無産黨漫談

高畠素之


從來、三面種として扱はれてゐた無産政黨も、近來はどうやら、二面種としての待遇を與へられるやうになつた。この、社會記事から政治記事への變化は、いはば瓢箪から駒への變化であつて、無産政黨なるものが單に物數奇な世間的興味からばかりでなく、やうやく政治上の現實的勢力として注視され出した證據である。勿論このことは、直前の將來に於ける議席的勢力に關する問題ではなく、次第にその大を加へ得るといふ可能性と名詮自稱の無産的分子を包括し得るといふ代表性とに關する問題である。それだけ無産政黨の將來は、目糞鼻糞の新黨運動などと違つた意味で、或る時代的な問題を提供してゐると言つて善い。

然し、さうはいふものの、無産政黨だつて有産政黨と同じく一個の利益集團である。素朴的口吻でいかに無産階級の利害を背負つて立つかに吹聽したところで、所詮はこれを足場として、自分の支配的優勝慾を達成しようといふ俗物の集團にすぎない。隨つてその集團と雖も、いはゆる政黨社會學の法則圈外に存するものでなく、幹部專制も變節論も、ブルヂオア政黨と同等に、或はそれ以上に、行はれると見なければならぬ。もつとも今のところでは、政黨とは名ばかり、兵隊ごつこの氣分で、やれ中央執行委員だ書記長だと、肩章の星數をひけらかし、以つて滿足してゐる程度だから、多分の處女性も殘留してゐるが、玄人政治家に伍して、見やう見まねのわるさを覺えたなら、成り上りだけに始末に了へないかも知れぬ。殷鑑遠からず、ミルランに見よ、ヒツトラに見よ、更にムツソリーニに見よである。


そこで先づ、ブルヂオアが横暴でプロレタリアが正義で、同時に既成政黨は惡の權化であり、未成政黨は善の化身だといつた風の流言蜚語を取締る必要がある。でないと、プロレタリア政黨の出現により、議會廓清の神わざが作用するかのやうな、飛んでもない錯覺を生むことにもなるのである。

無産政黨の出現に期待しうるところは、唯だ議會のヴアライテーを豐富ならしめるといふことだけだ。隨つて、政爭の題目を多岐ならしめ、鐵道建議案以外にも議會の問題のあることを示し、新聞記事を賑やかに讀ませるだけであらう。その意味に於いて、今春の議會に對する如き諸新聞の全國的默殺が多少緩和され、一人の出羽ケ嶽や男女ノ川の出現により、國技館に新しい人氣が沸き出した程度の人氣を、また新しい議會に集め得るといふに止まる。然し、それがために議會が革新されるのではない。若しそんなことで、議會政治の本質まで變改され得るなら、ヨーロツパ諸國に滔々たる獨裁政治の出現には結果しなかつたであらう。大廈が倒れるに、一木のよくこれを支へ得るものでない。餘計な失望に陷らしめない老婆心から、これだけを冒頭で明らかにして置きたい。

元來、無産政黨といふ名稱からして、今日では甚だ漠然たるものになつてゐる。最初の程こそ、共産黨一流の單一無産政黨論などが行はれて居り、何か有産政黨に對する包括的意義を持つかの如く考へられてゐたが、名稱がそれ的であつたとて、實體は必ずしも共通するところはない。強いて求めれば、一人の代議士もなきモグリ政黨だといふ點にのみ共通するのである。


それはとにかく、今のところ登録濟みの無産政黨は、勞働農民黨、日本勞農黨、社會民衆黨、日本農民黨と、この四つの團栗がならんでゐる。主義主張の左翼的濃淡性も以上の順序で、勞農黨は先刻御承知の共産黨支店、軍資金の一切をロシヤに仰ぎうる結構な身分である。下つて日勞働黨は、主義的未練と現實的弱氣に崇られた中間の筒井順慶。民衆黨はその昔、かの憲政濟美會あたりに毛を生やしめた如く裝つた生やさしいデモクラ集團。日農黨は仲小路廉この世にあらば、傳刀を抜き放ちたくなる種類の百姓組織である。以上、多少の誇張があるかも知れないが、それぞれの程度で看板の僞りがないとは言ひがたき團體である。

