第十二講 認識論と唯物論 ―カントとカウツキイ―

高畠素之

一、唯物的認識論

表題は認識論と唯物論であるが、實はカントの認識論と唯物論者の認識論とを比較對照せんとするのが本文の目的である。

唯物論者の認識論は一般に、經驗論若しくは感覺論として知られてゐる。即ち、我々の認識は唯だ感覺のみによつて得られる。認識は事物の本體に及ぶ。我々に認識される一切の現象は即ち事物それ自體の表現である、とする。私は左に此の説の最も著名なる標本的代表として、ロツクの經驗論を紹介する。

ロツクの説に依れば、我々の認識の根元は經驗である。即ち知覺經驗である(。)我々は先づ感官に依つて、『單一の觀念』を得る。即ち色とか、音とか、手觸りとか、運動とか云ふものがそれである。これ等の單一觀念は、一言にして言へば認識の文字である。我々は文字を連ねて語を造る。それと同樣に我々の心はまた、これ等の單一觀念を總合して幾多の抽象概念を造る。ロツクはこれを『複合觀念』と稱んだ。

我々の感官から來る單一觀念は、固より事物の個々の屬性を示すに過ぎぬ。けれどもこれ等の屬性は、事實上しばしば一定の連絡を保つて現はれる。例へば、甘いとか、白いとか、ザラザラするとか云ふことは、砂糖の屬性である。我々の感官は、これ等の屬性以上を砂糖に就いて教へることは出來ぬ。然しながら我々は、これ等の屬性が屡々一纏めに結合して現はれることを經驗する。茲に於いて、單に甘いとか、白いとか云ふ事のみでなく、これ等の單一觀念を總合して、ここに一つの砂糖といふ複合觀念(抽象的概念)を有するに至るのである。この觀念は即ち砂糖の各屬性が、屡々一纏めに結合して現はれるといふ客觀的事實の反映である。即ち砂糖の本體の寫象である。

人間の悟性は、本來全くの白紙である。その白紙に種々の線を畫き色を施して、茲に一つの思想智識を建設し得るのは、畢竟經驗の賜に外ならぬ。繰り返して言へば、人間の智識の一切は經驗から來るのである。

二、兩極端の思想

以上述べたところが唯物的認識論の大要である。今、この説とカントの認識論とを對照するとき、兩者は全くその行き方を異にしてゐる如く觀える。

元來、唯物的認識論の特徴は、認識の手段に關して經驗論(嚴密には感覺論)を主張し、認識の範圍に關して獨斷的本體論を採用する點にある。然るにカントの認識論は、一方に認識の手段に關して觀念論を主張すると同時に、他方に認識の範圍に關して懷疑論を採用して居る。即ち唯物論者の認識論は感覺的獨斷的であるが、カントの認識論は觀念的懷疑論である。

然らば、カントの觀念的懷疑論とは、果して如何なるものか。私は左に、その要點を掻いつまんで紹介する。

三、カントの認識論

カントに依れば、我々の一切の認識は、認識主體(心)と認識客體(外界)との結合的産物である。認識客體は我々の認識に内容を賦與し、認識主體は我々の認識に形式を賦與する。即ち悟性概念(範疇)を賦與するのである。我々はこの悟性概念に依つて初めて、感官から得た各種の知覺を總合して、これを一つの經驗に纏めることが出來る。即ち組織的認識を得ることが出來る。外界が無ければ、固より何等の現象も存せぬであらう。然れどもまた一方に、悟性が無ければ、我々の感官に映ずる一切の現象即ち知覺は、ただ單なる混沌體たるに止まりそれが統一されて一つの表象を形づくる事は出來ぬ。表象が無ければ、固より經驗も無い。隨つて認識も無い。此の意味に於いて、概念なき知覺は盲目であり、知覺なき概念は空虚なのである。

認識作用は一方に經驗の内容を以つて概念の枠を充たし、他方に概念の枠を以つて經驗の内容を纏める。認識は、知覺と概念との結合に外ならぬ。

固より我々は、到底外部に在るが儘の事物、即ち事物の本體を認識することは出來ぬ。元來、我々の經驗は、悟性概念の能動作用に依つて成立する。これに依つて觀れば、我々の悟性概念は、決して經驗の所産ではなく、寧ろ經驗の豫備條件たるべきものである。寔に、經驗の豫備條件として、先驗的に我々の意識内に具備されて居るものである。隨つて我々に經驗され、認識される一切の事物は既に豫め我々の主觀に依つて着色されて居る。即ち事物は、本來の儘に認識せられずに、我々が理解する儘に認識されるのである。而も單にそれのみではない。我々の經驗の内容たるべき知覺そのものが、既に我々の主觀に依つて着色されて居る。我々は事物を知覺する時に、必らずやこれを時間空間の形式に當嵌めてする。時空は悟性概念と同じく、最初から我々の主觀内に具はれる固有本來の要素である。故に我々の認識範圍に入り來るものは、單なる現象に過ぎず、我々の主觀の着色を脱した、赤裸な、ただ在るが儘の事物は、到底我々の認識對象となり得ぬものである。

