議會

高畠素之

衣裳の流行が百貨店で決定されるやうに、思想の流行はその大部分を新聞や雜誌の活字によつて決定されてゐる。唯物史觀流の解釋からすれば、飛んでもない異端だといふか知れないが、それが本當だから何とも致しかたがない。

新聞にしろ雜誌にしろ、これを經營する仕事の目的は、ヨリ多く發行してヨリ多くの利潤を上げることである。ところがヨリ多く發行せんがためには、たえず目新しい讀物を提供し、顧客たる讀者の購買慾をそそるやうに腐心せねばならぬ。しかし目先きを變へるといふことも、おのづから限度があるので、勢ひ有りもしないことを書いたり、有りもしないタネを拵へたりせねばならぬことになる。それは恰も、百貨店が後から後からと目先きの變つたものを濫造し、流行の名において無理が矢理でも購買慾を刺戟するのと同じ手である。

マルクスがクロポトキンになり、レーニンがマクドナルドになり、ムツソリーニがスペングラーになり、最近數年のあひだに送迎した呉越の客は恐らく十指に餘るであらう。その間、左傾だ右傾だ、進化だ反動だ、アナだボルだと、親の敵みたいなことを言つてゐたが、どうやら喧嘩のタネも品切れとなり、去年の下半期あたりから中入りの状態であつた。そこで新聞雜誌の見つけて來たタネは、議會政治に關する鼎の輕重といふ問題である。ロシヤにイタリーを筆頭として、スペイン、トルコ、ペルシヤ、モロツコ、等、等、等、ヨーロツパの天地には獨裁政治が流行し、ドイツではヒンデンブルグが大統領になり、フランスではポアンカレが内閣を組織するといふ具合だから、議會政治の鼎の輕重を問ふこと、必ずしも藪から棒といふわけではなかつたのだが、擧げてそれを論題に供する程、それほどの日本的必然性があつたかどうかは疑はしいのである。

むしろ日本に於ては、普選による第五十二議會解散後の總選擧を目標に、議會政治に對して新しい希望が開かれ、猫が杓子でも代議士未遂を氣取つてゐた際である。かうした際に、議會蔑視の思想が突如として移入されたといふのは、新聞雜誌の押し賣りが原因したと解するのほかはない。けだし新聞雜誌と流行思想の因縁關係に就いての、唯物史觀的解釋が適用されなかつた一例である。

ところで一方、人間には自分の行動に關する心理的動機を、ことさら瞞化せんとする本能がある。例へば金錢目的の國士稼業者が強いて純粹動機に於いて自分を是正せんとする如き、或はユスリ專門の實業雜誌社長が道徳的乃至宗教的訓話に於いて罪障消滅を心がける如き、いづれも無意識裡に自己瞞着をやつてゐる證據である。新聞雜誌記者の木鐸がりも同じだ。彼等自身は何も、故意に讀者をペテンにかけるつもりで居るわけでないが、持つたが因果の宮仕へから、顧客吸収に腐心する餘り、心にもなき商品を製作せねばならぬ。しかも彼等は、何よりもそれを『心なき業』と意識することを恐れる。そこで最初のほどは、或は猫をかぶるつもりが次第に猫そのものとなり、やがては營利機關の一部たることを忘れて、天下を指導する木鐸だと不自然でなく自認し得るやうにもなる。勿體をつければ自己催眠に陷るのである。

流行思想は新聞雜誌が決定するといふこと、竝びに新聞雜誌記者は自己催眠に陷るといふこと、この二つの命題はヘタな三題噺ほども脈絡はないが、實は『嘘から眞が生れ得る』といふサゲを附けるため、長々しく廻りくどいマクラを振つたのである。

その實證は現に開かれてゐる帝國議會に對して、諸新聞が擧國一致的に默殺的態度を取りつつあることに求められる。兩三年前といはず、つい一年前でも議會開會當時は、新聞の全面を議會記事で埋め、大いに讀者を迷惑がらせたものであつた。ところが一年後の今日は、議會記事のありかを探し出すのに骨が折れるほど、それほど片隅へ虐待された始末である。勿論これは、三黨首會合による妥協の結果、およそのヤマが見えて來たといふ理由も作用してゐるに違ひない。しかし、議會政治に對する以心傳心的輕蔑感が、それを遙かに凌駕して作用してゐることは疑ひを容れない。而もそれは議會に對する國民的無關心といふより、寧ろ新聞記者の自己催眠に出づる部分が多い。なぜならば、社會民衆黨あたりが解散即行運動に憂き身をやつしてゐる事實に見て、國民的關心が存在すること明らかだからである。

さるにても、無産政黨のかくの如き床いそぎは、世界的風潮に逆流してゐる意味に於いて、珍らしい傾向だといはねばなるまい。

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