侠客

高畠素之


村松梢風氏の『騷人』といふ雜誌で『私がもし侠客だつたら』といふ質問を各方面の知名の士に出した。その回答が同誌十一月號に載つてゐる。なかで一番私の注意を引いたのは、『昔の眞の侠客のやうに、權力階級を向ふへ廻し一戰をやります。』といふ中西伊之助君の回答であつた。これに類似のものが、ほかにも二三あつた。

これでふと思ひ浮べたことだが、昔の侠客といふものは、果して中西君等のいふ如く權力階級を向ふへ廻して戰つたものか、どうかといふことである。同じ雜誌に載つてゐる白柳秀湖君の有益な文章によると、江戸の町奴は旗本の横暴に對して、町人や大名の用心棒になつた。地方の侠客には、日本左衞門などのやうに百姓一揆の首領となつたものがあり、天明の大饑饉に續いて江戸にも鼠小僧や因幡小僧のやうないはゆる義賊といふものも出たが、文化文政以後の博徒の大親分と稱せられる侠客は、たいてい皆一方に官憲の御用ききを承つてゐた。

一體に博徒系の侠客は、警察權との間に默契があり、元締系の侠客は大名や町人との間に密接な關係があつた。今日の言葉でいへば、前者は官憲、後者はブルジヨアと結びついてゐたやうなわけであるが、これも商賣柄やむを得ぬことであつた。博徒は官憲から大目にみて貰ふ代りに、その御用をつとめる。人入業の得意先は、大名屋敷や下町のブルジヨア大家であつた。そこへ周旋される人間材料も、單に下郎下男といふやうな實用向きの人間ばかりでなく、腕力のある浪人者などを絶えず用心棒として供給してゐた。

かういふ風であつたから、自然、旗本と大名との軋轢が兩種の侠客の關係にも反映した。人入業の元締たる幡隨院長兵衞と博徒の大親分たる法華長兵衞との爭ひなどにも、幾分かういふ反映が加味されてゐたであらうと考へられる。

この關係は、現代にも尚殘つてゐる。例へば、關東國粹會と大和民勞會との對立の如きは、その一例である。關東國粹會は博徒系だから、自然、官憲(警察權)に對して頭が上らぬ傾きがある。官憲は歴代政友會の掌中にあつたから、原敬、古賀廉造氏等の肝煎で出來たといはれる國粹會が、政友系の用心棒たる傾向を示して來たことは不思議でない。

これに反して、大和民勞會は主として請負師系の大親分から成つてゐた。請負師は正業だから、格別警察權との間に深い縁故を結ぶ必要もない。權力階級との關係からいへば、職業の性質上むしろ農商務方面や、代議士や、富豪や、その他各種の權門勢家と結び易い位置にあつた。それだから、民勞會の方は、或る一定の政黨と特殊の關係をつくることがなかつた。國粹會の政友系に對立させて、民勞會の憲政系を喋々する者もあつたが、實際それ程のことは無かつたであらうと思はれる。

以上の事實から推して考へても、侠客といふ者が、必ずしも權力階級を向ふへ廻して戰つたものでないことは、今も昔も大して違ふところはないやうだ。侠客といふからには、侠氣男氣の體化であり、強きをくぢき弱きを助けるといふことが、その最も特徴的な氣風となつてゐるが、かういふ氣象氣肌と、職業上の必要から來る官憲や權力階級への叩頭とは、格別矛盾するところなく兩立して來た。といふよりも寧ろ、この兩者の間には一脈の因果關係があつたとさへ考へられる位だ。『權力階級を向ふへ廻して一戰』するやうな行き方の人では、社會主義者にはなれても、侠客には到底なれなかつたであらう。

私慾の固りのやうな人間でも、熱烈火のごとき共産主義者であり得るのと同樣に、官憲やブルジヨアの手先を勤める大親分が強きをくぢく仁侠の標本であつたとて、何もそんなに不思議がるに及ばない。人生は複雜である。

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