色別けはかくの通りだが、これらの諸黨は、何も分裂しなければならぬ必然の社會的理由があつて分裂してゐるのではない。ただ農民黨だけは、米價を釣り上げて百姓の利益を助長するといふ現實目的もあり、同時に他の自稱無産階級の利害と背反する部分もあるが、爾餘の三黨は人氣吸収のため似たか寄つたかの政綱を掲げ、包容する分子も似たか寄つたかである。それがなぜ分離したかといふと、幹部と稱する商賣人の相互的利害背反に基づいてゐる。その點は、既成政黨と少しも變るところがない。或る人に取つては、共産黨の金庫番が特に彼れのために財布の紐を締めたといふ理由を以つて、反共産主義を標榜する動機たらしめた。また、或る人に取つては、自分の覗つた椅子を他人に取られた腹癒せに、却つて反對派に走つたといふ事實もある。主義主張はどうせ附燒刃で、ヨリ有利に展開し得る見込みがつけば、硬派が軟派だらうと伸縮自在なのが人間の常である。その點も、既成政黨と少しも變るところがない。


例へば、前の憲政會の如きにしても、彼等は十年の久しきに亘り野黨であつた。それがため、政府の政策を攻撃する目前的必要から、好むと好まぬとに拘らず、民衆的看板を掲げ、やがて身を喰ふ普選法の通過にまで努力しなければならなかつた。而もそれは、決して憲政會の實體が進歩的分子を包容してゐるからではない。政友會の保守的政策に對抗する現實的必要から、偶然にもやむを得ざる進歩黨となつたに過ぎない。

同じことは、政友會に對しても齊しく言ひ得る。彼等は最近に於いて好んで分權的な政策を主張する。而もこれは憲政會内閣の餘りに集權的なるに對し、反對分子を糾合する必要のみに出でたのである。それもこれも、一切の主義政策は偶然の便宜によつて決せられ、百姓黨たる政友會が自由主義、町人黨たる憲政會が統一主義といふやうな、驚くべき位置轉倒が行はれるのと全く同樣である。

そこで今度は、上述のごとき無産政黨が、將來いかに夫々の發展をなすかといふ豫測になる。けれども、海のものにも山のものにも、まつたく目鼻がついてゐないのであるから、どの黨がどう發展するといふ斷案は下しがたい。それに今もいふ通り主義や政策はその場の都合次第でどうにも塗りかへられるし、また幹部相互間の利害乃至、感情の分離にしたところで、その日の天氣模樣でどう一致しないとも限らない。現に直前の將來を考へても、院内の交渉團體たる資格を得る現實的必要に迫られれば、小兒病が小ブルヂヨアだらうと、どう握手しないとも限らないであらう。何しろ、嘗てこの犬と猿たる舊政友會と舊國民黨と合同した時勢である。政黨の離合集散は、すべてがオポルチユニズムだけに一寸さきの見當もつかない。

唯だ、然しどういふ政策を取る政黨がどう發展するか、又は發展を可能ならしめるには、どういふ態度に出づべきであるかといふ問題については、抽象的なりに斷言することだけは出來やう。


無産政黨も政黨の端くれである限り、役者や角力の末席を穢す稼業である。人氣稼業である限り贔負の多寡が直接の運命を支配するのである。而してこの場合、政黨に對する贔負は選擧民で、取りも直さず女子供を除外した國民全體である。無産政黨相互間の地盤爭ひであつたなら、學生や工場勞働者のみが大事な看客であらうが、對有産政黨との競爭になれば、戰線は甚しく擴がらねばならぬ。唯物史觀亞流の教科書には、プロレタリアは當然、共同の利害關係から共同の階級意識を持つと書いてあるか知れぬが、さうは問屋も卸してくれない。もしそれを容易に卸してくれるものなら、世界を擧げて共産黨の勢力圈内に捲きこまれる筈だが、どこにもそんな國の見當らぬ證據は、教科書どほり『左樣に簡單には參らぬ』ところの世態人情の複雜性に基づく。