ここに於いて、次の如き結論が得られる。

(一)我々の研究の對照は、單に現象のみであつて、事物の在りの儘の存在、即ち本體、物それ自體は、我々の研究に全然沒交渉のものである。

(二)單に經驗のみが認識の領域である。經驗を超越せる本體の學問なるものは、到底あり得ざるものである。

(三)認識作用は、經驗を跳躍して超自然の域に侵入する時、最大の矛盾撞着に陷る。神、宇宙(萬有の總合體としての)靈魂なる三つの理性概念は、決して經驗界には應用すべからざるものである。若し誤つて、これを經驗界に應用し、神若しくは宇宙若しくは靈魂なるものが、客觀的に實在するものと考へたならば、それは非常な誤りである。これ等は要するに、調節原理であつて、組織原理ではない。我々の悟性を調節總括して認識の向上を助けるのが、本來の職分である。これに依つて、認識の領域を經驗外に押し擴めんとする時に、哲學は必らずや迷論となり、詭辯と化す。從來の形而上學は、皆この弊に陷つたのである。

四、カント説と唯心論

カントの認識論を概括的に言へば、大體以上の如くである。此の説は前にも言ふ如く、唯物論者の認識論とは、全く反對の行き方をしてゐるのである。然らば唯物論者の認識論とは如何なるものであらうか。

唯物論者に依れば、認識の根元は感官知覺である。カントの所謂悟性概念なるものも實は我々の知覺經驗から生じたのである。然るにカントは、認識の能動要素は悟性概念であつて、感官知覺ではない。感官知覺は單に認識の被動的内容を成すに過ぎぬ。此の内容を統整して、一つの連絡ある經驗を組成するものは總べて悟性概念の作用である。悟性概念は經驗の産物にあらず、經驗の決定條件である、と云ふのである。

又、唯物論者に依れば、我々に認識される世界は、即ち事實在るが儘の世界である。然るにカントは、我々に認識される世界は、單に現象としての世界に過ぎぬと云ふ。

これ等の何れより觀るも、兩者の行き方は全く軸の兩端であり、全く背合せの形である事が解る。

カントの認識論に依つて、差當り大打撃を蒙るものは唯物論ではなくて實は唯心論である。蓋しカントに依れば、我々の經驗の決定條件たる悟性概念なるものは、本來先驗的に我々の認識機關に具つて居るものであるが、それが實際に活動して認識を生ぜしめるのは、唯だ經驗を通じてのみ行はれる事である。悟性概念は、經驗の彼岸に於いて、一切の意義を失墜する。所謂、本有觀念なるものは、茲に全く根據を奪はれた譯である。

元來、唯心論者は、人間の本有觀念なるものは端的に云へば超自然界から派遣された證人の如きものであると主張する。

本有觀念は固より超自然的對象に對して働き得るものである。然り、その働きこそ、本有觀念それ自體の本來の職分である、となす。

然るに、カントの所謂、認識の先天的要素なるものは、ただ經驗界にのみ働くのである。我々の一切の經驗は此の要素に依つて決定される。我々は唯だ此の要素のみに依つて、經驗對象のあらゆる必然的關係を認識する。單にこれだけの事が此の要素の職務である。隨つてこれは、全然、超自然界に適用できぬものである。

こゝに於いてカントは次の如く明言する。『從來一切の純正唯心論者――古代希臘のエレア派より最近のバークレー監督に至る、凡ゆる純正唯心論者の主張は、次の命題に包含される。即ち、我々の感官及び經驗に依る一切の認識は總べて幻影である。眞理はたゞ、純粹悟性と純粹理性との觀念内部に在る。然るに予の觀念論の根本主張は、これと全く反對である。曰く、純粹悟性若しくは純粹理性に依る一切の認識は、要するに總べて幻影である。眞理はたゞ、經驗の内部にのみ在る。』

五、唯物論との衝突

然しながらカントの説は勿論唯物論とも衝突する。その衝突の第一は、悟性概念に就いてである。カントに依れば、悟性概念は先驗的に我々の思想機關に賦與されて居るものであるが、唯物論の説く所では、これも矢張り經驗の結果であると云ふのである。

