎない。

夕刊のなかつた翌日の朝刊で、特號の見出しでそれを知つた時は、さすがに胸奧の反應があつたことを記憶してゐる。同時に、又しても模倣自殺者が現れるであらうことが思ひ合はされ、一瞬時その苦々しさが先に立つたのも事實である。が、肝腎の氏の自殺に對しては、それが、意表の外のやうでもあり内のやうでもあり、不圖さうした種類の自殺ぢやないかと考へられた點が、例の遺書を讀んで行くあひだに次第に明瞭となつて來た。それほど氏の死に方は、如何にも氏らしい特色を濃厚に表明したものであつた。――といふと、どうやら達見を誇りたさうな口吻になるが、それは氏が自殺したればこそで、自殺しなくとも、それなりに少しの不思議も感じなかつたであらう。死者を始め、その遺族や知友に對しては失禮だが、懸賞の判じ物を當てようとする程度の醉狂な興味で、與へられた自殺といふ事實を前に、ただ『彼ならさうもあらうか』と推量したことが、幸か不幸か適中したといふに止まつてゐる。無縁の衆生たる私にして然りとすれば、氏をよく知る限りの人々は、如何にも氏らしい死に方をそこに發見したであらうと思はれる。『自殺者は何のために自殺するかを知らないであらう』といへる氏の『經驗』を尊重すれば、あれやこれやと動機を穿鑿するだけ無駄な話だが、しかし、『或舊友へ送る手記』に於ける氏の心境は、新技巧派と呼ばれた氏の創作手法に少しの歪みも見せないほど、それほど理智的な神經の躍動をうかがはれるのである。

實際、これは少しく氣障な言ひまわしになるが、芥川氏の最後の力作たる『自殺』は、彼れの藝術の當然なる發展の上に築きあげられたものであつた。その意味を逆面的に説明すると、自殺の方法が如何にも技巧的であつたばかりでなく、死の恐怖に對する不斷の理性的努力をもつて、やがて自殺をさへ一の遊戲の境地に冥合せしめ得た點が、如何にも彼れの藝術を髣髴たらしめるからに外ならない。そこに時代的な或る種の『新しさ』を發見すると共に、多少の語弊があらうにもかかはらず、私が敢て『面白い』といふ所以もある。

先づ順序として、氏の藝術に對する私の所感を披瀝することにより、かうもあらうかといふ推論を展開したいと思ふ。

蛇に怖ぢざる盲人の勇氣を借用すれば、私は氏の藝術に大して感心しなかつた一人である。當初の古典翻案時代から中道の南蠻懷舊時代まで、折りに觸れ時に及び、だいぶ讀むには讀んで來たつもりであるが、あれが肌合ひが違ふといふものか、どうも親しく溶けこんでは行けなかつた。奇智と逆説と反語と、そしてあの才學と能筆とは、一脈の詩情と相俟つて獨自の藝術境を開拓したことを認めるには躊躇しない。『なるほどこれが藝術といふものであらうか』と、門外の素人なりに一應の敬意を拂ふ反面には、また『これだけが藝術であらうか』といふ不滿も感じられ、氏の領有する文壇的地歩に對しても、餘りに高く評價され過ぎてゐやしないかと疑つたことさへある。その感じは今に至るも變りはない。

私の氏に對する第一の不滿は、何よりもソツがなさ過ぎたことに置かれる。理智の積木細工に如何にも名人らしい彫琢をほどこし、懷古の燻しで一刷毛なすつた色合ひは、氏ならでは求められなかつた製作であるかも知れない。だがそれは、或る種の雛形的な藝術を意味するだけで、それ以上の何ものでもなかつたやうに思はれる。なくもがなの衒學や奇才が、餘りに縱横に驅使された結果は、却つて氏の境地を歪めて見せた場合が少くなかつた。

