鬪犬雜話

高畠素之

私は道樂のない方で、酒や女は固より、詩歌管弦といふやうな上品な方面になると尚更縁が薄く、勝負事は一體に嫌ひな方ではないが、やると深入りする虞れがあるから、時間が惜しくて一寸手が出せない。ただ、鬪犬だけは三度のめし位好きである。今はやめてゐるが、一二年前迄は可なり深入りした。これからでも生活に多少餘裕が出來たら、何は扨て措き先づこの方面に發展しようと考へてゐる。

ただ、警察がうるさくて困る。昔は公然許してゐたが、かの安樂兼道といふ男が警視總監だつたとき嚴禁して、爾來それなりになつてゐる。その筋で鬪犬を惡いとする口實に二つあるやうだ。第一は賭博、第二は殘酷といふことだが、いづれも取るに足らざる空論である。

鬪犬で賭博をする奴もあるにはあらうが、さういふのは遠慮なう刑法の賭博條項で處罰したらよからう。花札や骸子(さい)で賭博をする者がザラにあるからといつて、これらの物の製造販賣を禁じては居らぬ。賭博といふ段には、相撲や選擧の取組で賭博をする人間の方が少くないであらう。それだからといつて、相撲や選擧そのものが賭博だといふ結論にはならぬ。賭博は賭博、相撲は相撲である。賭博のとばちりを相撲や鬪犬に持つて行くのは、自殺の責任を刃物や猫いらずにきせるのと同じく、一向に筋みちの通らぬ理屈である。

次に鬪犬が殘酷だといふ御託、これも頓と呂律が廻らぬ。交尾期の犬にとつて性慾の充足が無上の快樂であるのと同じく、鬪犬にとつては戰鬪本能の命ずるところに從ふことが最大の快樂である。交尾期の犬に交尾をさせることが殘酷であるか、させないことが殘酷であるか。如何なる慾望も、充たされないところに苦痛を伴ふものである。殘酷とは、第三者の苦痛の主觀的再現にほかならぬ。鬪志滿々たる犬にとつては戰鬪させないことが最大の苦痛であつて、戰鬪の實行は慾望の滿足である。

鬪犬の戰鬪本能は、あらゆる犬の普遍的鬪爭本能を人爲的に淘汰し、強調し、個性化したものである。量の差は質の差を決定する。鬪犬のうちに蓄積され集中された戰鬪本能は、あらゆる犬に共通した自然的の鬪爭本能とは質的に一致するところのないものである。だから、鬪犬としては野良犬(普通の犬)を見ても相手にしないことが原則となつてゐる。鬪犬をして、強いて野良犬を咬ませるならば、それは成るほど見るに忍びぬ殘酷であらうが、鬪犬同志の戰鬪はこの意味の殘酷を微塵も聯想させるものでない。

一口に犬の喧嘩といふが鬪犬の戰鬪は單なる喧嘩でない。寧ろ眞劍仕合といふべきものである。その證據には、喧嘩に伴ふ普遍必然の諸現象は、鬪犬にとつては最も忌むべき條令となつてゐる。例へば、咬む時に唸りをあげ、咬まれた時に聲を立てるといふ如きは、どんな鼻いきの粗い野良犬にも避けられぬところであるが、鬪犬にとつてはそれが非常に禁物である。咬む時にも、咬まれた時にも、全然無言たるべきことを原則とする。咬まれて聲を立てるのは、負けの最も甚だしいものである。咬む時の唸りも、嚴密にいへば負けである。

土俵に放すと同時に、無言で取組まねばならぬ。襖を隔てて聽いて居れば、ただドタンバタンの音だけで、柔道の仕合と區別がつかぬやうなのが善いのである。急所は耳と足、一方がいきなり無言で耳を食へば、食はれた方はその儘の姿勢で辛抱する。口の固い犬になると、最初の一口で六七分間も咬へ通しでゐる。それが稍々疲れて口を弛めた時、こんどは逆に食はれてゐた方のが食ふ。或は體力に著しい相違があると、最初耳を食つた方が、それを咬へた儘猛烈に振り立てる。振られた方は、まるで雜巾のやうに、くしやくしやにされてしまふが、かかる間にも相手の口が弛んだ瞬間を見定めて巧みに足を攻める。凄いのになると、足を食つたなりいつ迄も放さず、しまひにはポキポキその關節を咬み切つてしまふのがある。そんなのも少いが、とにかくかやうにして上になり下になり、千變萬化、虚々實々、全身紅に染んで鬪ふのである。大抵は、二十分以内で勝負が決する。約束に依つては、勝負のない限り二十五分乃至三十分も鬪はせる場合がある。

勝負の標準は、咬まれて聲を立てたものは明らかに負け。段が違ふと、最初に一口食はれて聲を立ててしまふことがある。犬にとつては、耳又は足(殊に踵)を食はれることが、どんなに痛いか知れぬ。普通の犬では如何に獰猛なものでも鬪犬に一つ耳を食はれれば悲鳴をあげる。それを飽くまで耐えるところに鬪犬の權威がある。

向ふ時に、齒をムキ出したのも明らかに負け。鬪ひながら逃げるのも負け。三分以上抑へ込まれたのも負け。抑へ込まれないでも、倒れた儘三分以上寢込みの形になつたのも負け。向ふ時の唸りも、嚴密にいへば(殊に三役格の犬としては)負けとすべきだが、當今はこれを大目に見ることにしてゐるやうである。