例へば、我々は因果律概念を有して居る。如何なる思惟の際にも、我々は原因結果の範疇に當嵌めて思考する。これは我々の思想機關が、本來斯くの如く事物を思考すべく出來てゐるからであると云ふカントの説に對して、唯物論者は、我々の思想機關は本來決して斯くの如きものではなく、實は經驗の結果、次第にさうした概念が我々の思想機關内に造られて來たのである。

更らに具體的の實例を擧ぐれば、水を熱すれば蒸發する。我々は決して、あらゆる條件の下に、あらゆる方法を以つて、水を熱して試みた譯ではない。けれども熱が蒸氣の原因で、蒸氣が熱の結果であることは、如何なる場合にも誤りなき眞理であると確信してゐる。

然るに唯物論者の見解に從へば、これも畢竟するところ我々の知覺經驗から來たもので、我々は平素しばしば熱と蒸氣とが直接連續して現はれることを經驗する。此の經驗を幾度か重ねる間に、我々は熱を見れば直ちに蒸氣を連想し進んでは更らにこれを豫期するやうになる。此の豫期なるものが、結局熱と蒸氣とを必然的、因果的に結びつける根本の原因である。

ところがカントに依れば、この説明には次の如き缺點がある。熱と蒸氣とは如何に屡々連續して現はれても、それ等は感官知覺から云へば、何處までも單獨の現象として感知されるに過ぎぬ。熱は何處までも熱であり、蒸氣は何處までも蒸氣であつて、この二者の間には何等の關聯が無く、全く個々別々のものである。それを相互に關係せしめるには、唯物論者の主張する如き、聯想の法則が必要である。然しこの聯想の法則も、實は因果律の一部分であつて、我々の心理生活に適用された因果律に外ならぬ。此の因果律の概念が、先天的か然らざるかが、當面の問題である。然るに唯物論者は、此の概念を規定の事實と見、出發點を此處に置いて更らに因果律概念の發生經過を説明せんとしてゐる。即ち問題を以つて問題を解かんとする矛盾に陷つてゐるのである。

但し、カントが因果律概念を先驗的であると云ふのは、決してこの熱と蒸氣の場合に於けるが如き具體的の因果律概念が、先驗的に我々の思想内に包含されてゐるといふのではない。熱も蒸氣も、固より我々の經驗對象である。たゞ我々が熱を知覺し、蒸氣を知覺する場合に、この二つの知覺を因果的に結びつける心の能動性が、先驗的であるといふまでのことである。

六、現象と實在

更らに此等の兩説は、認識範圍の問題に關して衝突する。カントは、我々に認識される世界は、我々に經驗される世界である。然るに我々の經驗なるものは、外界の知覺寫象が時空及び悟性概念の先天性に把掴された時に、初めて行はれ得るものである。故に我々の經驗は、悉く主觀の先驗性に依つて着色されて居る。我々の認識は、この經驗を對象とする。故に我々の主觀の着色を離れた、赤裸の實在なるものは、到底認識され得る筈がない、と云ふ。これに對して唯物論者は、我々に認識される世界は、即ち事物自體の世界であると主張する。

私はこの論爭をヨリ明瞭ならしめんがために、いま一度砂糖の例を繰り返さうと思ふ。

茲に一塊の砂糖がある。砂糖は甘い、白い、そしてザラザラする。この甘いとか、白いとか、ザラザラするとかいふことは、我々の感官に映じた知覺である。然し我々は、これ等の知覺以外になほ、一つの砂糖と云ふ總合概念を有してゐる。この概念は我々の主觀の産物か、又は客觀的實在の眞の再現かと云ふ事が問題である。

カントから言へば、無論これは我々の主觀の産物である。白いと云ひ甘いと云ふ知覺を生ぜしめるには、固より何物かそれ相應の外部的原因が無くてはならぬ(これ等の知覺も、時空概念に依つて着色されてゐる)。けれども、我々の感官は單に白いとか、甘いとか云ふ事を支離滅裂に感官するに過ぎぬ。それ等の知覺を總合して一つの砂糖と云ふ概念を造るのは、全く我々の思想機關の構造によるのであつて、我々の思想機關が先驗的に總合の範疇を具有してゐるからである。

しかし唯物論者は言ふ。成るほど白いとか甘いとか云ふことは支離滅裂の知覺であるかも知れない。然しながら、それ等が常に纏つて同時に知覺されると云ふことは、一方に砂糖と云ふ總合體が實在してゐるからではないかと。