その傾向は創作に於ける場合より、感想や隨筆に於ける場合が露骨であつたやうに思ふ。例へば『文藝春秋』の卷頭に連載された『侏儒の言葉』の如き、世評はどうであつたか判らないが、私に取つては退屈きはまりなきものであつた。『芥川龍之介もいいか知らんが、獨りよがりのアホーリズムだけは願ひ下げにして貰ひたい』など、その話が出るたび遠慮なく放言したことも記憶してゐる。『改造』で呼び物の『文藝的な餘りに文藝的な』も、題名だけはニイチエを髣髴させるやうだが、内容は理を詰んでも考へ落ちにさへならぬものが多かつた。殊に谷崎潤一郎氏との論戰などは、故意か無意か、論點を遠卷きにして中心に觸れず、傍の見る目をずゐぶんイラ立てたものである。勿論それは、氏の頭の惡さから來てゐるのではない。頭腦は遺憾なく明敏なんだが、趣味といはうか習癖といはうか、好んで直接なる花の美を眺めようとせず、いつも霞を隔てて效果を添へようとするため、肝腎の花が霞に遮られて見えなくなるのである。

新技巧派と呼ばれ、新理智派と呼ばれるのは、かうした氏の面目を穿ち得ての批評であらうが、私のやうな端的な性格には、それが全く無駄な道草のやうに考へられてならなかつた。そして時には、心情の髓蕊に突入する一段の勇氣を望みたいやうな氣もしたのである。その意味で、例へば『秋』といふやうな小説は、一流の造形美術的な臭味はまぬかれないにしても、懷古趣味を出さずに生きた現代人の心理を取り扱つたものとして、まだしも好感を持てたことを覺えてゐる。

芥川氏が懷古趣味に踏晦したのは、氏の藝術を生かす最善の方法をそこに發見したといふよりも、更に、性格的な必然の理由を孕んでゐるかのやうである。反社會的といつて惡ければ、反俗人的な異端者氣質があらゆる『現代』に於いて、氏の藝術を見出すことを拒んだ結果であらう。昆蟲の觸角にも似たる纖細な情感と、白金の留針にも似たる尖鋭な智慧の所有者が常にいつも反社會的な人間となるやうに、氏もまたその一人ではなかつたかと考へられる。

ただ氏に於いては、さうした異端者氣質を有つ一面に、それに盲信すべく餘りに現代の紳士的要素を有ちすぎてゐる。これは勿論、氏の教養に負ふところであらうが、その點が『聰明』といふより『怜悧』といふ言葉を想像させる部分である。藝術を精進するには熱意を缺き、俗務に沒頭するには潔癖が勝ち、右往するにも左往するにも、一の要素と他の要素とが干渉し合つて、その物理學的作用が妙に歪められたる『芥川龍之介』を作り上げたのではなかつたか。これは極めて常識的な解釋であるが、キリシタンの殉教に美を追慕する氏と、ジアーナリズムの露惡に正を肯定する氏との間には、誰しも溶化しがたい矛盾を發見したことであらう。

私の目に映じた芥川氏は、人間も藝術も、秀才型ではあつたが、天才型ではなかつた。怜悧といふ形容詞は適合するが、もつと深い意味での聰明は大して惠まれてゐなかつたと思ふ。ただ先天的な才氣と後天的な教養を遺憾なく驅使することにより、それを靈魂の上の聰明らしく振るまつたに過ぎない(らしく見られた。)それだけ、どつか『鬼面人を壓す』といふ慨があり、時々は嫌味をさへ感じさせはしなかつたであらうか。氏を直接に知らない私として、なるべく斷定的な言葉は避けたいと思ふが、創作を見ても隨筆を見ても、常にさうした印象を與へられたことを悲しむ。隨つて私は、彼れの藝術を奇智や逆説に紛飾された鬼面藝術と解し、世評とはまた違つた意味で、理智の所産たることを肯定してゐたのである。むしろ、氏の如き性格の人が藝術に進むとすれば、ああした形態を取ることの悧巧さを認めてゐたといふ方が適當であらう。それだけ猫や杓子が、氏を隨喜渇仰してゐるのを擽つたく思ひ、その文壇的地歩に對しても懷疑的ならざるを得なかつた。