以上の負け合圖を示さない限り、たとひ食ひ殺されても負けにはならぬ。轉ぶことなどは、不見轉(みづてん)と同じで何度轉んでも差支ない。自分の方が體力の劣つたと見たら、寧ろ進んで轉ぶ位の犬でないと面白くない。かういふたちの犬は、素人目には意氣地がないやうだが、十分十二分と過ぎて行くうちに、相手の疲勞と逆比例してメキメキと戰鬪力を發揮して來る。勝ちをとるためには、少くとも負けをとらないためには、かういふ澁い犬が一番である。しかし、見てゐて氣持ちがいいのは何といつても堂々と耳をとり、威壓的に蔽ツかぶさつてゆく犬である。大體に小柄の犬は、どうしても足とり又は轉びの名人となる。人間の相撲にしても、もとの玉椿や今の大の里のやうな相撲巧者に大兵肥滿は稀れである。

鬪犬では、何といつても土佐犬が一番である。土佐犬は純粹の日本犬ではない。在來の日本犬(秋田種)に、西洋種のマスチーフ又はグレートデーンを配して造つた日本製の名犬である。ジアパン・クリエーテツトでなく、ジアパン・メードである。今では立派に獨立した一品種をなしてゐるが、僅々數十年來の産物であつて、明治以來各種方面の和洋折衷的特産中この土佐犬ぐらゐ成功したものは少いであらう。日本犬のヒステリー式機敏さに、西洋種のネバリと我慢性を配合して造つた理想的鬪犬である。

日本犬は一體に神經的で、口も早く動作も機敏であるが、惜しいかな持久力に乏しい。無茶苦茶に咬むけれども、咬まれて泣くことにかけても機敏である。食ひ振りが騷々しく粗野である。猛烈に鬪つて、あつさり止めてしまふ。この缺點を西洋種で補つたものが土佐犬であるから、土佐犬は攻勢と守勢、出足とネバリの兩長所を兼備したものといひ得る。

近頃はかやうな純土佐犬と秋田種との雜種を新土佐と稱して珍重する傾きがある。これは體力の點で土佐犬に優るが、戰鬪上の技巧、殊に持久力とネバリにかけては矢張り純土佐よりも劣るところがあるやうに見受けられる。

土佐犬には、大は十五六貫から小は七貫内外のものがある。普通、九貫以上のものを大ものと稱し、それ以下を小ものと稱してゐる。大ものは大もの同志、小ものは小もの同志取組ませる。隨つて、十貫以下の大ものは自分より體量の優れた相手と取り組む機會が多く、この不利益の埋め合せとして自然、技巧に上達して來る傾きが見える。

ものには、純土佐犬のほか、土佐ブル(土佐とブルの雜種)土佐テリ(土佐とブルテリアの雜種)等が珍重され、純西洋種の小ものではブルテリアが一番である。ブルドツグは擧動が鈍重の上に、あの擂木のやうな不細工な口では咬むに咬まれず、見かけばかりで鬪犬としては最下等の部類に屬する。

鬪犬には氣ぼねと時間以外に、相當の費用が要るから、我々程度の文筆職人の道樂としては、ちと荷が重すぎる。三役どころの犬になると、買入れにどうしたつて六七百圓はかかる。それもいいが、これだけ出して買つた犬がそれなりでいつ迄も同じ資格を保つてゐるわけでない。

この位の犬になると、世話が大へんだ。朝夕二三時間づつの運動は、絶對に怠ることを許さない。その他、食物やハウスの注意、病氣の際の手當などは固より、取組前(年に平均四度ぐらゐ取組ませる)の約二週間といふものは、運動にも食物にも特殊の注意を要する。これだけの仕事でも、優に一人前の勞働である。そこで自然、掛りきりの世話人を置かねばならぬ譯で、この方面で月々相當の費用を食はれる。

これだけの手を盡しても、野良犬に比べると死亡率が遙かに高く、私のもつた數頭の如きは買ひ入れ後大抵一年足らずで病死してゐる。健全に飼へたところで、使用期間は精々四年(二歳から六歳まで)であるから、四歳の犬を買へば二年切りもたぬわけである。ほんとうに實力を發揮するのは四歳以上だから、働き盛りの犬を買へば無事で行つても精々二年間の樂みである。

食物は餘り御馳走をやらない方が善いことになつてゐるが、主食物は白米でなければいけない。十貫以上の大ものになると、日に平均六七合は平らげる。副食物も平素はニボシ位で善いが、月に二三度は肉をやる必要がある。これらの雜費までを加へると可なりの計算になる。なかなか、へたな妾どころの散財でないといふのが、鬪犬界の相場になつてゐる。

尤も、これだけの散財をして、本職以上の氣ぼねを折り、時間を無駄にしてもやめられないところに、道樂の面白味があるわけだらうが、ほかのは道樂では到底これだけの犠牲を拂ふ氣になれぬ。筆者のやうな人間にとつては、鬪犬のみに依つて與へられる、あの刺戟の強い、緊張そのもののやうな生血の滴る快感が、無上に慕はしいのである。

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