あばたはあばた ―徳田秋聲氏への應酬―

高畠素之

徳田秋聲といふ人は、上品な言葉に對して甚しく鈍感であるらしい。老人を尊敬するつもりの道徳觀から、生れついての野性に似合しからぬ文字を驅使して『婦人畫報』の八月號で山田順子を批議したところ、さつそく翌月、『婦人公論』で『人格識見の下劣』なことを立證して下すつた。『當代一流の論客』だの『明晰なる頭腦』だの、筆者に取つては有りがた迷惑の『名譽』を押し賣りすることにより、あの一文が高畠の名前を詐稱する代作であるかに買ひ冠られたやうだが、さうした遠慮はまつたく無用である。人格も識見も下劣で結構、その代り當方も、狇猴なりの地金を露出して應酬するまでのこと、なまじ他人行儀で老人を尊敬するより幾ら氣が樂だか知れない。

さてこれからが本文である。

秋聲氏の拙文に對する第一の抗議は、彼れの少婦が如何に魅惑的な美人であるか高畠は知るまい、といふにある。仰せの通りです。

『或は絶世の美人でないまでも、千人とか萬人とかに優れた美人であるか』どうかを、その現物を拜見しない高畠が關知する道理はありません。だが、一言お斷りして置きたいのは、秋聲氏ほどの老大家が發見した『魅惑的な美』を、山田順子が果して所有してゐるかゐないか、そんな他人の疝氣を頭痛にやんだ覺えは高畠に於いて絶對にないのである。

惚れた慾目には菊石も笑窪である。山田順子の菊石を徳田秋聲が笑窪と見たなら、それは當人の勝手といふの外はない。しかし、苦情を申し込んだ點は、自分の慾目で笑窪に見えたからといつて、他人がこれを菊石に見るのは怪しからんといふ口吻に對してである。ニキビの出盛る年頃だつたらまだしも世間知らずのせいと笑つて濟まされやうが、秋聲氏ほどの年輩で、すいも甘いも噛み分けてゐるべき筈の人が、自分だけの笑窪を賞玩するなら未だしも他人にそれを強制するから、脇腹の一つも『しつかりしろツ』とコヅきたくなるのである。そこの道理を辨へず、何か遠まはしに燒いてでもゐるかに自惚れられては、せつかくの親切も水の泡、附ける藥のなきことを嘆じて引き下がるしかないが、高飛車の買言葉を頂戴しては開き直りたくなるのが人情である。

秋聲氏は高畠が作品と事實を混同してゐるといはれる。或ひはさうかも知れない、と言ひたいところだが、實は混同を最初から承知のうへで、當の山田順子を問題とせず、徳田秋聲の描いた『美少婦』を對手に擇んだつもりであつた。即ち秋聲氏が、いかに『未成品ではあるが現代女性の一異彩』であると強辯しても、彼れの描いた範圍では決してそれらしい片鱗も發見されないのみか、そんな女性を何か時代の新しい存在であるかに思ひ込んでゐるらしい彼れや、彼女や、世間やの常識に、根本的な誤りがあることを指摘してやつたに過ぎない。それを先方が大きなお世話だといふなら、當方が如何に解釋しようとも大きなお世話な筈である。

ヂアーナリズムに依つて傳へられたゴシツプを、そのまま事實と誤認したといふ非難にしても、これも少からず見當がはづれてゐる。男より男への生活も、決して高畠に於てはそれ自體を非難の對象としたのではなかつた。時代の進歩が今日の程度に達すると、貞操觀念が浮動的になるのもやむを得ないが、彼女の生活にはさうした自覺に基いた時代色さへ發見されない。昔ながらの『單なる娼婦』の型を出でないといふのにあつた。彼れもどう感ちがひしたものか、しきりに淫婦ならぬことを反駁しようとしてゐる。淫婦もよりけり、ただ漠然と『淫婦だからいけない』と道徳的に非難した覺えは絶對にない。何れもさう後ろぐらがるには當らない。

鉢を別個にして反問する。彼れや彼女が口を極めて陳辯するやうに、たとへ前夫との離別が如何に人情的であつたとて、迎男の移り變りが如何に無邪氣的であつたとて、それがどうして彼女の『異彩』を決定する條件になるのか。非人情的で有邪氣的であつたら、まだしも曲りなりに時代色を反映したか知れないが、それがアベコベだから救はれない古さだといふのである。『自ら俎上に上る』と題した『婦人公論』の山田順子の一文は、題名に似合はず、自らの良妻的にして賢母的な部分を強調したものだが、金の茶釜で育つた大層な御身分だと言ひやしまいし、子供を負ぶつたり針仕事をしたりの生活を、鬼の首を取つたやうに吹聽されては鼻持ちがならない。