誤解を防ぐため一言するが、さればと言つて、氏の藝術が全く下らなかつたといふのではない。特異な立場は十分に認め、新しい境地への開拓を認めるにも吝かではない。ただ、鬼面はつひに鬼面ぢやないか、といふのが氏の藝術に對する忌憚なき感懷だつたのである。

見えすぎるほど自分が見えたらしい芥川氏が、這般の消息にのみ鈍感だつたとは考へられない。恐らく自分の弱點は他人以上にわかりもし、それで無難な懷古趣味を保護色に擇んだとも考へられるが、人こそ知らね、内心の悶惱は『クオ・ヴジス芥川』を反問したことがなかつたかどうか――

遺書に現れた芥川氏の心理は、單にそれだけを表面的に見れば、徹底境に悟入した哲人の面影が躍如としてゐる。鬼面藝術の作家と誹議した私は、當然その不明を陳謝しなければならぬやうでもあるが、實はそれ自體が鬼面藝術の最後の傑作だつたと言ひたいのである。つまり、最後の至寶たる生命の放棄をさへ、如何にも彼れらしい鬼面で藝術化したところに、百まで踊りを忘れざる雀の本能を發見するからである。彼れは自分の毒死をさへ、如何にも理智的に客觀し得たと共に、その方法を如何にも技巧的に處置し得た!

自殺といふこと、これは戲談や醉狂でやれる藝當ではない。死に至るまでの苦痛は素より、死後の生命に對する漠然たる不安は、人間を自殺の危險から嚴重に遮斷してゐる。それだけ最後の一線を突破するには、容易ならぬ努力と勇氣を必要とするのであるが、芥川氏もまたこれは可成り深刻に經驗したらしい。ただ氏にあつては、自殺に伴ふさうした英雄主義に甘えるべく、餘りに理智の判斷が明晰であり過ぎた。これが氏をして、ともすれば自殺者の陷りやすき自己崇拜と自己陶醉から一歩を進出せしめ得た所以である。即ち自己を『神』としたい慾望の如何に古いかを感じ自ら『大凡下』として死ぬことに少しの不服を感じないまでに洗練し得て、むしろ『人間獸の一匹』が『色食にも飽いたところを見ると、次第に動物力を失つてゐる』ことを客觀し、極めて平民的(!)に我れと自らの命を制し得たのである。『僕は冷やかにこの準備を終り、今は唯だ死と遊んでゐる。』『僕の今住んでゐるのは、氷のやうに澄み渡つた病的の心理の世界である。』

かくの如き悟道は、如何にも芥川氏らしい特色を偲ばせる。同じ高嶺の月を眺める人間道の修業は結局のところ、途端場に直面して死の恐怖を如何に切り抜けるかの努力だらうが、芥川氏の擇んだ道は安易な登山口からでなかつただけ、心ごころなる月見る人々の群にあつても、特に異色ある心境に安んじ得たことと察せられる。

芥川氏が、如何にも理智的な眼光で死を直視し、やがては彼れ自身の心理をも、彼れの小説の主人公に對すると同じ興味を以つて冷靜に解剖することに於いて、從來のあれほど貴族的だつた自殺を平民的なそれに引き下げたのは面白い。これは確かに類型を破つた自殺である。もちろん宗教的でもなければ、道徳的でもあり得ない。強いていへば藝術的といふのだらうが、それも東洋的でなくて西洋的である。

如何にすればヨリ苦痛でなく、同時にヨリ醜惡でなく自殺し得るかの方法を毒死に發見してから、自殺手段に對する彼れの細心な注意は、遺書のほとんど全面を埋めるまで詳密に書かれてゐる。あれで見ると、單に理智的とか計畫的とかいつても足らないほど、それほど科學的な正確さの上に立脚してゐることが認められる。かくて芥川氏の自殺は、藝術的なばかりでなく科學的でもあり得る。