一例すれば、イギリスの如き、無産階級があれだけ多い國柄でありながら、なほ保守黨に壓倒的多數を制せられてゐるのは、無産階級分子の中に甚だ多く保守的政策の共鳴者があることを證明する。まして、忠君愛國を先祖代々うけついで來た日本人が、さう脆くバタ臭い宣傳に膝を屈する道理はない。試みに繩暖簾をくぐつて空樽に腰を下ろして見よ。我が敬愛する絆纏着諸君は、ウツカリ革命家氣取りでもしようものなら、寄つてたかつて袋だたきの目にあはせるであらう。言ふなかれ、大衆は自覺せずと。自覺しなければ自覺しない部分を利用してこそ、その『清き一票』は確實に得ることが出來る。彼等が好んで使ふ『現實的』といふ言葉は、標準線をこの單位に低下しなければ嘘である。尤も嘘だらうが何だらうが、當方は一向に關係した事柄ではないが、物の本に書いてある、『現實的』なる文句を鵜呑みにするなら、飛んでもない誤算を惹きおこすであらう。

政治は勢ひである。一個の物的竝びに心的對象を得て、その場その場の遍通自在性を如何に巧妙に驅使し得るかに依り、政治家的材幹の上下が決定されるのである。大衆の自覺を百年河清で待つなら、むしろ街頭で救世軍の太鼓屋になるのが増しである。

併し世の中は、重寶なものである。乞食の子も三年たてば三つになる如く、無産政黨だつてさうかうするうちには、最初の處女性はいつの間にか磨りへらし、結局アバズレのしたものになることは疑ひを容れない。

假りに時勢の推移が、彼等無産黨に政權を渡した場合を想像して見る。初めの程は、嬉しまぎれに天動地變の無産階級的政策を實行したい醉狂もおこるか知れないが、政情の複雜性は決して彼等の自由行動を許さざるべく、一方、掌中の政權は離しがたなき氣持ちとなつて、妥協が屈從でも有産黨の一派と握手せねばならなくなる。そこで掛引を覺え、操縱を覺えた頃には、いつの間にか蝉の抜け殻みたいに、肝心の無産黨的實體は失はれてゐることを發見するであらう。ドイツの社會黨を初め、各國の社會黨とか、勞働黨とかいふものは、看板だけは昔ながらのものを使用しながら、最初の意氣とは似ても似つかぬ無力を示してゐるが、日本だけが例外だらうとは考へられない。

それも、これも決して惡いとばかり言ふのではない。寧ろ、かくの如く惡ずれがして、初めて政黨もしくは政治家の條件は備はるのだから、善惡の批評を下す必要もないのである。唯だ注意を喚起して置きたいのは、それ自體がかうしたものであるから、無産政黨さへその大を成しうれば、無産階級の利害が直ちに伸張されるなどとは、夢にも考へない方がいいといふ一點にほかならぬ。

無産階級の利害伸長といふ觀點から論ずるなら、政黨政策のごときは迂遠でもあり、同時に効果の程も薄からうと思はれる。寧ろ自から進んで政黨を組織するよりも、團結せる投票をもつて既成政黨を威嚇し、彼等をしてそれをなさしむるのが得策かも知れない。何となれば、有産黨だらうが、無産黨だらうが、贔負とたのむは選擧民であり、而も選擧民の大部分が無産階級であつて見れば、有産黨と雖も彼等の存立を維持せんとすれば、好むと好まぬとに拘らず無産階級の利害に迎合して行かねばならぬ。そこの泣きどころを逆用し彼等の政府を通じて無産階級本位の政治も實行し得る。今は逝けるゴムパースの如き、巧みにこの心理を活用した男であつた。民主黨政府をして彼れが實行せしめた無産階級保護政策は、却つて他の諸國が無産黨政府によつて、成就したよりも上位であつたかも知れぬ。

これも立派な一見識である。幸か不幸か、日本でも民政黨の如き、嘘から出た眞なりとも社會政策を口にしてゐる。かういふお調子者の政黨は、今後と雖も決して影をひそめないであらう。そして結局は無産派の漸次的右傾と、有産派の漸次的左傾とが交流し、烏の雌雄を辨じがたくなることであらう。現に明確な傳統政策を以つて抗爭し來つたイギリスの歴史的政黨たる勞働黨や自由黨や保守黨にしても、その揚げる政綱には、さう大した本質的の相違が認められないのである。

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