彼女はまた、しきりにヂアーナリズムを呪ふ口吻を洩らしてゐたが、これなどは何んとかの逆恨みに類しはしないか。ヂアーナリズムがなかつたら、彼女の存在などは馬の骨ほどにも關心する者があるまい。ヂアーナリズムのお蔭があればこそ、彼女のやうな存在でも有名(!)になり得たのであるし、同時に、原稿料の獲得にも有りつけたといふのも、腕一本の實力だなどと自惚れられては話が違ふ。その點は秋聲老も同斷、彼女の『審判の彼方へ』が『婦人世界が初まつて以來の好評』だとミエを切つてゐるが、目明きと共にめくらを等分に代表する讀者であつて見れば、讀者の評價をそのまま彼女の才能として賣り込むのは押しが太い。惚れた慾目がなかつたら、讀者の評判などは頭から輕蔑してかかる彼れの平素に拘らず、かうした反間苦肉の策を弄してまで、彼女の價値を賣らねばならぬ老いの苦しみは想像に餘りある。

だが、一般讀者に取つてのヂアーナリステイツクな興味は、山田順子と鬼熊とを問はないのである。もし鬼熊が小説を書いたら、或は彼女以上の注目を惹いたことであらう。又しても、秋聲氏から證據呼ばはりをされる危險を防ぐため豫め、斷つておくが、僕は彼女の小説を讀んでかくいふのではなく、ただ物の道理のかくあるべきことを斷定するに過ぎない。

それからもう一つ、秋聲氏は『春來る』の中の『先生の遺鉢を繼がして……云々』の一文を、文學少女の身の程を知らぬ思ひ上りだと斷定したことに對し、藝術に精進する少婦の眞情を理解しないと憤慨してゐられる。のみならず、その言葉は何が故に不當だか高畠が明示しないと言つて詰問された。これは成るほど手落ちのやうでもある。が、例の『春來る』を讀了した程の者なら、誰しも同じ感慨を持つたであらうことを推察して、わざと理由を省略したに外ならなかつた。改めて蒸しかへすまでもなく、あの一篇に描かれた少婦の無智と低級と獨善とを知る程の者なら、如何に思慮と性愛に狃れた彼女とはいひながら、餘りにも不遜な思ひ上りと感じなかつた者はあるまい。かくいへば秋聲氏は作品と事實は違ふと抗辯するであらう。しかし、人間の心理はさう器用に、使ひわけられない以上、また生きたモデルを使用しての生きた事件の報道と見られる以上、明白な菊石を自分だけが笑窪と思ひ込んでゐるらしい秋聲氏の態度には、強調する如き反省をどこからも發見し得られないのである。老境に到達せる作家が少婦との痴愛に惑溺する、それを小説の材料として惡いなどとは誰しも言はないが、勿體らしく『深刻な鬪爭もあるし苛辣な批判もある』などと來るから、冗談半分なりにも冷評してやりたくなるのが傍觀者の心理である。

更めて理由を申し上げよう。秋聲氏の描き得た範圍の少婦の分際を以てすれば、醉狂な世間の口の端が如何にチヤホヤされたところで、それを眞に受けて彼女が自ら彼れの後繼者に擬すなどは大それた非望である。いや寧ろ、彼れの慾目だけは如何に彼女の菊石を笑窪と見誤つたにしても、描かれた範圍の少女が明白なる菊石を露出してゐる限り、秋聲氏が『事實は違う』と抗辯してくれても、慾目のない傍觀者は菊石は菊石となして取扱ふの外はない。その點で秋聲氏は、あの作品の失敗に全部の責任を轉化するつもりらしいが、少くともああした女性が時代の新しい存在であるかに思ひ込んでゐるらしい氏は、作品以上の頭腦の古さを表明したものでなければならない。

高畠の作品鑑賞上の頭腦の『粗笨』もさることながら、先生の時代鑑識上の頭腦の『粗笨』はお話の外である。而もそれで『現代の女性の異彩』と思ひ込めと仰せられるのでは、年の若い我々の引ツ込みがつかないのである。

最後にもう一つ、これは言はずもがなの駄足だが、秋聲氏は理由なき想像を逞うして、先達ての僕の一文が『婦人畫報』の商賣政策から依頼されたかの如く妄斷した一事である。僕は仰せの如き『高級論客』でないのみか、一介の彌次書生に過ぎないから別に迷惑を感じないが、めくら滅法の當て推量による『婦人畫報』の營業者や編輯者の迷惑は少くないであらう。

高畠は今もいふ通り彌次書生である。それなりにまた、天下の大道は大手を振つて歩いて來たつもりである。冗談半分や茶氣半分では、ずゐぶん言はずもがなのことを言ひもするが、他人の註文や尻馬に乘り、かう言つて呉れ、ああ言つて呉れでは、頼まれたつて善惡に拘らず言つた覺えはない。本誌に書いた先達の一文もその冒頭に斷つてあつたやうに、正宗白鳥氏の秋聲論が近來になき快心の讀物だつたから、それを中心に、豫てコヅラ憎く思つてゐた彼等の獨善主義を彌次つたに止まる。これは『婦人畫報』の編輯者が預り知つた話しではない。高畠獨個の彌次本能の飛ばツちりである。

が、考へて見れば、それもこれも、容らぬ他人のオセツカイには違ひない。隨つて、堂々の論陣を張るべく天下の大勢に無關心なかうした問題を、また更に蒸しかへして水掛論を繰り返すことは遠慮したいが、乘り懸つた舟とあらば、持つて生れた茶氣と醉狂から幾度でもお相手を辭さない積りである。以上。

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