七、一種の唯物論者

唯物論とカント説とは、斯樣に全く衝突すべき運命を有してゐるが、然しまた一方には非常に密接した方面もある。それは、我々の認識の對象たる世界が、一點の神祕、寸毫の自由を許さざる、純必然の世界であると云ふ一事である。たゞ、カントは此世界を單なる現象界として現實視し、唯物論者は現象界たると同時に又實在界としてこれを現實視する。何づれにしても、兩者の現實視する世界が、共に純必然の物質界たることは爭はれぬところである。此意味に於いて、カントも亦、一種の唯物論であると言へやう。

八、カウツキーの批評

これでカント説對唯物論の關係は、大體に於いて説き終つた積りである。そこで私は最後に、社會主義者カウツキーのカント評を一瞥して本文を結ぶ。

本來、カウツキーは唯物論者であるが、舊來の唯物論者に比し、幾分かカント説に傾いた趣きがある。彼れは、其著『倫理と唯物史觀』(堺利彦氏譯『社會主義の倫理學』)に於いて次の如く説いてゐる。

『我々の智力機關は、單に我々の頭腦に時空概念を起さしめ得べき、外界の事物をのみを認識し得るのである。即ち若し在りとするも、他の種類の事物は我々に何等の感覺をも與へ得ないのである。而して我々は其の認識し得る事物をも我々の智力の特性に從つてこれを認識するのである。故にこの點に於いては時間空間の範疇は我々の認識機關の構造に基づくものである』と。

以上述べた所に於いては、カントの説と大差を見出し難い。ただ異るところは其の最初の一句に在る。

我々の時空概念なるものは、外界の事物と我々の認識機關との相互作用に依つて成立するものである。即ち一方に於いて、我々の外部に此概念を起さしめ得べき特殊の事物があり、他方にその事物に對して此概念を起し得べき認識機關の特性があつて、茲に初めて時空概念なるものが構成せられる。故に我々が時空として感知する外界の事物は、矢張り客觀的にも時空として實在し居るものであつて、決してカントの言ふが如く我々の認識機關の性質のみに依つて決定されるものではないと、カウツキーは力説する。而して彼れはこれを次の如く例證して居る。

『カントは其の著プロレゴメナの中に、空間の概念を色の概念に比してゐる個所がある。これは如何にも適切な比較であるが、この比較は少しもカントの證明せんとするところを證明するに足らぬ。朱が我々に赤く見えるのは、確かに我々の視覺の特性に基づくのである。視覺を離れて色は無い。我々が色と感ずるのは、或特定の長さを有するエーテルの波が我々の眼に作用するのである。若し何人かゞ、エーテルの波動を以つて、色の本體と爲し、色に依つてその本體たるエーテルの波動を考へんとするならば、それは大なる間違ひで、その意味に於いては、決して我々の視覺は事物の本體を見る能力でなく、寧ろ幻覺の能力である。』

『然し或る一色のみに就いて考ふれば右の如くであるが、多數の色をとつてその間の關係を考へる時には、また全く別の意味を生ずるのである。我々の視力機關はただ或る形式に依つて、即ち色といふ形式に依つて、此差を感知するの力を有するものである。此差の認識機關としては、我々の視力は矢張り實在認識の能力であつて、決して幻覺の能力ではない。』

然しながら此説に對してカントは恐らく斯く答へるであらう。『カウツキーの擧げたエーテル波動の長短が既に、我々の認識に屬するものではないか。即ち我々の時空概念と悟性概念とに依つて統整着色された、經驗對象の歸結ではないか。然らば、エーテル波動の長短は、我々の視覺に映ずる色の差と同じく矢張り一つの現象である。されば色の差がエーテル波動の長短を示すからとて此の差が全く外界にその基礎を有するものであるとは斷言できまい。』

私はこゝで、これらの兩説を評價する餘裕を有たぬ。唯だ私として茲に一言して置きたいことは、唯物論者は今日まで餘りに形而上學的方面の研究に沒頭し過ぎた傾きがある。それに依つて勢ひ認識論の整備を疎にした。然るにカントは、最初から認識論を以つて哲學の中樞問題と思惟し、これが爲に凡ゆる努力研鑽を惜まなかつた。隨つてカントの認識論は流石によく洗練されてゐる事が感ぜられる。

私は敢て、唯物論のカント化を希望するものではない。然しながら、唯物論をして眞に首尾一體の大哲學たらしめんがためには、先づ以つてカントの如き大敵を對手に修業練達することが必要であらう。

我々はカントの道徳論の迷妄を見越して、その認識研究の長所までを逸してはならぬ。カントの道徳論は、ひとり唯物論から觀て迷妄であるばかりでなく又實にカント自身の根本主張を裏切つたものでもある。

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