『誰れでも皆自殺するものは、彼れ自身にやむを得ない場合に行ふ』といふ以上、また『自殺者は何のために自殺するかを知らない』といふ以上、芥川氏の自殺の動機は『少くとも僕の場合は……僕の將來に對するボンヤリした不安である』ことを信用するの外はない。將來の不安なるものが有形的か無形的か、或は有意的か、無意的かそんな詮議も一切は無用である。まして新聞記者連の解釋のやうに、固疾の肺結核とか、神經衰弱とか、家庭的煩悶とか、無論それらは『動機の全部』でないに違ひない。あれやこれやが累積して、久米正雄氏のいふ『人生觀上の問題』を形成したものであらう。

しかし、人生觀上の問題もよりけりである。芥川氏の持つた人生觀上の問題が、如何なる種類の煩悶であつたかにより社會的な重要性は決定される。社會的と云ふのがオセツカイなら、自殺者に於ける自殺の『意味』の厚薄が決定されるのである。

遺書に依れば、芥川氏は彼れの先驗者と同じく、生きることの淺猿しさと反對に死ぬることの平和さを欲してゐた。それだけでは別に新味はない。しかし、理智的なあまりに理智的な彼れはやがて自分自身の死さへ冷靜に客觀することに依り、如何にすれば最も容易に自殺し得るかに努力を集中し、他人の運命と同列に自分の運命を解剖してゐる。更に、次第に、自殺の方法や手段や場所を考究するうち、いつの間にか自殺そのものに對する親愛感を増したらしく、恰かもそれが最初からの目的であるかのやうに變化してゐる。これは驚くべき心境でともすれば、センチメンタリズムやヒロイズムの馬脚を露出したいところを、かうも日常茶飯的に片づけてゐるのは、舊來の自殺者には見られなかつた新型である。殊に自殺に依つて家が賣れないことを心配したり、幇助罪の不成立を彌次つたりの漫歩ぶりは、そこに一脈の衒氣や稚氣の餘映を止めながら、それなりの『悟り』を如實に傳へてゐる芥川氏なればこそ、この言葉は善惡の兩義に取つて貰つて差しつかへないが、芥川氏なればこそ、これは始めて到達し得た悟道の心境であらう。

同じく人生觀上の原因といふ理由で、親友の久米氏は北村透谷と彼れを比較した。だが、透谷の息づまるやうな英雄主義的自殺に對して、これはまた何と輕快に平民主義を發揮したことであらう。一方は主觀的で他方は客觀的、社會的には全く正反した類型を代表してゐる。それにしても、芥川氏のやうな自殺態度は、少くとも日本では最初の型を示したものと言つてよい。西洋だとて、小説や戲曲に描かれた繪空事としてならとにかく、實演としては餘り類似がないであらう。私が芥川氏の自殺を敢て『面白い』と稱するのは、かうした新型を氏によつて發見したからである。

芥川氏のやうな性格は、容易に自殺し得ないと共に、容易に自殺し得る可能を兩面に備へてゐる。その點が、有島武郎氏などの場合とはよほど意味を異にする。私が意表の外のやうでもあり、内のやうでもあると言つたのは、彼れのさうした理智的な傾向に對してである。而も自殺した以上は、これに導くべき要素が如何に錯綜してゐても、恐らく發作的な衝動に身を委せなかつたであらうと察した如く、彼れは如何にも理性的な計畫の上に事業を完成したのである。藝術の上では無くもがなと思はれた衒氣や稚氣は、それあるが故に却つて一種の仙味を印象させ、自殺そのものをも容易に事務化し得たわけである。私はさういふ氏の性格に特異性を見ると共に、さういふ特異な性格に濃厚な時代色を認める。

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